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07年1月14日のフジテレビ「報道2001」。事務所費問題で面白い遣り取りがあった。途中からの録画を文字に起こしてみた。言い合いで言葉が重なり、聞き取れない箇所が多々あった。
番組に入る前に、07年1月17日読売新聞インターネット記事から。
『無家賃の議員会館、22人が事務所費1000万円計上』
「閣僚らの資金管理団体が家賃のかからない議員会館内の事務室を「主たる事務所」としながら、政治資金収支報告書に多額の事務所費を計上していた問題で、2003~05年に年間1000万円以上の事務所費を計上したことがある国会議員は22人に上ることが、読売新聞の調べでわかった。
地元事務所の経費を含めていたケースが大半だが、会合での飲食費も合算するなど適正さが疑われる会計処理も新たに判明。領収書の必要がない事務所費のあり方が改めて問われそうだ。
政治資金収支報告書によると、05年の資金管理団体の所在地として議員会館を届け出ていた国会議員は167人。このうち03~05年に1回でも1000万円以上の事務所費を支出していたのは、衆院議員18人、参院議員4人。内訳は、自民党19人、民主党、国民新党、新党日本各1人だった。
合計額が最も多かったのは、中川昭一・自民党政調会長の資金管理団体「昭友会」の1億4450万円で、伊吹文明・文部科学相の「明風会」(1億3702万円)、亀井静香・国民新党代表代行の「亀井静香後援会」(1億3634万円)が続いた。一方、3年連続で事務所費がゼロの議員も7人いた。
政治資金規正法施行規則では、事務所費は事務所の家賃や電話代など事務所の維持に必要な費用を計上すべきだとされている。ところが、「飲食費や他の団体との交際費」(佐藤昭郎参院議員の団体)や「会合の案内の送付費」(亀井氏の団体)など、本来は領収書添付の必要な政治活動費に計上するのが適当とみられるものを事務所費として記載していたケースがあった。
一方、事務所費同様、領収書添付の必要がない備品・消耗品費も、22議員のうち6議員が年間1000万円以上を計上。3年間で計6025万円だった金田勝年参院議員の事務所は、「ガソリン代など、必要な経費を適正に計上した」などとしている。
日本政治総合研究所の白鳥令理事長は『議員は領収書をすべて保存し、疑惑を持たれればすべて公開するという合意をお互いにまず行い、監視し合う制度を作るべきだ』と指摘している」
(引用以上)
閣僚を初めとして問題とされている国会議員たちが家賃ゼロの事務所経費に多額の経費を計上していた構図と言うのは、ごくごく単純な図式で表すとしたら、領収書の添付は義務づけられていない事務所経費に本来なら領収書を必要とする事務所維持関係以外の経費を足し算させて領収書添付なしで計上していたということだろう。いわば領収書の添付義務なしに便乗した領収書の隠蔽と取られても仕方があるまい。
地元事務所にしても、事務所経費に関しては領収書添付義務なしであるはずなのに、わざわざ東京の議員会館の事務所費に付け替えると言うのは、そうしなければ地元事務所経費が突出してしまうからで、その防止の便宜として議員会館事務所への付け替えであろう。
いわば領収書を表に出せない経費を領収書を表に出す必要のない各事務所に分散させるトリックを行ったということではないか。領収書を必要としたならできないことを、必要としないためにそうした。そのことを狙いとした付け替えではないかと言うことである。
法律には触れていないという説明に事務所の人間の飲食代や夜食代、あるいは地元から東京に出てくる交通費を計上内訳とし、領収書を取りにくい、あるいは取れない経費であるために領収書添付義務なしの事務所費として計上せざるを得なかったかのように言っているが、事務所内での飲食や交通手段による移動は政治団体を維持するに必要な政治活動の一部であって、あるいは国会議員の政治活動に対する補佐活動の一部であって、事務所自体の維持は如何なる政治活動にも補佐活動にも入らない形式事項であり、両者はあくまでも別範疇の事柄だろう。
だからこそ、法律上事務所維持経費に関しては領収書の添付義務なしとしたということであり、家賃ゼロの議員会館を政治活動の事務所としていたとしても、「一方、3年連続で事務所費がゼロの議員も7人いた」という実態が一方にあるのではないのか。
自民党政調会長の中川昭一は別のテレビで事務所のスタッフが「夜食を取っちゃダメだと言うんですか?」といったことを言っていたが、政治団体活動の一部として必要事項なのだろうから、ステーキであろうとフカヒレスープだろうと握り寿司特上だろうと何だろうと、それが10人前だろうと100人前だろうと好きに取ればいい。但し、領収書が取れなかったと言って、あるいは他にどのような理由があろうと、事務所経費に付け替えて計上するのは論外である。
政治資金収支報告書を受け付ける総務省側は、領収書添付義務なしの事務所費に高額の経費がつけてあるもを見て、そこにカラクリがあることに気づいていながら、国会議員の先生方がすることだからと見て見ぬふりをしていたのではないだろうか。気づいていなかったとしたら、よほど鈍感な人間である。
以上のことを踏まえて、「報道2001」を振り返ってみる。
先ず小沢一郎民主党代表の政治資金報告書からの事務所費を記入したフリップが示される。事務所は議員会館ではなく、港区のマンションに置いてあるということである。
03年 ―― 9.911万円
04年 ―― 3,835万円
05年 ―― 4億1,525万円
女性アナ(04年に比較して05年に差引3億6,500万円も急激に増えたのは)「世田谷区の秘書の土地や建物を購入して、その費用を事務所費として計上したという説明なんですけれども、これはそれでいいんですか。3億6,500万円の支出で領収書はいらないんですかね」
松本剛明民主党政調会長「いらないというか、まあ、会計の場合もそうだと思うのですけど、うちの場合でも、領収書、保存期間の問題がありますが、ずっと探ってみましたし、事務所の中ではやっぱし領収書がなければおカネは動かせない仕組みはしてますから。ただ、まあ、税務署にも全部会社の領収書を出すのか、それとも、それについて出せと言うことで出すのかということの違いではないかなと思います。私は領収書なしで取引したのではと言うかは私も分かりませんから、それと、あの、小沢事務所に聞いていただくほかないと思いますけど――」
小池(という名前だと思ったが)アナ「政治活動費で、これ何、宿舎造っちゃう?土地買って、建物造っちゃう?全部やってる?」
松本「あの、小沢代表の資金力というのはやっぱりそれだけあると言うのは頼もしいなと言うわけです。ただ、あの、内容が説明ができる内容でなければ、それは問題だと思いますけど、今の説明を聞く限りではですね、あくまでもスタッフが結局東京へ出てきたとき、いきなり交通費で処理するか、ただ、あの、(領収書が)あればいいなと思いますけど、現実にはあの、そういうの持ってる人少ないのは事実だとは思います」
(「今の説明を聞く限り」という前置きとあとの説明とのつながりが全然ない返答になっているのは、小沢問題を巧妙にかわすと同時に、あくまでも年間何千万円と費やされるわけでもないことを無視し、なおかつ事務所維持事項ではないことまで無視して、飲食代とか交通費とか領収書を取りにくい問題で片付けようとしているからであり、当然誤魔化そうという意図を働かせているからこそ、こういった議論展開になるのだろう。)
小池アナ「これからどうして行けばいいのですかね。小池さん」
小池晃共産党政策委員長「いや、やっぱり、もう公開ですよね」
小池アナ「法律変えなきゃいけない?」
小池共産党「法律変えなきゃいけないと思いますけど、でもね、法律は悪いんだって言ってね、実際法律を守っていない人たちが言っても、それは説得力がないわけで――」
(法律を変えなければいけないで収束させた場合、法律違反が単なる疑惑に格下げされることになって、誤魔化し得を引き起こすことになる。新しい法律のもとでも、法の網の目を巧妙に潜って、新たな誤魔化しを働かせるに違いない。)
中川昭一自民党政調会長・松本(二人同時に)「法律を守っていないという言い方は失礼じゃないか。法律は守っている」と小池共産党を指差しながら抗議する。
小池共産党「でも信じてくださいと言う以上のものではないですよ」
(そのとおり。法律は守ってるは、前福島県知事や前和歌山県知事などの談合・収賄等の不正行為を働きながら、疑われることは何もしていませんとした当初の疑惑否定と同じで、本人が言っているだけのことでしかない。本人以外の人間も納得する事実解明があって初めて、本人だけが言っていることではなくなる。そのような論理展開に立って、追及すべきだろう)
中川・松本(同時に)「法律に合っている。合っていないとは失礼じゃないか」といったことを激しく口々に抗議する
小池共産党「本当に、そのね、事務所費が信ずるものを使っていたかどうかわからないですよ。それは飲食費を使ってるんであれば、それを実際に入れるものを計上すべきものをしなければ、法律に触れることになるわけですよ。そういう意味ではね、今の話というのは私の言ってることを信じてくださいという以上のものではないですよ。しっかり示した方がいいですよ」
(「しっかり示せ」と言っても、示さないのが当たり前の政治世界となっている。)
中川昭一「法律上何の問題もないんですから、ただ説明責任があるかどうかという問題なんです。
小池共産党「法律に触れないという証拠を国民に対して見せるべきじゃないですか?」
中川「じゃあ、どこに法律違反の可能性があるの?」
小池共産党「いや、だから、例えば飲食費を使ってると、本来で言えば交際費にね計上すべきものがあるとすれば、それは国民に対して示さないために事務所費に入れているとすれば、それは非常に、まあ、問題じゃないんですか?」
中川昭一、小池共産党を指差しながら、「じゃあ、説明責任はそちらにあるんだよ」
小池「それはひどいですよ。説明責任を持っているのはあなたなんですから。さっき領収書持ってるって言ってるんですから」
中川昭一「ルールどおりにやってるんですから」
小池共産党「だったら、領収書持ってるんだったら、全部示せばいいじゃないですか」
中川昭一「裁判所に、じゃあ、あなたに対して、あなたと一緒に裁判やったときに出しますよ」
(裁判までいかないと高を括って言ってることだろう。実際に自分が何ら疚しくなく、間違っていないとなったら、新聞に報道された時点で、領収書を示していただろう。全体的解決方法として事務所費に計上したのは領収書を取りにくい飲食費であったり、交通費であったりしたもので、法律違反ではないが、国民に疑いを持たれないように制度改革するという方向に向けてすべてを納得させる道筋が既に出来上がっているのである。その道筋に向けた論理展開――追及しのぎ――でしかない。)
小池共産党「これはねえ、国民に対して無責任ですよ」
斉藤鉄夫公明党政調会長「今回事務所費の問題で、あのう、問題があることがわかりましたので、あの、これは国民のみなさんの信頼を回復するために何らかの措置を取らなくてはいけないと思います。まあ、しかし、その領収書を全部を出す、えー、提示ということになりますと、そのための負担というものも、また大きなもので、そのために人を一人雇わなきゃあいけないということで、ある意味では政治におカネがかかると言うことと逆行する、矛盾するということもありますので、どういう方法が一番、あのー」
(政治にカネがかかると言われているから、カネがかからない方向に向けるべく努力をしなければならないのに、会計を適正にするために一人余分に雇うことになればそのためのカネが余分にかかって、「政治にカネがかかる」に逆行することになると言いたかったのだろうが、「政治にカネがかかる」と「一人雇わなきゃあいけない」ことで「かかる」とでは、〝かかる〟意味が違うことも理解できないらしい。国会議員が国民の負託を受けて国政を担当している以上、常に身辺を正す義務を負うはずである。そのための会計の適正であり、適正に必要とするなら、何人であろうと雇うことも国会議員の責任行為に入るはずである。「一人雇わなきゃあいけない」ことで「かかる」分、別のことで節約すべきだろう。国会議員でありますにしては、何をほざいているのだろう。もう少しまともなことが言えないのだろうか。)
女子アナ「国民はみんなそうやっていますけど――」
小池共産党「中小企業だって、みんな領収書集めてやってるんです」
斉藤鉄夫公明党政調会長、恰好のつかない笑いを見せて、黙ってしまった。
小池アナ「中川さん、あの、これ、安部総理、制度を検討しようという話ですけど、どういう制度なんですか?」
中川昭一「確かね、事務所費、さっき申し上げた別項目として光熱費と(維持費?聞き取れない)というのがあるんですね。通常事務所の運営をするときには光熱費や(維持費?)というのは一体だと思うんですけど、別項目になってるんですよね。ですから、やはりまあ、あのー、非常に、総務省に聞いてもですね、なかなかはっきり答えていただかないっていうのが実情なんですね。我々自身が一番悩んでいるわけですから。だから、分かりやすくするようにする努力っていうのに、各党、あるいは色んな場でね、やっぱり議論する必要があると思うんです」
(どう扱っていいか「我々自身が一番悩んでいる」なら、国会議員として自らの身を清潔にしておこうという意志で常に行動していたなら、悩まなくていいように、あるいは結果として国民の負託を裏切ることがないように率先して法律を改正する行動を起こしていただろう。少なくとも声を上げていたのではないか。そういうことはせず、政治資金収支報告書に計上した高い金額に合わない、合わないから、誰もがすんなりと納得できない事務所内での飲食費、地元から東京までの交通費とか、右へ倣えの同じ材料を釈明の道具に使っている。裏を返せば、飲食費、交通費で片付けたいという意志の働きがあるということだろう)
小池アナ「議論する?法律を変える必要ない?」
中川昭一「勿論、あの、変えることを視野に入れて議論する。あの、私もね、今回ね、法律どおりにやってるのにね、何か法律違反したようにね、捻じ曲げている。共産党の話を聞くとね」
小池共産党「捻じ曲げていない。ちゃんと誤解を説く努力をすべきだと言ってるんですよ」
中川昭一、指差して「法律違反だとさっきおっしゃった。訂正しなさい」
小池アナ「一定以上思えるようにするには領収書を全部開示すると、こういうふうに変えれば一番分かりやすいですね」
(バカだね、この男。変えたとしても、正直に開示する人間がどれだけいるか。請求書・領収書を発行しない秘密の取引はこの世にいくらでも転がっている。かつての平成研究会(橋本派)が日歯連からの1億円献金を政治資金収支報告書に記載しなかった事件はまだ裁判が継続していて記憶に新しいが、政治資金収支報告書に記載しなければ、領収書開示の必要性は生じない。)
中川「本当に裁判所に呼ばれたら、呼んだら、やりますよ」
小池アナ「法律を変えて、要するに全部おカネを要するに透明にして、カネの入りと出を全部透明にする、全部領収書を示す。そうしたら凄く分かりやすいですよね」
(ジャーナリストの端くれでありながら、自分が如何に甘っちょろいことを言っているか気づいていない。政治家というよりもカネを力とする政治屋ばかりだから、ウラの駆引きがなくなったなら、実力者としてやっていけない。カネの流れを透明にし、領収書全面開示などといったことをしたなら、自分で自分の利き腕をもぎ取るようなものだろう。)
中川昭一「そうですね」
小池アナ「それやりますか?」
中川昭一「そのための議論をしますよ」
小池アナ「この点について、松本さんどうですか?」
松本「そうですね。まあ、本当に我々も今回、私自身は昼歩いていて、いきなり殴られたような気がしますので、まあ、あの、きちっと開示するとか制度をつくっていただくとかやれば、それに従って利用したいと思いますが、今回我々も、あの、もう一昨年のことになりますけど、領収書、帳簿とか記録を全部ひっくり返しましたが、やっぱし事務所、今回一部の報道で備品書も出ていましたが、いわばコンビニのレシートのようなものを含めてですね、確かに膨大な量になることに確かになりますけど、その場の遣り取りでは当然レシートなり領収書を使っておるわけですから、まあそれは残せっていうことであればですね、あの相当、斎藤さんが言われたようにですね、事務コストがかかりますけれども、まあ、やむを得なければ、そういう方向に行かなければなあと検討しなければ――」
(「それに従って利用したい」という「利用」という言葉に含まれている意志と、「やむを得なければ、そういう方向に行かなければなあ」という説明から、現在の制度への決別に心残りを見て取ることができる。いわばこれまで「利用」してきたと言うことだろう。利用し、利益を上げてきたことの便利さからの決別に逡巡を思わず見せてしまったといったとこではないか。)
中川昭一「確かな事務所費じゃなくてですね、例えば政党、赤旗のような政党機関紙も本当にきちっとやられているかもね、この際徹底的にやった方がいいですね、全部」
小池共産党「当然ですよ、それは」
中川昭一「それはもう、赤旗とかね、色んな、他にもあるんですよ」
小池共産党の抗議の言葉と重なって、聞き取れなくなる。
小池アナ「何をおっしゃってるんです?赤旗に何か不透明なとこがあるんですか?」
中川昭一「とか、ですね」(前言で、「赤旗とかね」といった「とか」なのだろう。事実の確証もなしに色々あると臭わせることができるのは、同じ穴のムジナと見ているからだろう。同じ穴のムジナとは、自分自身にも色々あるということに他ならない。)
小池共産「それこそ大問題ですね」
小池アナ「とかって、何かあるんですか?」
(マスコミの人間らしく野次馬根性だけは一人前で、食いつくのは早い。)
中川昭一「とか、ですね」(からかうように笑いながら)
小池共産党「ちょっと、その発言こそ、大問題ですよ」
小池アナ「どういうことがあるんですか?」
中川昭一「機関紙をきちっと購入されているかどうかというようなこともちゃんと明示したらどうですかと、公表したら――」
小池共産党「新聞はちゃんとなっている事実があるわけですよ」
小池アナ「購入されているかどうかって言うのは何をおっしゃってるんですか?」
中川昭一「一部いくら、かける何部、イコールいくら、何円何万ということもきちっと同じように公表されたらどうですかと――」
小池共産党「ちゃんと公表してますよ」
小池アナ「それが不透明なとこがあるというふうに認識されている――」
中川昭一「全部公表したらどうですかということです」
小池共産「全部公表してますよ。デタラメなこと言わないでくださいよ」
(明確な根拠があるわけではない事柄を持ち出したのは、自分の抱える疑惑に対して相対化の希釈を図ったからだろう。みんなやっていることであったとしても、自分のやっていることを無実とすることはできないぐらいの客観的合理性を閣僚の経験があり、現在自民党政調会長を務めながら、身につけていないらしい。)
小池アナ「まあ、政治とカネの問題と言うのは古くて新しい問題なんですけど、前に徹底的に議論したと思うんですけど、前は政治資金の入りの部分、ちょっと焦点を当て過ぎたと、出の部分でちょっと置き去りにされたのかなあと、改めてこの問題を議論したいと思います」
松本民主党「議員会館が、無料議員会館で高額事務所費という表現だけはちょっと正確にお願いしたいと言うのが率直な思いですけどね。議員会館だけで、あの、仕事をしているという政治団体かどうかって言うのはケースバイケースで見ていただきたいと――」
(他にも事務所を抱えていたとしても、「無料議員会館で高額事務所費」が通る理由とはならない。松本民主党にしても、客観的合理性を薬にしていないらしい。)
小池アナ「まあ、とりあえず、ここは法律違反はないということですね。こういう疑惑っていうか、疑いいだかれた方は不愉快ですからね。そのための方策を改めて考えていただきたいと思います」
(何という気の抜けたまとめ方。優秀な日本のお笑いタレントにも劣る〝オチ〟しか演ずることができない。「ここは法律違反はないということですね」は今後の展開次第で決まることであろう。制度改革でうまく切り抜けさせることになるか、あるいは急転直下、前福島県知事、前和歌山県知事、前宮崎県知事の疑惑否定の前段階から疑惑容認の後段階に進まない保証は現在のところない。法律に触れないは本人が言っていることに過ぎない。)
「wactch me tv」と同じ動画を私のHP「市民ひとりひとり」にも容量の関係で少し短くしたGIFアニメーションを載せました。古いソフトで作成しために汚れが少々ありますが、「wactch me tv」にアクセスが面倒な場合は、参考にしてみてください。
「wactch me tv」の動画は出来栄えはさて置いて、汚れはありません。
アレンジ自由!!
第130弾「政権交代動画」
「wactch me tv」動画投稿サイトに政権交代を戯画化した動画を載せました。以前HPで使った画像の焼き直しですが。たいしたことはありません。興味のある人はアクセスしてみて下さい。
①「wactch me tv」にアクセスしたら、ページ右上の検索
欄に「政権交代」と入力。
②画面が現れたら、左上の「政権交代」の文字をクリック。
③通信バイト数によって、全部が現れるまで時間がかかりま
す。画面下のスライダーが左から右にまで達したなら、ス
ライダーを左に戻して、右向き三角印をクリックしてくだ
さい。動画が連続して現れます。
④最後に女性の剥き出しの脚らしきものが現れますが、
「wactch me tv」のコマーシャル動画で、伸ばした手で
す。期待しないで下さい。
美ししいはずの富士の姿と中央政治の姿から見る
事務所費操作の錬金術を中世の魔術師よろしく巧妙に操って政治資金を裏ガネ化し、国民の目に見えない場所での暗躍の手段とする。勿論裏ガネ原資は事務所費操作だけではなく、談合・口利き利益・不法政治献金等々、ありとあらゆる場面からの操作に亘っているに違いない。
勿論裏ガネの横行は中央政治だけの問題ではない。地方政治の政務調査費の私的利用・私腹化、中央と同じ口利き利益・収賄、談合、その他その他、全国規模のものとなっている。
このような裏ガネ政治の全国的蔓延・跳梁跋扈は、日本列島のありとあらゆる場所に亘って行われているビン・缶のポイ捨ての全国的蔓延・跳梁跋扈と、その醜悪さの点で呼応し合っているように思える。
そして日本が世界にその美しさを誇る富士山が日本に於けるビン・缶のポイ捨て状況を一身に請け負って「世界で最もゴミの多い山」としてその最たる象徴的な光景を見せていると言えないだろうか。富士山という日本の代表的な自然が日本全国の自然を集約的に表現し、双方が相対関係にあるということであろう。
富士山は2003年に世界自然遺産の指定を受けようと250万人近くの署名を集めたが、その候補地として知床、小笠原諸島、琉球諸島が選ばれたが、あまりの美しいビン・缶の山であったために名誉なことだが、候補地として選定外の宣告を受けたという。
富士山が日本を代表し、中央政治が日本の政治を代表している関係からすると、富士山のその美しいビン・缶のポイ捨ては中央政治のその美しい裏ガネ構造とまさしく対応し合った光景になっていると言える。世界に誇ることができるこの上なく名誉なことではないか。
日本人がどこにでもビン・缶をポイ捨てする無神経・恥知らずなモラル喪失に相当する政治家だけではない、官僚をも含めた彼らの無神経・恥知らずなモラル喪失は日本の社会的姿の一つとしてあるもので、社会全体の姿としてのモラル喪失がどれ程に蔓延・跳梁跋扈しているか、その様子を朝日新聞からの自作スクラップブックから見出しのみを入力したインデックスを利用して俯瞰してみようと思う。
以前は【事件・犯罪】のジャンルでスクラップしていたものが、05年3月から【政治・社会】のジャンルに加えてスクラップするようになったため、【政治・社会】のジャンルからのみの抽出になる。【事件・犯罪】のジャンルからの列記は別の機会に譲りたいと思う。
つい最近では不二家の消費期限切れ牛乳をシュークリームの原料に混ぜて売り出した狡猾な利益主義経営犯罪があり、閣僚・その他の事務所費付け替え問題がある。スクラップが完了している06年12月25日の時点から時間を遡って列記していくことにする。あくまでもスクラップした事例のみで(関連記事のうち重要でないものは省略もあり)、最近は年齢的な諦念を受けてか、モラル喪失に関する営為(私自身は〝コジキ行為〟と呼び習わしている)は熱心に切り抜きすることがなくなって、漏れている事例が多い。私自身のスクラップからのみ見た場合は対象者・対象組織は救われることになる。
殺人等の事件事例は省略。但し、官僚の不祥事・不作為とされる行為はその社会的地位と責任の重さから、犯罪行為に等しいと見て、犯罪の範疇でスクラップしている。
(06.12.25~)
◇タウンミーティング政府調査を受け・「やらせ」あすにも処分
◇輸入豚「多くが裏ポーク」・業者証言摘発で価格上昇
◇和歌山知事を逮捕・談合共犯容疑 収賄も捜査へ
◇ヤラセ質問8回中5回・文科省の出向者ら関与・教育改革
タウンミーティング・処分検討
◇タウンミーティング・開催の半数に「サクラ」・政府
、前174回調査
◇不祥事、委員の足元で・中建審委員の出身企業で贈賄/
談合相次ぐ
◇岐阜裏ガネ問題・元職員組合員を逮捕・500万円を横領し
た疑い・容疑者は否定
◇福島県知事逮捕・5期18年の果て(上)・圧勝重ねて絶
対権力・建設業者「弟は裏秘書」・前知事の一問一答
「取引も談合も本当に知らなかった」
(06.10.20~)
◇成田市清掃工場・割高な随意契約継続・入札案、業者
市長に異議
◇巨額裏ガネ、岐阜県泥沼・組織ぐるみ、遠い解明
◇新工場受注めぐり、鹿島側リベート9億円・武田薬品
工場工事で
◇福井総裁投資問題・財界/海外広がる波紋・道義的責
任問う声
◇汚泥し尿談合・見積価格も幹部社指示・阿弥陀くじで
割り振り
(06.6.6~)
◇防衛施設庁事件、初公判・談合、年発注額の半分・元
幹部、罪状認める・摘発逃れ防止法協議・告発文書、
握りつぶし
◇国保免除・6440人分、勝手に手続き・社会保険6事務所
、局長自ら手法指示
◇衆院庁費支出・職員の飲食620万円
◇衆院職員は庁費で飲食・03年度、1000万円使う
◇前衆院事務総長・請求書「芸者代上乗せ」・国政調査費
「やましくない」・「地位に合う支出」・料亭やスナッ
クで「議員懇談」・国政調査費、酒席5000万円・事務総
長一部返済・02者年度衆院資料、初めて明らかに
◇杉村太蔵議員のブログ、他人の著書と酷似
◇東京中野区歯科医師会・1200万円私的にプール・区の委
託業務・元会長ら不適正会計
◇スケート連盟、法的手段検討・現職理事の追及甘く・内
部調査の限界露呈
◇宗教法人「神慈透明会」・会長ら16億円申告漏れ・美術品
800点・相続、寄贈装う
◇新潟スタジアム・同じ業者が長年保守・落札率94%以上
◇談合「自首」初適用・水門工事・20数社に立ち入り・公取委
課徴金減免へ
◇海自艦内暴行事件・「いじめ自殺」で遺族提訴
◇社保庁所管団体・1800万円不正支出
◇メール問題・民主続く窮地・仲介者公表、メール問題新
たに火・幕引き/論戦、空振り・「無政府状態」の声も
◇宇都宮市の談合・課徴金総額6億円
◇防衛庁の無線機代水増し・2社255億円を返還
◇文科省工事・受注、天下り先に集中・金額ベースで8割
・衆院委で共産指摘
◇日本テレビ「やらせ」・総務省が厳重注意
(06.3.23~)
◇愛媛県警・流出情報は4400人分・ウィニー被害発表・供
述書など・少年の隠し撮り写真も
◇公務員、相次ぎ逮捕・児童買春や強制わいせつ未遂容疑
・中学校教諭と消防士
◇介護報酬・不正/誤請求80億円・04年度、3割増加・厚
労省まとめ
◇日本スケート連盟・不透明支出・赤字1・5億円、内部調
査へ・国際部門、元会長、自社内に移す・家賃1700万円
受領
◇汚泥談合・「アウトサイダー」勧誘・落札率9割超に・
10件を集中調査・公取委
◇京都の放置死、元署長に逆転有罪・「隠蔽指示あった」
・大阪高裁
◇京都府警九条署・男性放置事死件・虚偽報告書作成事件
・トップの責任認定・元署長に有罪・「上告して争う」
◇国立病院機構・天下り先契約集中・目立つ随意契約
◇独立行政法人「都市再生機構」・構造計算書・紛失は計
154棟分
◇防衛施設庁談合・「OBの生活のため」・前審議官、引
継ぎ認める
◇官製談合・暴かれた官支配・防衛施設庁建設部・人事/
天下りで独立国
◇酒販組合事件・元議員秘書にリベート・投資顧問会社社
長「紹介料」3億円
◇衛施設庁発注、高額工事・落札率96%超・官製談合裏づ
け
◇みずほ元行員・暴力団側に情報・情報管理、モラル頼み
・組織挙げ、見直し急務
(06.2.8~)
◇防衛施設庁関連・「聖域」施設庁建設部・独自に採用/
天下り/人事交流なし・〝牙城〟の技術協会・待遇OB
に手厚く
◇防衛施設庁関連・天下りトンネル組織の技術協会、業務
丸投げ・下請け「関与は不要」
◇防衛施設庁・談合手法、「岩国」で構築・有力OB2人
が主導・旧調本の仕組み真似る
◇防衛施設庁OB・鹿島に年間工事配分表
◇防衛施設庁発注の米軍施設・落札率100%、54件で・02
~04年度
◇論文捏造疑惑・東大教授論文・東大は自らの手で解明を
◇防衛施設庁幹部16人・「技術協会」経由天下り・2年前
後で民間に
◇防衛施設庁談合・仕切り役OBが配分表・高額分、業界
に配慮
◇防衛施設庁談合・天下り実績で配分・談合、施設庁幹部
仕切る・不正の構図、自浄できず
◇三井住友海上・不払い、さらに3000件・十分確認せず「
辞退」扱い
◇豚肉輸入・通関業者も脱税共謀・容疑の2社、税関告発へ
・8億円逃れる
◇役職そのまま上級待遇・給与かさ上げ5県4市・04年度
、計33億円慣行化
◇鹿児島県警・ウソの供述を強要・買収事件/否認男性か
ら調書
◇「払い過ぎあった」・外環道保障、国交省認める
◇外環道計画「焼却炉を移転」・保証6億円・適正額の数
倍・国交省、見積書、相手任せ・組関係者が介在
(05.12.29~)
◇明治安田・不当不払い問題・想定より低い死亡率で利
益・生保、儲けの源不明・不払いの温床にも
◇ゴミ処理関連、全国524施設・落札率95%超が4割・
(一般に95%以上だと談合の疑いがあるとされている
そう)
◇陸自警務隊、カラ出張・470万円・捜査費などに・90
~01年
◇耐震偽装・自治体の点検、表面だけ・「安全宣言」撤
回相次ぐ
◇時々刻々・耐震偽装、国が対応策・世論意識し、救済
へ急転・「官も責任」批判回避
◇成田談合・入札妨害容疑・元次長ら2人逮捕
◇成田談合・受注企業の選定、OB有無で判断・公団側
◇薬物汚染・海自衛隊員、検挙10人・上司の調査に限界
◇耐震偽装・建築確認・自治体審査、実は貧弱・1900人
で年間33万件・民間検査機関、年内に立ち入り検査
◇社説・成田空港談合・またも官製談合なのか
◇成田空港談合・電機数社を捜索・不正入札の疑い・公
団側にも「配分表」・「官製」色濃
◇都河川工事で談合容疑・不動建設JV落札・幹部ら11
人逮捕
◇酒政連の元理事ら証言・「法律カネで買おうと」・業
界生き残り画策・議員向け資料に挟む・議連出席者に
お車代
◇都の河川工事談合・暴力団企業仕切る・業者の不満封
じる
◇橋梁談合23社・自民に献金1億円・建設/運輸族にも
・昨年度
◇橋梁談合・公団OBの営業停止へ・公取委、方針固める
。
◇談合の代償11億円・ゴミ施設住民訴訟・川崎重工に賠
償命令・京都地裁
◇損保不払い1社数万件か・大半は自動車の「特約」・
事務煩雑で管理ずさん
(05.8.20~)
◇石綿規制・連合、94年に法案反対・「雇用不安」理由
に・旧社会党、再提出を断念
◇汚泥施設談合・うま味多い地方施設・安定受注で利益
確保・「橋梁」上まわる税金の無駄遣い
◇カネボウ裏金、60年代から・政治家/総会屋に提供・
政治献金/総会屋対策
◇小売酒販政治連盟・架空支出8144万円・「議員に裏献
金」
◇「全国小売酒販政治連盟」・裏金作り工作・政治資金
収支報告書の架空支出問題・白紙領収書、知人に依頼
・架空会社、所在地は大学・関係者が証言
◇時々刻々・アスベスト対策・不安解消に遠く・縦割り
/怠慢で混乱・飛散放置の解体現場も・過去の政府対
応は・通達頼みで遅れた法規制
◇水道工事談合・「売れっ子」元常務暗躍・業者ら実態
証言・難航ならホテルで密会・落札断念すれば協力金
◇公団橋梁工事・分割発注で配分自在・元理事、天下り
先に
◇山崎拓氏を起訴相当・日歯連、支出、帳簿に記載・迂
回献金再び焦点に
◇道路公団副総裁を逮捕・橋梁談合・分割発注を指示・
5000万円背任容疑も・東京地検
◇経産省裏ガネ・外郭職員管理に協力・口座の連絡先担
う
◇不適切資金管理・経産省、新たに2件・大臣官房会計
課・5200万円プール
◇石綿周辺被害・国、76年に危険性指摘・旧労働省通達
・英論文を引用・厚労副大臣「決定的な失敗」・72年
の国会審議では旧厚生省が飛散の可能性ある場合の周
辺住民への検診の必要性にも言及していた・国が石綿
の原則使用禁止に踏み切ったのは04年
◇時々刻々・官製談合、黙認の構図・道路公団元理事ら
逮捕・天下り利権放さず・改革の切り札形骸化・ムダ
、2年で260億円
◇都議選・議員公用車年に2億円・会派/当選回数で利
用に差
◇橋梁談合・公団元理事の指示、絶対・OB「業者側、
従うだけ
◇政調費、遠い透明化・都と23区の議会実態調査・領収
書義務6区のみ(04.6.17『朝日』夕刊)
◇「経済苦」自殺8000人・高水準変わらず・昨年調べ
◇自殺者3万人前後続く・残された家族、消えぬ苦悩の
日々
◇地方議員の政務調査費・領収書公開、6府県のみ・鈍
い義務化の動き・指定都市でも5市
◇橋梁談合・談合調整役に権限集中・担当10数年、横河
ブリッジの横山理事・全体像解明へ
◇橋梁メーカー強制捜査・「談合が正業」脈脈と・生き
残りへ高値確保・不当利益、国民にツケ
◇地方議員・政調費使途ぼんやり・県議1人あたり年間
540万円支給・領収書公開も渋り顔・静岡市は公開先
行・未使用金の返済増
◇企業/行政対象暴力・総会屋や暴力団の不当要求・水
面下、より巧妙に・「お足代」が5万円。企業の4割
が経験ある
◇大阪市監査委・「ヤミ退職/年金回収を」・138億円
分、市長に勧告
◇旧明治生命・顧客に組織的にリベート・2億7000万円
指摘・保険業法違反の疑い・国税調査
◇島県警・制服発注、落札率99%・6年間平均・100%も
4割・85件
◇大阪市職員厚遇・スーツ/旅行券は給与・国税指摘、
3億円課税漏れ・公費天国、役人天国
◇カネボウ巨額粉飾・揺らぐ信頼、再建に壁・株価はス
トップ安・再生機構「支援を継続
◇橋梁入札、30社談合容疑・公取委、三菱重工などに立
ち入り
◇年金福祉施設97%赤字・256ヵ所、黒字9施設・民間基
準試算
◇省庁「隠れ債務」清算へ・先ず特許庁284億円
◇旧雇用促進事業団・破格値で施設売却・自治体「迷わ
ず引き取った」
◇厚生労働省所管特殊法人「雇用・能力開発機構」、勤
労者向け福利厚生56施設、1億1400万円で売却
◇健保幹部、恒常的に社会保険庁職員を接待・内部告発
で13人処分
◇刑務所の死、200例は訴訟に・238例分析の民間医師、
陳述
◇厚労省の外郭団体「雇用・能力開発機構」・施設「投
売り」の不思議・455億円の保養地が8億円・2800万円
の武道場は1050円・
◇霞ヶ関、コネ採用が主流?・非常勤、公募上回る
◇社説・岩見沢市、絵に描いたような官製談合・公取委、
官製談合防止法の初適用・政官業の癒着を崩せるか
◇31自治体、「身内」に香典・使途規定なし22・交際費
◇ノンキャリア天下り・受注企業へ4割・全国の出先が拠
点・160人、契約直接担当・過去3年間
(~02.9.)
富士山は遠くから眺望したなら、確かに美しい姿をしている。日本も技術大国・経済大国として外側から見たら素晴しい国に見えるだろう。だが、一歩富士山に足を踏み入れると、ポイ捨てされたビン・缶で汚されている。日本という国も、その社会的姿を仔細に眺めると、決して「美しい国」とはほど遠い姿をしている。まさしく足の踏み場もないビン・缶のポイ捨てが山と化した醜悪な状況を見せている。日本人性自体が劣る日本人・劣る国民ではないかと疑いたくなる。
安倍首相は日本の社会的姿がこのような悲惨な姿を取っていることを痛切に感じ取った上で、「美しい国づくり」云々を口にしているのだろうか。事務所経費問題にしても「問題ない」としている態度はこのことが日本の政治の姿だけにととどまらず、日本の全体的な社会的姿にすべてつながっている問題だと受け止めていないからで、その痛切さは極めて疑わしい。
高校の必修科目付け替えと政治家の事務所費付け替えの類似性
家賃ゼロの議員会館に事務所を置きながら、ゼロ+何千万、何億の事務所費を政治資金収支報告書に計上する錬金術。現在判明しているところでは、高校の世界史必修無視問題の発覚が富山県の県立高校から始まって、あっちもこっちもとなり、ついには全国問題にまで広がった例に学ぶとしたら、今後ともあの政治家もこの政治家もと炙り出されていく予感がするから、そう、現在時点では伊吹文明文部科学相、松岡利勝農相、尾身幸次財務相、菅義偉総務相、渡辺喜美行政改革担当相の5人の閣僚と自民党政調会長の中川昭一に丹羽雄哉総務会長、民主党の松本剛明政調会長といったところ。見事なまでのそうそうたる顔ぶれである。閣僚方は一方で安倍首相の「美しい国づくり」の片棒を担いでいる。
政治資金収支報告書虚偽記載疑惑で辞任した佐田玄一郎前行革相の後任となった渡辺喜美の就任時の抱負は「愛の構造改革をやっていく」だった。彼の付け替えが例え事務所移転後の05年分だけの400万円程度だと言っても、その額の少なさが政治家がその言葉を口にすることによって持つこととなった胡散臭さを薄めはしないだろう。
伊吹文科相は5年分の事務所費として約2億2700万円を付け替えていて、その名目は地元京都や東京の事務所の家賃と事務所維持の飲食費を含む会合費等だという。
中川昭一の場合も似たようなもので、他の事務所の家賃だけではなく、飲食代をも合わせて5年分の事務所費として約2億8600万円を付け替えている。
但し、誰もが「付け替えた」とは言っていない。「計上した」と言い、付け替えではないと主張している。中川昭一は「法律に基づいて計算をした結果、ああいう形になった。決して架空経費や付け替えはない」(07/01/11/20:08/ asahi.com)。日テレ24では、「決して架空の経費という・・・ありますとか、付け替えではないということが確認されました」(07.1.12.)と記者団に語っている。
どのような団体・組織・個人の立場にあろうと、会計は公明正大が原則であり、それが会計上の責任遂行義務となっているはずである。会計上の公明正大さがその団体・組織・個人の公明正大さを証明する重要なカギとなる。また何にいくらの経費を必要としたか正確を期すことによって、次の経費配分の参考となり、活動を効率よく継続させていく参考となる。
みなが言うように事実「計上」であるなら、何月何日に何をいくら組み入れたのか内訳が項目化されていなければならない。伊吹文科相は「領収書が取れないものは、事務所費と人件費でしか処理できない」と弁明しているが、「取れない」からと言って、「事務所費と人件費」で処理したのなら、それは付け替え以外の何ものでもなく、「計上」と言うからには、備考欄に「領収書なし」と書き入れて、支出項目は支出使途どおりに正確に明記しておくべきで、それが「計上」というものであろう。内訳を記入した明細がなければ、「計上」とは言えない。
一般でも、税金控除に利用するために別の目的で支出した金額を接待のための飲食費の形に変えて処理するといったこともする。「飲食費」ですと言われて、素直に取ることはできないだろう。
松岡農水相の5年分の事務所費は約1億4300万円の〝計上〟となっている。
地方自治体議員の純粋に政治活動のみに使途が限定されている政務調査費が視察と称して出かけた目的地の観光みやげの購買に利用されたり、自宅の敷地内に置いた事務所の家賃に付け替えていたりして昨年問題になったが、その国会議員版と見られても仕方がない。
あくまでも「計上」だと言うなら、どこの事務所にも会計責任者か、それに準ずる者を置いているだろうから、明細書が存在しないは理由にならないとして、どこの事務所のどのような経費や飲食代を「計上」したのか、詳しい報告を求めるべきだろう。「計上」の対象となった事務所の経費は政治資金収支報告書に記載してないはずだから(記載していたとしたら、二重計上となる)、なぜ直接計上しなかったのか、その理由も問わなければならない。
伊吹文科相は昨年暮れの高校の世界史未必修問題で、「立派な人間をつくるために必修科目を置いている。現場の先生方はよく反省してもらいたい」と苦言を呈している。
「立派な人間」を要望するからには、自身が「立派な」政治家でなければ二律背反を犯すことになる。
小学校5年生以上英語必修化問題では、
「最低限の日本語の能力が身についていない現状がある」
「まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメだ」
「日本人としての最低限の素養である日本語ができないのに外国語を勉強するのはいかがかと思う」との考えで必修化には反対の姿勢を見せた。
自身が「美しい日本語が書け」るからこその危惧を述べたものだろう。その能力は当然、文科相自身の人格と美しさという点に於いて少なくとも同じレベルでつながっているに違いない。「美しい日本語は書け」る、普段の行動に疚しさがあるでは、「美しい日本語」がいくら書けても、意味を失う。
高校の世界史未必修問題は必修させるべき世界史の授業を必修させずに受験科目授業への付け替えだった。政治家の事務所費への付け替えはどう決着をつけるのだろうか、興味津々である。高校の必修の付け替えは許さない、政治家の事務所費の付け替えは許すでは、二重基準を政治家自らがつくり出すことにになる。それ相応の厳しい形で決着できなければ、高校生に対して不公平だろう。
本質的には同じ構造の付け替えでも、錬金術が絡んでいる疑いと社会に対する責任の大きさ・重さからして政治家の付け替えの方をより厳しく対処して然るべきだが、安倍首相は「きちっと報国告書で説明している。政権というのは政策をきちっとやっていくことが大事だ」(北海道新聞 2007/01/11 18:56)と述べて問題ないとし、塩崎官房長官にしても「『政治資金規正法にのっとって、政治家として政治資金収支報告書を公開し(使途を)説明している』と強調。その上で『マスコミに報道されたら、すべておかしいということにはならない』と述べ」(同記事)、安倍首相に右へならえだから、新たな事実が暴露されない限り、安倍首相の「国民から信頼を得るためにも党改革実行本部で議論することが必要だ」の制度改革の検討で打ち切りにしようという魂胆なのだろう。
渡辺喜美の「愛の構造改革」の「愛」と同じく、安倍首相の「美しい国」の「美しい」も、言っていること自体の「美しさ」が知れると言うものである。最初から分かっていたことだが。
次のような歓迎すべき目出度い記事に出会った。
『字体を15日から一部変更します』(07.1.9『朝日』朝刊)
――朝日新聞社は15日から、常用漢字表にない漢字(表外漢字)の字体を一部変更します。「鴎→鷗」「涛→濤」など900字が対象です。紙面の大半をしめる常用漢字の字体は、これまで通りです。
戦後の当用漢字字体表では「區」を「区」とするなど簡略化されました。本社は表外漢字にもこれを応用した略字体を使ってきました。
しかし、書籍などでは伝統的な康熙(こうき)字典体が残り、00年の国語審議会答申でもこれを基にした「表外漢字体表」が示されました。
今回の字体変更は、このような経緯を踏まえたものです。――
「貰って嬉しいのはやはり手書きの年賀状だ」といったことをよく聞く。「パソコンで書いたものは何となく味気ない」と。要するにパソコンで手間も時間もかけずに簡単に作成できるのに、それを手書きでわざわざ手間と時間をかけて思いを伝えようとする配慮が嬉しいということだろう。パソコンの機械的で平板な文字よりも手書きの文字の方が味わいがあるという意見もあるが、字が下手糞な人間はその条件から排除されることになって、少々贅沢な要求となる。
何事にも一長一短はあるが、文字も言葉も態度も、装おうと思えばいくらでも装うことができる。美しい達筆な字を書くからと言って、その人間が字から受ける印象どおりの人間であるとは限らない。印象どおりかどうかの判定は、相手の人間をよく知っているかどうかが条件となる。地方から都会に出てきた若者が母親の子どもの安否を尋ねるたまさかの便りに親の有り難味を感じるのは母親の日常普段の振舞いや気性、あるいは性格を知り抜いていて、文面からそこに誤魔化しのなさを見て取ることができるからだろう。そのような既成事実があって、母親ならではの癖を持った文字に懐かしさを覚えたりする。
しかし逆説するなら、相手の人間を知り抜いていたなら、手書きであろうと機械文字であろうと関係なくなる。また機械文字であっても、字の癖は出てこないだろうが、その人ならではの言い回しは損なわれないし、その人の書き字の癖を思い出すこともある。
亡くなった者が遺した手紙等を取り出したとき、手書きと機械書きとでは思い出としての味わいが違う、手書きの方が相手の人間性が直に伝わってきて、遥かに価値があるかの如くに言う者もいる。だが、手書きでろうと機械文字であろうと、書いたものを手に取るということは差出人となっている人間と向き合うことを意味する。差出人が違えば、向き合い方も違ってくる。文字は相手の人間と向き合う橋渡しの役目を果たすのであって、常に手書きが機械文字を上回るとは限らない。
例えば病床にあって、もはや自分では字を書くことができないほどに身体が弱っている親が遠くに暮らしていて帰省もままならない子どもに最後になるかもしれない便りを出したいと思い、誰かに代筆を頼む。代筆者は、例えパソコンを使ったとしても、親の口述どおりに一字一句違わないように書き、郵送する。その便りを受け取った子供は、それがいつもの親の字ではないからと言って、しかも機械文字だからと、自分のことよりも子どもを心配する親の気持を損なった形で受け止めるだろうか。真の差出人である親と向き合うということは文字ではなく、何よりも文字が伝える想いそのものに対してだろう。
手書きの方が有り難いとする人間は、それを先入観に差出人とだけではなく、常に文字とも向き合っていることによって受ける印象ではないだろうか。
いずれにしても手書きに拘るのは個人的な好みであって、他人にまで押し付ける権利はない。自分は手書き派だからと、相手からの機械文字の便りは受け付けないとするわけにはいかない。いわば自分の好みに納めておかなければならないのだが、時折テレビなどで、手書きでなければ絶対ダメだといった発言をして、手書きに絶対性を与えようとする人間もいる。さも手書きを用いる人間の方が偉い人間であるかのような口ぶりで。
久米宏の「しかし、外人の日本語は片言がいいよね」発言も、自分の好みへの一種の絶対化であろう。
長々と前口上を述べたが、本題に入る。書き言葉に関しては個人的な好みは他人への強要がない限り許されるが、新聞の印刷文字となると、公共性を帯びることとなり、より一般的である必要があるのではないか。 勿論新聞の印刷文字が個人性から発しているなどとは言わない。だが、「書籍などでは伝統的な康熙(こうき)字典体が残り、00年の国語審議会答申でもこれを基にした『表外漢字体表』が示さ」れたから、新聞の字体もそれに合わせるというのは個人性への従属であって、一般性から遠のくことではないだろうか。
一般的には「書籍」は著作者という個人によって著される。著作者という個人の好みや感性によって、現在では誰も使わないような難しい旧字体を使うことを好む者もいる。書物からの引用文の場合は、そこに使われた字体をその通りに引用しなければならないが、「書籍などでは伝統的な康熙(こうき)字典体が残」っているからという理由で一般的な記事の字体としても使うのは、まさしく個人性への従属であろう。少なくとも個人性優先を犯すことにならないだろうか。
ここでいう〝一般性〟とは、〝誰もが〟読みやすい、書きやすい、覚えやすい要素を備えた文字であるということである。
先ず第一に、上記記事が例として挙げた文字で説明すると、「鷗」や「濤」なる文字は、弱視者や目の遠くなった高齢者に優しい文字だと言えるだろうか。画数が増えた分、一画一画が細かくなって、彼らに対する優しさを失うことにならないだろうか。弱視者や高齢者が〝誰もが〟という一般性から外れた異人種だということなら、何も問題はない。問題にする方が間違っている。
日本人に近眼が多い原因として、これまでは一般的であった縦書きが上から下に向かって読むのに対して、目の動きは上下よりも左右に動きやすい構造となっていることの、その反自然性と殆どの漢字が画数が多く、字の構造が複雑で細かく読み取りにくいこととが重なって疲労を誘いやすいからではないかということだが(しかし同じ漢字民族である中国人には近眼は少ないように思える)、意味に変化はなくても、より画数の多い、結果として読み取りにくくなり、書くのも間違いやすくなる一般性を離れた文字を使うことによってより近眼者を増やすことにならないだろうか。但し、近眼を増やすのに新聞が役に立てば、新聞は眼鏡屋の強い味方となることだろう。眼鏡屋の方も、広告は新聞に限るということになるに違いない。それも旧字体だらけの広告となるのではないだろうか。
次に、例え900字の字体変化であっても、従来の字体の漢字そのものが覚えるのにそれ相応に時間がかかる。日本人の情報処理能力が劣るのは暗記教育のため記憶することに時間を取られて、考える時間を奪っていることが原因していると思うのだが、情報処理の劣りがこのことと密接に関係する戦略性と危機管理にも反映されて、その欠如・劣りを招き、日本人性とするに至っているはずである。
暗記作業の中で漢字そのものを覚える時間がかなり占めているはずで、となれば漢字を覚える時間の軽減を図って、節約した時間を考える方にまわし情報処理能力の向上に寄与すべきであろう。漢字を覚えやすくするためには、中国のように簡略化の方向に進めるべきだと思うが、「康熙(こうき)字典体」への復古は逆の方向を取ることになるのではないだろうか。
政治も外交も防衛も将来的にもアメリカ依存を堅守し、日本自らは現在以上の情報処理能力も戦略性も危機管理能力も必要としないというなら、「康熙(こうき)字典体」は弱視者や高齢者には優しくなくても、一般日本人、とくに政治家・官僚には優しい字体となること請け合いである。なぜなら、今まで同様に世界に向けて自ら考え、自ら行動する情報の発信も、戦略の構築と実践も、その必要に煩わされることもなく、アメリカ依存の安全地帯にアグラをかいていれば楽なまま済むことだし、何らかの責任問題が発生しても、アメリカに責任を回せばすむことだからだ。
日本の政治家や官僚の情報処理能力の見劣りは国会審議での言葉の遣り取りを見れば一目瞭然で分かる。以前ブログ記事で引用したものであるが、06年11月22日の「教育基本法参議院特別委質疑」での蓮舫議員の質問とそれに答えた安倍首相の答弁を使って説明してみる。
蓮舫「安倍総理にお伺いします。小泉前総理大臣の時代から私ども与野党で共通認識で持っていたのは、もうムダ遣いはやめようと、行政改革を進める上でムダを省いて、そしておカネを、税金を、戴いた保険料を、預かった保険料を大切に使っていこうという意識は共有させていると思うんですが、足元の内閣府で行われているタウンミーティングでさえも、殆どデタラメな値段付けが当たり前に使われていて、通常の恐らくタウンミーティングの額よりも膨らんでいると思うんですね。そういうおカネの使われ方はよしとされるんでしょうか」
安倍総理「競争入札で行ってきたところでありますが、えー、先程来議論を窺っておりました。この明細を拝見させていただきました。やはりこれは節約できるところはもっともっとあるんだろうと、このように思うわけでございました。私共政治家も、よく地元で色んな会を開いて、色々と地元の方々とご意見の交換を行うわけでありますが、それは勿論パイプ椅子等をみんなで運びながらですね、最小限の経費で賄っていく中に於いて、意見交換も活発なものが当然できるわけでありますが、そういう精神でもう一つのタウンミーティングの先程申し上げましたように運営を行うよう、見直してまいります」
安倍首相の発言を文字に起こすと、現在形を用いる箇所を「このように思うわけでございました」と過去形で用いたのは単なる間違いだろうから、無視するとして、政府主催のそれなりに大掛かりなタウンミーティングを地元の個人的な会合と比較したりするピント外れな客観的合理性、さらに蓮舫議員の「殆どデタラメな値段付け」の「おカネの使われ方はよしとされるんでしょうか」という質問の中にヤラセ問題が含まれていなくても、関連事項として踏まえた答弁をしなければならないのだが、「節約できる」とか、「最小限の経費で賄っていく中に於いて、意見交換も活発なものが当然できるわけでありますが」とか、「節約」も「活発」もヤラセがあったなら無意化することも考慮せず、「経費」との関係でのみ活発な議論の可能性を云々する判断能力のズレはそのまま情報処理能力の程度の問題に関係していく事柄であろう。
さらに安倍首相だけではなく国家議員・官僚が国会答弁や記者会見で結び語によく使う言葉として、「このように(かように)思うわけでございます」とか、「かように考えるわけでございます」「と言うところでございます」、「致しておるところでございます」、「しておるわけでございます」といった「ございます」語は丁寧語と言ったら聞こえはいいが、「です・ます」で簡潔に結べるにも関わらず、そのことに反して余分に付け加えて言葉数を多くする発言は、簡潔・スピード・確実・理解をモットーとする情報処理能力に密接に関係しているはずである。1日で使う「ございます」語をすべて省いて、「です・ます」で済ませたなら、かなりの時間短縮が可能となり、その時間分、実質的な質疑応答に回すことができて、当然情報処理量をも増加させて情報処理の向上に役立つはずである。
また、質疑応答に於ける相互的な情報伝達は政治のあるべき姿の議論を実質とすべきを、実質の議論から離れて結びをことさらに「ございます」語とするのは、伝えるべき情報の実質部分でたいしたことを言っていないからこその、そのことの逆説として、自分が言っていることを正しい・筋が通っていると思わせるダメ押しの役目を持たせた装飾補強材であろう。
上に上げた安倍首相の答弁もまさにその通りだが、たいしたことを言っていないということも、要件の一つとしている“確実性”に反する情報伝達ということになって、情報処理に関係した能力と言える。日本語の敬語の多用も、耳に聞こえはよくても、言葉数が多くなることによって、逆に情報処理を遅くする逆説を呼び込んでいると言える。
かくかように戦略性や危機管理能力と密接に結びつくことになる情報処理能力がただでさえ見劣りする状況にあるのに対して、例え900文字の康熙(こうき)字典体への変化が、そのことによって僅かであっても情報処理をより困難としたなら、現在以上の戦略性と危機管理能力の欠如・劣りにきっと寄与するに違いない。まさに「美しい国」日本である。
財政破綻した夕張市。財政再建の目玉策にと造り続けた巨大娯楽施設は当初見込み入場者が捕らぬ狸の皮算用で終わり、閑散とした場内はそのまま沈み行く夕張市の縮図そのものを映し出しているのだろう。
以前テレビで見せられた光景だが、娯楽施設の入場者よりも施設従業員、それも人件費が安く済むことと若者が逃げ出して採用年齢に拘っていられないという選択の余地のなさからなのだろう、殆どが中高年齢者といった従業員の姿ばかりが目立った。それも忙しく立ち働いているなら少しは救いがあるが、客がいなくて、客が来たら動かすといった動いていないマシーンばかりだからすることがなくて、手持ち無沙汰げにあちこちに佇んでいるだけだから余計にお寂しくさせている光景は市民が逃げ出した人口減と行き場がなく取り残された中高年者によって高齢・過疎化した沈滞都市・夕張とまさしく適応し合っている。
そして景気が回復しているというものの、経済同友会の北城恪太郎代表幹事が年頭に当たって(07.1.1)、夕張が置かれた状況は先進国中最大規模の公的債務を抱える日本の姿と変わりないと警告を発したが、借金大国日本と財政破綻した夕張、さらに夕張財政の救い主であるはずだったが、逆に足を引っ張った数々の娯楽施設は入れ子構造にあるということではないだろうか。
そんな夕張市で去年まで支給されていた60万円の補助金が打ち切られて、繰越金の1万円と全国から集まった230万円の寄付金の一部を使って、残りは来年以降の成人式の費用に回すということだが、一度は諦め掛けていた式を新成人自身の手作りでとり行い、無事済ませたという。
成人式の実行委員代表新成人女性が市の職員と持った会合で補助金の打ち切りと繰越金1万円は支給できることを伝えられて、あまりにもひどいと涙を流して訴えていたが、成人式開催を絶対前提としただけではなく、市のお膳立てをも絶対前提とした抗議であろう。
絶対前提としていなければ、会合を持つ必要も生じなかったはずである。
20歳という年齢を迎えたことに対するそれぞれの自覚が重要なのであって、式そのものは所詮形式、あるいは儀式でしかないのに、なぜ絶対前提としなければならなかったのだろう。
成人した男女は、「地元で迎えられたので、うれしい」とか、「予算が少ない中でやって、手作りで暖かい感じを出せた」、実行委員代表新成人女性は感謝の気持からだろう、泣きじゃくりながら式で、「全国から励ましの言葉やご支援をいただき、今日このような成人祭を迎えることができました」(日テレ)とマイクを前にしてメモを読み上げていた。
市の対応を泣いてひどいと訴え、では自分たちの手でと寄付を求めて、全国から寄せられた230万円の寄付金の一部を使って手作りだと称して開いた成人式が、テレビで見た限りではおんぶに抱っこの形で市から与えられていたた今までの成人式とたいして変わらない、単なる焼き直しと言ってもいい内容にしか思えなかったが、勘違いだろうか。
多分勘違いでない証拠は、まずは成人女性の殆どが振り袖、成人男性は黒の式服か和服と、どこの成人式でも見かけることができる自治体がお膳立てした従来からの成人式と何ら変わらない光景だったことと、実行委員代表新成人女性自身の式場での上記メッセ-ジである
「全国から励ましの言葉やご支援をいただき、今日このような成人祭を迎えることができました」――
これは「親や学校の先生方、地域の人々に温かく見守られてここまで成長することができ、今日このような20歳の成人祭を迎えることができました」と誰もが、どこでも口にしているただでさえありきたで月並みな手垢のついたメッセージと互換可能で、手作りでなしたとするにはまるきりありきたとなって、市主催の焼き直しと言われても仕方がないだろう。
財政破綻を受けた町に住み、これから生じる様々な負担やジリ貧状態で悪化していくだけかもしれない将来に対する思い・不安という逆境の中での苦労も伴った手作りであるからには、何かもっと別な言葉が生まれていいはずだが、ありきたりの言葉しか創り出せなかったようだ。それは成人式のありきたりな結果性と対応しあったありきたりな表現ということだろう。
例え自分たちで行うことに意味がある、行ったことに意味があるからと言っても、結果が他と似たり寄ったりではたいして意味とは言えない。他と違う、財政破綻を受けた町ならではの内容を目論み、結果を出してこそ、〝自分たち〟のが生きてくる。かけた資金に制約を受けただけの、他の自治体の成人式のミニチュア版であったなら、手作りのどこに意味があるということができるだろうか。違いがあるとしたら、寄付金で賄ったか、市の金で賄ったかの違いとそのことに応じた規模の大小の違いしか見つけることができないのではないだろうか。
男女それぞれの特別仕立ての着物・式服にしても、単に見た目の様子が他と同じというだけではなく、成人式を記念とし、写真館に寄って撮った写真を記念とする、記念のための儀式という点でも他と何も変わらないことの光景の現出であろう。盛装は自分たち自身の成人式の記念にはなっても、夕張の今と将来の創造に何の役に立つというのだろう。
将来のなくてはならない人材だと若者を大事にする意識が市にあったなら、何らかの形で応えるべきを補助金は打ち切りです、出せるカネは繰越金の1万円のみですといった将来的な人材に対する事務的で無責任な対応から学ぶべきは市主催のおんぶに抱っこへの決別の恰好の機会であったろうし、当然、その方向性を持った手作りであるべきであったろう。だとしたら、似たり寄ったりであってはならなかったのではないか。
新成人が仲間を語らって成人式の日に焼酎でもかっ喰らい市役所に雪崩む住居侵入、椅子を投げつける、パソコン・その他を金属バットで叩き壊す器物損壊、祭日であっても警備員ぐらいはいるだろうから、暴行して怪我を負わす暴行・障害を確信犯的に犯すぐらいのことをして、これが財政破綻した町の俺たちの成人式だと宣言したなら、マスコミが取り上げることによって新成人の狼藉が改めて指弾することになる市と市の職員の財政破綻に対する無責任を日本中にぶちまけることができるし、市側にこのような仕打ちも仕方がないとほんの少しぐらいは反省の機会を与えただろうし、確実に手作りの成人式と言えたのではないだろうか。
尤も何日か臭い飯を食う覚悟をしなければならないが。
市の方は財政破綻までやらかした無責任集団である。逆に今度からずっと手作りでやってくれ、市も助かるぐらいにしか考えていないだろう。そういった可能性大ということなら、なおさらに手作り成人式は自分たちの役に立ったという自己満足で終わりかねない。「住民サービスの一定水準の維持は政府が約束する。特に子どもと高齢者には配慮したい」と国が救いの手を伸ばすようだから、親方日の丸の依存に慣れきってしまっている責任体質は元々水っぽいだけの味噌汁にさらに水を加えるように自己責任濃度を薄めるだけのことで、国への依存度だけはますます高めていくといった何も変わらない結果で終わるのではないだろうか。
暴動は過激だというなら、晴れ着に装って出席したことを人生一度の記念とし、勲章とするのではなく、自分が持っている一番の古着を纏い、なければ古着屋から手に入れ、式場から外に出たら寒さで震えるぐらいの薄着を夕張市成人式の盛装として、財政破綻した今の夕張市に合わせましたと宣言したなら、あるいは寄付金など募らず、式場を市役所の駐車場に代えて、そこで焚き火して、それを古着を着た新成人が囲んで暖を取る成人式にしたなら、市側に自分たちが招いた財政破綻の惨状と責任をいやでも痛感させる創造的な手作りの成人式でございますと言えるのではないだろうか。
成人したという意識・大人としての自覚は成人式によって与えられるものではなく、年齢には関係ない自身の自覚の問題であろう。20歳前に社会性を身につけることができる人間もいるし、20歳を過ぎても、いつまで経っても大人になりきれない人間もいる。50,60になっても、ビン・缶を無神経にポイ捨てできる人間は見かけは大人でも、中身は社会の一員化していない未発達の大人でしかない。そんな日本人がゴマンといる。
成人として行動できる否かは自覚こそを必要条件とするなら、20歳を迎えるに当たって先ずすべきことは、自分が成人としての自覚を持てているかどうか、自らを振返ることだろう。どのような場面でもビン・缶をポイ捨てしない人間であるなら、成人への第一歩を踏み出す初歩的な資格(=初歩的な社会的責任感)を有していると見なすことができる。例え中学や高校のときから野球やサッカーといったスポーツの才能が優秀であっても、ビン・缶を簡単に捨てることができる人間なら、単に自分の運動能力に助けられた運動人間の位置にいるだけのことであって、大人の精神性を備えた社会人とは言えない。
成人式に出席した新成人が口ではこれからは大人として行動したいとか、自分で考えて行動する人間になりたいとか主体性・自律性(自立性)に言及していたが、そのことに関しては成人式そのものは新成人が身につける振り袖や式服に腕を通すだけの効果しか与えないのではないだろうか。それは参加人間のファッション・服装が自治体がお膳立てした成人式の一律性・規格品化に対応して規格化されていることに表れている。主体性・自律(自立)性とは横並びとは違う自分は自分という独自性へ向かう道を言うのであって、そのことに反する規格品化だからである。
前日(07.1.6.土曜日)のブログ「日本のモノづくりの優秀さと〝美しくない〟社会的姿との落差」で、次のように書いた。
「国民・民族の優劣は社会的姿の優劣で判定すべきを、日本人はモノづくりに優れているからと、あるいは誰と誰がノーベル賞を取っているからと、限定的な才能を基準として優れているとしている間は、世の中は何も変わらないのではないだろうか。優秀さの根拠・源泉を日本人一人一人の姿・ありようとは関係ないにも関わらず、2000年の歴史とか万世一系とか、男系天皇とかに置いて日本及び日本人の誇りとしている。その愚かさに気づいていない」と。――
この日本人の才能と実際的な社会的姿との関係は日本の敬語についても言えるのではないだろうか。敬語は相手を敬って使う言葉であるが、話し手の人間性を表現する言葉ともなっている。丁寧な言葉を使うことによって、自身の社会的常識と人格を同時に表現する。政治家の敬語を多用した言葉の数々、あるいはテレビ番組で討論相手に使う丁寧な言葉の数々は自身の清廉さと国民のための政治を行う政治家だということ、即ち国民を大事にしていますといった自らの人間性・姿勢を同時に訴えるメッセージともなっているはずである。
テレビに出る芸能人、タレント、評論家、あるいは料理人のやたらと食品・調味料の名前に「お」をつけ、醤油を加えるだけといった指示語にも「加えて頂きます」と「頂ます」をやたらと多用する料理家にしても、さらにテレビ局のアナウンサー、解説者にしても尊敬語や丁寧語を含めた敬語を自己人格表現として使うことで、テレビの向側のファンを大事しています、視聴者を大事にしています、そういった人間ですと訴えるメッセージにもしているはずである
当然日本の敬語は日本語としてあるものであるから、敬語は全体としての日本人の、あるいは日本民族の人格表現の役目を担うこととなり、敬語によって表すことができる謙譲や善良さと日本人性、あるいは民族性が響き合う関係となる。このことを意図的に利用して、持ち合わせてもいないのに自分がさも謙譲さや善良さを持ち合わせた人間であるかのように装わせるために敬語を多用するケースが生じる。そういった政治家、官僚、芸能人、コメンテーター、その他その他、如何に多いことか。
このような日本人性、あるいは民族性を善なるものとして表現する敬語と日本民族の優秀性の表現となっている天皇の存在性とは関連し合った価値関係にあると言える。
だが、いくら日本人が敬語を多用して、自らの謙譲さ・善良さ、いわば善なる存在であることを表現しようとしても、政界や官界、業界といったより大きな責任と義務を負う社会の上層部に於ける全体的な社会的姿が不正・犯罪・スキャンダル・自己利益・ゴマカシ・事勿れ等々にまみれていたなら、それが中央だけではなく、地方に於いてもそっくりと受け継ぐ相似形を成していたなら、敬語は中身を偽る過剰包装紙と化し、意味を失う。敬語は上辺を装う飾りとしての価値しか持たせていなかったことになる。
そして多くが上辺を装う飾りとなっている。敬語が持つ人格性と社会的姿が響き合う関係になく、敬語の人格性が社会的姿に反映されないままなら、敬語は空ろに響かせているだけが正体となる。それとも醜いばかりの社会的姿を補う意味で、せめて表面的な人格性だけでも善を装おうと日本人はせっせと敬語を使っているのだろうか。
どちらであっても、前日ブログに「逆説すると、2000年の歴史・万世一系・男系天皇等が日本の醜い社会の姿を隠す便利な薬効をもたらしている」とも書いたように、敬語にしても美しいどころか、日本の醜い社会的姿をカモフラージュする薬効を備えさせていることになる。
日本の社会的姿が美しくなければ、富士山がいくら世界に誇る日本一美しい山であっても、その価値は滑稽な逆説を帯びることになる。富士に近づけば、ポイ捨てされたビン・缶が山と散乱し、不法投棄された産業廃棄物が掻き集めればダンプで何台と放置されているという。それが日本一美しい富士にも投射されている日本の実態的な社会的姿でもあろう。
安倍晋三の「美しい国」なる言葉も、聞けば聞く程、空ろに響くだけある。お粗末な社会的姿を隠した「美しい」に過ぎず、それが安倍晋三の正体でもあるといずれ現れることになるだろう。
『ニッポン情報解読』by手代木恕之の「選挙と政治に於けるカネの力を無化する」(2007-01-02 09:41:14)に次のようなコメントを頂いた。
「それから 2007-01-03 08:58:33 圭」
――仰ることを具体的にどう展開するのかを考えて欲しいです。居ても立ってもいられない気持は誰も同じです。構造を変えるのは難しいですが、一人ひとりの自覚しかないでしょうから。――
ブログに記した提案は7年も前から自作HPその他で何度か繰返し訴えてきたものだが、そういった方向に変化することを望んでいるものの、ブログ記事にも記したように、「まあ、こうなることはないだろうが。カネ集めが大変でも、カネを力とした選挙活動・政治活動が野心さえあれば、政策的創造性がなくても、誰にもできて、一番性に合うものとなっているだろうから。日本の教師にとって暗記教育が一番性に合う、楽な教育方法となっているようにである」と実現の見込み限りなくゼロに近いと予想しながらの提案であって、無責任といえば無責任ということになる。
1月5日(07年)の「朝日」朝刊記事に「今夏の参院選比例区に自民党公認で立候補予定の前国土交通事務次官、佐藤信秋氏(59)の後援会が、橋梁談合事件で起訴された26社を含む橋梁メーカーにパーティ券購入を依頼していたことが分かった。26社中12社が購入を認めており一部は同省OBからの働きかけがあったと証言。国交省が指名停止や違約金を請求するなど厳しく対処する一方で、前事務官側から選挙資金の提供を求めていた形で、官が民にもたれかかる構図が改めて浮き彫りになった。・・・・・」(『参院選出馬予定の前国交次官 橋梁業界に資金要請』)と出ているように、カネで選挙が政治家・官僚の習い性、血や肉となっていて、頼るはカネの力、掻き集めるだけ掻き集めようということなのだろう。
勿論カネ集めが主目的であるものの、パーティ券を売りさばいてパーティの出席を取り付け、そこで人間関係を断れないより確かな状況に持っていこうといった欲張った計算も働かせた一種の事前運動なのだろう。こういったことが達者な人間程、何様政治家としてのさばっていく。政治は結果だというが、すべてが結果オーライとなっている。
同ブログの出だしに、「ある友人から次のようなメールが送信されてきた。
「2007年1月2日。夏の参院選挙、自民党敗退という期待した初夢は残念ながら見ることはできなかった。夢は現実で見るべし。
その通りだと思ったから、これを合言葉にしようと、さっそく他の友人たちに送信した」と書いたが、上記文章と案内用にブログアドレスを書き込んだメールを、内心無駄な抵抗はやめろと思いつつ、首相官邸と民主党の議員数人に送信はしてみた。
腹の中でチェーンメール形式に同じ文章のメールが友人から友人へといったふうに広がっていけばいいがと期待はしたが、意を汲んでくれた人間がどれだけいるか。尤も反自民派の人間にしか通用しないだろうから、価値ある試行となるとは思えない。
国民・民族の優劣は社会的姿の優劣で判定すべきを、日本人はモノづくりに優れているからと、あるいは誰と誰がノーベル賞を取っているからと、限定的な才能を基準として優れているとしている間は、世の中は何も変わらないのではないだろうか。優秀さの根拠・源泉を日本人一人一人の姿・ありようとは関係ないにも関わらず、2000年の歴史とか万世一系とか、男系天皇とかに置いて日本及び日本人の誇りとしている。その愚かさに気づいていない。
逆説すると、2000年の歴史・万世一系・男系天皇等が日本の醜い社会の姿を隠す便利な薬効をもたらしている。
トヨタは優秀な自動車製造技術を持った日本が世界に誇る大企業である。生産台数世界一を目指していて、06年の米国での売り上げで「メルセデス部門を含むダイムラークライスラー社を初めて抜いて3位」(07.1.4.『朝日』夕刊『トヨタ、初の米3位』)となり、長年外国企業がなし得なかった〝ビッグ3〟の一角を崩す大偉業を成し遂げている。この勢いはこのまま続き、07年には「フォードを抜いて2位に浮上するのが確実視されている」(同記事)程にも
日本の優秀さを代表し、米自動車企業にとっては脅威の的となっている。
既にブログ記事で触れていることだが、トヨタのそういった優れた自動車製造技術や経営体制に反して、昨06年 5月には北米トヨタの大高英昭社長(65)が元秘書(日本人女性・42)からセクハラで1億9000万ドル(約215億円)の損害賠償請求を求める訴えを受け、和解するセクハラ犯罪を犯しているし、昨06年7月にはリコールを申し出た8年も前から多目的レジャー車(RV)の部品の欠陥を知りながら放置していたリコール隠しが発覚している。隠し切れなくなったから、リコールを申し出たといったところだろう。
1ヵ月後の8月13日の『朝日』朝刊はトヨタ系の部品メーカーの請負労働者の労災隠しを伝えている。偽装請負の露見を恐れて労災を隠すという二重の隠蔽なのだが、翌9月には「下請け企業23社が外国人技能実習生のベトナム人約200人を法定の最低賃金に満たない低賃金で不正に雇用したり、割増して払うべき賃金を大幅に下回る時間給で残業させたり」(06.9.?『朝日』)の〝世界のトヨタ〟なるカンバンに偽りありのこすからい不正雇用をやらかして、耐震偽装疑惑でも問題となったいわゆる世間に顔向けできない厳しい〝経済コスト〟追求に及んでいる。
だが、耐震偽装問題では地震に耐えないと知りながら売り抜けたヒューザーの小嶋社長や耐震偽装設計した設計士の姉歯秀次元1級建築士に対して非難の声を上げはしたが、トヨタに対しては非難の声は上がらず、それぞれの美しくないという点では同じ社会的姿に対して異なる態度を見せた。
トヨタの社会的姿に無感覚になれるのは、2000年の歴史・万世一系・男系天皇が日本の醜い社会の姿を隠す便利な薬効をもたらしているのと同じ構図で、世界のトヨタ、技術のトヨタ、〝ビッグ3〟の一角を崩す米国での素晴しい売り上げ台数といった数々の勲章に目を奪われるあまり、トヨタ自身が一面で抱えている醜い社会的姿を過小評価してしまうからだろう。政治家・官僚・企業がどのような不正・犯罪を犯そうと、モノづくり、その他の優秀さをすべてとして、個々の人間・個々の企業の問題と把え、日本の社会全体の姿、あるいは日本人全体の姿としてある問題だと把えることができないようにである。
年末の『朝日』朝刊(06,12,30)はさらにトヨタ本社が本来子会社が負担すべき販売促進費を海外子会社に自動車部品単価を安く売却することでその差額から捻出できるよう肩代わりする意図的に巧妙な操作を行い、名古屋国税局から「税逃れと指摘」を受け、「60億円の申告漏れ」を通告されたと伝えている。
自動車製造技術と販売技術の優秀さに比較したこのような社会的姿の必ずしも〝美しい〟とはいえない一面を世界のトヨタは一方で身に纏っている。これは個人としての人間が常に美しい姿を取るわけではない事実に対応する事実でもあろう。
だが、日本の大企業であることに比例して日本の社会に大きな責任を負っているだけではなく、世界の企業として世界全体に大きな責任を負っているトヨタである。製造技術と商売の優秀さに比例して、組織集団の一部の問題だと、少しぐらいの矛盾した社会的姿を纏っていようと構わないとするわけにはいかないはずである。
勿論企業のこういった美しくない社会的姿はひとりトヨタだけではない。金融機関や一般企業の粉飾決算、事故隠し、脱税、談合、不正雇用等々、いくらでも例を挙げることができる。
安倍首相の「美しい国づくり」の「美しい」とは日本の全体的な技術の優秀さだけを問題とした主張ではなく、「自由な社会を基本とし、規律を知る、凜とした国」のことだと解説していることからも、社会的姿の美醜を国づくりの価値基準とした提案でなければならない。
年頭の記者会見で、「私の内閣発足して約100日が経過をいたしました。この100日間で美しい国づくりに向けて礎を築くことができたと思います。今年をこの礎の上に大きく前進する年にしていきたいと、このように考えています。今年はイノシシ年であります。美しい国に向かってたじろがずに、一直線で参る覚悟でございます」とか、「今年を私は美しい国づくり元年としたいと思っています。日本が持っている良さ、すばらしさ、美しさを再認識する年にしていきたいと思います」などとアッケラカンと述べていたが、「美しい国づくり元年」どころか、政治家の口利き、政治資金収支報告書虚偽記載、先に書いた参院選比例区立候補予定の前国土交通事務次官のパーティ券購入依頼問題、政府税制調査会長だった本間正明大阪大学院教授の公務員宿舎愛人同居問題、企業の申告漏れ、複数の県知事の天の声や談合問題等々、不正・犯罪行為が跡を絶たない姿で次々と明るみに出て、「日本が持っている良さ、すばらしさ、美しさを再認識」しても追いつかない情けないまでの醜い社会の姿をさらけ出している。
美しくない醜いばかりの社会的姿が進行形で続出しているのに、「この100日間で美しい国づくりに向けて礎を築くことができたと思います」と頭からそう信じ込んでいるらしく、シラッとした口調で言い済ますことができるのは、前佐田行革相の問題も本間氏の愛人公務員宿舎同居問題も、その他諸々の政治家・官僚・企業の不正・不祥事・犯罪も「美しい」日本の価値のうちに入れることはできない社会的姿だと深刻には受け止めることができず、そんな神経・感覚はなく、猛スピードで走行する世界に誇る高度技術の結集たる新幹線の車窓に現れたと思うとアッという間に通り過ぎて消えてしまうどうってこともない景色と同様の生成しては消えていく刹那の出来事と把えることしかできない、日本の社会的姿に無感覚な感性が(鈍感なと言った方がいいのかな)なせるワザであろう。どこをどう切り取って、「日本が持っている良さ、すばらしさ、美しさを再認識する」と言うのだろうか。
自分の単細胞・単純さに気づかぬが仏・知らぬが仏で、安倍首相は世界一の幸せ者なのかもしれない。自身のすぐ足元で起こっている美しくない社会の姿をこそ「再認識」すべきを、「再認識」もできず、オンパレード状態で競い合うに任せて、「美しい国」を念仏のように唱えるだけときている。
多くの国民共々、日本人のモノづくりの才能や経済的国力だけに目を奪われて、個人としての社会的な姿、企業としての、政治家としての、官僚としての社会的姿が日本の社会全体の姿・問題となっていることに気づずに、それを責めることも問題とすることもしない。一時的には責め、問題としても、喉元通れば熱さ忘れる健忘症に侵され、相変わらず日本人のモノづくりの才能や経済的国力をだけに目を奪われて看過してしまい、結果として美しくない社会の姿の横行・蔓延の繰返しを招き、政治家・官僚・企業の美しくない同じシーンの焼き直しを永遠に見続けることになる。
こういった延々と続く愚かさから比較したなら、日本人のモノづくりの才能、欧米から比較したならほんの少数に過ぎないノーベル賞受賞級の才能など、それほど誇るうちには入らないのではではないだろうか。
12月1日(06年)の「朝日」朝刊の奉仕活動の是非をテーマに三者が主張を展開する『三者三論』に作家曽野綾子の「入口は強制だっていい」という題名の記事が載っている。「奉仕」賛成の立場からの意見で、全文を引用してから、言っていることの正当性を問い質してみる。但し、その問い質しにしても、正当であるか否かの見解は受け止める側によって意見は分かれるだろうことは承知している。
――厳密には、ボランティアはボランタリーが語源で各自が望んでやるものだが、外国でも実際には子どもたちが勝手にやるものではない。先生や協会、地域の婦人などが組織をつくり、そこに参加する。ボランティアか、奉仕かといった言葉にあまり引っかからないほうがいい。外国の実態を見ていると、ボランティアも奉仕もあまり違いはない。
奉仕とは与えること。戦後の日本の教育は、受けるばかりで、人に与えることを教えてこなかった。おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう。与えられているだけの間は、子どもの心理が続く。もっと何かしてもらえないか、もっとモノをもらえないかと、永遠の飢渇状態といえる。人間は与えることができて初めて大人になれる。
でも、子どもたちに自発的な奉仕活動を求めるのは難しい。だから体験を場を用意するのは大人の任務だと思う。幼児期の教育と、新しく始めることの基礎を学ぶ時は「強制」の形を取ることが多い。あいさつすること、朝起きたら顔を洗うこと、6歳の4月から学校へ行くのも全部強制といえる。だが、いつまでも強制をする必要はない。自発性が目覚めて、続けるか辞めるかを判断できるようになったら、自分で決めればいい。強制で奉仕を体験して、いやになる場合も少なくないだろう。多くの子どもは最初は水がきらいだ。でも、無理に水に入れられて泳げるようになることがあるように、奉仕活動を「案外面白い」と思えば、人に与えることの素晴しさを知り、一生続けるかもしれない。美意識として奉仕を選ぶかどうかだと思う。
自分がどう生き、どんな職業に就けばいいかを考えることにもつながる。つらさや不自由さも体験する。松下政経塾では100キロ歩く訓練がある。歩けた自信が精神面や災害など物理的な困難に直面した時に生きる。それは魂と行動の自由を広げる。
6年前、私が教育改革国民会議で奉仕の義務化を提案したときは、18歳から1年間ぐらいやるべきだと思っていた。でも、期間や時期など、現実的、各論的なことは教育現場の方々で決めればいい。
義務化を提唱した理由の8割はこれまでに述べた精神面からだ。残りの2割には、今後マンパワーを輸入しない限り、高齢者の介護に人手が足りなくなるという現実問題もある。若者が1年のうちのいくらかを高齢者のために割いたら手助けになるのではないのか。現実的な問題への対応も奉仕の目的にしていい。
専門知識や経験のない若者を急に動員して役に立つのかという問題は確かにある。ならばそうした若者たちに適した職種を設ければいい。お年寄りの話を聞くのはどうか。自分史を聞き書きしてあげるのも喜ばれると思う。足をふく。洗髪する。つめを切る。ゴミを出す。相手のために何かできるのか考えることが大切だ。
国家による奉仕の強制というと、すぐ徴用とか徴兵に結びつけて語られるが、それは古い硬直した考え方。軍事や徴兵とはまったく関係がない。ドイツでも若者が兵役の代わりに、福祉の分野で奉仕する制度がある。日本人は、恐ろしい顔をして歯をむき出したような国家という魔物がいて、それが悪いと考えているように感じる。そんな擬人化はやめたほうがいい。
私にとって国家とは「同胞」のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない。(聞き手・三ツ木勝巳)――
先ず出だし部分のであるが、少々乱暴な纏め方となっている。行為としての内容・中身が「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」としても、つまり、やっていることはほぼ同じだとしても、さらにそれらが「先生や協会、地域の婦人など」の手によって組織化されている点に関して日本も外国も同じ経緯を辿っていたとしても、参加の仕方まで同じだとは限らない。「ボランティア」までが授業の一環とか、あるいは地域自治会や子ども会の役目の一環とかで義務づけられていることからの義務への〝従属〟としてある参加だということにしたとしても、それぞれが個人的立場に立った個人的自発性からの参加なのか、集団に縛られた集団的自発性のものなのかで、「参加」の方法・内容まで「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とすることはできない。
違いがあるから、「入口は強制だっていい」という問題提起となったのだろう。「入口は強制だっていい」を正当化するために、「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とする言葉先に持ってくるゴマカシを働いている。結果的に「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とすることができるとすることで、「入口は強制だっていい」が正当性を持ち得るはずである。
主張の出だしで「違い」の無視を行うゴマカシを働いているとなると、全体の主張自体に合理性を備えているとはとても考えられない。
実際にはボランティア=奉仕活動ではない。それぞれの国の言葉にはそれぞれの国の文化・精神を宿らせている。行為は言葉の持つ文化・精神を反映してその姿を現し、言葉は行為によって、その意味を確定していく相互補強関係にある。
「volunteer」(ボランティア)なる英語の意味を見ると、名詞では「志願者」、「志願兵」、「義勇兵」、動詞としては「自発的に申し出る(提供する, 買って出る)」、「進んで事に当たる」、「進んで従事する」となっていて、その言葉は〝自発性〟を基本的な文化・精神とし、そのような内容の行為であることによって、言葉に正当性を与えることができ、言葉と行為は相互に裏切らない一致した姿を取る。また「volunteer」は人間の行為を超えて、「〈植物が〉自生の」という営みを形容する言葉にまでなっている。
対する「奉仕」なる言葉の意味を調べてみると、「報酬を度外視して国家・社会・人のために尽くすこと」(『大辞林』三省堂)、「国家・社会・目上の者などに利害を考えずに尽くすこと」(『角川類語新辞典』)などとなっている。かなり古い版だが、公平を期すために『広辞苑』(岩波書店)の解説を参考までに付すと、「献身的に国家・社会のためにつくすこと」とほぼ同じことを言っている。
これらの意味から「奉仕」なる言葉に刷り込まれている歴史や伝統を背景とした文化・精神を探ると、主として下位権威者から上位権威者に向けた行為であり、「報酬を度外視して」、あるいは「利害を考えずに」をキーワードとした場合、「volunteer」はそのことには一切触れることなく〝自発性〟のみを問題としているのに対して、「奉仕」は人間の当然な姿・本能としてある自己利害性をことさら禁止事項としている。あるいはタブーと定めている。
わざわざ禁止事項とし、タブーと規定しなければならない文化・精神とは、どのようなものなのだろうか。「奉仕」がもしも真に自発性を文化・精神としていたなら、それが下位権威者から上位権威者に向けた行為であったとしても、「報酬を度外視して」とか「利害を考えずに」といった制限事項を設ける必要はないだろう。自発的であることによって、出発点から「報酬」も「利害」も除外価値とするからだ。逆に上位権威者から下位権威者に求めた行為であることを伝統とし、文化としていたからこそ、「報酬を度外視」させ、「利害を考え」させなかった文化・精神を宿らせることになったと把えるべきだろう。
日本が戦争に負けてアメリカによって民主化されるまで、歴史的・伝統的に国家が国民を支配し、国民は国家に従属するものとされてきた。そのような支配と従属の上から下への力学(=上から下へ命令し、下が上に命令される力学)は〝奉仕〟なる文化・精神を形作る力学にも応用されないはずはない。「奉仕」が上(=国家)から下(=国民)に求めた文化・精神だったからこそ、「報酬を度外視して」とか「利害を考えずに」といった〝報酬の度外視〟や〝利害無視〟を要求事項として付け加えることになったとする推論に正当性を与えることになる。
国家にとって、これ程に都合がよいことはなく、だからこそ、「お国のために殉じる」も可能となったのであり、「天皇陛下のために尊い命を捧げる」も可能となった〝奉仕〟だったのである。国家権力の側から言えば、国民の命を虫けらの如くに扱えたのである。
そして今以て〝奉仕〟は上から下へ要求する形を取っている。国民主権としたらなら、国家が奉仕の主体者でなければならないはずだが、そうはならず、国家等の上位権威者が下に対して求める行為となっている歴史・伝統・文化を受け継いで、国家権力が「18歳」からといった規定を〝求める〟同じ形式をなぞることになっているのだろう。
同じ形式のなぞりだからこそ、再び上から下へ命令し、下が上に命令される文化・精神として〝奉仕〟は活用されるではないかと危惧されることになる。例え「入口は強制だっていい」としても、予期した自発性がそこに芽生えず、「強制」が上の命令・指示(=要求)に従属する歴史的・伝統的文化・精神のみを養う力学として推移した場合の危険性も考えなければならないからだ。
曽野綾子は「奉仕とは与えること」と定義づけて、その逆の例(=奉仕される行為=与えられる行為)として、「おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう」行為を挙げているが、「奉仕」が持つ方向性に無知な混同を犯している。
再度例として挙げるが、「お国のために殉じる」も「天皇陛下のために尊い命を捧げる」も「与える」を精神・文化とする「奉仕」であったが、下位権威者の上位権威者に向けた「与える」であって、そのような文化・精神から言うと、親という上位権威者が幼児という下位権威者に向けた「与える」は「奉仕」とすることはできず、当然、下位権威者たる幼児は奉仕される者として位置しているわけでもなく、「おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう」行為にしても、「奉仕」として「与え」られているわけではない。幼児・子どもが自分自身ではできない行為に対する代理として行う親の義務行為・責任行為としてあるものであろう。それを見当違いにも「奉仕」と同じ次元の主張展開となっている。
こういった行為を母親、あるいは父親が「与える」行為=「奉仕」だとしたなら、為すべき付随行為(親の義務行為・責任行為)から離れて、特別行為と言うことになる。だから日本人は「私はボランティアをしています」とか「ボランティアでやってるんです」とか、ボランティアでありながら、曽野綾子と同じく「与える」奉仕と見立てて特別行為・誇る行為でもあるが如くにやたらと強調したり、吹聴したりするのだろうか。
また「おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう」が「与えられる」行為であり、「人間は与えることができて初めて大人になれる」としたら、子どもに対して「おむつを換え」たり、「ミルクを飲ませ」たり、「ランドセル」を「買って」やる立場にある親はすべて「大人になれ」た「人間」ということになり、そういった人間になるには何も「奉仕活動」は必要事項ではなくなる。結婚して子供を産み、しつけと称して食べ物・飲み物を与えない限り、すべての親が「大人」の勲章を手に入れることができることになるからだ。その上国会議員などにワイロを「与える」ことができるようになれば、最高の「大人」ということになる。
以上見てきたように、「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」としてはならない。「奉仕」が上位権威者から下位権威者に向けて要求する方向性の精神・文化であることを一切除外したとき、そして「報酬を度外視して」とか「利害を考えずに」といった損得の価値観に一切考慮を払わなくなったとき、「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とすることができるようになるだろう。
しかし「奉仕」が「愛国心」と抱き合わせで考慮され、設定される限り、あるいは「愛国心」と共に国民が注意を払うべき重要な価値行為として制度化しようとしている政治家によって(その筆頭者は安倍晋三なのは言うまでもない)問題提起されている限り、上位権威者から下位権威者に向けて要求する方向性の精神・文化であることを維持し、当然の因果性として〝報酬の度外視〟や〝利害無視〟にしても上の下に対する要求事項となり続けることになる。
曽野はさらに続けて言っている。「子どもたちに自発的な奉仕活動を求めるのは難しい。体験を場を用意するのは大人の任務だと思う。幼児期の教育と、新しく始めることの基礎を学ぶ時は『強制』の形を取ることが多い。あいさつすること、朝起きたら顔を洗うこと、6歳の4月から学校へ行くのも全部強制といえる」
「あいさつすること、朝起きたら顔を洗うこと」が例え命令形を取ったとしても、生活習慣の習得に向けた要求行為であって、一般的には「強制」行為の内に入れることはできない。「6歳の4月から学校へ行く」にしても、そうと決められている社会制度への参加であり、通過していかなければならない一段上の社会への一員化、大人への成長に向けた一歩であって、それを「強制」としたなら、義務教育の年齢にある小・中学校の間は、生徒は「強制」を受けた通学、あるいは教育ということになるし、不登校生は「強制」から外れた者として、「強制」に従うべく力尽くで学校に戻さなければならなくなる。
「6歳の4月から学校へ行くのも全部強制」と把える感覚自体が、如何に強制性を内面性としているかを物語っている。
「松下政経塾では100キロ歩く訓練がある。歩けた自信が精神面や災害など物理的な困難に直面した時に生きる。それは魂と行動の自由を広げる」と言っているが、安易で見え透いた奇麗事に過ぎない。「100キロ歩く」ことができる安全地帯の環境と状況が用意された〝場〟での主として肉体的な苦痛に耐えて得た肉体的な「歩けた自信」が常に用意されたものではない「災害など物理的な困難に直面した」〝場〟で「精神面」にも反映されるとするのは短絡思考なくしては導き出せない結論であろう。「魂と行動の自由を広げる」のは確かな自発性と確かな自律性を獲得し、如何なる状況下、人間関係下でも何者にも従属しない境地――個の確立を果して初めて到達可能な精神性であって、そうは簡単には到達できない目標点であろう。論理的ゴマカシを行うことを以て「魂と行動の自由を広げる」営為だとするなら、曽野綾子は雲一つない大空の融通無碍にも匹敵する「魂と行動の自由」を獲得した稀有な人間と言うことができる。
曽野の「松下政経塾」云々が正しいとして、それをあらゆる競技のあらゆるアスリートに当てはめるとしたら、彼らは自己最高記録を出して以降、それを下回る記録を出すことは決してないとしなければならない。実際にはそのような保証はどこにもなく、一度優れた記録を獲得したしたとしても、走るたびに肉体的・精神的に新たな困難・試練に直面し、その困難・試練に常に打ち勝てるとは限らない。一度金メダルを獲ち取ったマラソンランナーが次のレースで途中棄権することも間々あることである。
曽野綾子の頭の中では実現実とは違って、「松下政経塾」出身の国会議員は「100キロ歩く訓練」が与えた「自信」が「魂と行動の自由を広げ」て、全員が全員とも優れた政治家との誉れを受けた姿を取っていることだろう。奉仕活動の義務化に賛成する国会議員はそういう姿にあるが、反対する国会議員はそうではないとする差別化は勿論のこと許されない。
「国家による奉仕の強制というと、すぐ徴用とか徴兵に結びつけて語られるが、それは古い硬直した考え方。軍事や徴兵とはまったく関係がない。ドイツでも若者が兵役の代わりに、福祉の分野で奉仕する制度がある。日本人は、恐ろしい顔をして歯をむき出したような国家という魔物がいて、それが悪いと考えているように感じる。そんな擬人化はやめたほうがいい。
私にとって国家とは『同胞』のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない」
「奉仕」が上位権威者から下位権威者に向けた強制の、強制でなくとも、少なくとも義務の意味合いを持たせた方向性を持つ間は、「徴用とか徴兵に結びつけて語」ったとしても、「古い硬直した考え方」と貶めるわけにはいかない。
「ドイツでも若者が兵役の代わりに、福祉の分野で奉仕する制度がある」は良心的兵役拒否者に対する期限付き(13ヶ月だということだが)代償的義務制度であって、兵役拒否を動機としている点、一般的な日本の「奉仕」とも外国の「ボランティア」とも厳密に一致させることはできない。同じ線上で論ずるのは狡猾なゴマカシに当たる。元々国家の側に立って、如何に国民を国家に寄与させる存在とするかに意を用いているから、タウンミーティングのヤラセと同様、否応もなしに狡猾なゴマカシに走ってしまうのだろう。
「強制で奉仕を体験して、いやになる場合も少なくないだろう。多くの子どもは最初は水がきらいだ。でも、無理に水に入れられて泳げるようになることがあるように、奉仕活動を『案外面白い』と思えば、人に与えることの素晴しさを知り、一生続けるかもしれない。美意識として奉仕を選ぶかどうかだと思う」と述べている箇所にしても、「強制で奉仕を体験して、いやになる場合」の人間のことは過小に扱う放置・無視を行い、それに反した「素晴しさを知り、一生続けるかもしれない」可能性を根拠とした過大な価値づけはご都合主義以外の何ものでもないゴマカシであろう。
「私にとって国家とは『同胞』のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない」という言葉がそのことを証明している。
「国家」がすべての国民にとって常に「同胞」・「隣人」であるとは限らない。低所得者切り捨て・大企業優先の政策を一つとっても、低所得者から見た場合、「国家」を「同胞」・「隣人」と見なすことはできないだろう。「国家」を「『同胞』のこと、隣人のこと」とすることができるのは、既に指摘したように曽野綾子がまさに国家権力の側に立っている人間であるからに他ならない。国家権力の側に立っている人間として、国民すべてを「同胞」・「隣人」と囲い込むことが国家にとって利益となるから、「私にとって国家とは『同胞』のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない」と躊躇いもなく言える。