安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(5)

2007-05-12 02:08:02 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S18/2月1日(火)朝11時、大本営発表。レンネル島沖海戦の大戦果、発表せらる。仍て、武官府へ清酒一瓶を被下(くださる)。

 〈注〉レンネル島沖海戦とは、1月29日にガダルカナル島南方で、米水上部隊を陸上攻撃機32機をもって電撃した戦いである。殆ど戦果なしであったのを「大本営発表」は例によって誇大に報じた。それよりもこの日、4日、7日と3回にわたって実行されたガ島撤退作戦の成功の幸運さを記しておくべきだろう。悲惨な餓死の運命から免れ、救出された将兵は1万652名。大本営発表は「転進」の名のもとに、2月9日、退却の事実を公表した。

 S18/3月27日(火)皇族各妃殿下が、皇后陛下の内旨を奉じて、戦力増強に関する婦人等の活動状況を視察する為、地方に御旅行遊ばさるることとなれり。その際、聖上より、学生の勤労奉仕は、度が過ぎて本分たる勉強をおろそかにする様な事例もあるようだから、視察箇所に入れるのはどうかと仰せあり。実施上は十分、思召を体して計画すべきことを申し上ぐ。
     
 ――「度が過ぎて本分たる勉強をおろそかにする様な事例」があったとしても、天皇の名のもとの全体主義に縛られて断れない環境にあるのだから、視察してどうにかなるものではない。そのことに気づかなかったらしい。

 S18/5月31日(月)吹上御還御。武官長、内大臣御召。海軍人事、杉山参謀総長、陸軍御允裁第10回御前会議。

 【還御】「かんぎょ・天皇皇后が行幸から還ること」
 【允裁】「いんさい・聞き届けること」(『大辞林』)

 〈注〉この日の御前会議で「大東亜政略指導大綱」が決定した。その第6項に誠に解しかねる文言がある。
「マレー・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベス(ニューギニア)は、大日本帝国の領土とし、重要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる。(略)これら地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない」 
 アジア解放の大理想の裏側で、手前勝手な、夜郎自大のことを考えていた。
     
 ――驚くに当たらない。日韓併合、進出という名の中国侵略、満州国建国が既に自国領土化・植民地化を物語っていたのだから。アジア解放が事実なら、中国・韓国・満州国も同じ解放の線上に乗せて然るべきだが、日本は既に二重基準、三重基準のマヤカシの真っ只中に自らを置いていた。

 また、〝国の解放〟は人間の解放を伴って、初めて解放の体裁をなす。逆説するなら、人間の解放を伴わない国の解放は真の解放とは言えない。従軍慰安婦や強制連行労働で人間の解放とは真逆の人間束縛をやらかしていて、あるいは自国民を全体主義の束縛に絡めておいて、「解放」云々は口にする資格もなく口にした言葉に過ぎない。
   
 S18/11月8日(月)大東亜会議出席中。フィリッピン代表ラウレル、ビルマ代表バモ両名、風邪気味なることを聞(きこし)召し及ばれ、「尋ねてやるやう」仰せあり。仍て宮内大臣に思召伝ふ。

 〈注〉11月5日、大東亜会議が開かれた。中国は汪精衛、満州国は張景恵、フィリッピンはラウレル、ビルマはバーモと各国の首脳が来日。自由インドの仮政府のチャンドラー・ボースも臨席した。東条は彼等を前に獅子吼する。
「米英のいう世界平和の保障とは、アジアにおける植民地搾取の永続化による利己的秩序の維持にほかならない」
 すでに軍事的に苦境に立っていた日本は、アジアの盟主としての度量を見せようと盛んにPRしていたが、各国首脳はしらけた顔を見せていたという。

 S18/11月17日(月)后4・30 大本営より第五ブ-ゲンビル島沖航空戦の大戦果発表せらる。部官府へ清酒を被下。
 S18/11月23日(月)后3・00 大本営発表。敵米軍ギルバート諸島中の二島に上陸す。但し、我方は敵空母の轟沈、その他多大なる戦果を挙ぐ。

 〈注〉マッカーサー大将総指揮の米陸軍がソロモン諸島づたいに北上をつづけている。その方面に目を奪われているとき、ニミッツ大将指揮の米海軍は完全整備が終って、新建造の高速空母軍を主力に大機動部隊を編成し、中部太平洋の島づたいに日本本土へ攻めのぼるという遠大な作戦計画を打ち立てた。その第一歩がギルバート諸島のタワラ、マキン両島への上陸(11月25日)であった。強力な空母艦載機が制空権を奪い。つづいて戦艦・重巡洋艦群の艦砲射撃、そして海兵隊の上陸という島嶼作戦の公式はこのときに始まる。
 小倉日記にみる戦果は虚報であり、マキン島は24日、タラワ島は25日にそれぞれ守備隊は「バンザイ突撃」で玉砕する。

 ――天皇は戦後、すべてを学んだはずである。自分が置かれていた状況。どのような畳の上に座らされていたか。それが大日本帝国憲法が描き、保障したのとは異なる畳の上だったことを。
 
 S19/2月5日(土)マーシャル諸島に敵軍上陸の大本営発表あり。

 〈注〉米機動部隊の援護のもと海兵隊の上陸作戦の目標は、マーシャル諸島へ向けられた。この日の朝日新聞は報じた。
「元寇以来六百有余年、外敵を領土に迎えたことのなかった不滅神州の一角に敵兵を上陸させた」

 S19/5月2日(火)(皇族の消息・全略)

 〈注〉東久邇宮が5月3日に語ったという興味深い談話が細川護貞の『細川日記』にある。
「御上も東条が人心を失ひ居ることは承知なるも、久邇宮殿下に対せられても、今東条を替えることは対外影響がどうだらう、と仰せあるたり」
 皇族方の話題がどんなものであったかが察せられる

 S19/5月7日(日)海軍大将古賀峯一、今般作戦指導中、殉職せる旨の発、(以下略)

 <注>パラオに来襲の米機動隊を避け、飛行艇でダバオに向かう途中、古賀連合艦隊司令官の乗機が激しい雷雨のために墜落し、長官は行方不明となった。3月31日のことであるまた二番機に乗っていた福留繁参謀長らはセブ島沖に不時着し、米軍協力者の捕虜となり、今後の作戦計画書などが米軍の手に渡っていた。すべて国民に秘されていたが、これを「海軍乙事件」という。

 ――パラオに古賀連合艦隊司令官とその直接の部下のみが駐留していたわけではなく、艦隊と共に駐留していたはずである。それを「来襲の米機動隊を避け、飛行艇でダバオに向かう」は、「諸君はすでに神である。私も必ず後を追う」と特攻隊の出撃を見送った後、部隊を置き去りにして一人撤退した富永恭次陸軍中将の類なのか。美しい国の美しい軍人たち。

 S19/6月6日(火)陸軍上聞(7・15-7・20、中村、米英軍フランス上陸、上聞す)。

 〈注〉連合軍がドーバー海峡を渡って、フランスのノルマンディへと敵前上陸に成功した日である。Dディといわれた。あいにくの悪天候に中止すべしという声も高かったが、連合軍総司令官アイゼンハワーは、それらの意見を聞いた上で決断した。
「よろしい、出かけよう(オーケィ レッツ・ゴー)」
 これが第2次大戦の名言の一つになった。

 S19/6月18日(日)12・30に警報解除せられたるは、生産力に影響及ぼさしめざる為の由。后9・00の発令は太平洋に向かってのものなり。

 〈注〉米軍のマリアナ諸島サイパン上陸作戦は6月15日に開始された。この日、作戦部長真田穣一郎少将の「日記」に、東条参謀総長への天皇の激励の言葉が残されている。
「第一線の将兵も善戦しているのだが兵力が敵兵に比して足らぬのではないか?万一サイパンを失う様なことになれば東京空襲も屡々あることになるから、是非とも確保しなければならない」
 東条は常に「一兵たりとも上陸させません。サイパンは難攻不落、鉄壁であります」と天皇にも豪語していた。しかしそれが単なる強がりであったことは、もうこの日に明かになりつつあった。
 また、この翌19日にはマリアナ海戦が生起し、連合艦隊は持てる全力を投入したが完敗する。1年がかりで練成した機動部隊の攻撃機の損耗実に395機、空母3隻を喪失、そして戦果はゼロに等しかった。

 ――東条の姿こそ、日本の一般的な幹部軍人の正真正銘の正体なのだろう。それを安倍晋三は受け継いでいる。従軍慰安婦問題、靖国参拝問題、誤魔化すことに関しては東条英機と優るとも劣らずではないのか。

 S19/6月25日(日)高松宮より、聖上に御親書あり。御直御答へ致され難き御由にて、内大臣を召させらる。高松宮、明日10時御参遊ばさるることとなる。

 〈注〉この日、サイパン島防衛がほぼ絶望の戦況下、元帥会議(天皇臨席)がひらかれた。しかし起死回生の妙案などあるべくもなかった。最後に元帥伏見宮がいったという。
「戦局がこのように困難となった以上、対策として、何とかして特殊な兵器を考案して、迅速に使用せねばならない」
 すなわちこの発言から、肉弾攻撃を兵器として採用することを公式に承認されたかのように、統帥部には受けとられたという。天皇はそれを肯定も否定もしなかったが。
     
 ――「肯定も否定もしなかった」ということは、「承認」していたということに他ならない。

 S19/7月18日(火)本日全11時40分、東条首相拝謁。闕下に辞表(閣僚の分とも)奉呈す。(以下略)

 〈注〉7月7日、守備隊3万人、民間人1万人が玉砕して、サイパン島は陥落した。このとき、この戦争における日本の勝利は絶無となる。東条首相の独裁政治に対する国民や上層部の不信・批判は最高に達した。この機に岡田啓介、米内光政ら重臣は、木戸内大臣ら宮廷グループと図って、東条内閣を打倒したのである。東条は内閣改造で危機を乗り越えようとしたが時すでに遅し。内閣総辞職の報に「敵は遂に倒れた」の声がいたるところからあがった。
     
 ――コップの中の空騒ぎ。後継首班指名に東条を推薦した木戸が宮廷グループでは東条打倒の先鋒となる。打倒の功によって推薦の責任はぼかされる。責任逃れには格好の役割である。結果的に東条内閣を成立させ、独裁政治に走らせた責任は誰も取らない。日本的といったところか。

 (「木戸内大臣の狙いは、忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策であったという。天皇も、木戸の意図を聞いて、それを採用し、『虎穴に入らずんば虎児を得ずだね』と感想をもらした」)

 S19/7月20日(火)小磯朝鮮総督、本日午后3時過、羽田着飛行機にて帰京。直に参内。木戸内府と要談。次いで内大臣拝謁。後継内閣に付、御下問に奉答。侍従長御召、米内海軍大将も併せて召さるべき旨、御沙汰あり。偶々宮中も重臣会合中より米内大将に御召を伝え、小磯、米内並びて御前に参進。左の勅語あらせられたり。
「卿等協力して内閣を組織すべし。大東亜戦争の目的完遂に努め、勿論、憲法の条章に尊び、尚ソヴィエトは刺激せざるようすべし」
 小磯大将より左の要旨にて奉答す。
「戦時下組閣の大命を拝し、誠に恐懼に堪えず。戦時下の政治は統帥を離れてあり得べからざるを以て、よく統帥首脳部と協議を遂げ、大命を奉行致し度し。暫くの御猶予を御許し願ひ上ぐ」

 〈注〉7月21日、米軍はグアム島に上陸、つづいて24日にテニアン島にも上陸した。小磯・米内内閣の前途多難なることは目に見えている。少し後の最高戦争指導会議で、軍令部次長が「もとより必勝を期しております。骨を切らして骨を切る覚悟で決戦いたします」といった。小磯は静かに反問した。「骨を切らしてしまっては相手を斬れなくなるのではないか」と。一同寂として声なし。ちなみにグアム島は8月10日、テニアン島は3日に玉砕した。字義どおり骨を切られてしまったのである。
    
 ――「骨を切らして骨を切る覚悟」。なぜこうも日本人は精神論が好きなのだろう。具体性が要求される合理的精神の欠如を埋め合わせる代償として与えられた民族の特性なのだろうか。

 これ以上の被害を広げないためにはハル・ノートの受入れをこそ、自らの「骨を切る覚悟」としなければならなかったはずだが。

 S19/10月16日(月)台湾東方海上敵艦撃滅に付、大戦果続々発表せらる。
 明日の神嘗祭、御告文に今回の戦果のことを申さずして可なりやとの御下問あり。宮内大臣に相談せし所、すでに伊勢には出発せしめ、且つ全戦局に付ては、御極めの通りの御告文にて結構と考ふる旨答へあり。仍て之を申上ぐ。御納得遊ばさる。

 〈注〉台湾東方海面で、通称「台湾沖海戦」の大戦果もまた虚報によるものである。12日に来襲してきた米機動部隊を迎撃し、15日まで、航空撃滅戦での戦果の合計は、空母10隻撃沈、撃破炎上した空母3隻、ほかに戦艦1、巡洋艦1、艦種不詳11隻を撃破。朝日新聞は「挙国追撃戦に移れ」と大いに太鼓を叩いた。しかし、実は洋上にいた米空母13隻はすべて健在であり、天皇の喜びは空しかったのである。
   
 ――無計画なまま大口を叩いた手前、失敗を成功へと捏造せざるを得ない。「艦種不詳」まで持ち出すとはなかなか手が込んだ捏造である。警察が裏ガネを捜査協力費から捻出するためにその住所に存在しない捜査協力者名をデッチ上げるに等しい巧妙なテクニックを披露している。適当に記入した住所がたまたま墓地だったりして、二重の不可能を露見するまで可能とするトリックをつくり出しさえする。

 S19/10月26日(月)靖国神社行幸。
比島東方海面、及レイテ湾、大戦果発表せらる。

 〈注〉10月23日から26日まで、比島レイテ島への米軍上陸を迎えた、連合艦隊は残存の総力戦をあげて戦った。世界史上最大の艦隊決戦で、レイテ沖海戦と称する。結果としては日本海軍は壊滅的打撃を受けたが、当時は軍艦マーチ入りの大戦果が報じられたのである。なお、このとき、神風特別攻撃隊が初めて志願によって編成され、一人一艦の「十死零生」特別攻撃が敢行された。
     
 ――超合理精神なくして敢行できなかった精神主義一辺倒からの愚挙なのだろう。その精神主義をも安倍晋三は受け継いでいる。「美しい国」だの「凛とした」だの「武士道だ」など。

 S19/11月1日(水)B29 1機,帝都周辺地区周廻す。爆弾等投下せず、高度1万、
或は以上か。

 〈注〉サイパン基地を発進したB29が東京上空に初めて姿を見せた日である。朝日新聞記者中村正吾は日記に書いている。「全閣僚ひとまず総理官邸の防空壕に退避した。防空壕に全閣僚しばし缶づめとなっている間、壕内の電話は一向に利かない。口頭で入ってくる情報は大部分が虚報である。政治中枢部、文字通り全神経を集中せねばならない総理官邸の実情がこんなことではと、本格的空襲時が思いやられる」
     
 ――日本の防衛体制の堅固さの象徴として、総理官邸の貧弱な情報状況があったのだろう。その無力・無援の孤立性は既に敗戦の廃墟を象徴していたということか。

 S19/12月3日(日)帝都近郊に70機内外来襲、投弾す。被害状況、后6。00。当直侍従より奏上す。

 〈注〉作戦部長真田穣一郎少将の『日記』12月4日に天皇の感想がある。
「こちらの損害は大してなくて相当の戦果を収めて。このくらいあれば頼もしいね」
 この期に及んで軍部はごまかしの情報を上聞していたのであろうか。
     
 ――一度誤魔化せば、それを取繕う新たな誤魔化しが必要となって、次第次第に大きくなっていく誤魔化しの無限連鎖に陥り、そこから抜け出せなくなる。借金と同じ。そして誤魔化されていたと後で知った人間はバカでない限り、誤魔化された自分の愚かさまで責めなければならないることになる。

 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」・「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」・「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」――そのような天皇が誤魔化され、騙されていたという天皇の地位・権力に反する美しい倒錯はどのような逆説によってもたらされたのだろうか。

 戦前の天皇にそのような倒錯をプレゼントし続けたのは戦前の時代を共にした当時の軍部や政治家なのは言うまでもない。

 S20/2月7日(水)内大臣府の計ひにて、重臣が各個に天機奉伺の機会に拝謁を御願比することとし、本日、平沼男〔爵〕、第一回ありたり。現官にある者を除き、首相を為したるもの及び牧野伸顕伯〔爵〕、特に今回加はれり。

 【天機】「天皇の機嫌」(『大辞林』)

 〈注〉2月につぎつぎに行われた重臣たちの拝謁は、天皇が強く要望し木戸内大臣がしぶしぶ賛成したものであった。侍立するは木戸ではなく、藤田侍従長である。参内の目的は、天皇が戦局の見通しとその対策を質す、という建前になっていたが、各重臣たちには、戦争終結をどう考えるか、終戦のよい方策ありや、それを中心に話すようにあらかじめ示唆されていた。結果として、だれにも戦争終結の具体案などあるはずもなかった。たとえば平沼の場合は、「さながら漢書の講義を聞く思いであった」と藤田は回想録に書いている。

 【侍立】「貴人の傍に付き添って立つこと」(『大辞林』)

 ――「戦争終結の具体案」がないからと、「具体案」に代えて抽象論を展開するのも誤魔化し・騙しのうちに入る。有能な人間でなければできない芸当なのだろう。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(6) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に続く。

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安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(4)

2007-05-11 02:07:39 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S16/12月8日(月)(前略)今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む。前12・00(正午)防空下令、夕刻警戒官制施かる。 

 S16/12月25日香港、本夕降伏を申出で、7・30停戦を命ぜらる。陸軍9・40上聞す。
 常侍官出御の際、平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむなど、仰せありたり。

 〈注〉おどろきの発言である。
 天皇は南洋の島々を平和回復後に「日本の領土となる」といっている。此時点では勝利を確信していたのか。
    
 ――まだアメリカと本格的な戦闘状態に入っていない、石油禁輸・屑鉄禁輸・在米資産凍結がどう響くかわからない状況下で、緒戦の「大戦果を収む」だけでその気になったのか。だとしたら、天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 杉山「南洋方面だけで3ヵ月はくらいで片づけるつもりであります」を信ずるに至ったのか。
 
 S17/1月9日(金)(前略)本日午后4・00、首相拝謁の願出あれば、その機会に申上げをし然るべき旨伝ふ。首相拝謁の際、申上げたるものと察す。〈後略〉

 (注)この日の東条拝謁時の、天皇の面白い発言が『東条内閣総理大臣機密記録』に残されている。
「米英等に於て作曲されたる名曲〈例えば蛍の光の如し〉をも、今後葬り去らんとするが如き新聞記事ありし処、如何処理しつつありや」
 東条あわてて「そんな小乗的なことはしません」と答えたという。
    
 ――1年後には「そんな小乗的なこと」をした。

 「1943(昭和18)年1月13日には、内務省と情報局が『ダイアナ』や『私の青空』『オールド・ブラックジョー』『ブルー・ハワイ』など米英音楽1,000曲を敵性音楽としてリストアップし、演奏を禁止した。中でもジャズは「卑俗低調で、退廃的、扇情的、喧騒的」として徹底的に排斥された。代わって巷には、「加藤隼戦闘機」(空中戦の軍神といわれた加藤建夫少将を称えた歌)「お使いは自転車に乗って」の流行歌が流れた。」(HP「非国民」

 S17/2月15日(日)〈前略〉午后7・50、シンガポールにて敵軍無条件降伏す。5・50の参謀総長は同上の件上奏。ラヂオは10・10分、大本営発表を放送す。

 〈注〉紀元節までに攻略する。それが作戦発動当初の予定であった。やや遅れてこの日に英軍降伏となったが、実は日本軍の弾薬は底をつきかけていた。ゆえに軍司令官山下奉文中将は戦闘継続を恐れていた。巷間伝わる敵将パーシバルに「イエスか、ノーか」と居丈高に迫ったという話は故意に、つまり戦意高揚のために作られたもの。山下自身はのちのちまでその話は嫌悪していたのである。

 ――【紀元節】「1872年(明治5)、日本書記伝承による神武天皇即位の日を紀元の始まりとして制定した祝日。第2次大戦後廃止されたが、1966年(昭和41)「建国記念日の日」として復活した」(『大辞林』)

 歴史の長さだとか民族だとかを権威とする国家主義が戦後も生きていいる証拠。

 S17/2月17日(火)シンガポール島を昭南島と改称せらる。

 〈注〉『木戸幸一日記』に、木戸がシンガポール陥落のお祝いを述べたときの、天皇のすこぶる元気な発言がある。
「次々赫々たる戦果の上がるについても、木戸には度々云ふ様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」 
    
 ――天皇がもし君子だとしたらの話だが、君子豹変す、といったところか。S15/10月12日の日記には、「支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり」の天皇の言葉があり、S16/1月9日(水)には「結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」と同様の言葉を述べている。

 軍部が「1ヶ月くらいにて片づく」とした支那事変が「4ヵ年の長きにわたってもまだ片づか」ない見通しの悪さで「支那を見くび」り、すべてに於いて日本よりも国力が遥かに優っているアメリカを「見くび」らなかったと早断定したというのか。

 S17/3月9日(月)ジャバ島全軍無条件降伏、10・30発表せらる。戦果益々挙る。目出度き極みなり。御満悦さこそと拝察される。

 〈注〉3月7日ジャワのバントンのオランダ軍降伏、8日ビルマのラングーン占領。ニューギニアにも上陸と、日本軍の快進撃は続いた。天皇は木戸を読んで、戦況を隠すことなく伝えて喜びの言葉を発した。
「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」

 S17/4月18日(土)帝都各所に初めて爆弾、焼夷爆投下せらる。〈後略〉

 〈注〉後の侍従長、藤田尚徳の「侍従長の回想」に、この日のドゥリットル・B25爆撃機16機による、日本本土空襲に際しての宮中の狼狽ぶりが実写されている。
 侍従「陛下、空襲です。お退りください」
 天皇「そんなはずはないだろう。先ほど海軍大臣〔嶋田繁太郎〕がやってきて、空襲に来ても夕方だろうといっていた」
 侍従「いや、いま東京を空襲しているのでございます。おやはく・・・」
 侍従が誰かは不明。小倉侍従ではないようであるが。
    
――S16/12月8日の「今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む」から4ヵ月余経過したのみで初めての空からの侵入を安々と許して空爆させる。しかも目視可能な昼間に正々堂々の爆撃を受ける。長期戦化し、防御体制が次第に崩されてからの侵入を許すというなら話はわかるが、初めての飛来であるにも関わらず侵入を許す見事な防空体制。天皇の「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」が早くも怪しくなってきたか。

 S17/4月27日(月)一昨日の靖国神社御参拝の新聞写真は、今回の分あらざる模様に付、取調べたる所、昨年4月分にて、今回の御分が不出来に付、昨年分の掲載を宮内省にて許可したる由。天知る、地知る、何処かよりは現はるるものにして、便宜主義は不可なるべし。一億国民をあざむくものにして、御上に申訳なきことと愚考せらる。
    
 ――写真の付け替えぐらいの捏造、世論操作の「便宜主義」の類、戦後日本の歴史・伝統・文化として教育タウンミーティングでまだ続いていたのだから驚くには当たらないのだが、小倉侍従に於いてはその時点でまだ気づかぬことゆえ、仕方のないことか。

 S17/5月7日(木)コレヒドール島陥落。陸海軍に勅語を賜ふ。
 S17/5月8日(金)本夕、軍令部総長参上後、珊瑚礁海戦の大戦果発表せらる。

 〈注〉7日、8日と2日間にわたった珊瑚礁海戦では、米世紀空母1隻撃沈、1隻中破の戦果を挙げた。損害は軽空母1隻喪失、正規空母1隻中破であったが、日本軍は追撃を中止し、ポートモレスビー攻略の目的は達せられなかった。報告に参内した軍令部総長に天皇は言った。
「戦果は大いによかった。弱った敵を全滅することに手抜かりはないだろうね」
 永野は仕方なく追撃を中止したことを奏上する。そのときの天皇の言葉はきびしい。
「かかる場合には敵を全滅せざるべからず。〈作戦指揮をした〉第4艦隊長官は井上〈成美〉ならん。〈彼は〉事務に明るからんも戦のことは分りをらざる事なきや」(「嶋田繁太郎大将備忘録」)  
    
 ――とても「立憲国の天皇は憲法に制約される」として、発言しないことを心がけている人間には思えない。尤も国家元首、統帥権者としては当然な姿である。〝追撃中止〟は余力がなかったからだろう。あれば、バカでも追撃する。 

 S17/6月7日(日)昨日辺りより、御気色、少しく御不良に拝す。海軍の戦果に付てにはあらざるかと推せらる。

 〈注〉この日はミッドウェイ海戦敗北の日である。世界最強を誇っていた機動部隊の主力である空母4隻を喪失した。小倉日記にはその記載はなく、不機嫌な天皇の姿のみ見える。『木戸日記』には6月8日「今回の損害は誠に残念であるが。軍令部総長には之により指揮の沮喪を来さざる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じて置いた」との天皇発言が記されている。 
 私が調べたところでは、軍令部は損害は空母2隻と天皇に嘘の報告をしていることが分かった。軍は国民を欺すと共に、大元帥陛下をも欺していたのである。
    
 ――開戦から半年で戦果を捏造しなければならない。1ヶ月の見通しの支那事変が4年経過してなお進行形なのも、誤魔化しの上に誤魔化しを積み重ねてきた結果ではないか。但し、元々誤魔化しの政治体制、誤魔化しの立憲君主制だったのである。「日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」と背伸びだけは一生懸命に背伸びをして、大日本帝国なる名称を詐称していた。

 S17/6月9日(火) 御製御下げになり。北方海戦に航母4隻撃破せられたる御趣旨の、有難き御製を遊ばされたるも、極秘事項に属するを以て、御歌所へも勿論下げず、御手許に御とめ置き戴くこととせり。
 
 〈注〉ミッドウェイ海戦の戦果は始め天皇にも敵空母4隻撃破と報告されたことが窺える記述。天皇はそれを受けていったんは御製(和歌)を作ったようである。実際には1隻撃沈しただけ。このときの御製が書かれていないのが残念である。
    
 ――「次々赫々たる戦果の上がるについても、木戸には度々云ふ様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」が糠喜びだ気づいたのだろうか。 

 S17/8月8日(火)常侍官出御(8・15-8・35)。侍従長(11・30-11・40)。海軍上聞(11・50-11・54)。内閣(12・55)海軍上聞(1・00-1・05)。(後略)

 〈注〉伊藤正徳『帝国陸軍の最後』に、出典不明であるが、興味深い記述がある。この日、米軍がソロモン諸島ガダルカナル島上陸との報告を受けて、「陛下は愕然として起ちあがられた。それは米英の反攻開始ではないか。今日光なぞで避暑の日々を送っている時ではない。即刻帰京して、憂をわかち、策を聴かなければならぬ。帰還方用意せよ」
 米軍のガ島上陸を反攻開始と察知したのは、少なくとも史料に見るかぎりでは天皇だた一人である。
    
 ――「策を聴」いたとしても、口出しできなければ、却って欲求不満、イライラを増すことになるだけ。立憲君主が事実としたら、すべてが終わったときの結果を待ち、その報告を「意に満ちても満たなくても」受け入れるしかない。

 天皇を取り巻く実質的政治権力者には名目的存在。国民に対しては、尊い、神聖にして侵すべからざる現人神。インチキそのもののその二重性を戦後に学んだからこそ、A級戦犯合祀に拒絶反応を持つに至ったのではないのか。その二重性によって、A級戦犯となった者を筆頭にした彼らから誤魔化しの戦果を受ける誤魔化される存在であったことを学んだ――。
 
 S17/10月27日(火)南太平洋海戦、大戦果発表。

 〈注〉ガダルカナル島争奪をめぐって日米は全力を結集して戦った。陸軍の総攻撃の支援のために出動してきた日本の機動部隊と、これを迎え撃つための米機動部隊とが衝突、ミッドウェイ海戦以来の航空決戦が展開された。「高松宮日記」10月28日の項。
「昨日お上のお話にて、参謀総長、侍従武官長もあれだけの損害で攻撃挫折したるは弱い。日露戦争のときは旅順などではもつともつと大損害でも攻撃したのにと云つていたとのことなり。陸軍の話では、夜戦にて上級指揮官が多く倒れたので攻撃力がなくなつたとのことであった。
 陸も海も攻撃挫折の報告に、天皇は切歯扼腕している。
 
 S17/12月11日(金) 伊勢神宮御参拝の為め、京都へ行幸。本日は御参拝前なるを以て、拝謁その他、御行事は一切願わず。陸軍上聞(7・00尾形)常侍官候所出御(7・10-8・57)明朝朝御発に付、御格子を御早く願いたり。
 本夜、常侍官出御の節、左の如き思召、御洩らしありたり。
 (1)戦争は一旦始めれば、中々中途で押へえられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗めて居る。従って戦を始めるときは、余程慎重に考へなければならぬ。大山〔巌〕元帥は日露の役の際、自分の軍配の上げ方を見て呉れと言つたそうだが、卓見だと思う。今は大山が居ない。戦争はどこで止めるかが大事なことだ。
 (2)自分は支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである。且つ、自分が得て居る情報では、始めれば支那は容易なことではいかぬ。満州事変の時のようには行かぬ。外務省の情報でも、海軍の意見でもそうであつた。然し参謀本部や陸軍大臣杉山〔元〕の意見は、支那は鎧袖一蹴ですぐ参ると云ふことであった。これは見込み違いであった。陸軍が一致して強硬意見であつたので、もう何も云ふことはなかった。
 (3)閑院さん〔閑院宮載仁(ことひと)〕の参謀総長で今井〔清〕が次長であり、石原莞爾が作戦部長であつたが、石原はソヴィエト怖るるにたらずと云ふ意見であつたが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変わった。
 (4)大東亜戦争の初る前は心配であつた。近衛のときには、何も準備出来ていないのに戦争に持つて行きそうで心配した。東条になつてから、十分準備が出来た。然し、12月8前に輸送船団が敵に発見されたと云ふことで、駄目かと思つたが良かった。
 (5)支那事変で、上海で引つかかつた時は心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来ているのも、陸軍は知らなかった。引っかかったので、自分は兵力を増強することを云った戦争はやる迄は慎重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行わざるを得ぬと云ふことを確信した。満州事変に於て、戦は中々やめられぬことを知つた。(この点は度々繰り返し仰せらる。誠に国家将来の為、有難き御確信を得られたものと奉答す。)。
 (6)自分の花は欧州訪問の時だつたと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあったが、自由であり、花であつた。(と御述懐あり。今後に花のあるのものと考ふる旨、申上ぐ)。
 本夕かかる仰せありたるは、誠に御異例のことなり。確り他言すべからざることを、尾形武官、戸田侍従二人と誓ふ。

 〈注〉戦勢が傾き出した時の天皇の心のうちがまことによく出ている。この京都の夜の天皇と侍従たちのとの語らいについて、侍従武官『尾形健一大佐日記』にわずかにある。
「本夜は珍しく過去の歴史、満州事変後の政務、戦争等に関する御感想を御洩らしあり。戦争を始むるは易く終るは困難なり。御言葉の中に陸軍の戦争指導、戦争準備に関し重要相当機密の御感想を御漏らしあり」
 軍人だけあって、「此に詳細は記し得ず」と尾形大佐は筆を擱いた。今回その全容が初めて明らかになったわけである。それにしても、20年前の皇太子時代のヨーロッパ外遊が「自分の花であった」と振り返る姿は痛々しい。
    
 ――蚊帳の外での繰言。統帥権者としての自覚が全然ない。形式だと自分でも分かっていたからだろうか。

 S17/12月21日(火)御前会議臨席。(11・05-11・45)。侍医頭、出御を御止め申上げたるも御許しなし。仍(よっ)て御場所、東一の間を、御学問所の二の間に変更す。

 〈注〉この御前会議は「対支那処理根本方針」を決定したもの。その内容は、汪精衛自身から申し出のあった参戦の承認、そして対重慶和平工作の全面中止などである。日本はもう対中国戦争に関わって入られないほどの危機に直面していた。
    
 ――対米戦争を始める前から食料不足の問題を抱え、アメリカから石油全面禁輸・屑鉄全面禁輸の措置を受けて物資困窮状態にありながら、兵力を分散することは同時に戦争資材を分散することになるのだから、兵力・資材共に二重に自ら手薄に持っていったようなものではないだろうか。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(5) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(3)

2007-05-11 02:00:33 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S16/7月15日(火)近衛首相(4・15-5・23)⑤・43-7・12.ニュース映画御覧。

 <注>三国同盟に基づいて、直ちにソ連撃つべしを主張する松岡外相に手を焼き、近衛は総辞職を考えていた。その意向を表明すると、天皇ははっきりとこういったという。
「松岡だけをやめさせるわけにはいかぬか」
 近衛はびっくりしながら、慎重熟慮の上で善処しますが、ただいまのままでは内閣の存続はどうしても不可能でありますとの旨をやっとの思いで答えた。
    
 ――これも天皇の意志が国策決定の蚊帳の外に置かれていたことを物語る情景であろう。

 S16/7月16日(水)(前略)后9・08-9・10、近衛首相、闕下に全閣僚の辞表を奉呈す。后9・15-9・18木戸内大臣思召。内閣総辞職に付、時局収拾に付思召ありたるものと拝す。后9・20、侍従を思召あり。後継内閣首班者選定の為、内大臣に意見を徴せしむる為、現閣僚を除く、元総理大臣たりし者、及枢府議長を、宮中に召さるべき旨仰せありたり。后9・22-9・30、松平宮相御。明日還幸〔帰還〕の旨仰せあり。 
    
 ――前日に総辞職の意向を天皇に伝えて次の日に「全閣僚の辞表」を提出する。提出する1日前まで天皇に相談もしていなかった。ここにも天皇の形式的存在性が窺える。単に辞表を受け取り、後任閣僚が決まれば、発表する形式的機関に過ぎない。立憲君主というには余りにも〝君主〟の部分から遠い存在。しかしそれが天皇の実質的な存在性であった。
 
 S16/7月22日(火)杉山参謀総長(11・08-11・35)。内大臣思召(1・07-1・35)。

 〈注〉この日、杉山総長に細かく問いつめたことが『杉山メモ』に書かれている。結論の〈総長所見〉の部分のみを引用。「本日の御下問によれば徹頭徹尾武力を使用せぬことに満ち満ちて居られるものと拝察せられる。依って、今後機会を捉へて此の御心持を解く様に申し上げ度き考なり。南か北かそれは如何にやるか逐次決意を要する点等々を段々と御導き申しあげる必要ありと考ふ。本件は一切他言せざる様」
 これによっても、天皇が南進(南仏印進駐)にも北進(ソ連攻撃)にも意の進まなかったことがはっきりしている。しかし日本は、この6日後、南仏印への進駐を開始した。
   
 ――上記『杉山メモ』の〈総長所見〉が奇しくも天皇の置かれた存在性をものの見事に物語っている。「徹頭徹尾武力を使用せぬ」ようにとの天皇の意向を斟酌・検討するのではなく、自分たちの計画を絶対前提として、その計画に天皇の意向を馴染まさせていこうと画策する。

 いわば天皇はついていく存在となっている。但し「立憲国の天皇は憲法に制約される」を理由としているからではないのは明らかである。意に満たないことには口出しをしているのであって、それが有効な力を持ち得ない立場に立たされているに過ぎない。大人たちが子供の意見を先入観から取り上げないのを慣習としているのと似た構図を天皇を取り巻く人間たちが天皇に対して慣習としているかのようである。

 S16/7月29日(火)本日、日本軍、仏印に平和進駐す。

 〈注〉前日の28日に陸軍の大部隊がサイゴンに無血進駐をした。「好機を捕捉し対南方問題を解決する」という国策決定にもとづく軍事行動である。アメリカは、ただちに在米日本資産の凍結、さらに石油の全面禁輸という峻烈な経済制裁でこれに対応している。海軍軍務局長岡敬純少将は「しまった。そこまでやるとは思わなかった。石油をとめられては戦争あるのみだ」といった。

 ――「無血進駐」とは言うものの、「大部隊」(=武力)を背景とした「無血進駐」である。「武力を使用せぬ」ようにとの天皇の「御心持を解く」とした7月22日から1週間経過した7月29日の決行である。この時点では「御心持を解」く努力をしたかどうかはっきりしないが、次に挙げる8月5日の日記の〈注〉によって天皇の置かれている状況のすべて分かる。

 S16/8月5日(火)木戸内大臣御召(10・25-11・20)。稔彦(なるひこ)御対顔。(11・25-12・20)。

 <注>東久邇宮稔彦王との対面のさい、なかなかに際どいことが天皇の口から漏れでている。『東久邇宮日記』にある。
「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」 
   
――「仕方なく許可した」は「意に満ちても満たなくても裁可する」原則に反する意志決定であろう。と同時に「どうもほんとうのことを自分にいわない」が天皇の存在性のすべてを物語っている。天皇は自分が国策決定の蚊帳の外に置かれていることを自ら暴露したのである。

 大日本帝国憲法は天皇を日本国の中心に据えながら、その中心たる天皇への求心力は国民を補足して有効とはなっていたが、天皇の下にあって国家権力を動かす者たちには何ら求心力を与えていなかった。

 戦前の天皇制が憲法が描く政治的な天皇制とその政治性を剥いだ非政治的な天皇制と、二重の天皇制に象(かたど)られていたということだろう。政治的な天皇制は国民向けのもの、国民統治の方便としての役目を担い、非政治的な天皇制は実際に政治を動かしている者たちの政治性で彩ることで、天皇の政治とし、それで以て国民を動かす。

 そしてその二重性は律令の時代から日本の天皇制を覆って日本の歴史・伝統・文化としてある。

 S16/9月5日(金)(前略)近衛首相4・20-5・15奏上。明日の御前会議を奉請したる様なり。直に御聴許あらせられず。次で内大臣拝謁(5・20-5.27-5・30)内大臣を経、陸海両総長御召あり。首相、両総長、三者揃って拝謁上奏(6・05-6・50)。御聴許。次で6・55、内閣より書類上奏。御裁可を仰ぎたり。

 〈注〉あらためて書くも情けない事実がある。この日の天皇と陸海両総長との問答である。色々資料にある対話を、一問一答形式にしてみる。
 天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 杉山「南洋方面だけで3ヵ月はくらいで片づけるつもりであります」
 天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1ヶ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」
 杉山「支那は奥地が広いものですから」
 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」
 杉山総長はただ頭を垂れたままであったという。
   
 ――ここまで追及できても、国策に反映することができない「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とする、あるいは「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とする憲法の姿とは逆説状況の底に天皇は沈んでいる。

 天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制すべく利用したが、国民が天皇を無条件に信じ、無条件に従う対象とするに至って天皇を完璧に非政治的な場所に閉じ込めておくことはできなくなった。それで御伺いは立てたり、意見を述べさせたりはするが、政治的役目はそこまでを限度ととしている国策への非反映ではないだろうか。
 
 S16/9月6日(土)<翌日> 内大臣御召(9・40-9・55)。第6回御前会議(10・00-11・55 東一の間)。(後略)

 〈注〉この日の御前会議でよく知られているように、近衛内閣は筋書きどおりに「戦争辞せざる決意のもとに」対米交渉を行い。10月上旬になっても交渉妥結の目途がつかぬ場合には「ただちに対米(英蘭)開戦を決意す」等国策を決定した。天皇は憲法に則り、「無言」を守ることになっている。しかし、このときにかぎりポケットから紙をとりだして、天皇は歌一首を読み上げた。
「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
 明治天皇の御製である。そして、「なお外交工作に全幅の努力するように」と言った。が、その願いは空しくなる。
   
 ――〈注〉の「天皇は憲法に則り、『無言』を守ることになっている」が分からない。旧憲法のどこにもそんな規定はない。立憲君主だから口出しできぬということなのか。だったら、御前会議以外も国の政策には口出しできないはずで、立憲君主であるとする整合性を守るとするなら、上奏の場に於いても、説明を受けるのみとすべきである。御前会議では「『無言』を守」り、上奏の場では〝有言〟となるというのでは矛盾する。  

 S16/9月12日(金)米国より回答。ハル〔国務長官〕、近衛会談前、或程度、要項に付諒解をとげ事務的に進めんとした点、未だ完全なる了解に達せざる模様なり。(後略)

 〈注〉行き詰まった日米交渉を何とか打開するため、近衛はギリギリの賭けとしてルーズベルト大統領との直接会談を8月8日にアメリカ側に申し入れていた。しかし、9月3日に、トップ会談の前に予備会談があるべきであるとの返事が伝えられて、近衛の戦争回避のための必死の想いは空しくなった。
 それが9月の今頃になって宮中に伝えられるとは、奇妙としか考えられない。
   
 ――「9月の今頃になって宮中に伝えられ」たのは、伝える必要なしとしていたからだろう。実質的には国策決定の蚊帳の外に置いていたのだから。立憲君主でもなかったということである。

 S16/10月16日(木)(前略)近衛首相(5・25-5・32 閣僚辞表捧呈)。(後略)

 S16/10月17日(金)(前略)東条陸軍大臣御召。組閣大命降下(4・45-4・47、侍従長侍立)。及川海相御召(4・56-4・57)内大臣(5・04-5・33)。

 〈注〉東条大将に大命降下。『東久邇日記』にある。
「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首相に推薦し、天皇がなぜ御採用になったのか、その理由がわからない」と。
 木戸内大臣の狙いは、忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策であったという。天皇も、木戸の意図を聞いて、それを採用し、「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」と感想をもらした。
   
――逆に「陸軍の開戦論者」を勢いづかせる危険をも孕む諸刃の剣となりかねないことは考えなかったのだろうか。策士、策に溺れたのではないのか。

 それにしても「東条陸軍大臣御召。組閣大命降下」に(4・45-4・47)、とたった2分で済ませている。東条の政策を聞くこともなく、形式的な「組閣大命降下」で終わったのだろう。「及川海相御召」にしても(4・56-4・57)のたったの1分。

 S16/11月2日(日)東条総理、杉山陸軍、長野海軍両総長、同時拝謁(5・03-6・15 対米関係の重要国策に関してと察せられる)。

 <注>陸軍の『機密戦争日誌』にはこう記されている。
 「御上の御機嫌麗し、総長既に御上は決意遊ばされあるものと拝察し安堵す。東条総理涙を流しつつ上奏す」
 首相や両総長の説明に効あって、天皇も対米英戦の決意を固めたということだろうか。

 ――軍部にとって意味ある一歩前進であったに違いない。だが歴史的には日本の破滅への一歩前進であった。

 S16/11月5日(水)第7回御前会議(東一の間臨御、10・35-0・30、休憩、再開1・30-3・10)(後略)

 〈注〉この日の御前会議で、11月末までに日米交渉妥結せずとなった場合、大日本帝国は「自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争を決意」という「帝国国策遂行要領」を決定する。武力発動の時期は12月初頭と決められた。
 7月、9月そして11月と、3回の御前会議を経て、〝辞せず〟が〝準備〟になり、そして遂に〝決意〟まで、日本は駆け上がってきた。いや、転げ落ちたてきたというべきか。ぬきさしならぬ道を、ただひとすじに、である。

 S16/11月26日(水)東条陸相(1・30-2・45)。松平宮相(2・55-3・35)。東郷外相(4・37-5・10)。(後略)

 〈注〉米国務長官ハルが一通の文書を日本の野村吉三郎大使に手渡した。それは日本の最終提案乙案にたいする返事で、のちに「ハル・ノート」とよばれるものである。骨子は、
 ①中国と仏印からの日本軍の全面撤退。
 ②日独伊三国同盟の死文化。
 ③中国での蒋介石政権以外の政府または政権を支持しない。
 日本の指導層はこれを読んで声を失った。これでは日露戦争前に戻れといわれているにひとしい。日本の過去の全否定である。とりようによっては、〈最初の一発〉を射たせようとしているとも解釈できた。

 S16/11月29日(土) 重臣御陪食(1・05-2・00 豊明殿)。これより先、重臣は協議(日米問題)し、1時に至るも尚終了せず。一旦休止。御陪食を賜れり。御陪食後、御学問所二の間に出御。召されたる重臣と御談話あらせられる。(後略)

 <注>このときの会議で、戦争突入に反対の意見を述べた重臣(元首相)は、若槻礼次郎、岡田啓介、米内光政の三人である。とくに若槻と東条との論戦は歴史に残る。自存自衛はともかく、東亜新秩序あるいは八紘一宇といった理想に目をくらましてはならぬ、と説く若槻に、東条は反発する。
「理想を追うて現実を離れるようなことはせぬ。が、理想を持つことは必要だ」
 若槻はぴしりといった。
「理想のために国を滅ぼしてはならぬ」と。

 ――A級戦犯東条を持ち上げる向きがあるが、東条英樹の正体をよく見ておくべきである。

 S16/12月1日(月)本日の御前会議は閣僚全部召され、陸海統帥部も合わせ開催せらる。対外関係重大案件、可決せらる。 
 
〈注〉開戦決定の御前会議の日である。
『杉山メモ』に記されている天皇の言葉は、
「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく強調してやれ」
杉山総長の感想は「童顔いと麗しく拝し奉れり」である。
 
 ――「御前会議」では「天皇は憲法に則り、『無言』を守ることになっている」としている〈注〉に反して、天皇は発言している。対米開戦に対して、「已むを得ぬ」と条件つきながら励ましの言葉を直接述べている。「立憲国の天皇は憲法に制約される」云々と天皇自身が述べた政府の決定したことに従うとする規定からの発言ということなのだろうか。

だが、これは憲法に規定された天皇の職責に対する責任放棄以外の何ものでもない。「裁可」以外の役目はないことになる。「天皇は内閣が決定した政策・条約等の案件に裁可を与えることを役目とす」だけで憲法の条文は十分である。元首の規定を残すのみで、それ以外の統治権だとか総帥権だとかは不必要になる。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(4)-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(2)

2007-05-10 17:08:09 | 政治

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S15/1月29日(月)歌会始 御製
 西ひかしむつみかわして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはしめに

 〈注〉第2次大戦のゆくえを憂う歌である。
  
 ――「世界中が睦み交わして栄えていく世となることを祈りたい、年の初めに」。そのような世になって欲しい。天皇の本心はそこにあった。だが、軍部・政府は日本を支配者の位置に置いた「栄ゆかむ世をこそ祈」っていた。その違いがあったのだろう。両者の世界に向けた希望の違いを次の日付の日記が象徴的に証明している。 

 S15/2月3日(土)夜、稲田〔周一〕内閣総務課長より、斎藤隆夫議員の質問演説の内容、及、之が措置に関し、政府は断固たる決意を以て望む決心を為し、事態、相当緊迫せる旨告げ来る。而して首相、または他の閣僚が左様の場合は参内上奏すべきなるも、時間の関係にて夫(そ)れを許さざるときは如何にすべきや相談あり。左様の場合は、書類により奏上なり、又は侍従長に予め出仕してもらひ侍従長より伝奏するなり。内閣の都合よき方途を講ずべき旨答ふ。
 後、斎藤議員懲罰に附することに決定、事態は急転直下解決せる旨、通じ来る。内閣としては事変処理に付き、国論がわれていると言ふ事にては時局を担当し行けざる筋合なるを以て、断固たる決心を為したるものと認めらる。

 〈注〉斎藤議員の質問演説は今は憲政史上に輝く反戦演説として有名である。2月2日衆議院本会議で民政党の代表質問として「ただいたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べて・・・」戦争をつづけるとは何事か、と斎藤は思い切ったことを言った。当然、陸軍は「聖戦」を冒涜するといきり立ったのである。「なかなかうまいことをいう」と米内首相も畑陸相も感服したというが、それは控室での話。結局、3月7日、斎藤議員の除名でケリがついた。
  
 ――天皇の反戦意志に反する陸軍の「聖戦」の振りかざしは見事な逆説関係にあって、ものの見事に両者の立場の違いを証明している。

 斎藤議員の演説は実質的には天皇の平和願望に添う。が、天皇には除名を止める力はない。名目だけの統帥権・国家元首・国家統治者・神聖な存在であることをも証明している。

 S15/7月8日(前略)米内内閣総理大臣、后7・19-7・25拝謁。闕下(けっか・天子の前)に辞表を捧呈す。理由は畑陸軍大臣より、近時の政権は所信と異なり、引いて軍の統督を期し難しとの理由にて辞表の提出あり。翻意せしめ難く、又、後任を得難きを以て、辞表を奉呈するの意なり。(後略)

 <注>米内内閣が総辞職に追い込まれたのは、ここに記されているように、畑陸相の突然の辞任にあった。「軍部大臣現役武官制」をふりかざして、陸軍が倒したのである。陸軍が米内内閣を嫌ったのは、その政策が新英米的であり、7月3日に策定した時局処理方針をこの内閣では実行に移せぬと認識したからである。①日独伊三国同盟を強化する。②南方への進出を決意する、というのがその内容である。では陸軍中央では、だれに後継者としてひそかに白羽の矢を立てていたのか。それが新体制運動の推進者たる近衛文麿であったのである。
 そして予定どおりに近衛内閣は7月22日に成立した。
  
 ――〈注〉が言う「新体制運動」とは「1940年(昭和15)から翌年にかけて行われた新政治体制の創出をめざした運動。第2次大戦のヨーロッパの戦局がドイツ有利に展開していた情勢を背景として、40年6月24日枢密院議長を辞任した近衛文麿は新体制運動に乗りだすと声明した。8月15日の立憲民政党解党を最後に全政党が解散、第2次近衛内閣が各界有力者を集めて8月23日に設置した新体制準備会での議論を経て、10月12日大政翼賛会が結成された。新体制推進派は翼賛会をナチス的な政党とすることを目論んだが、議会主流や精神右翼は憲法違反として批判し、結局翌1月に政府は翼賛会の政治性を事実上否定する見解を示し、4月に翼賛会が改組されて、運動(自体)は挫折した」(『日本史広辞典』山川出版社)

 要するに『新体制運動』とは政党政治否定の運動というわけである。『大日本史広辞典』からの参考と併せて理解できることは、畑は陸軍の意を受けてか、陸軍と共に共謀してか、単独辞職したということである。軍が米内内閣打倒の意志の下に「軍部大臣現役武官制」を主張する限り、米内首相が陸軍大臣の後任候補を陸軍から求めざるを得ないが、協力を得ることはできないだろうから、「後任を得難き」は目に見えていて辞職以外に道はなかったということなのだろう。

 このような混乱から見えることは陸軍の意志が天皇の意志を上回って力があるということ以外に何もない。その具体化が「①日独伊三国同盟を強化する。②南方への進出を決意する」の形を取っているということなのだろう。そして憲法の権力保障と天皇の意志の双方に反する事態は当然のことながら、日本が戦争に向かって進展していく事態と並行して展開されていく。

 【大政翼賛会】「1940年(昭和15)10月近衛文麿を中心とする新体制運動推進のために創立された組織。総裁には総理大臣が当たり、道府県支部長は知事が兼任するなど官製的な色彩が強く、翼賛選挙に活動したのを始め、産業報国会・大日本婦人会・隣組などを傘下に収めて国民生活のすべてにわたって統制したが、1945年国民義勇隊ができるに及んで解散した。」(『大辞林』三省堂)、

 S15/7月27日(土)宮中東一の間に、近衛内閣成立後、最初の大本営連絡会議開催せらる。親臨はあらせられず。前11・40閑院、伏見両総長の宮殿下。11・50近衛首相、夫々拝謁奏上す。恐らく会議内容に関する奏上ならむ。(後略)

 〈注〉〝大本営連絡会議〟は正確には大本営政府連絡会議という。このときの会議で、後からみればとんでもない政策をいくつも決めた。日中戦争の処理。三国同盟の強化。(ベトナム、ラオス、カンボジア)の基地強化。東南アジアの重要資源確保などである。それは対米戦争を想定するものでもあった。

 ――「陸軍中央」が近衛文麿を後継者の白羽の矢に立てた成果の数々が早速にも形を取った。だが、すべてが天皇の意思に反する成果なのは言うまでもない。それを可能とし、旧憲法が描いている天皇の姿を否定する権力力学が横行していた。

 S15/9月19日(木)朝内閣より、本日午后3時より御前会議を奏請すべき旨、内報あり。次いで本件に付ては既に去る16日、首相拝謁の際、大体申し上げあるを以て、侍従長より伝送願い度き旨、申出あり。侍従長11・30伝奏す。議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許(許すこと。許可)せられず。侍従長、御前を退下、内大臣と協議す。内大臣は首相と電話にて話し、松岡外相が御前会議前、拝謁を願い出ることとなり、后1・18御裁可ありたり。外相后1・50-2・40拝謁。后2・50-3・05内大臣、后3・07-6・05 御前会議。列席者、
 閑院参謀総長宮、伏見軍令部総長宮、近衛首相、松岡外相、河田蔵相、東条〔英樹〕陸相、及川海相、星野企画印総裁。
 特に勅旨に依り列せしめられたるもの
 原枢府議長、沢田〔茂〕参謀次長、近藤〔信竹〕軍令部次長
 会議後、議案は直ちに上奏、御裁可を得たり。(后6・10)
 (本日の御前会議は日独伊条約に関する事項の模様なり)

 <注>9月7日ヒトラーの特使スターマーの来日、1週間後の14日には大本営政府連絡会議、16日の臨時閣議で決定と、三国同盟の締結が承認されるまで、あれよあれよという早さである。16日の近衛首相上奏のとき、参戦義務によって国際紛争にまきこまれるのを憂慮した天皇は、「今しばらく独ソの関係を見極め上で締結しても、晩くはないではないか」と最後の反対意見を言ったが、それまでとなった。
 この日の御前会議ですべてが決したのである。
 
 ――〈注〉が記している、天皇が「最後の反対意見」を言ったこと自体が、「憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」とする自己に課せられた役目に逆らう意思表示であろう。憲法が描く姿に反して、「反対意見」を国策に反映させるだけの現実の姿となっていなかったと見るべきが自然ではないだろうか。

 S15/9月27日(金)本夜8・15、ベルリンに於いて、日独伊三国条約締結調印を了せり。直に発表、同時大詔渙発せらる。

 【大詔】「天皇の詔勅。みことのり」(『大辞林』)
 【渙発】「詔勅を広く発布すること」(『大辞林』)

 <注>9月24日の天皇の言葉。
 「日英同盟のときは宮中では何も取行われなかった様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだろう」(『木戸日記』)
 そして詔書の一説。
 「帝国の意図を同じくする独伊両国との提携協力を議せしめ、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深くよろこぶ所なり」
   
 ――自身が現人神でありながら、「神様の御加護を祈」る無力の存在と化している。それは憲法の保障に反する天皇自身の無力と重なる。「帝国の意図を同じくする」も、天皇の「意図を同じくする」ものではないが、「朕の深くよろこぶ所なり」とする構図は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の規定に於いて、「大日本帝国」と「統治」との間に乖離が存在することを示している。

 S15/10月7日(月) 新体制出発に付、時局重大なる折柄に付、地方長官会議の機会に西溜の間にて列立配列。

 〈注〉新体制出発とは大政翼賛会の発足である。正式には10月12日のことで、その前日の近衛首相に語ったという天皇の言葉が面白い。「このような組織をつくってうまくいくのかね。これではまるでむかしの幕府のできるようなものではないか」。さすがの近衛も絶句したという、と迫水久恒が『大日本帝国最後の四か月』に楽しそうに書いている。
 
 ――「まるでむかしの幕府のできるようなものではないか」。文明開化、近代化を旗印にしていても、旗印だけのことで、明治の政治権力も江戸幕府を受け継いで本質的には権威主義を構造とした国家主義国家であって、それを伝統とした日本の政治体制が戦争という形で国民を一つの方向に向かわせようとするとき、そこから外れさせない国家による国民統制の方法として「大政翼賛会の発足」といった社会の全体管理は当然の進行であり、それが「まるでむかしの幕府のできるようなもの」だとする相似性も当然の結果性であろう。そして「大政翼賛会」の名残りが全国自治会連合会の形で現在も引き継がれている。

 S15/10月12日(土)聖上、長時間当直の常侍官へ出御あり。本年の米作状況、食糧問題、特に米のみに依存するは如何との仰せあり。又、支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり。それが今日、各方面に響いて来て居るなど仰せあり。武官〔侍従武官〕は陪席せざりし折なりき。

 <注>天皇は泥沼化した和平の見通しのつかね支那事変を悔い、陸軍の戦局の見通しの悪さに強く不満を持っていたことがわかる。
 
 ――確かにそのとおりだろうが、「事変の見透しは皆が誤れり」は「当直の常侍官」にではなく、軍首脳や政府首脳に直接伝えるべき政策事項であろう。それができない天皇の立場のもどかしさ・弱さを逆に窺うことができる。そのもどかしさ・弱さは同時に憲法が謳っている天皇の権限が現実には保障されていない状況を浮かび立たせている。

 S15/11月10日(日)一天快晴。二千六百年式典、両陛下出御。御予定の通り行はせらる。
  
 ――天孫降臨だ、天照大神の天の石窟(あまのいわや)だといった高天原神話・建国神話が如何に役立たない合理性を持たない形式に過ぎないかが分かる。だが、多くの日本人がそういったことを勲章としている。2600年の歴史だ、アメリカは高々200年の歴史しかないではないかとか。

 S16/1月9日(水) 常侍官向候所〔侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり。

 <注>15年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。たとえば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある。
 「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念になった」
 大戦へと拡大したのは、二・二六事件のあと天下を取った統制派軍人や幕僚たちが「中国一挙論」とも言うべき共通した戦術観を持っていたからである。天皇の「日本は支那を見くびりたり」はそのことを衝いている。

 【御軫念】「しんねん・天使が心を痛め、心配すること」(『大辞林』)
   
 ――天皇の「日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」としていることやその他から<注>は「天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい」としている。事実その通りであっても、戦争拡大は軍人たちの「中国一挙論」そのものよりも、天皇自身が旧憲法が謳うのとは反対に従属した存在であった関係から、天皇の戦争中止論が「中国一挙論」の前に力を持たなかった力関係に帰着する問題であろう。

 政府・軍首脳に伝えても力は持たない結果、侍従にも「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とこぼす情景を生じせしめることになる。

 「西園寺公と政局」の譬え話にしても、「蒋介石が倒れるまでやります」の返答にどのような理由があってのことか、そして早期に倒せるどのような成算・どのような方策があるのかを問い質すべきであったろう。

 また戦争終結を決したのは天皇自身の英断だとするなら、「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とする考えも英断として示されて然るべきだったが、「御軫念」で終わった。いわば天皇と軍部との関係は相対的な関係にあり、終戦時にその余力もなしに本土決戦を叫ぶばかりで軍は策を失い、力をなくして天皇が相対的に力を回復したから出せた〝英断〟といったところだろ。軍が力を残していたら、出せなかった〝英断〟というわけである。広島・長崎の次の原爆投下は東京の可能性をバカな軍人でも考えなかればならなかっただろうから、いくら肉弾戦による本土決戦を計画しても、制空権を失って次の原爆投下を防ぐ手立てはなかった結果の〝英断〟に過ぎない。このことは『小倉庫次侍従日記』を読み進めていけば、おいおい分かっていく。

 S16/1月13日(月) 后3・○○―4・50、杉山参謀総長拝謁。御下問ありたる為、長時間に亘りたる模様なり。

 <注>『木戸日記』1月18日、杉山総長にいろいろ問いただしたことが記されている。「種々突込んで質問してみたが、要するに総長の意見は用兵上漢口方面を撤退し、主導作戦を受動作戦となせば到底戦争は有利に解決すること困難となるべきこと、及び将来平和会議等の場合、東洋方面におけては枢軸国が負けたるかの如き印象を与ふるの虞あり。何れにしても戦線の整理縮小は慎重を要すとのこと」というものであった。天皇はこれに対して、戦争を長引かせることは「財政上の見地よりして果して我国力堪へ得るや否や」と詰問した。それはこの日であったのだ。
    
 ――この場面にしても「意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」としているタブーは見当たらない。そこにあるのは〝意に満たない〟という経緯をベースにそれを〝意に満つ〟方向に持っていこうと意志する働きである。それが決定的な力を獲得し得ない。そのもどかしさ、苛立ちだけが伝わってくる。

 弟の秩父宮が三国同盟の締結を進めるために週に3回天皇を尋ねたというのも、天皇の反対意志に関係なく締結ができたのだから、天皇の決定にかかっているからではなく、単に天皇の決定を錦の御旗の御墨付きとして締結に向けた弾みとしたかったから、天皇を賛成派とすることを自分の手柄としたかったからなのかもしれない。

 S16/4月13日(日)后3・30-3・43、近衛首相(モスクワにて松岡外相、スターリンとの間に不可侵、不侵略条約成立せる旨奏上。直に松岡、建川(美次、中ソ大使)に御委任状の上奏ありたり。)(後略)
 
 〈注〉ヨーロッパ訪問中の松岡外相は、この日、ソ連でスターリンに会う機会があり、「どうです。電撃外交をやって、全世界をアッといわせようじゃありませんか」とささやいた。スターリンは即応し、日ソ中立条約がアッという間に調印される。日ソ相互間の領土の保全、相互不可侵を決めた条約で、有効期限は5年とされた。ところが、2ヶ月余たった6月22日、ドイツはソ連に侵攻する。スターリンが松岡の誘いに乗ったのは、こうした危機的事態の到来を予期してのこと。外交的腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかった。

 ――日独伊三国同盟の締結。そしてのちに何の保障にもならなかったと判明する日ソ中立条約にまで歴史は進んだ。

 S16/5月8日(木)〔松岡〕外相、后2・○○より拝謁。拝謁中に、駐米野村〔吉三郎〕大使より国際電話あり。夫に一時かかり、再拝謁した后4・○○迄。

 〈注〉この日の松岡外相の内奏は大そう天皇を憂慮させるののとなった。「ヨーロッパ戦争への米国の参戦の場合は、日本は当然独伊側に立ち、シンガポールを打たねばなりません。又、ヨーロッパ戦争が長期戦となれば独ソ衝突の危険があり、その場合は中立条約を棄ててドイツ側に立たねばなりません。そういう事態になれば日米国交調整もすべて画餅に帰します。いずれにせよ米国問題に専念するあまり、独伊に対して信義にもとるようなことがあってはいけません。そうなれば、私は骸骨を乞うほかありません(辞表を出すこと)」
 天皇は松岡の発言にあきれ、のち木戸内大臣に「外相をとりかえた方がいいのではないか」と洩らしたという。

 ――〈注〉で見せている見事な松岡外相の壮大な先読みからすると、「外交的腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかった」としているが、なかなかどうして小賢しいばかりの権謀術数ぶりである。独伊に対する「信義」をすべてとするばかりで、次の読みに乗せるべき「信義」の結果=日本の国益・日本の将来を展望していないのだからスターリン以上とすべきではないか。

 だが、そのことよりも天皇が外相更迭の決定もできなかったことを問題としなければなない。軍部の誰よりも、政府の誰よりも日本が置かれている状況を客観的・合理的に読み取る能力を持ちながら、憲法が描くのとは異なった従属的傍観者の立場に立たされていたために、このことこそ問題なのだが、日本が坂道を転げ落ちるように危機的な自殺方向に邁進していくのを手をこまねいて見守るしかなかった。
 日本国の中心に位置しながら、それは形式的体裁に過ぎず、実質的には蚊帳の外に置かれていたということではないか。

 S16/6月22日(日)(前略)松岡外相(5・35-6・30)、内大臣思召(6・42-6・50)。

 <注>独ソ戦をうけて松岡拝謁が終わったあと、木戸を呼んでいった言葉が『木戸日記』にある。
 「松岡外相の対策には北方にも南方にも積極的に進出する結果となる次第にて、果たして政府、統帥部の意見一致すべきや否や。又、国力に省み果たして妥当なりや」
 松岡の大言壮語に、天皇は憂いを隠せなかったのである。
    
 ――ここまで客観的・合理的に状況、あるいは戦局を把握していたにも関わらず、松岡自身に伝えて再考を促すことも、政策に反映させることもできなかった。この国を子孫に伝えるとするからには伝えるにふさわしい国の形を残す天皇なりの努力をすべきで、立憲君主だからは言い訳にはならない。
 
 S16/7月2日(水)漸10・05-12・00御前会議(東1の間。独ソ開戦に伴う重要国策に付、決定ありたるものなり。政府発表)

 <注>この7月2日の御前会議こそ、大日本帝国がルビコンを渡ったとき、とのちに明らかとなる。一方でドイツの快進撃に呼応して対ソ戦を準備しつつ、その一方で、対米英戦争を覚悟し南部仏印進駐を期待する。南北の強攻策である。決定された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の、「目的達成のため対米英戦を辞せず」の一行がまぶしく映ずる。
    
 ――いよいよ戦争遂行政策は佳境に入ってきた。「目的達成のため対米英戦を辞せず」。ここには戦後証明されることになる「国力に省み果たして妥当なりや」の天皇の懸念は一切反映されていない。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(3) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(1)

2007-05-10 04:33:14 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 敢えて刺激的な言葉を使って、安倍国家主義の愚かさを衝く。

 07年04月26日の朝日新聞。
 ≪逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ≫

 <晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。(後略)>

 06年7月20日読売新聞インターネット記事。
 ≪昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ≫

 <昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。
 昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。
 遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。
 「松岡、白取」は、靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯の中の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使とみられる。2人は、ドイツ、イタリアとの三国同盟を推進するなど、日本が米英との対立を深める上で重大な役割を果たした。
 また、「松平」は終戦直後に宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男の松平永芳氏(いずれも故人)を指すとみられる。永芳氏は、靖国神社が78年にA級戦犯合祀を行った当時、同神社の宮司を務めていた。
 昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後になった。その理由を昭和天皇自身や政府が明らかにしなかったため、A級戦犯合祀が理由との見方のほか、75年の三木首相の参拝をきっかけに靖国参拝が政治問題化したためという説などが出ていた。富田氏が残したメモにより、「A級戦犯合祀」説が強まるものとみられる。靖国神社には今の陛下も即位後は参拝されていない。
 富田氏は年に宮内庁次長に就任。78年からは同庁長官を10年間務め、2003年11月に死去した。>

 卜部侍従と故富田宮内庁長官の天皇が語ったとしている日付は共に1988年4月28日。

 戦前の天皇は立憲君主とされていた。立憲君主制とは、「憲法に従って君主が政治を行う制度。君主の権力が憲法によって制限されている君主制」(『大辞林』)ということだから、昭和天皇の権力は大日本帝国憲法によって制限されていた。天皇の権力を戦前の『大日本帝国憲法 第1章 天皇』は次のように規定している。

 第一条
  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第三条
  天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第四条
  天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
 第十一條
  天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第十三條
  天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス

 【統治権】「国土・国民を治める権利」
 【総攬】「掌握して治めること」
 【統帥】「軍隊を支配下に置き率いること」

 第一条の「統治権」と第十一条の「統帥権」等は旧憲法下では天皇の大権として、政府・議会から独立したものとされていたという。ということは、天皇は立憲君主とは言うものの、その権力は憲法の制限を受けていたというよりも、逆に憲法がその絶大なる権力を保障していたと見るべきではないだろうか。

 国家の元首として国民・国土を統治し、且つ軍隊を統帥し、それらは政府・議会から独立した天皇個人に帰する権力であり、天皇を批判すれば不敬罪に問われる神聖にして侵すべからざる現人神とされていたのである。

天皇の権力が政府・議会から独立していたからこそ、国の重要政策決定機関として、政府や議会とは別の場所に御前会議を設けることができたのだろう。独立していずに設けていたとしたら、政府・議会を否定する越権行為となる。

 では、旧憲法に表現されているのではない現実の天皇は旧憲法が保障する絶大な権限を憲法の保障どおりに体現していたのだろうか。旧憲法の条文に登場する天皇と現実世界に登場している天皇とが一致するのかどうかということである。勿論、憲法がそうと規定している以上、一致しなければならない。一致したとき、日本の戦争は昭和天皇の戦争だったと断定できる。何しろ「陸海軍ヲ統帥ス」と規定した統帥の大権を正真正銘自らのものとしていたということになるのだから。

 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と高らかに規定していた天皇のその大権の支配を受けて、国民はその支配行為の一つとして戦争を演じた。

 戦前の天皇が置かれていた状況――天皇は戦前どのような存在とされていたのか、憲法の規定どおり、あるいは保障どおりだったのか、それとも違った姿を取っていたのか、これらを明かすために侍従として天皇に身近に接していた人物が書き遺した『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を主な資料として、そこから色々と引用して『日記』から窺うことができる戦争の推移、その状況と共に探ってみる。

 日記の日付の先頭に年数が一目で分かるように、昭和14年なら、「S14/」と付け、用いられている漢数字を便宜上算用数字に置き換えた。〈注〉を用いた解説は半藤一利氏(昭和史研究家・作家)によるものだが、非常に参考になるためにほぼそのまま引用する。私自身の解釈等は文頭に――を示す。

 「はじめに」に、「小倉侍従は侍従職庶務課長として、各大臣や陸海統帥部総長や侍従武官長などの天皇への拝謁の時間調整を担当して」いたとある。

 文藝春秋に記載された『日記』は昭和14年5月3日から始まり、敗戦2日前の昭和20年8月14日で終っている。開始の5月3日から4日後の5月7日の日記の半藤氏の〈注〉には「天皇このとき38歳。皇太子5歳」とある。

 当時日本は日独伊三国同盟を締結するかどうかの議論がせめぎあっていた。5月9日の〈注〉には〈この頃、昭和11年11月広田弘毅内閣のときに締結した日独防共協定を、軍事同盟にまで強化する問題をめぐって、平沼騏一郎内閣は大揉めに揉めていた。陸軍の強い賛成にたいして、海軍が頑強に反対していたのである。このため平沼首相、有田八郎外相、石渡荘太郎蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相による五相会議が連日のように開かれていたが、常に物別れとなり、先行きはまったく見えなかった。〉とある。

 天皇はどうかというと、S14/5月11日、5月12日の日記の〈一歳下の弟宮〉秩父宮と天皇の対面を解説する〈注〉が明らかにしてくれる。

 〈注〉『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている。
「それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を進めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った」
 そのことが裏つけられる記述である。

 ――昭和天皇は日独伊三国同盟締結には反対であった。当然その反対は、政府・議会から独立した天皇の大権としてあった「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「陸海軍ヲ統帥」する者として、国策に反映されることになる。

 だが、締結賛成派の秩父宮は反映されては困るから、「私の処に来て同盟の締結を進めた」のだろう。逆に憲法の姿に反して天皇に決定権がなければ、「一週三回くらい」も天皇に面会を求めて締結するように求めはすまい。

 ごく常識的に考えるなら、秩父宮は憲法の姿そのままに天皇の決定にかかっていることを前提に天皇の反対から賛成への翻意を求めて天皇の説得に努めたと見るべきではないか。

 ここで問題となってくるのは昭和天皇が敗戦翌年の1946年2月に侍従長藤田尚徳に語ったとされる<「立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない。自分の考えで却下すれば、憲法を破壊することになる」>(06.7.13.『朝日』朝刊/『侍従長の回想』)ことを開戦を阻止できなかった理由に挙げていることとの整合性である。

 「憲法上の責任者」が内閣であるとすると、旧憲法の天皇に対する絶大なる権力の保障は見せ掛けと化す。

 大日本帝国憲法は第四章で「國務大臣及樞密顧問」の役目を次のように規定している。

 第五十五條 國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
       凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大
       臣ノ副署ヲ要ス
 第五十六條 樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇
       ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ國務ヲ審議ス

 【輔弼】「天子の政治を助けること。旧憲法で、天皇の機能行使に対し、助言を与えること」
 【諮詢】「参考として問い尋ねること」
 【諮詢機関】「旧憲法下、天皇がその大権を行使するにあたって意見を徴した(求めた)機関。枢密院・元老院。元帥府など。(以上(『大辞林』三省堂)

 どの条項を取っても、天皇は他の機関の上に位置していて、決して下には位置していない。求めた意見に対して「意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」といった意志決定の構造はどこを探しても見当たらない。

 内閣に関しては旧憲法とは別に明治22年に制定され、昭和22年5月に廃止された内閣官制があり、その「第二條 内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」となっていて、天皇の意志の優先を謳っているし、「第七條 事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下附セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣總理大臣ニ報告スヘシ」は、憲法上の主人公があくまでも天皇であることを示している。

 【機務】「機密の政務・非常に重要な事務」
 【奏宣】「天子に申し上げること」
 【旨】「心持・意志」
 【承ケ】「謹んで承知する」
 【奏上】「天皇に申し上げること」

 とすると、天皇は開戦責任に関して事実と反する責任逃れを働いたのだろうか。
 
 S14/6月26日日独伊軍事同盟は、伊は日本の回答にて満足せしも、独が承諾せざるらし。この問題も落着までは経過あるべし。
 聖上、皇后宮、御用品中、金製品並に金を主とする御装身品等を御下渡しあり。恐懼に堪えず。
 平沼首相、后2・00より約1時間拝謁上奏す。暫く拝謁なかりしを以て、内大臣あたりより思召を伝え、参内せるやに内聞す。

 〈注〉五相会議で決定した日本の回答が独伊に送られた。その骨子は、独伊がソ連との戦争を起こした場合には、日本は参戦する。しかし、ソ連を含まない戦争が起こった場合には、参戦するかどうかはもちろん、武力援助を独伊にするかもふくめ言えないと、肝要の点をぼやかした苦心のものであった。ドイツは承知しなかった。天皇の耳には正確に達していなかったと見える。何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただしたのであろう。
  
 ――上記〈注〉を見る限り、天皇の反対姿勢に関わらず、条約締結に向けた外交交渉が着々と進んでいる。それとも秩父宮は天皇の翻意に成功したのだろうか。だが、「何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただした」とすると、蚊帳の外に置かれた天皇の状況を物語っていないだろうか。

 S14/6月29日参謀総長宮〔閑院宮戴冠仁(かんいんのみやことひと)親王〕、午后2・30拝謁上奏。直後、内大臣思召あり。満蒙国境ノモハン事件に関し或は兵を動かすにあらずや。
 ノモハン事件は或限界以上には越えざる事と決定したる模様にて、大きく展開することはなかるべし。首相の拝謁上奏も御満足に思召されたる御様子に拝す。

〈注〉満蒙の国境線の侵犯をめぐって5月に生起した小さな紛争事件は、関東軍と極東ソ連軍が大兵力を出動させ、容易ならざる事態となりつつあった。6月下旬のこの時点では、東京の大本営は不拡大の方針だったが、関東軍はモンゴル領内にまで侵犯する攻勢作戦を樹てていた。「或限界以上には越えざる事」どころではなかった。
 
 ――天皇側の「或限界以上には越えざる事」とする事実が架空の状況にあるとしたら、天皇の統帥権も事実として存在していなかったことになる。もし首相が関東軍の作戦を知っていて天皇に知らせずに放置していたとしたら、憲法が保障している天皇の統帥権は有名無実化し、天皇無視・憲法無視は一部にとどまらず、権力機構の広範囲に亘る事態となる。

 【ノモハン事件】「1939(昭和14)5月に起こった満州国とモンゴル人民共和国の国境地点における、日本軍とモンゴル・ソ連両軍との大規模な衝突事件。満・モ両国との国境争いの絶えなかったハルハ川と支流ホルスデン川の合流地点ノモハンで、5月11・12日ハルハ川をこえたモンゴル軍と満州国軍が衝突した。関東軍は事件直前の4月25日、国境紛争には断固とした方針で臨むとの満ソ国境紛争処理要綱を下命。現地に派遣された第23師団はモンゴル軍を駆逐してモンゴル軍の空軍基地の爆撃を行ったが、ソ連軍の優勢な機械化部隊の前に敗退し、8月20日のソ連軍反攻により敗北。独ソ不可侵条約による国際情勢の急転を受けて、9月15日、モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。(『日本史広辞典』山川出版社)
 
 S14/7月5日后3・30より5・40位約2時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出たる所、「跡始末は何(ど)するのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁。御前を退下する。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心止(とどめ)らせられざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願い他は明日遊ばされたき旨言上、御前を下る。今日のごとき御憤怒にお悲しみさえ加えさせられたるが如き御気色を、未だ嘗て拝したることなし。(この点広幡大夫にのみ伝ふ)。

 〈注〉思わず「跡始末は如何するのだ」と大声でひとりごとを発するほど天皇を煩悶させた板垣陸相。このとき長々と上奏した人事問題とは、石原莞爾少将と山下奉文の師団長・軍司令官新補(栄転)の件で、天皇はこれを容易に認めなかった。さらに寺内寿一大将のナチス党大会出席のためのドイツ派遣問題があった。三国同盟に関しては、ドイツ側が参戦問題をめぐって日本の提案を拒絶している。それなのに陸軍は裏工作をつづけて同盟を結ぼうとはどういうことか、と天皇はいった。 その上で、
「寺内大将のドイツ派遣とは何の目的があってのものか」
 板垣は正直に、というよりぬけぬけと答える。
「防共枢軸の強化のためドイツ側とよく話し合うことが必要と思いまして」
 天皇は叱りの言葉をはっきりと口にした。
「お前ぐらい頭の悪いものはいないのではないか」
 天皇の三国同盟反対の意思のよく分かる話である。

 ――天皇の意思が自分の思い通りに理解されないもどかしさ、ひとり苛立つ姿が手に取るように伝わってくる。但しこのように煩悶する姿は1946年2月に侍従長藤田尚徳に語った「立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」とする従属性とは相容れない、矛盾する感情発露となっている。

 いや、その逆だろう。1946年に語った自己の内閣に対する従属性は昭和14年7月当時の天皇が周囲からの従属圧力を拒否しようとする自らの姿勢を打消す、矛盾した場面となっていると見るべきだろう。

 天皇は日本国統治者であり、国家元首であり、陸海軍の統帥者であり、神聖にして侵すべからざる存在である。当然、天皇の意志は絶対であり、その怒りは誰もが従わなければならない畏れ多いものであろう。旧憲法の保障されたそのような絶対的姿を示し得ない天皇の姿を『小倉庫次侍従日記』は図らずも暴露している。

 誰もが従う姿とは、譬えて云えば「天皇のため・お国のために命を捧ぐ」と頭から信じて戦場に赴き、戦い、散った兵士の姿であり、あるいは敗戦を伝える天皇の玉音放送を、それが録音したものであっても、皇居広場やその他の場所で涙し頭を深く垂れて土下座して聞くか、あるいは直立不動の姿勢で涙しながら歯を食いしばって聞き、天皇の意思に従う形で敗戦を受け入れた国民の姿を言うのであって、そのような従順積極的な従属性は天皇を取り巻く国家機関員に於いては見受け難い。

 このことを言い換えるなら、このような天皇に対する従順積極的な従属性は一般国民だけのものとなっていて、体制側の人間のものにはなっていなかったということではないか。いわば憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮し、軍部を含めた政治権力層には見せているとおりの姿とはなっていなかったということだろう。

 そういった情景が『小倉侍従日記』敗戦の日に向かって随所に見られる。

 S14/10月19日(木)白鳥〔敏夫〕公使、伊太利国駐箚より帰国す。軍事同盟問題にて余り御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり。従来の前例を調ぶるに、特殊の例外を除き、大使は帰国後、御進講あるを例とす。此の際、却って差別待遇をするが如き感を持たしむるは不可なり。仍(よ)つて、御広き御気持ちにて、御進講御聴取遊ばさるるようお願いすることとせり。

 【駐箚】「ちゅうさつ・役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在(『大辞林』)

 〈注〉側近が、どうか広い気持ちで白鳥大使に会ってくださいと天皇に頼まざるを得なかったのはなぜか。三国同盟問題で、とくに自動的参戦問題について内閣が揉めているとき、ベルリンの大島大使ともども、駐イタリア大使白鳥敏夫は、何をぐずぐずしているのか、早く同盟を結べ、といわんばかりの意見具申の電報を外務省に打ち続けていた。これに天皇は怒りを覚えていた。「元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度をとることは甚だ面白くない」(『西園寺公と政局』)
 その白鳥の話など聞きたくないとする天皇の態度は強烈というほかないであろう。
 
 ――「天皇の態度は強烈」と把える以前に、それぞれが天皇の意思を無視して好き勝手な態度を取っていることを問題としなければならない。裏返すと、「天皇の大権」が「大権」となっていなくて形式に過ぎないから、周囲は天皇の意に反することができる。この構図を前提とすると、「白鳥の話など聞きたくない」は「強烈」とするよりも、駄々をこねているということになりかねない。

 本来なら統治者として厳重注意、召還命令、更迭命令、いずれかの指示を出して済ますべきを「御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり」とか、「甚だ面白くない」という態度となっていること自体が駄々と取られられかねない証明となっている。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(2)-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に続く。

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授乳中・食事中に加えて妊娠中もテレビを見る子育てを

2007-05-06 06:12:56 | Weblog

 「子育てを思う」保護者そしてみなさんへ。少年法厳罰化の方向と併せて考える。

 ●授乳中や食事中はテレビをつけない。幼児期はテレビ・
  ビデオを一人で見せない。
 ●インターネットや携帯は世界中の悪とも直接つながって
  しまう。フィルタリングで子供を守る。

 これは間違いです。大間違いです。

 犯罪の多くは、その人間が置かれている環境と、環境が許容する機会の制約を受ける。

 例えば、カネ欲しさから犯罪に走る場合、政治家や警察官、役人みたいに帳簿を操作して裏金を捻出するといった環境にいない、それゆえにそういった機会に恵まれることのない現場労働者といった人間が金銭的欲望を不正に充足させるためには、引ったくりや強盗、あるいは強盗目的の殺人とか、目的を達する機会が自分が置かれている環境の制約を受ける。

 しかしその罰則となると、帳簿操作とかの頭脳犯(知能犯)と比較して、身体犯(通常は強力犯と言うが、身体を駆使することで労働を成り立たせる労働者の犯罪機会が同じ身体を行使する犯罪に方向限定されることを兼ね合わせて、身体犯と造語してみた)の方が遥かに厳しいものとなっている。刑罰は社会的地位と、地位に付属した社会的責任に連動させることによって、公平性が獲得できるのではないだろうか。

 社会の上層に位置する人間はその地位にふさわしい役割を期待されている関係上、不正行為によってそれを裏切った場合、下位に位置する人間の不正行為以上に罰則を厳しくしてこそ、初めて社会的にバランスを取ることができる。

 既に十分に大人になっていて、当然社会的常識を十分に弁えていていい警察官や役人、政治家が税金である公金をどのような形であっても、1000円私物化したなら、一切情状酌量なしの1日の拘禁処分とするぐらいに少年法の厳罰化以上に厳罰化する。1万円で10日間。10万円で100日間。

 拘置所にテレビカメラが入ることを許して、社会にいて社会的地位の高い者として何様に振舞っていた気位がウソみたいに萎んで不様に打ちひしがれた哀れっぽい政治家や官僚といった入所者の姿を映し出して社会に知らしめるのもいいだろう。

 当然新聞・テレビの報道機関は、特にテレビは今日は官僚の誰々が拘禁されることになった、あるいは国会議員の誰それが拘禁何日目を迎えたとニュースで取り上げることになるだろうし、ワイドショーでは番組専属のリポーターを拘禁者の懲戒免職される前の勤務先や家近所にまで押しかけさせ、職場の同僚には仕事の有能ぶりや失われることになった将来性の期待度を尋ね、家族にはその一員が社会的責任を裏切って囚われの身になったことに対する家族としての心境を突つき出す。隣近所の住人からは、「そんなことをする人に見えましたか?」、「いいえ、家族思いの真面目な責任感あるお役人様にしか見えませんでした、議員様にしか見えませんでした」、「顔を会わせると、いつも丁寧にお早うございますと挨拶されて・・・。まさか奥様を裏切って、愛人の方におカネを貢ぐために公金をくすねたなんて、今以て信じられません、あの方が――。私には色目一つ使ってくれなかった」といった引き出せる限りの反応を引き出して、引き出せなければ、内容を捏造してまで日中の重要な視聴者である奥さま族の嗜好に合うように面白おかしく料理して報道すれば、そのニュースをその日の夕方までどころか、次の朝、あるいはさらにその日の昼、あるいは報道相手と事と次第では二日も三日も引っ張って奥さま族を、奥さまになっていない女性まで含めてうまく釣って視聴率を稼げぐといったことをする。

 いわばその手の番組の高い視聴率は女性の食事中・授乳中だけではなく、妊娠中もそういった番組に一日の多い時間に亘り引きずり込むことによって裏打ちされる。

 女性が意識してそうせずにテレビ漬になっていたとしても、結果的に子供は母親の胎内にいるときから、国会議員から県市町村まで含めた地方政治家までカネを誤魔化す先生方、あるいは中央省庁から地方自治体まで含めた役人たちのカネを誤魔化す先生方が多いことから、毎日のように報道されることになる誤魔化したカネ1000円に付き1日単位で拘束されるシャバとは裏腹の哀れな姿を母親の感覚を通して胎教と同じ構図で無意識下に感じ取り、この世に生を受けてからも母親の食事中、授乳中に関係なしのテレビの見っ放しを通して、画面に映し出される政治家・官僚、役人の姿が地位や役目に反してウソや卑しい欲望に身を任せた社会的裏切りが与えた因果としてある落魄だと知らず知らずのうちに学んでいく。

 つまり母親がテレビばかり見ることによって、子供は母親の胎内にいるときから偉い人たちの不正を働いた場合の因果の構図を学ぶ機会が与えられる。その構図を反面教師の教訓としない者がどれ程いるだろうか。そういった人間になることは恥ずかしいことだと、恥の感覚で把えない子供はどれ程いるだろうか。政治家・官僚と同じ轍を踏んだ者は、余程のバカということになるだろう。彼らの背中を見て、自分の背中をつくり上げて言うというわけである。

 教訓とした子供が小学生、中学生となってパソコンに向かうことになれば、国を越え、時代を遡った政治家や官僚・役人の類の卑しい不正行為・コジキ行為探索が興味の対象の一つに加えられることになるかもしれない。

 当然、母親は妊娠中・授乳中・食事中に関係なくテレビをつけ、幼児期だろうと何だろうとテレビ・ビデオを一人であっても見せ、インターネットや携帯は思う存分、好きなだけさせる。それを学問のススメにも通じる子育てのススメとすべきだろう。

 そのような子育てのススメを子供が胎内にいるときから始めることによって、「最初は『あいさつをする』『ウソをつかない』など人としての基本を、次の段階で『恥ずかしいことはしない』など社会性を持つ徳目を教える」といった<「子育てを思う」保護者そしてみなさんへ>のススメは遅きに逸する教えとなり、少年法の厳罰条文も適用されることが少ないスローガンと化していく。

 そのように仕向ける唯一絶対の条件が先に記した大人の犯罪の厳罰化というわけである。

 この主張は先にブログ記事とした「道徳教育教科化/政治家を教材とすべし」(07.4.27/金曜日)の主張とも合致する。

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安倍教育再生会議のかくまでも美しい上からの子育て管理

2007-05-04 07:43:24 | Weblog

 ≪「子育てを思う」保護者そしてみなさんへ≫

 5月2日(07年)の朝日新聞朝刊は≪おせっかい?子育て指南 再生会議、親に「常識」提言 子守唄歌おう はやね・早起き・朝ごはん≫と見出しをつけて、安倍教育再生会議が<子育ての留意点や教えるべき徳目などを盛り込んだ緊急提言「『子育てを思う』保護者そしてみなさんへ」を連休明けに公表する。>と伝えていた。

 失礼な、<おせっかい>と言うことはないだろう。美しい親切心からに決まっている。安倍晋三サマは間違ったことは言わない。日本国民は安倍晋三サマを親と思い、自分たち国民を親である安倍晋三サマの子供と思って、食器の持ち上げ方から箸の上げ下ろしまで親である安倍晋三サマの指導を受けて、1億2600人の国民すべてが一から十まで、軍隊の行進さながらに安倍晋三サマがおっしゃるとおりの一糸乱れぬ同じ動きをする。あるいはスイッチが入っている間は1年中同じ動きしか見せない何かの機械群のように国民全体が決められたとおりの生活の動きをする。

 これこそ「美しい国」の大完成である。

 同記事に載った<「子育てを思う」保護者そしてみなさんへ(案)要旨>を見てみる。

●保護者は子守唄を歌いおっぱいを上げ、赤ちゃんの瞳をの
 ぞく。母乳が十分出なくても抱きしめるだけでもいい。
●授乳中や食事中はテレビをつけない。幼児期はテレビ・ビ
 デオを一人で見せない。
●インターネットや携帯は世界中の悪とも直接つながってし
 まう。フィルタリングで子供を守る。
●最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人とし
 ての基本を、次の段階で「恥ずかしいことはしない」など
 社会性を持つ徳目を教える。
●「もったいない」「ありがとう」「いただきます」「おか
 げさまで」日本の美しい心、言葉。
●子供たちをたくさんほめる。
●PTAは父親も参加。――

 言っていることはみな正しいことではないか。これくらいのことなら、言うだけなら誰でも、いや誰でも以上にバカでもチョンでも言える〝正しいこと〟に過ぎない。特に<「もったいない」「ありがとう」「いただきます」「おかげさまで」日本の美しい心、言葉>などは日本人以外の人種・国民にはない<日本の美しい心、言葉>なのは言を俟(ま)たない。

 と言うからには、言を俟たない根拠を示さなければならない。4つの言葉はどこから見ても日本の<言葉>である。その点は間違っていない。

 だが、決して「日本の美しい心」としてのみ存在する精神ではない。英語等の外国語に訳せない言葉は一つとしてないのだから、訳せる以上、言葉の持つ精神は外国人も持っているものであり、「日本」限定発売の「美しい心」というわけではないだろう。どの国にもある常識的な精神であって、<日本の美しい心、言葉>だと限定するのは客観性を置き忘れていることから可能としている日本人の優越に向けた思い上がりに過ぎない。

 それを<日本の美しい心、言葉>だと口に出さなくても(口に出したら最悪である)、そうだとする意識に立って子供に教えただけでも、子供はその意識を受け継いで大人そっくりの価値観で日本を優越的中心に置いた視野の狭い思い上がった客観性を継承させていくことになるに違いない。

 安倍首相を筆頭に教育再生会議の面々の客観性の欠如を明らかに証明する項目がある。<●最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人としての基本を、次の段階で「恥ずかしいことはしない」など社会性を持つ徳目を教える。>がそれである。

 例えば「うそをつかない」は過去から延々と引き継がれてきた教えであろう。子供に最初にウソをつかれる大人は一般的には幼稚園の保母や学校の先生であるよりは親だろうし、ウソをつかれることによって不利益を蒙るのも一番に親だろうからである。親がウソつきであっても、子供にウソをつかれると親の利害に関係してくる。

 当たり前のことだが、子供のウソが親の利益となるなら、「ウソをつくな」とは言わない。そのウソを許すことになるだろう。子供に万引きさせる親がいるが、運悪く店の人間に捕まり、子供が正直に親に言われたから万引きしたと正直に告白するのは都合が悪いが、つい欲しくなって万引きしてしまったとウソをついたなら、親は自己利害に合致するから許すに違いない。

 子供のウソの一番の被害者は殆どは親だから(最終的には親の教育がなっていなかったということにされる)、親は上から言われなくても、子供に「ウソをつくな」と教えてきたはずである。戦前の強権的な国家主義が幅を効かしていた時代は巡査でも国家権力を背景に威張り散らしていて怖い存在であったから、親は子供がウソをつくと、「おまわりさんに連れて行ってもらうよ」とか、「おまわりさんに言いつけるよ」を常套句に子供のウソを戒めてきた。

 別の常套句に「ウソをつくと、閻魔様に舌を抜かれるよ」があったが、仏教世界の存在者である閻魔は<地獄で人間の善悪や罪業を審判する王(『日本史広辞典』山川出版社)であると言うところから、仏教がより広範囲に信じられていた遡った時代、江戸時代やそれ以前にも子供のウソを戒める教えとして親が使っていた言葉ではあったのではないか。

 「バチが当たる」も仏教の因果応報としての〝罰(バチ)〟を利用した戒めであろう。

 大体が常識という価値観に照らすなら、「あいさつをする」ことができないこと自体も、あるいはウソをつくこと自体も「恥ずかしいこと」であって、「恥ずかしいことはしない」を<次の段階>に置くこと自体が客観性を欠いた矛盾した措置だが、いずれにしても遥かな昔から親は子供に<最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人としての基本>、<社会性を持つ徳目を教え>てきたはずである。

 だが、<社会性を持つ徳目を教え>られて育ったはずの政治家・官僚にもウソをつく人間、「恥ずかしいことはしない」ことはないどころか、いくらでもやらかす破廉恥な人間がゴマンと転がっている。勤勉・勤労の見本として二宮金次郎がその代表格だが、政治家の中から現在のウソつきの代表格を挙げるとしたら、安倍晋三、松岡と言ったところだろう。

 要するにこれこれは正しいことだから行うようにと言うだけなら、誰でも言えるし、そのように言われる前から言われていることの大概を誰もが心がけている。だが、人間の現実は心がけとはかなり異なる姿を見せている。子育ての教え・戒めの類が延々と有効ではなかったと言うことだろう。その有効ではないことを、再び繰返そうとしている。

 時代的な違いを言うなら、無効化が低年齢化したということではないか。小学生低学年までの間は親の「早寝・早起き」の教えを守っていたが、高学年、あるいは中学生にもなると言うことを聞かなくなって無効化する。

 この時代性の違いをを認識できないから、その無効性が歴史・伝統・文化としてあるとする認識にも立てないのであって、そのように認識できない状況が同じ繰返しをそのままに犯す客観性の欠如そのものを物語ることになっている。当然、「提言」よりも教え・戒めがなぜ有効ではないか・有効ではなかったかの検証・分析が必要であって、その原因が判明したとき、その対策を考案して、考案した対策を「提言」すべきであるのが順序ではないだろうか。

 尤も順序ではあっても、「提言」自体はそれぞれに任せるべき事柄である。<要旨>に書いてある殆どの「徳目」は、これくらいのことは誰に言われてするのではない、親に限らず自分で判断して自分で決定しなければならないごくごく常識的な人の務めであって、そうである以上、人それぞれの判断させるべきだからである。

 例えそうすることが社会的常識に照らして正しいことだとされていたとしても、それを人それぞれの判断に任せることができずに上からの指示に従わせようと意志するのは、自己発でなければならない判断事項を国家発の判断事項に代えて行わせようとする権威主義的な国民管理行為であって、当然そこに国民それぞれの判断力、自律性を阻害する逆の力が働く。

 日本人は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力学に捕縛されて、国民に対する国という上、子供に対する親と言う上は、下の国民、下の子供を上に従わせるべく、どうしてもああしなさい、こうしなさいと管理したがる。特に国は自己責任、自己責任を連発するくせに、国家管理思考からいつまで経っても抜け出れない。

 それぞれが指示と従属の支配関係ではなく、上も下もなく個としての対等関係を結ぶことができなければ、真に自己責任を体した自律した存在となり得ない。自律した存在となり得たとき、「提言」は賛否両論が起きる暇もなく、完璧に<おせっかい>だとして国民から総すかんを食うことになるだろう。

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安倍中東後追い暗記教育外交

2007-05-02 01:03:34 | Weblog

 日本の首相安倍晋三が中東5カ国歴訪に先立つ就任後首相として初の訪米、ブッシュ大統領との首脳会談を果たしたが、そのことにさらに先立ってアメリカ議会指導者の前で従軍慰安婦問題で謝罪する重要なセレモニーをこなした。

 小泉前首相も昨06年5月のアフリカのエチオピア、ガーナ訪問にほぼ1年先立つ05年4月のインドネシアジャカルタで開催された「アジア・アフリカ会議」50年の首脳会議でも、「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切なる反省と心からのおわびの気持を常に心に刻みつつ、――」云々と決まり文句を用いた謝罪のセレモニーをこなしている。

 謝罪のセレモニーが日本の首脳の戦前の戦争に関係する外国訪問に付き物という点でも、安倍首相は小泉前首相を美しく踏襲している。

 村山談話を引用して謝罪したと言うことだが、「多大な損害と苦痛を与えた」対象が「アジア諸国の人々」であるなら、その言葉を額面どおりに受け取って解釈するとしたら、その「人々」の中に入るはずの従軍慰安婦や強制連行労働者に真摯に向き合わなければならないはずだが、「多大な損害と苦痛を与えた」と口にする程の向き合い方はしていないことと、内容が同じ似たり寄ったりでしかない謝罪の繰返しがいつ果てるとも分からずに延々と受け継いでいることからも、謝罪の決まり文句と言うしかない。

 小泉前首相のアフリカ訪問は初めてで、森元首相以来の二人目の日本の首相の訪問だというアフリカ重視の活発外交は、<4月29日、首相と入れ替わりに帰途についた胡錦涛国家主席は2度目のアフリカ歴訪で3カ国を訪れた。>(06年5月2日「朝日」夕刊≪アフリカ戦略、中国に後手・ODA「倍増」打ち出したけど≫ことと比較しても、その活発さの点で群を抜いている。

 同記事はアフリカに於ける日本と中国の力関係・重要度を次のように伝えている。

 <経済低迷が続くアフリカ諸国は中国を成長の先導役と見る。ナイロビ大学のオルー講師(政治学)は「体制に注文をつけず、政権トップに力を貸す中国は影響力を強める一方だろう」と語る。>

 05年の国連安保理改革で<常任理事国入りを目指す日本がドイツ、インド、ブラジルと連携したG4案をAU(アフリカ連合)は拒否。中国はAU各国に「中国と敵対する国」の常任理事国入りへの反対を求めていた。
 日本が最も頼りにしたナイジェリアのオバサンジョ大統領は4月26日、胡主席を招いた夕食会で「今世紀は中国が世界を引っ張る。我々は中国のすぐ後ろにいたい」。>

 そのような中国の突出に対して、日本は外交の唯一有力な力としていたカネの面で、記事の冒頭部分に記してあるが、<00年のアフリカ向けODAは約10億ドルで、欧米に肩を並べていたが、財政再建のあおりで04年には3分の2に。01年の同時多発テロ後、貧困をテロの温床と見て支援を急増させた米仏両国と比べて5倍前後の開きが出た。>と退行したその有効性を取り戻すべく、<日本が昨年のサミットで示した「ODAを今後5年間で100億ドル増額、今後3年間でアフリカ向け倍増」という方針>を打ち立てたが、中国も<昨年9月、今後3年以内に途上国向け1000億ドル借款などの供与とアフリカ支援を強調。>(同記事)と一歩も引かないところを見せている。

 こういった日本の状況にさらに付け加えると、小泉首相のアフリカ訪問はアジア・アフリカの支持を得られないと踏んで安保理にG4案の採択を図ることを断念した後だったが、マリ前大統領であり、初代AU(アフリカ連合)委員長として選出されたコナレ氏との会談について内閣広報室が伝えているほんのさわりの部分を紹介すると、小泉首相が<アフリカにも常任議席を与えるべきというのが我が国の立場であるとしつつ、アフリカでの議論の現状を照会した>ところ、コナ氏はアフリカ票が欲しいことからの反対給付にもならない誘い水だと承知していたのだろう、<日本に対していつも言っているが、我々は日本の常任理事国入りを支持しており、それを支持しないアフリカの国は知らない旨述べた。>と前置きして、<アフリカの立場はアフリカに拒否権付きの常任2議席が与えられるべきだというものだが、これが世界のコンセンサスを得るのは難しいことは分かって>いるとして、<いずれにせよ、アフリカ諸国も日本の常任理事国入りが重要だと確信しており、日本に協力していきたいと考えている旨述べた。>と、中国に次いで2番目を条件としての支持だということを喉深くに飲み込んでいたからこそ言えるG4案では見せなかった支持を表明したと言う。

 このような諸状況下の小泉アフリカ訪問は中国によってもたらされた失地回復の旅なのだが、アフリカのG4案態度はアフリカに与える実質的な利益性が遠隔操作させた不支持なのだろうから、胡錦涛中国国家主席に先を越された訪問時期や相手の2度目の訪問回数に対してやっと1度目を果たした訪問の実績、さらに一度は後退させた日本のODAの倍増計画が中国援助の増大への対抗策であるといった点などから読み解くとすると、中国の後を追いながら失地を回復させようとした後追い外交ということにはならないたろうか。

 後追いとはなぞるだけのことを言い、なぞりから出ない暗記教育と同じ力学に立つ。いわばただ単に中国の動きをなぞって跡を追いかけたに過ぎない外交で終わっていると言うことだろう。

 創造的な外交術に至らない後追いの暗記教育外交に過ぎなかったからこそ、アフリカ諸国に「今世紀は日本が世界を引っ張る。我々は日本のすぐ後ろにいたい」と言わしめる程の創造的外交力を見せることはできなかったということだろう。

 中国は小泉アフリカ訪問から半年後の昨06年11月に北京で「中国・アフリカ協力フォーラム北京サミット」を開催している。<フォーラムは00年に閣僚級で始まった。3回目を迎えた今年、中国とアフリカとの国交樹立50年を記念して首脳を招いたサミットへと発展。「新しい戦略パートナーの関係を打ち立てる」(唐家璇国務委員)として、今後3年間の中国からの援助など、広範囲な協力の拡大を促す「北京宣言」を採択する。
 48カ国のうち、41カ国は国家元首、首相が出席。>(06.11.4『朝日』朝刊≪中国「アフリカ熱」・48カ国が北京に集結・「資源」「台湾」「国連票」狙い・「政治抜き」援助に批判≫)。

 <フォーラムは00年に閣僚級で始まった>。小泉アフリカ訪問に先立つ6年も先んじ、訪問から3年後には<48カ国のうち、41カ国は国家元首、首相>を集わせることも可能とさせた発展を見せている。

 中国も政治家・官僚の汚職は目に余るものがあると言われ、報道もされている。日本の政治家・官僚にしても汚職、公費・税金のムダ使い・私腹肥やしは目に余るものがある。このような卑しい負の面での条件は似たり寄ったりなのに、外交力となると似たり寄ったりとはいかない。暗記教育外交の範囲にとどまっている、その劣りようの原因はどこにあるのだろうか。

 中国は体制を問わないなり振り構わない外交(<「政治抜き」援助に批判>)だと言うが、かつては日本もインドネシアのスハルト政権をその独裁体制を問わずに援助し、スハルト一族に利益を集中させる同族主義に力を貸したし、軍事政権のミャンマーの最大の援助国でもある。

 日本の首相がサウジを訪問したのは2003年5月にエジプトと抱き合わせで小泉前首相が訪問して以来の2度目の今回の安倍サウジ訪問である。

 一方中国対サウジの関係を見てみると、2006年4月に中国の胡錦涛国家主席がサウジを訪問、アブドラ国王と会談し、<「双方は両国の友好協力、戦略的友好協力関係の継続的な発展について重要な共通認識を得た。」>(「人民網日本語版」2006年4月23日)としている。

 どの程度の歓待ぶりかと言うと、<サウジアラビアを訪問した外国の要人に諮問評議会での演説の機会が与えられるのは稀有なことである。それだけにサウジ政府が今回の胡錦濤・中国国家主席の来訪を極めて重要視している証左といえそうだ>(中東・アフリカ資源外交を成功裏に終了させた胡錦濤・中国国家主席/(財)国際開発センターエネルギー・環境室/研究嘱託・ 畑中美樹)

 対してサウジは胡錦涛主席のサウジ訪問に3ヶ月先立つ2006年1月にサウジ側から先にアブドラ国王とファイサル外相が中国を訪問、人民公会堂で胡錦濤国家主席と会談し、戦略的な友好関係を構築していくことで双方は合意している。中国訪問はインド、マレーシア、パキスタンの3カ国を加えた4カ国歴訪の一環だが、日本はその中に入っていない。今回の安倍サウジ訪問にしても、諮問評議会で<演説の機会>を与えられる程の熱意ある特別待遇を与えられたのだろうか。インターネットで報道記事を漁ってみたが、〝安倍 サウジ 諮問評議会〟で引っかかる記事は皆無であった。

 サウジアラビアからは1971年にファイサル国王が訪日しているものの、ファハド国王の後継者となった現アブドラ国王が皇太子時代に、2006年1月の国王としての中国訪問に先立つ8年前の1988年に訪日していながら、国王となってからの訪日は実現していない。安倍<首相が「都合の良い時期」の訪日を招請したのに対し、国王は「ぜひ訪問したい」と応じた>(FujiSankei Business i. 2007/4/30 ≪石油備蓄、新たに検討 安倍首相とサウジ国王≫)そうだが、実現したとしても、中国とサウジ両首脳の相互訪問の後の日・サウジ相互訪問であり、後追いの感じが否めない外交となっている。

 「FujiSankei Business i.」は< 安倍晋三首相は28日夜(日本時間29日早朝)、リヤドの国王宮殿でサウジアラビアのアブドラ国王と会談し>、<両首脳は、経済だけでなく文化、教育など幅広い分野で両国の重層的発展を目指すことを確認。「戦略的パートナーシップ」構築に向けた共同声明を発表した。>と伝えているが、中国はアフリカ諸国と<「新しい戦略パートナーの関係を打ち立てる」(唐家璇国務委員)>政策で臨んでいるだけではなく、既にサウジとも確認しあっている約束事項であり、中国を向こう側に置いてサウジと重なる分、当然効力は相殺される。その相殺量はどちらを「戦略的パートナーシップ」として重点を置くかで決まってくる。

 胡錦涛主席には外国要人には与えられることが〝稀有な〟「諮問評議会での演説の機会」が与えられ、安倍首相には与えられなかった差が重点を決定しているとしたら、サウジは日本との関係でそれ相応の自国国益を追求する範囲内で日本を大事にするだろうが、日本とサウジ間の「戦略的パートナーシップ」はサウジと中国の間の「新しい戦略パートナーの関係」の跡を追う形でその有効性を獲ち得る後追いの関係に立たされることを意味する。

 安倍首相は昨年の首相就任前に日米豪印の戦略対話を目指す「安倍構想」を打ち上げているが、インドにしても自国経済の発展に経済で先を行く中国との関係を必要としているだけではなく、中国と国境を接している地政学的見地からも中国包囲網と映りかねない「戦略対話」関係に進めるはずもなく、インドを仲間に入れようとしたこと自体、印中関係の諸要素を計算に入れることができなかった、中国を囲む形になれば日本にとって望ましいというだけの1+1をなぞって2の答を得るに過ぎない暗記教育的発想から出た外交「構想」なのだろう。

 暗記教育を土壌とした暗記知識自体が内側に実質的創造性を育みにくい、形式の応用で終始するハコモノ思想の形を取るが、日本の外交の他国の外交をなぞることに終始している後追いの暗記教育形式はそこから始まって、暗記教育そのままに創造性への発展もなく受け継がれている外交様式なのだろう。

 毎日新聞が4月(07年)28、29両日に行った内閣支持率世論調査によると、<安倍晋三内閣の支持率は43%で、3月の前回調査より8ポイント上昇>、<不支持は33%で9ポイント減り、1月の調査以来3カ月ぶりに支持が不支持を上回った>(2007年4月30日 3時00分毎日新聞 ≪本社世論調査:内閣支持率、43%に上昇 不支持と逆転≫)ということだが、主な内容を列記してみると、

 支持理由
「若くて清新なイメージがあるから」―46%(トップ)
「指導力に期待できるから」―15%(前回比5ポイント増
 )
 不支持理由
 「指導力に期待できないから」―41%(最多だが、前回
 比2ポイント減)となっている。

 「指導力」への期待が15%で、失望が41%。それと比較した失望の41%を上回る「若くて清新なイメージ」への期待が46%というのも、「指導力」という内実性(=中身)を無視・排除して外側の見た目のよさ(=ハコモノ)をなぞるだけの判断を基準としているからで、それを可能としている構図はやはり知識を表面的になぞることで成り立たせるのみで、そこに独自の考えを介在させない暗記教育慣習からの判断なのだろう。

 そのような国民の暗記知識判断と対応した日本の後追い暗記教育外交と言える。

 安倍首相は中東訪問国のアラブ首長国連邦(UAE)訪問中に<テロ特措法に基づいてインド洋で米英艦などに補給支援活動に当たっている海上自衛隊の支援部隊を、首相として初めて激励に訪れ>、<「甲板上は気温が80度にも達すると言われる中、高い技量と士気を維持できる海上自衛隊の技術は世界トップクラスだ。最高指揮官として、諸官らを改めて大変誇りに思う」と隊員の労をねぎらった>ということだが、その言葉をそっくり借用して、「日本国民として、後追い暗記教育外交に終始している日本の美しい安倍首相を改めて大変誇りに思う」と、その労をねぎらってやりたい。

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