麻生日本国総理大臣、2005年10月の総務大臣在任中の有名語録――
「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」
日本の他にはない「一文化、一文明、一民族、一言語の国」である「日本」という国はそうではない国よりも優れていると価値づけているご発言である。「多文化、多文明、多民族、多言語のアメリカなんざあ、一文化、一文明、一民族、一言語の日本から比べたら、下の下の劣る国じゃあねえのか」てなもんよ。
さすがに麻生太郎。日本民族を他の民族よりも優越的な位置に置く自民族優越主義を基本的スタンスとし、人間的血とした日本民族優越主義者を正体としているというわけである。
民族の上下・優劣を民族の血で価値づける者(自民族優越主義者)は自民族の構成員をも各個人の血を上下・優劣のモノサシに用いて価値づける。血を民族単位でのみならず、各個人単位でも価値を計る基準値とすることになるからだ。腹の中ではきっとそう思っているに違いない。
だからこそ、2003年当時、野中広務のことを「野中のような出身者を日本の総理にはできないわなあ」(出展「Wikipedia」と総理にすまいとする策謀に巻き込むべく他人を唆すことができたのだろう。
さらに「Wikipedia」によると、その後自民党総務会で「出身者」発言を野中広務から直接面罵された我が麻生太郎は何も答えることができず、顔を真っ赤にして俯いたままだったというが、2005年2月に国会でそのことを追及されて、例の濁った声、上唇の端を跳ね上げてだろう、「その種の発言をしたことはありません」と否定したそうだ。
「自民党総務会は31名の総務をもって構成され、党の運営及び国会活動に関する重要事項を審議決定する。」(「Wikipedia」機関だという。麻生太郎はなぜその場で「その種の発言をしたことはありません」ときっぱりと否定しなかったのだろう。
週刊誌等の報道によって多くの政治家・一般人に“顔を真っ赤にして俯いたまま何も答えることができなかった麻生太郎”の姿が記憶されたのである。記憶されたのはきっぱりと否定した麻生太郎の姿ではなかった。
2年後の国会で否定するよりも、発言したばかりの「2003年」当時にこそ否定して、その姿を各メディアや人々の記憶に残すべきだったが、そうすることができなかった。意気地のない、あるいは口程でもない自民族優越主義者だ。
改めて言う。
民族の上下・優劣を民族の血で価値づける自民族優越主義者は自民族の構成員をも各個人の血を上下・優劣のモノサシに用いて価値づける。
日本民族を優越的位置に置く麻生太郎日本民族優越主義者は当然の価値づけとして、アジアの各民族を日本民族の下に置いている。下に置くとは、下等視していることを意味する。
そのような我が偉大な麻生太郎が4月9日、日本記者クラブで「新しい成長に向けて」と題してスピーチを行い、アジアについて語っている。日本民族を上に置き、アジアの各民族を下に置いている以上、アジアについて語る資格はないはずだが、本性を隠してそんなことは顔に見せない平然としたしらばっくれによっていくらでも語ることができる。濁っただみ声と上唇の端を持ち上げて。国会で「野中民出身」発言を平然と否定したように。
首相官邸HPの「新たな成長に向けて」のスピーチから、アジアに関する箇所を抜粋してみる。
≪アジアの成長 ~ 「アジア経済倍増へ向けた成長構想」≫
次に、もう一つのテーマであるアジアの成長に話を進めたいと思います。
アジアは、21世紀の成長センターであります。日本の大きな強みは、このアジアに日本という国が位置していることです。これからの日本の新しい成長戦略を考える上で、この地理的強みを最大限に生かしていく。こういう発想が重要です。
日本は、間違いなく人口減少に直面をいたしております。欧米市場と比べても、今後、大きく市場が伸びるのはアジアです。東アジアだけでも約32億人の人口、世界人口の約半分が東アジア。これはアジアの定義が難しいところですが、インドから東と思ってください。そういうぐらいのところです。パキスタンぐらいまで入る。そういった地域だと思っていただければと思います。
東アジアだけでも32億人。最近4年間で、1億3,000万人の人口が増加をしております。たった4年間で日本1国分が増えたということです。しかも、アジアでは膨大な経済所得の中間層というものが成長しつつあります。1人当たりのGDPが3,000ドルを超えると、耐久消費財ブームが起きると言われております。
今、中国は約3,000ドル。ASEANの平均で2,200ドルを超えました。
日本は、国境を越えてアジア全体で成長するという視点に立つことが大事です。
(1)成長するアジア全体で富を生み出し、
(2)それを経済連携や、また人的交流というものを通じて、日本の雇用やイノベーションにつなげる
。
(3)それをアジアのさらなる発展につなげるというような好循環をつくることが重要なんだと考えて
おります。
国内の生産というものを拡大することに固執するという発想よりも、国民の富が増大することを重視する。いわゆる国内総生産、GDP、Gross Domestic Productという発想から、国民の総所得、Gross National Incomeといった発想の転換が今後必要なんだと思っております。
私は、昨年11月に総理特使というものを任命しております。アジア各国の声をよく聞いて、具体策を協議するように指示しました。各国の要人と協議を重ねてきた特使の報告というものを踏まえて、私は次の2つを提案したいと考えております。
(1)アジアの成長力強化
第1に、アジアの成長力の強化です。広域インフラの整備、産業開発、制度改善、こういったものを一体的かつ計画的に進めることで、周辺地域や幅広い産業の飛躍的な発展が期待できると思っております。そのようなプロジェクトを支援します。お手元の資料に5ページがあろうと思いますが、資料の5ページを御参考ください。
《(1)具体例》
例えば現在、ベトナムのホーチミンからインドのチェンナイまでマラッカ海峡を経由して海を使い、海路で約2週間かかります。
これをホーチミンからアンダマン海まで陸路を整備して、タイからカイロでチェンナイへ運べば10日。更に、これは国を横切りますので、通関など国境通過にかかる時間というものが膨大にかかっておりますが、これは日本の通関技術、ワンストップサービス、シングルウィンドー、こういった技術を入れますと、8日で運ぶことができます。
このようなルートを建設し、周辺に工業団地など関連インフラを整備します。これによりメコン地域は、はるかインドや中東を視野に入れた自動車やエレクトロニクス、そういった製品の供給拠点として大きく発展することができます。
また、マラッカ海峡というものが果たす、海上交通の役割は不可欠です。マラッカ海峡沿岸の発展を支えることで、日中韓と中東をつなぐエネルギー輸送の大動脈を安定させることができます。インドネシア、マレーシア、フィリピンに至るまで、東南アジアの発展にも大きく寄与するのは当然です。
こういったプロジェクトの候補は、幾つもあります。
《(2)アジア総合開発計画の策定》
構想を具体化するには、
a)鉄道や陸路などの基幹的なインフラ、
b)発電所、工業団地などの関連インフラ、
c)そして、産業開発の計画、
d)資金調達の仕組み、
e)そして、通関などの改善すべき制度
などについて、総合開発計画というものを策定することが必要です。
今、東アジア・ASEAN経済研究センター、ERIAというものがありますが、また、ADB、アジア開発銀行。また、ASEANの事務局が中心となって、各国と協力しながらアジア総合開発を策定することを、今、提案したいと思っております。
ASEAN、インドを中心に、5年間で70兆円のインフラ需要があると予測されております。そのうち、既に構想・計画段階にあるものが10兆円あります。
日本は、提案するだけではなくて、ODAやその他の公的資金、勿論、民間資金まで総動員して、こうした取組みを後押しします。
日本は今回、新たにアジアのインフラ整備へ民間投資を振り向けていくために、官民連携案件を中心に、2兆円の貿易保険枠を設けます。先般表明した、最大2兆円規模のODAや国際協力銀行による5,000億円程度の環境投資支援イニシアティブも活用して、アジアのインフラ整備というものに貢献したいと思っております。
また、アジアの持続的成長には環境問題への対応も忘れてはなりません。日本の優れた環境技術、新エネ、省エネ技術を活用して、アジアワイドでの資源循環システムや高度な水の循環システムの普及などの事業を進めます。
(2)アジアの内需拡大
第二に、アジアの内需拡大が重要になります。広域開発構想による投資の刺激に加えて、アジアにおいて消費を増やすことが極めて重要です。
今後、アジアの中間層が安心して消費を拡大するためには、社会保障などのセーフティーネットを整備する必要があります。また、教育の充実によって中間層を増やしていく必要があります。
こうした課題は各国が自主的に取り組むべき課題ではあります。ベストプラクティスというものの共有や共通指標の整備などの面で、アジア全体が協力することが重要なんだと考えております。エリアが政策提言することを提案したいと思っております。
御記憶だと思いますが、日本は昭和35年に池田内閣によります国民所得倍増計画、いわゆる所得倍増というものを策定して、高度経済成長時代へ入っていきました。
今やアジア全体で中間層が存在し、内需主導で大きく成長する新しい時代を迎えつつあります。
本日、私の申し上げた構想は、アジア経済倍増へ向けた成長構想というべきものだと思っております。アジアの経済規模というものを2020年に倍増することを目指して、お互いの立場を尊重しながら、対等の立場で取り組んでいきたいと考えております。
4月12日に予定されております東アジア首脳会議の場で、私から提案し、アジアの国々と共に前進したいと思います。
表面的には立派なことを言っている。
最初に「アジアは、21世紀の成長センターであって、日本の大きな強みは、このアジアに日本という国が位置していることです」と言っているが、同じアジアに位置している中国がアジアの盟主たる地位を日本から奪い、自らがその地位に就き、アジアの政治・経済を主導している。日本が主導しているのではない。
そのことは2005年に日本が安保理常任理事国入りを目指してアジア・アフリカ各国の支持を得るべき経済援助等を行ったものの、中国の同じ経済援助等を武器とした極めて政治的な阻止活動によってことごとく阻害され、結果的にアジア・アフリカ各国ともその殆どが中国の意向を選択することになったのだが、そのような経緯そのものが中国がアジアの盟主として躍り出た何よりの象徴的出来事であったことを証明すると同時に、アジアに於いて日本は日本主導の機会を失い、中国主導に対する単なる対抗馬に成り下がった何よりの証明でもあった。
いわば「21世紀の成長センター」であるアジアをリードするのは日本であることよりも中国だと言うことである。
日本の地位低下をしっかりと見据えた対アジア戦略を持たないと常任理事国入りを断念したときと同じ失敗を演じることになる。日本民族をアジア各国の民族よりも上に置く自民族優越主義者である我が麻生太郎に日本の地位低下を冷静・客観的に把える目を期待するのは無理な注文かもしれない。
だからこそ、どうせ官僚の作文だろうが、そうではあっても、言っていることの矛盾に気づかずに「日本は、国境を越えてアジア全体で成長するという視点に立つことが大事です」などといったことを今更ながらのことのように言える。これまでは日本の成長のためにアジアの成長を利用してきただけだったが、そういった成長戦術が中国の成長で効き目を失った。中国の他のアジア各国への影響力が大きくなり過ぎたからだ。
そこで「アジア全体で成長」といった共生の意味合いを体裁よく持たせた戦術転換を偽装せざるを得なくなった。アメリカや中国におんぶに抱っこの外需頼みの経済という現実を隠して、さも主体的な経済性を持っているかのように装う。
「アジア全体で成長」が単なる偽装共生でしかないのは、「今やアジア全体で中間層が存在し、内需主導で大きく成長する新しい時代を迎えつつあります」という言葉が何よりも雄弁に物語っている。
ではなぜ日本はこれまで「内需主導で大きく成長する」「時代」を迎えることができなかったのか。戦争による荒廃からの復興を含めた日本の経済発展そのものが常にアメリカの経済に助けられ、「失われた10年」からの回復にはアメリカと中国の景気に助けられた外需型の経済「成長」であった。
そして外需型の経済構造が原因となって景気の悪化を招くたびに内需型経済構造への転換の必要性を叫ぶこととなった。
しかし必要性を叫ぶだけで、内需型経済構造への転換を図ることができず、外需型を引きずることとなっている。
それなのに、アジアに対しては「内需主導」の成長を訴える。
「アジア全体で成長」が体裁のいい偽装共生に過ぎないとなったなら、その目標項目も偽装となるのは当然だが、その文脈で解説すると、
「(1)成長するアジア全体で富を生み出し、
(2)それを経済連携や、また人的交流というものを通じて、日本の雇用やイノベーションにつなげる
。
(3)それをアジアのさらなる発展につなげるというような好循環をつくることが重要なんだと考えております。」云々は「アジア全体」でつくり出した「富」を「経済連携や、また人的交流というものを通じて、日本の雇用やイノベーションにつなげる」日本にとっての外需を主体とし、「それをアジアのさらなる発展につなげるというような好循環をつくること」を従とする、いわばアメリカや中国に引き続いてアジアに対しても日本を“外需”の位置に置く麻生の「アジア成長」戦略がホンネだということになる。
いわばそういったことを偽装した≪アジアの成長 ~ 「アジア経済倍増へ向けた成長構想」≫だということであり、これらの構図もアジアを下に置き、日本民族を優越的位置に置く麻生の日本民族優越主義の意識に裏打ちされて図らずも飛び出すとことなったホンネとしてあるアジア観・成長観であろう。
我が自民族優越主義者麻生太郎は≪アジアの成長 ~ 「アジア経済倍増へ向けた成長構想」≫を実現させるための具体的提案であるアジアの途上国政府財政支援のための最大3千億円(約30億ドル)の円借款や日本の食料生産力を向上させて食糧自給率を上げる政策さえ創造できない日本の政治家がアジアの食料生産力向上に手を貸すとは滑稽な矛盾そのものだが、カネを出すだけのことだからできるのだろう、各国の食料生産力向上のための5年間で1千億円(約10億ドル)の支援、そして1200人への研修実施等(「asahi.com」)を4月10日からタイ中部リゾート地パタヤで開催のASEANプラス3(日中韓)首脳会議、東アジアサミットで表明する予定でいたが、激しい反政府デモによってタイ政府は会議を全面中止、2、3カ月後に再開催と決定、その影響で麻生太郎が自らの晴れ舞台とすべく満を持していた構想表明の機会を失ったことはホンネはアジアを下に置いていることと併せて、何やら象徴的な晴れ舞台の消滅に見える。
≪「電柱無くし並木道を」=安倍、小池氏らが議連結成≫(時事ドットコム/2009/04/07-17:36)
電柱や電信柱を地中化し、その跡を並木道に変えることを目指す議員連盟が7日午後、衆院第一議員会館で発足した。自民党の小池百合子元防衛相らが中心となって準備を進め、会長には安倍晋三元首相が就いた。初会合には、自民党の町村信孝前官房長官や公明党の太田昭宏代表らも出席した。
安倍氏はあいさつで、「日本の町並みに、電柱はいかにも無粋だ。電柱を単に地中化するだけでなく、そこに並木を植えようという発想だ」と、設立目的を説明した。議連では、全国にある約3300万本の電柱・電信柱を国費で地中化し、個人からの寄付によって植樹を進めることを目指す。(了)
結構毛だらけ、猫灰だらけ。将来を見通す目・見識、いわば先見の明なるものを一切持ち合わせていない安倍晋三のやることだから、日本のためにはなるに違いない。
「日本の町並みに、電柱はいかにも無粋だ」と安倍晋三らしい大見得を切っているが、「無粋」にしてきたのは自民党の道路政策であろう。自身も関わってきた日本の「町並み」風景なのである。目をどこにつけているのか知らないが、忘れて貰っては困る。
「電柱や電信柱を地中化し、その跡を並木道に変える」――道路の数としたら、車両同士がすれ違う場合だけではなく、車両と自転車がすれ違う、あるいは平行して走る場合に電柱や電信柱でさえ邪魔だという道路の数が相当に、あるいは圧倒的に多いと思うのだが、そのような道路で電柱・電信柱撤去後に並木を植える余地が生じるとでも思っているのだろうか。
結局は片道2車線だ、3車線だ、そういった車道の広さに合わせて歩道幅を十分に確保してある幹線道路のみの地中化とそのあとの並木となりかねない。但しそういった道路の殆どは歩道際に既に植樹されていて、並木化は必要とされずに電柱や電線柱の撤去で終わる。
但し幹線道路でも片側1車線、歩道は自転車1台通れば目一杯といった申し訳程度の幅しかない道路の場合は、やはり並木化は難しいのではないだろうか。安倍晋三の頭の中は、単細胞程早合点が過ぎるから、既に美しい並木画像を描いているだろうが、これまでの自民党の道路政策の不備・デタラメの歴史・文化・伝統からしても、安倍晋三が頭に描く程にはうまくいくはずはない。
このように断言できる根拠を06年8月日の「47NEWS」記事が象徴的に伝えている。
≪≪歩道の幅1・5mも容認 バリアフリー基準を緩和≫≫
国土交通省は9日、道路のバリアフリー化を進めるため、車いす同士が無理なく擦れ違えるよう歩道の幅を「2メートル以上」としてきた道路構造基準を見直し、拡幅が困難な道路に限り「1・5メートル以上」に緩和する方針を決め、障害者団体などとの懇談会で提示した。
国交省は誰もが使いやすい歩道にしようと、2000年に「2メートル以上」の基準を設けた。しかし、道路の拡幅が難しい繁華街などで歩道を広げるには車道を狭めるしかなく、自治体が及び腰になって整備が進まなかった。このため、車いすの方向転換や歩行者との擦れ違いが可能な幅員1・5メートルに基準を緩和。部分的に2メートル以上の歩道も設けて、車いす同士の擦れ違いもできるよう配慮する。【共同通信】
車いす同士の擦れ違いが可能な2メートル以上の幅員を部分的に設ける。――車椅子同士がすれ違うことは滅多にないということを前提としているのだろうが、何ともお粗末な日本の道路状況である。
こういったお粗末な道路の場合、電柱地中化後の並木化は「車道を狭めるしかなく、自治体が及び腰になって整備が進ま」いどころか、お手上げ状態となるのがオチではないのか。なぜなら樹木は電柱と違って根元の周囲に電柱の断面積以上の表面積を持たせた土を必要とするからだ。その分歩道幅を削るか、車道部分を削るしかない。どちらを削っても、人か車、どちらかが不便を蒙る。
いわば日本の道路状況のお粗末さが電柱撤去は可能でも、並木化は困難なことを教えている。
尤も電柱の断面積と同等かそれ以下の表面積の土で十分に育つ背丈の低いサツキやツツジといった小さな樹木を電柱のあった場所に植えるだけでいいというなら話は別だが、但し、並木とは言えなくなる。
並木にするために電柱のあった場所だけではなく、一定距離の長さで植える方法を取ったとしても、サツキやツツジを植えるとしたら、2~3株並びで植えただけで電柱の断面積程度の幅の土は必要となる。その反面、2~3株程度で植え並べたツツジは貧弱にしか見えないだろう。開花の際の豪華さを味わうためには幅を広く植える必要があり、幅がある程豪華に映える。
安倍晋三程度の人間の規模・スケールから言えば、1株並びで植えても、その貧弱さは釣合いが取れるだろうが、安倍晋三のスケールだけで済む問題ではない。
繰返し言うと、歩道幅を十分に取ってある広い道路の殆どは既に並木化されている。歩道幅が狭いか歩道のない道路は電柱を撤去したとしても、電柱よりも場所を取ることになる並木化は難しいということである。
また電柱地中化と並木化に立ちはだかっている困難さは電柱地中化は可能でも、並木化が電柱の設置以上に場所を取るという問題だけでは済まない。県道や市町村道といった自治体所管の道路だけではなく、国管理の国道でさえ、街路樹にしてもツツジやサツキの類にしても伸び放題で剪定を受けていない、周囲は雑草が生え放題に生えている、中にはサツキやツツジといった低木を隠す程に雑草が高く伸びているといった場所が少なくないという手入れの放置問題がある。
道路建設にカネをかけても、その殆どが借金頼みの建設だから、維持・管理にまでまわす十分なカネがない、予算不足という理由からの手入れの放置――維持・管理の放置だろう。
道路だけではなく、橋にしても架けてからの耐用年数は50年で、高度経済成長に向かう1960年代(東京オリンピックは1964年)に建設した橋は現在架け替えが必要となるが、<全国にあわせて13万ある地方公共団体が管理する長さ15メートル以上の橋について、過去5年以内に定期点検が行われたのはおよそ40%にとどまる>ことを金子国土交通大臣の発表として09年2月24日の「NHK」が伝えていることも予算不足から発した問題であろうし、耐用年数がきている橋の架け替えにしても、代用策として補修で耐用年数の延長を図る動きが大勢を占めた状況にしても、カネ不足(予算不足)の問題からだろう。
「日本の町並みに、電柱はいかにも無粋だ」と安倍はさも自分は美的感覚に優れているかのように言っているが、電柱だけが日本の町並みを損なって「無粋」にしているわけではないということである。道路にしても橋にしてもきれいなのは建設した当座のみの景観の損壊も「無粋」の原因となっているはずだ。大小の河川にしても、その多くが雑草を荒れ放題に生えるに任せている。その他に統一感もなく取り付け放題の看板の問題もある。
樹木への手入れが行き届かない荒れた山、過疎化等で人手が足りなくて耕作放棄された田畑等も、自民党政治が生んだ「無粋」な日本の風景と言える
国・地方共に借金漬けとし、慢性的に予算不足状態に陥れたのも自民党政治であり、自民党政治を含めたそういった諸々の景観の先に生じた電柱のみではない、これら「無粋」であるはずだが、そんなことは安倍晋三には考える力もないのだろう。
現在、水力発電や火力発電、原子力発電に頼るまいとしている時代に差し掛かっている。いわゆるクリーンエネルギー、あるいはグリーンエネルギーと称する太陽光発電、風力発電等への依存の傾斜である。
だが、何と言っても理想の到達点は水素をエネルギー源とした燃料電池の利用ではないだろうか。それを家庭用の発電装置に利用する。各工場の発電装置とする、乗用車やトラック、その他の車両を動かす動力源とする。
そのような理想郷に到達したとき、山中や街路に張り巡らした従来の電線や電柱は無用の長物と化す。車からの二酸化炭素の排出もなくなる。
いわば、そういった理想郷により早く到達するために予算(カネ)を個別発電装置の研究開発や出来上がった装置の購入補助として使うべきで、電柱の地中化の途中、あるいは地中化後に水素利用の燃料電池の利用が一般的に普及した場合、電線の一部、あるいは全部が地中に残ることになり、不要になったからと言ってそれを取り出すにしても、膨大な予算・カネがかかることになる。
カネがかかるから埋め殺しのままにするとなると、電線として使っている銅のムダ遣いとなる。
東京ガスが水素を利用した家庭用燃料電池を開発し、既に07年4月に1号機を首相公邸に導入し、今年度から一般販売を予定しているという。
現在1台200万円以上する価格を量産効果などによって60万円程度に引き下げる計画だというが、計画的な政府補助によっても、コストダウンとそれを受けた購買加速の要因となるはずである。一定程度価格が下がり、普及に弾みがつけば、当たり前のことがだ、量産化を加速させ、一層価格を下げることができて、普及とコストダウンが好循環することになる。
その間に研究開発が進み、東京ガスが現在目指している10年の耐用年数をさらに拡大させて新装置及び工場用の大型燃料電池も開発されていくに違いない。それが開発過程であっても、家庭用小型燃料装置を何台かつなげて発電容量を大きくすることも可能である。家庭用のパソコンを何台もつなげてスパコンとするようにである。
東京ガスの家庭用燃料電池は都市ガスや灯油などから燃料となる水素を取り出し、空気中の酸素と反応させて発電するシステムだというが、「都市ガス」とはLPガスを指すと思うが、LPガスから水素を取り出し、空気中の酸素と化学反応させて発電させる家庭用燃料電池を一つの団地内の150戸に置く実験も開始されている。
≪≪家庭用燃料電池「水素タウン」実証実験始まる 福岡≫≫(asahi.com/2008年10月11日18時12分)
次世代エネルギーとして注目される水素エネルギーを利用した家庭用燃料電池を住宅団地内の約150戸に置く「水素タウン」の実証実験が11日、福岡県前原市で始まった。同市南風台3丁目の住宅に1号機が設置され、記念の式典があった。今後、対象世帯に順次設置する。
福岡県などが参加する福岡水素エネルギー戦略会議と新日本石油、西部ガスエネルギーの3者による実験。燃料電池の装置では、LPガスから水素を取り出し、空気中の酸素と化学反応させて発電。その際に出る熱を給湯に利用する。団地内に集中的に設置して、省エネや二酸化炭素(CO2)の排出量削減効果などを調べる。「100台を超える規模で集中的に設置するのは世界初」(県新産業・技術振興課)という。
記念式典には麻生渡知事らが出席。自宅に1号機が設置された元エンジニア堀米九十九(つくも)さん(73)は「料金などの負担は前と変わらないが、CO2が30~40%削減され、省エネにもなることを確かめたい」と話していた。
利用は限りある都市ガス、LPガスから水素を取り出すのではなく、水を電気分解して水素を取り出す装置の開発が最終理想の形となるのではないだろうか。水は海水として無尽蔵に存在するからだ。
もし水素利用の家庭用及び工場用燃料電池が価格面でも解決し、普及したなら、麻生太郎は4月9日の日本記者クラブで行った「新たな成長に向けて」のスピーチで、太陽光発電の規模を2020年までに今より20倍とし、世界一の座の奪還を図ると当てにもならないことを言っていたが、太陽光発電とも取って代わることになるのではないだろうか。
電気分解方式で水から取り出した水素をガソリンと混燃させることで燃費を向上させ、エンジンからの排出物を減少させる装置を搭載した車を走らせているアメリカの自動車会社を「Wikipedia」が紹介している。
米テキサス州のRonn Motor社という自動車会社で、「2008年11月4日、『H2GO』というリアルタイム水素供給システムを搭載した車両を発表」、「水を電気分解して気体の水素を取り出し、ガソリンと混燃させることで燃費が向上し、エンジンからの排出物が減少するとしている。水素供給の為の特別なインフラを必要としない。」――
「水を電気分解して気体の水素を取り出」す装置と東京ガス等の燃料電池を組み合わせて、限りある都市ガスやLPガスからではなく、無尽蔵に存在する水から水素を取り出して家庭用及び工場用の発電装置をする。
こういった最終理想地点に向けてこれも限りある予算・カネを有効に使うべきで、最終理想地点に到達したとき、既に触れたように電柱自体、送電線自体が必要なくなり、当然電線の地中化は不必要となる。安倍晋三たちの努力は結果的にカネを使っただけのムダな抵抗と化す。結構毛だらけ、猫灰だらけ。
ごくごく当たり前のことを言うが、3段ロケットは3段ロケット用エンジンと一体化させて設計する。それを4段ロケットとした場合、一体性を欠いた屋上屋とならないだろうか――
3月31日(09年)、我が麻生太郎は首相官邸で記者会見を開いて、「去る3月27日に、平成21年度予算と関連法案が成立いたしました。私は、予算の早期成立が最大の経済対策であると申し上げてまいりました。これで、景気対策の3段ロケットが完成したことになります」――
このように高々と宣言した。
続けて、3段ロケットのうちの1段目と2段目である「既に実施いたしております、平成20年度の第1次、第2次補正予算は、大きな成果を上げていると存じます」と、その性能の素晴らしさを誇っている。
「大きな成果を上げている」――1、2段が「大きな成果を上げている」なら、当然3段目にしても1段目、2段目と同様に、いや本予算なのだから、1段目と2段に劣らない超ウルトラの「大きな成果を上げ」るはずである。3段ロケットとして一体的に設計したのだから、1段目、2段目は3段目の土台を成してこそ初めて一体化した3段ロケットとなるからだ。
1、2段目が「大きな成果を上げ」ていながら、3段目が「大きな成果を上げ」ないとしたら、一体化させて設計した意味を完璧に失う。
「100年に一度」の未曾有(「みぞゆう」)の不況を前にして、麻生太郎は2月22日にホテル青森開催の自民党県連の政経セミナーでも「大きな成果」を胸を張って確約している。
「この大胆な対策を打つことによって、世界で最初にこの世界同時不況から抜け出る国が日本でなければならない。そう思って私どもは、改革をいたしましたのが、通常、3段ロケットと申し上げている、第1次の補正予算、これは11兆円のものを補正予算につくらさせていただいた。そして第2段階が、第2次の補正予算で27兆円になります。そして今、審議いただいております平成21年度の予算、これで37兆円。合計で75兆円になります経済対策を打ち出しております。予算と減税だけで国内総生産の約2%になりますが、この2%のGDP、2%の経済対策をうっている国、これは世界でほぼ最大の経済対策を打ち出したのが日本だと思っております。」云々――
麻生3段ロケットとは何を隠そう、「世界でほぼ最大の経済対策を打ち出した」もので、そうであるゆえに「世界で最初にこの世界同時不況から抜け出る国が日本でなければならない」・・・・国民に向かって、ヒトラー張りにこのように大々的に宣言したのである。
「経済の麻生」に任せて、安心して親船に乗っていなさいというわけである。派遣切りも正社員切りも内定取消しも企業倒産も株価下落も、貿易収縮もこれですべて解決します。
「世界でほぼ最大の経済対策」とは、それ以上のものが「ほぼ」ないということを意味するはずで、そのように意味しなければならない。
だからこそ、「世界で最初にこの世界同時不況から抜け出る国が日本でなければならない」と正面切って自信満々に断言できた。「経済の麻生」は「自信の麻生」でもあります。
それ以上のものがありながら、「世界でほぼ最大の経済対策を打ち出した」と言ったとしたら、途端にウソつきとなる。
ところが3月27日に09年度予算が成立したその舌の根が乾かぬうちの3月31日の上記記者会見の冒頭発言で、「しかし、なお日本は経済危機ともいえる状況にあろうと存じます。そのため、新しい経済対策を策定いたしたいと存じます。
今やらなければならないことは、基本的に3つです。
1つ、景気の底割れを防ぐこと。
2つ、雇用を確保し、国民の痛みを和らげること。
3つ、未来の成長力の強化につなげることです。」云々――
このように「新しい経済対策」の策定を早くも計画し、さらに6日経過しに過ぎない4月6日に与謝野財務相に対して国内総生産(GDP、約500兆円)の2%を上回る規模の09年度補正予算案を編成するよう指示している(「asahi.com」)。
同「asahi.com」記事は、この「09年度補正予算案」は10兆円超の国費が投入される見通しで、小渕内閣の98年度3次補正(7.6兆円)を上回り、過去最大となる規模だと書いている。
第1次補正予算、第2次補正予算、そして09年度本予算を合わせて、その威力・完成度を3段ロケットだと国会でも記者会見でも、講演でも譬えて憚らなかったばかりか、「世界でほぼ最大の経済対策を打ち出した」とおおぴっらに公言もし、偉そうに高言もして自分からその効果・効力を保証しておきながら、その威力・完成度に反して、あるいは裏切って、「世界でほぼ最大の経済対策」に付け加えた「新しい経済対策」を「09年度補正予算案」として打ち出す。
このことが意味することは「3段ロケット」が「世界でほぼ最大の経済対策」ではないということを麻生自身が白状したと言うことではないのか。
当然、「世界でほぼ最大の経済対策を打ち出した」はウソ、ハッタリの類と化す。
尤も元々麻生にはハッタリ癖があると見ていたから、ウソ・ハッタリの類であっても少しも驚かない。
大体が民主党初め野党の緊急を要するはずだから、第2次補正予算は08年度内に出すべきだとの追及をかわして年内に出さなくで大丈夫だ、来年回しで十分だと言って押し通したのは内容と提出のタイミング共に自信を持っていたからだろう。何しろどこに出しても恥ずかしくはない「世界でほぼ最大の経済対策」=「3段ロケット」を当初から目論んでいて、2次補正はその2段目に当たる一つの要でもあるのだから、自信作でないはずはない。
にも関わらず、「世界でほぼ最大の経済対策」の後に後付にも09年度09年度補正予算を打ち出す。3段ロケットの上にもう1段付け足して、4段ロケットとする。
4段ロケットとすること自体が、散々「3段ロケットだ、3段ロケットだ」と言ってきたことを裏切り、それをウソ・ハッタリとするマヤカシに当たる。
それとも麻生ならではのマヤカシなのだろうか。
08年度1次補正、2次補正、そして09年度本予算と3段ロケットは3段ロケットとして設計されたはずである。当然一体的構造を有していることになる。最初は1段ロケットの積りが、それでは距離が届かない、飛距離が短過ぎるからと2段ロケットに設計し直そう、いや2段ロケットでも少々力不足だ、3段ロケットにして強力なものにしようと継ぎ足して設計したわけではあるまい。
継ぎ足し、継ぎ足しできたと言うなら、先を見通す目、先見の明を欠くことになる。
建物で言うと、1階建てを建てた、家族が増えて狭くなったから、2階部分を増築して2階建てにしよう、いや、さらに増えたから、2階の上に3階部分を増築したというふうに上に伸ばしていった3階建てというわけではあるまい。
「3段ロケット」として設計し、建造しながら、ここに来てさらに1段付け足して、4段ロケットとする。まさしく首尾一貫を欠くことになる。
それとも最初からこれで大丈夫だと言える内容を詰める程に計画立てることができなかったと言うことなのだろうか
計画性もなく場当たり的に政策を積み上げてきたから、「3段ロケットだ、3段ロケットだ」と言いながら、あるいは「世界でほぼ最大の経済対策を打ち出した」と口では言い、「世界で最初にこの世界同時不況から抜け出る国が日本でなければならない」と正面切って自信満々に断言したものの、「3段ロケットだけでは怪しいぞ、大丈夫かいな」となって4段目を必要としたといったところではないのか。何しろ「経済の麻生」がやることなのだから。
それが小渕内閣の98年度3次補正(7.6兆円)を上回り、過去最大の「15兆円」(「NHK」)規模だというから、「世界でほぼ最大の経済対策」形無しにする、3段ロケットも真っ青の追加規模、4段目ということではないだろうか。
「NHK」オンライン記事から、補正内容を見て切ると――
●ことし1月から2年間に限って、20歳以上の人が祖父母や親から贈与された財産を住宅の取得や増改
築に充てた場合には、贈与税の課税の対象とならない額を年間500万円とする。
●新たに「子どもと家族応援手当」を創設して、3年以内に小学校に入学する子どもがいる家庭の養育費
を、今年度に限り3万6000円補助する。
●乳がんと子宮けいがんの検診について、それぞれ年齢で対象者を絞り、今年度、1回無料で受けられる
ようにすること
●医療費の自己負担が軽減される難病に新たに11の病気を加えること
他に
●ワークシェアリング推進企業を対象に雇用調整助成金の拡充
●公立小中学校3万7000校への太陽光発電の設置
●環境対応車(エコカー)の購入促進に最大25万円を補助
●地デジ対応テレビの購入額の13%、最大3万9000円相当を「ポイント」で補助
●「緊急人材育成・就職支援基金(仮称)」による職業訓練など総合的支援
●派遣切り防止など派遣労働者保護の強化号――
等々の政策を含んでいるようだが、「医療費の自己負担が軽減される難病に新たに11の病気を加えること」は景気対策として行う項目ではなく、国民の生命・財産を守る項目として常に進行形を取りながら従来的に行うべき政策であろう。
保険の利かない高額な薬や医療を利用せざるを得ず、満足な治療を受けることができない患者の存在、彼らの保険適用を求める跡を絶たない声に満足に耳を傾けてこなかったことの裏返しではないだろうか。
それを景気対策のために新たに補正予算に組むということは政治の怠慢を示すものでしかない。
「ワークシェアリング推進企業を対象に雇用調整助成金の拡充」は「3段ロケット」が「100年に一度の不況」に手抜かりなく対処すべき政策である以上、「3段ロケット」に最初から遺漏なく含めるべき政策であって、これでは不足だからと後からの継ぎ足しではやはり全体を見通しす力を欠き、立案に甘さがあったことの証明そのものであって、麻生政治の怠慢をさらに示すことになる。
「公立小中学校3万7000校への太陽光発電の設置」にしても、住宅用太陽光発電システムの設置に向けた国の補助金制度の2006年3月打ち切りから08年度の補正予算で復活、「2009年1月から条件付きで1kWpあたり7万円の補助金の開始」(「Wikipedia」までの空白が「太陽光発電量、日本3位転落」(「msn産経」)という状況を招き、遅まきながら景気対策でそれを埋め合わせようとする後付の政策でもある。
これも政治の怠慢による政策判断ミスに位置づけなければならない。
「msn産経」記事(≪日本は光を取り戻せるか 太陽光発電量、日本3位転落≫)は次のように伝えている。
<民間国際団体の再生可能エネルギー政策ネットワーク21(REN21、本部ドイツ)が調査した。それによると、昨年末段階の太陽光発電の導入量の1位はドイツで540万キロワットを記録した。2位のスペインは230万キロワットとなり、日本は197万キロワットで3位となった。
また、年間の新規導入量をみると、スペインがトップで大型原子力発電所1基分を上回る170万キロワットを記録し、2位がドイツ(150万キロワット)、3位は米国(30万キロワット)で日本は24万キロワットと4位となった。
日本は05年に累積でドイツに世界一の座を明け渡している。今回の調査結果について、飯田哲也・環境エネルギー政策研究所長は「政策の差が出た。スペインだけでなく、韓国やイタリアも日本と肩を並べるレベルにきているという調査結果もある」と指摘し、太陽光発電の導入拡大に向けた政策の重要性を指摘した。
ドイツは1991年に家庭などの太陽光設備で発電した電力を電力会社に買い取らせる制度を導入。すでにフランス、イタリアなど20カ国以上に広がっており、スペインは2008年に買い取り価格を引き上げたことが導入拡大につながった。米国でもカリフォルニア州など6州が導入済みで、他州も追随する姿勢だ。
このため、経済産業省では、06年3月でいったん打ち切った家庭用太陽光発電設備に対する補助制度を今年1月に復活し、3月末までに申請は2万件を超えた。09年度は8万4000件の制度利用を見込んでいる。今年1~3月分と合わせると30万キロワットの太陽光発電導入が達成できる計算となる。また、10年度には欧州にならい、電力会社に対して家庭などにおける太陽光発電の買い取り義務を課す制度を導入する。>――
「10年度には欧州にならい、電力会社に対して家庭などにおける太陽光発電の買い取り義務を課す制度を導入する。」――常に後手後手の後付を行っている。麻生を初め、日本の環境技術を世界をリードする技術だと誇るが、飯田哲也・環境エネルギー政策研究所長が言うように「政策の差」で後手に回ることになる。「政策の差」とは政治の怠慢から生じる「差」であることは断るまでもない。
「環境対応車(エコカー)の購入促進に最大25万円を補助」は「asahi.com」記事≪新車買い替え最大25万円補助 新経済対策に盛る方針≫2009年4月8日12時10分)によると(一部抜粋)――
<経済産業省が新経済対策の一つとして検討している自動車買い替えの促進策が8日明らかになった。新車登録から13年以上経過した車を廃車にして、10年度燃費基準を満たした車を購入する場合、普通車で25万円、軽自動車で12.5万円を補助することを想定。同基準はほぼすべての新車が達成しており、4月からの省エネ自動車に対する税の減免措置より対象が大きく広がる。
登録13年未満の車の買い替えや新規に車を買う場合も、省エネ自動車を買えば普通車で10万円、軽自動車で5万円を助成する方針だ。10年度燃費基準より15%以上燃費がいい車が対象だが、新車の4割程度が該当するという。
トラックなど商用車についても同様に20万円から180万円を補助する。
4月から始まった自動車重量税などの減免制度と合わせれば、200万円のハイブリッド車への買い替えの場合なら、購入者の負担は約40万円程度減ることになる。政府は今回の買い替え促進策で、9万人の雇用創出効果があるとみている。>――
「新車登録から13年以上経過した車」に乗っている人間にとって、愛着があって乗っているケースを除いて、新車に買い換えるカネに余裕がないことからの「13年以上経過した車」だろうから、「普通車で25万円、軽自動車で12.5万円」は縁なき「補助」、役に立たない政策に過ぎないのではないのか。
となると、「登録13年未満」どころか、登録数年「未満の車の買い替え」が主体となる金持優遇の側面は否定できない。
「20歳以上の人が祖父母や親から贈与された財産を住宅の取得や増改築に充てた場合には、贈与税の課税の対象とならない額を年間500万円とする」にしても、例え住宅建設需要が生じてそこにいくばくかの雇用を生んだとしても、直接的利益を最も多く得る金持優遇の側面は否定できまい。
職を失ったり、賃金カットなどで現在継続中の住宅ローンの支払いに難渋している中低所得層がどれ程いるか、考えたことがあるのだろうか。
住宅ローン減税は、09年度予算で「減税額が一般住宅で最大500万円(耐久性の高い長期優良住宅は600万円)と過去最大規模に拡充され、08年(最大160万円)の3倍強に。対象は住宅やマンションを購入し今年1月1日以降に入居した人。一般住宅の場合、購入者は年末のローン残高(最大5000万円)の1%分の税額控除が10年間にわたって受けられる」(≪09年度予算:成立 住宅ローン減税過去最大/正社員化で企業に奨励金≫「毎日jp」/ 2009年3月28日)と言うことだが、「今年1月1日以降に入居した人」は昨年から始まった世界同時不況に影響しない生活者だからこそ住宅建設に取り掛かることができたことを考えると、住宅ローン支払い継続中の者を除いている点、「生前贈与」等を併せると、やはり金持優遇の面があることを消し去ることはできない。
ここにきて金持優遇の面が色濃く躍り出た。1人頭12000円から2万円の定額給付金は中低所得者を前以て黙らせるアメ玉だったのだろか。
いずれにしても「100年に1度」の世界同時不況からの脱出策として、「選挙よりも景気対策だ」と言って、万全を期して「3段ロケット」を飛ばした。
万全を期さないとしたら、政治無能力を曝すことになる。多分、万全の上にも万全を期したからだろう、飛ばした「3段ロケット」の航跡の白雲がまだ空から消えないうちに4段目が必要だと騒ぎ出した。
それも従来的な政策であるべきはずなのに政治的怠慢から放置してきた、あるいは不完全なまま誤魔化してきた政策を景気対策として打ち出したり、あるいは麻生自身が大金持だから、金持の気持がよく理解できるのだろう、金持優遇の政策が大部占めている。
こういったことだけを見ても、小渕内閣の98年度3次補正(7.6兆円)を上回る過去最大の15兆円「補正」は――こういう言い方をしなければならないこと自体が既に矛盾を示しているが、「3段ロケット」に付け加えた4段目は「3段ロケット」という自己政策否定であるばかりか、結果的に一体性を欠くことになる屋上屋に過ぎないと言える。
4月3日の「asahi.com」記事が4月1、2日の両日のロンドン開催「20カ国・地域(G20)の首脳会議(金融サミット)」は2010年末までに計5兆ドル(約500兆円)の協調した財政出動を行い、成長と雇用の確保への決意を示したと書いている。この金額は世界の成長率を4%分押し上げるに役立つと言う。
いわば「G20」は財政出動を「成長と雇用の確保」の手段=不況からの脱出の主たる手段とすることを決定したということである。
日本の総理大臣麻生太郎も不況脱出には財政出動を錦の御旗に掲げる積極的な「財政出動」派である。尤も日本の政治家はカネを出すことしか知らないバカの一つ覚え的単細胞傾向にあるから、麻生太郎もその血を引き継いでいるだけのことかもしれない。
我が日本の麻生太郎はG20出発前の3月30日に英紙フィナンシャル・タイムズのインタビューを受け、財政出動をすべての国が行う必要がないとの意見がドイツにあることを問われて次のように答えたと4月1日「asahi.com」記事≪日本、途上国支援2.2兆円 G20で首相表明へ≫が伝えている。
「(日本は)そういう経験を15年間やってきた。初めて同じような状況に直面している欧米諸国の中には、財政出動の重要性を理解していない国がある。それがドイツだ」
記事の文言どおりに印象を述べるとすると、何とも勇ましい宣言となっているが、麻生太郎の「財政出動」に賭ける自信の程を窺うことはできる。熱心な財政出動信者の身に自らを置いた発言だとも言える。
欧米経済大国の中で積極的な財政出動に賛成なのは米国、英国、勿論日本で、<英国を除く欧州勢は、失業保険など社会保障制度の充実を理由に「社会保障が、不況時の自動安定化装置として機能している」(サルコジ仏大統領)、「米国とは制度が異なる」(オランダのバルケネンデ首相)と主張する。メルケル独首相は、麻生首相の批判に「本当に無意味だ」と強い不快感を示した。>と4月3日の「毎日jp」記事≪クローズアップ2009:G20閉幕 火種残して協調 財政出動、実施で溝≫がその積極的でない姿勢を伝えている。
その単細胞振りを世界に誇っていい我が麻生首相のインタビュー時の言葉は日本のバブル崩壊後の「失われた10年」の長きに亘る不況を「財政出動」を政策上の主たる力として脱却したことを理由として「財政出動」に絶対的な力と信頼を置いていることを示している。絶対的な力と信頼を置いているからこそ、財政出動に消極的なドイツを名指しで真正面から批判できたということだろう。
絶対的な力と信頼を置いていないのに「それがドイツだ」と批判したとしたら、さすが日本の総理大臣だと間違いなく世界に誇ることができることになるが、問題は「財政出動」が絶対的な力と信頼を置ける程に不況を解消し、景気を回復する確かな政策――特効薬なのかということである。
もし確かな政策・特効薬だと必ずしも言えないとしたら、そのことを念頭に置かずに「それがドイツだ」と批判したとしたら、やはりさすが日本の総理大臣だと世界に誇ることができることになる。
麻生が自信を持って言うように「財政出動」がそれ程にも力のある特効薬であるなら、「(日本は)そういう経験を15年間やってきた」と言っているように「失われた10年」からの回復に財政出動を「15年」も続けなければならなかったのは、今回の「100年に一度と言われる金融危機・経済危機」の回復に財政出動を主政策に「全治3年」と言っていることと矛盾するように思うのだが、そうではないのだろうか。
治療に「15年」も必要とする特効薬(=財政出動)というのはパラドックスが過ぎはしないだろうかということである。財政出動が功を奏して、「失われた2年」だったとか、「失われた3年」に過ぎなかったと言うなら理解できる。2年3年どころか「10年」も数えた。逆説すると、10年以上も要した景気回復のための「財政出動」だった。
当時の財政出動が特効薬でも何でもなく、小麦粉を混ぜたニセ薬に過ぎなかったということではないだろうか。
いずれにしても「(日本は)そういう経験を15年間やってきた」と麻生が自慢する日本の財政出動は不況治療に「15年」を要した。これは真正なる事実である。
ということなら、「失われた10年」当時の「そういう経験を15年間やってきた」ニセ薬相当の日本の財政出動を教訓、不況脱出のお手本として今回の「100年に一度と言われる金融危機・経済危機」に対処したなら、「全治3年」が全治「15年」もかかることになる計算とならないだろうか。
「財政出動」は短期的には効果はあるとしているものの、長期的には疑問符をつけているメーリングリスト意見がある。
≪[JMM522M] 内需を回復させる「特効薬」はあるか?≫(2009年3月9日発行)
<■真壁昭夫:信州大学経済学部教授
足許で、輸出が急速に落ち込み、企業が戦後最大のストック調整を行っている、わが国経済の現状を考えると、短期的に、内需の中心である個人消費や、企業の設備投資が直ぐに上昇に向かう可能性は低いと思います。短期的に、内需を大きく拡大する方法は、政府が積極的な財政政策によって需要を注入する以外ないと思います。
ただ、わが国の財政状況は、他の先進国と比較してもかなり悪化していますから、積極的な財政政策を打ち続けることは現実的ではありません。また、90年代の経験則で、財政出動による波及効果(乗数効果)は大きく低下しています。そのため、財政政策の発動によって、国内需要を継続的に押し上げることは困難といわざるを得ません。
さらに、わが国は人口減少局面に入っていること、また少子高齢化が猛烈な勢いで進んでいることを考えると、何か革命的な新商品の出現でもない限り、GDPの約6割を占める個人消費が盛り上がることは考え難いことです。個人消費の低迷が続くようだと、財政政策によって一時的に内需を拡大しても、その波及効果は限られます。そう考えると、国内需要の拡大を継続することは、かなり困難といえます。これからも輸出に依存する、わが国の経済構造は、そう簡単に変わらないでしょう。>・・・
「財政出動」は短期的には「内需を大きく拡大する方法」として効果はあるものの、「90年代の経験則で、財政出動による波及効果(乗数効果)は大きく低下してい」るため、その長期性の点で限界を指摘し、景気回復は外需依存しか方法がないと言っている。
では、「失われた10年」当時の財政出動は短期的に内需拡大に効果があったのだろうか。あったしても、回復に10年以上を要した。麻生の言葉で言うと、「15年間」かかった。いわば「国内需要を継続的に押し上げることは」できなかった。
このことだけとっても、麻生の「財政出動」絶対信奉は大分怪しくなってくるというだけではなく、財政出動に消極的なドイツを名指しで批判したこと自体も連動して相当に怪しくなってくる。
その怪しさを「失われた10年」と呼び慣わされた日本の長い不況を救ったのは「中国特需」だとする意見や主張とどう整合させるべきか、見てみる。
帝京大学経済学部教授・東京大学名誉教授・中国研究所理事長の高橋満氏が2006年1月13日のインタビュー記事(≪人民元切り上げや通貨バスケット制への移行は日本経済にとって吉か凶か!?≫)で、「日本と中国の経済関係は刻々と変化しているようですが、具体的に何が起こっているのでしょうか」と言う質問に次のように答えている。
「日中の経済関係が目立って変化し始めたのは、ちょうど小泉内閣が発足した2001年頃のことです。
バブルが崩壊してからの1990年代は、「失われた10年」と称されるように、日本は不況の時代でしたが、中国は10%近い経済成長を続けていました。その間、中国からの輸入は飛躍的に増えましたが、相対的に中国への輸出が伸び悩み、結果的に日本の対中貿易収支は赤字となっていたのです。
しかし、中国が2001年末に世界貿易機関(WTO)へ加盟してからは中国市場の開放が進みました。日本国内も景気が回復に向かい、 “中国特需” で半導体部品や金属加工機械といったハイテク関連の輸出が拡大し、対中貿易収支は黒字に転じたのです」――
「2001年末に世界貿易機関(WTO)へ加盟してから」の「中国市場の開放」以降の 「“中国特需” 」が日本の景気を回復局面に向かわせた。
この具体的な動きを新聞記事から把えてみる。
04年2月11日の『朝日』朝刊記事(≪「中国特需」沸く日本の造船・物資運搬の需要増の影響≫は題名だけで記事内容が大体想像できるが、 中国の経済成長で、鉄鉱石や石油、穀類といった中国向けの物資運搬用に船舶需要が高まっているため、03年の日本の船舶輸出契約量は前年の2倍上に増えて戦後最高を記録したと書いている。
その好調さは中国でビルや高速道路の建設、08年の北京オリンピックに向けたインフラ整備などが活発なため、タンカーや自動車運搬船の需要を高くしていることが原因していて、石油危機直前の世界的な好景気による空前の造船ブームに沸いた73年に記録した2583万総トン(574隻)を上回る、前年比2・2倍の戦後最高を記録する2676万総トン(564隻)の需要を生み出しているという。
「前年比2・2倍」もの飛躍というだけではなく、昨年秋口以降の円高傾向や安値受注競争過熱化による船価の頭打ちといった問題を懸念材料としているものの、各造船会社の受注量は3年分以上の手持ち工事量を確保した計算になるというのだから、「中国特需」の規模の凄さを物語って余りある。
確かに90年代初めから続いていた不良債権の当初7年かかると言われていた処理を竹中平蔵の強硬路線を採用してほぼ4年で達成し、日本の景気に明るさを取り戻したと不良債権処理の実現を小泉改革の最大の成果だと位置づけ、景気回復に役立ったとする意見(≪小林慶一郎のディベート経済 小泉改革で経済どう変わった≫『朝日』朝刊/06年8月28日)もあるが、いくら不良債権処理が進んで金融機関の経営基盤を強化できたとしても、一般企業が業績を上げないことには貸し渋りがなく金融機関からの資金を調達できたとしても、あるいは政府からの貸し付け資金を低利で潤沢に得ることができたとしても、何らかの需要に恵まれないまま企業の業績低迷、あるいは業績の悪化が立ちはだかる間は得た資金は焼け石に水状態となる。
逆に金融機関に対する小泉不良債権処理がなくても、中国向け外需によって日本の企業業績が上向いた場合、金融機関は優良な貸出先が生じて、その利益に応じて自らの不良債権を消化できる方向に持っていけたのではないだろうか。何しろ「100年に一度の不況」に見舞われる前は戦後最長の好景気に沸き、大企業各社は軒並み戦後最高益を上げていたのである。銀行がそのおこぼれに預かることができない理由はない。
さらに逆を行って、もし中国向け外需がなく、企業の業績が低迷したままだったと仮定したなら、いくら金融機関が不良債権を処理したとしても、貸出先を得ることができず、金融機関にしても企業と同様の業績低迷に喘いで、戦後最長の好景気を迎えることができなかったのではないだろうか。
次のような指摘がある(一部抜粋。「・・・(中略)・・・」は記事中の「中略」)。
≪「失われた10年」からの回復は、どういう課題を残したか?≫(村上敬亮/CNET Japan/2008/06/22 23:21 )
景気の底だった01年度から07年度までの実質国民総生産の平均成長率は、1.9%。うち半分以上は、輸出で稼ぎ出した(寄与度は1.0%)。・・・(中略)・・・二番目に寄与したのは、民間企業の設備投資である(同0.5%)。
これに対し、最大の需要項目である民間最終消費支出の寄与は0.7%台にとどまり、公共事業である公的固定資本形成は成長率押し下げ要因となった。消費の貢献度が成長率の半分にも満たないということは過去には見られなかった。政府の投資がマイナスとうのも初めてだ。
公共事業に向けた政府財政出動は「成長率押し下げ要因となった」――役立たなかったは大勢意見としてある評価であろう。
「失われた10年」という不況下でも、実質国民総生産の半分以上は外需依存(「輸出で稼ぎ出した」)であった。
「失われた10年」真っ只中の04年3月(日付記入忘れ)の「朝日」朝刊記事(≪海外メディア深読み 立ち直る日本経済 「救い主」は高成長の中国≫)も、3月2日付英紙フィナンシャルタイムズの日本経済に関する特集記事を通して題名どおり景気回復の鍵を「中国特需」としている。
<年率7%の高さを記録した03年10月~12月期実質成長率も名目値年率では2・6%と「地味」で、「政府部門の抜本改革が先送りされ」ても、中国への輸出急増が日本企業の回復を助け、「目覚めつつある巨人中国が日本の脅威ではなく、希望の主因となった」と書いていると紹介している。
要するに英紙フィナンシャルタイムズ記事は麻生が「(日本は)そういう経験を15年間やってきた」と財政出動を景気回復の主役と位置づけ、その効能を“南無妙法蓮経教”と信仰していることに反して、「政府部門の抜本改革が先送りされ」てもと、財政出動も不良債権処理も景気回復の「主因」とは見ず、主因は「中国特需」だと看做しているということである。
記事は日本企業のリストラが進み、外部環境の好転を生かせるまでに体質が改善したことが力となって、外需主導という構造的な「弱さ」を孕むが、良好な輸出環境が持続すれが、日本企業の収益向上と設備投資の増加が続き、デフレ脱却が期待できるとしている「フィナンシャルタイムズ」の分析は説得力があると指摘しているが、いくら「構造的な『弱さ』を孕」もうが、日本は外需以外にないのだから、そんなことはお構いなしの麻生太郎の図々しさを貫くしかない。
ますます麻生の「(日本は)そういう経験を15年間やってきた」が怪しくなってくる。
この間日本政府は為替介入を続けて、円高を是正し、円安に持っていこうとしている。これも外需依存型の日本の企業に救いの手を差し伸べて外需依存を確固なものとするための財政出動だが、あくまでも中国特需があってこその「失われた10年」からの景気回復効果であることは今回の外需依存が正反対に裏目に働いたことでも理解できる。
05年1月17日の「朝日」朝刊記事(≪時々刻々 日本経済、進む中国頼み・部品輸出 逆輸入が拡大≫)にしても、同じ論調である。
日本の最大の貿易相手国に中国が米国を抜いて戦後初めて躍り出たのは日本から部品を輸出し、中国で最終製品を組み立て、世界各国に送り出すという新たな「相互依存」の関係が深まった結果だとしている。
だが、中国から見ると、一国に依存しない経済を目指していて、日本は欧州連合(EU)や米国に次ぐ第3位の貿易相手国へと地位を下げていると解説している。
04年、中国の貿易総額は1兆1547億ドル、前年比35.7%と言う驚異的な伸びを記録し、日本を上回って、米独に次ぐ世界第3位の「貿易大国」となった。但し03年まで最大の貿易相手国であった日本は04年に3位に転落したと。
日本から見た場合の中国は後生大事にしなければならない地位を占めているが、中国から見た場合の日本は欧州連合や米国ほどに後生大事度は高くないというわけである。何とも不釣合いな関係ではないか。亭主は女房を大事にしているが、女房は亭主よりも子供を大事にしているといったすれ違い関係にあると言える。
「中国特需」の恩恵を最大限に受けて、「製鉄30年ぶり活況・中国特需で増産続く 公共工事減は民需がカバー」>(「朝日」朝刊/07・1・20)という道を辿ることになる。
出だしの解説――
鉄鋼業界が約30年ぶりの活況に沸いている。日本鉄鋼連盟が19日発表した06年国内粗鋼生産量(速報値)は前年比3・3%増の1億1622万トンで、高度経済成長直後の73、74年に次ぐ史上3位の高水準。かつての鋼材需要の公共工事は減ったものの、中国などに向けた輸出が好調な自動車や産業機械用の鋼板と、景気回復によるビル建設ラッシュが増産を支える。07年も高水準の生産が続くとの見方が強いが、「特需」をもたらした中国の急成長は新たな懸念材料も生み出している。(吉川啓一郎)・・・・
「新た懸念材料」とは、日本の鋼板程高品質ではない、欧米などに輸出されている中国製鋼板が米国経済の失速などで行き場を失うと、たたき売りが発生して市況を悪化させかねないという懸念である。
国内的に鉄鋼増産を支えているビル建設ラッシュの後押し要因にしても国内的景気回復にしてもその引き金は中国特需なのだから、財政出動だ、不良債権処理だはますます二次的要因に後退することにならないだろうか。
なるとしたら、麻生の「(日本は)そういう経験を15年間やってきた」は怪しいを通り越して、客観的認識性欠乏の単細胞だから言える見当違いのハッタリ以外の何ものでもなくなる。
「再び陽は昇る」ではないが、「失われた10年」からの「中国特需」を媒介とした日本の景気回復過程と同じ動きが中国と日本の間で始まっている。
≪中国で需要 家電素材生産増へ≫(NHK /09年4月5日 6時27分)
中国で家電製品の需要が高まっていることを背景に、日本の化学メーカーの間では、家電向けの部品や原料の生産を引き上げる動きが出始めています。
このうち「住友化学」は、液晶テレビの部品に使われる「偏光フィルム」を生産する国内と海外あわせて4つの工場で、一時、50%近くまで落ち込んでいた稼働率を、70%から80%程度に引き上げました。「住友化学」では、生産の回復に伴い、来年3月までにグループ全体で2500人の従業員を削減する計画を見直す方針です。
一方、「旭化成」は、家電製品の外装などに使う「樹脂」の原料を生産する子会社の3つの工場のうち、韓国の工場をフル生産に戻したほか、国内の2つの工場でも稼働率をこれまでの60%から、80%に引き上げました。
背景には、中国政府がテレビなど家電製品の購入費に補助金を出す景気刺激策をとった効果で中国向けの需要が伸びていることなどがあり、景気の悪化が続くなか、こうした輸出産業での生産増加の動きが今後、広がりをみせるか注目されます。
中国にしても国内に巨大な市場を抱えてはいるものの、日本と同様に外需依存型の経済構造となっている。日本経済にもたらした「中国特需」が主としてアメリカの好景気を主たるベースとした中国経済発展からの恩恵である以上、中国の景気刺激策が中国内に於いても外需依存の日本にとっても息の長い需要を生み出すにはアメリカの景気回復が欠かすことができない重要な要素となるに違いないが、日本に関して言うと、当然と言えば当然なのだが、「失われた10年」からの回復と同じ轍を踏むことを意味する。
改めてここで問い直さなければならない。
麻生の「(日本は)そういう経験を15年間やってきた」財政出動は疑問符を一切つけることもなしに正当性を与えることができる景気回復政策の主張だと言えるのだろうか。
「初めて同じような状況に直面している欧米諸国の中には、財政出動の重要性を理解していない国がある。それがドイツだ」と、財政出動に消極的なドイツ等の他国を正面切って批判できる程に日本の財政出動を頭から有効だったと正当化できる程の特効薬だったのだろうか。
拝啓麻生太郎総理大臣殿。
世界中が襲われることとなったこの大不況をあなたは常々「アメリカ発の100年に一度と言われる世界的な金融・経済危機」ではあるものの、「大胆な対策を打つことで、日本が世界で最初にこの不況から脱出することを目指します。異常な経済には、異例な対応が必要です」と機会あるごとに力強く、高々と宣言して、不況でへこみそうになる国民を勇気づけてきました。
「頻繁」、「踏襲」・「未曾有」を「はんざつ」、「ふしゅう」、「みぞゆう」と高々と読み上げたときも、天晴れ、麻生とばかりに国民は大変勇気づけられたものでした。
当然、この勇ましくも発せられた勇気ある高邁な「日本が世界で最初に脱出」宣言は、「世界で最初」と世界を競争対象としている以上、日本国及び日本国民のみに向けた宣言で終わらせるべきではなく、世界各国及び各国国民を勇気づけるためにも世界に向けても発信すべき宣言でもあると思います。
世界に向けてとなると、発信するに最適・最高・直近の舞台はロンドンで4月1日から開催された金融サミット(G20)の場を措いて他にはなかったはずです。
その晴れの舞台で我が日本の麻生太郎総理大臣は「大胆な対策を打つことで、日本が世界で最初にこの不況から脱出することを目指します。異常な経済には、異例な対応が必要です」云々と高々と宣言したと思います。
実際にも途上国向けに2.2兆円の貿易金融支援を行う考えを表明、「日本は欧米諸国に比べてそれほど傷が深くない。G20の中で積極政策をリードしていかなければならない」と、積極的な政策で世界をリードしていく一大決意表明をしたくらいなのですから、「日本が世界で最初に脱出」宣言を行わなかったとしたら、画竜点睛を欠くことになるでしょう。
尤も「日本は欧米諸国に比べてそれほど傷が深くない」なら、回復のスピードにしても「欧米に比べて」早くなければならないはずで、「日本が世界で最初に脱出することを目指します」は“深くない傷”に矛盾した言い方だとケチをつける向きもあるでしょうが、「ふしゅう」や「みぞゆう」といった読みと同様、うるさく言うべきではないと思います。
「経済の麻生」を宣伝し、さすがにそのとおりだと思わせるためにも傷の程度からしたら当たり前の回復順番だとしても、そんなことは図々しく無視して世界に向けて「日本が世界で最初に脱出」宣言を行うべきであり、行ったはずです。
しかしそういった動きがあったことをどの新聞・テレビも伝えていません。それは多分マスコミ自身の怠慢からであって、麻生太郎総理大臣の怠慢から宣言を行わなかったといったことではないはずです。自分の図々しさを忘れたらしからぬ態度から宣言しなかったといったことでもないでしょう。マスコミがわれわれに伝えないだけのことであって、我が日本の麻生太郎総理大臣は華々しくも高々、きっかりと「日本が世界で最初に脱出」宣言を披露したでしょう。きっと各国首脳から万来の拍手喝采で以てその宣言は大歓迎を受けたはずです。
勿論、この100年に一度の金融危機・経済危機から「日本が世界で最初に脱出」することを世界に向けて高々と宣言するには次のように言葉を続けなければなりません。
「日本以外の如何なる外国の回復を待って、その外需頼みで日本を回復させるといった従来的な後付回復のシナリオは決して取りません。そういったシナリオは日本が世界で最初に脱出の約束と真っ向から矛盾することになるからです。あくまでも日本が世界で最初に脱出し、世界の回復を日本がリードしていきます。そのための外需型産業構造からの内需型産業構造への早急にして大胆、且つ異例な方策で転換を鋭意図って参ります」
我が麻生太郎が「日本が世界で最初に脱出」の約束事を果たすにはそろそろ新しい内需型産業創出の具体的な動きが見えてもいいはずだが、一向に見えてこないのはどうしたわけなのだろうか。
そのような動きに連動して、外需型産業からの派遣切りによって職を失った労働者がそのようような内需型産業への就職に向けた動きも出てきていいいはずだが、そのような動きもないというのはどうしたことなのだろうか。
100年に一度の不況は「適切な対応をすることにより、被害を最小に抑えることはできます」とも約束している我が麻生太郎総理大臣のはずだが・・・・・・・・
≪生徒が「先生を流産させる会」 いすに細工、給食に異物≫asahi.com/2009年3月28日10時43分) 愛知県半田市の市立中学校で、担任に不満を抱いた1年生の男子生徒十数人が「先生を流産させる会」と称し、妊娠中の30代の女性教諭に対し、いすのねじを緩めたり、給食に異物を混入したりしていたことが分かった。 同市学校教育課によると、生徒らのいたずらは今年1月から2月にかけてあった。教諭の車にチョークの粉やのりなどを混ぜ合わせてふりまいたり、いすの背もたれのねじを緩めたりしたほか、消臭や殺菌、食品添加物などに使われるミョウバンを理科の実験の際に教室に持ち帰り、教諭の給食に混ぜたという。 こうしたいたずらを見かねた周囲の生徒が2月下旬、別の教諭に伝えて問題が発覚した。担任がけがをしたり、体調を崩したりすることはこれまでなかったという。 学校側が事情を聴いたところ、席替えの方法や部活動で注意されたことへの不満を口にする生徒がおり、「先生に反抗しよう」という話が持ち上がったのがきっかけだったことが分かった。学校はその後、保護者を呼んだうえで生徒を指導し、生徒らも反省の態度を示しているという。 |
校長は「個々にはいい子たちで、最初は信じられず、仰々しいネーミングにも驚いた。ただ軽いのりからエスカレートしたようで、計画的とまでは言えない。命の重さについて、より指導を徹底していきたい」と話している。
「個々にはいい子たち」であっても、集団になると断ったら悪口を言われるのではないか、仲間外れにされるのではないかなどと恐れて本人の意に反して巻き込まれたり、唆しに加わったり、あるいは仲間にいいところ見せようと積極的に煽動したりして自分を維持できなくなることがよくあることだから、学校教育責任者としての校長の立場としては、集団を形成しても自分を維持できるかどうかを問題としなければならないはずだが、そこまで考える洞察力は持ち合わせていないようだ。
また「軽いのり」であろうと、「計画的」でなかろうと、動機が取るに足らないからといって、結果が動機の範囲内の他愛なさで終わるとは限らない。ちょっとした悪ふざけから殴り合いの喧嘩となり、殴り合っているうちに相手を殺してしまうことだってある。「先生を流産させる」企みが他の生徒の報告によって結果オーライで終わったに過ぎない。一向に流産しそうもないとなったなら、何かのキッカケで手口が悪質化の方向に進まない保証もない。
当然、生徒たちがそういう行動に出たこと自体を問題にしなければならない。校長は生徒指導や生徒管理に向けた自身及び学校の責任に関わってくるから、生徒の行動を限りなく矮小化し、併せて自分たちの責任を小さくしたいがために取るに足らない出来事だと済ませようとしているのだろう。
そういった責任回避意識が問題がどこにあるかの客観的認識性を曇らせることになる。いや、最初から曇っているから、当たり前の振舞いとして責任回避意識が働くのではないのか。客観的認識性が確固とした形成を受けていたなら、問題の所在から目を背けることは難しくなって、責任回避の方向に向けた意識は働きにくくなるはずだからだ。
校長は「命の重さについて、より指導を徹底していきたい」と言っているが、学校教育者にふさわしい、当然備えているべき客観的認識性を欠き、当たり前のように責任回避意識を働かす人間に指導などできようはずはない。
単に言葉だけのことは伝えることができる。「人間の命は非常に重たいものです。大切にしなければなりません」といったふうに。「お年よりには親切にしましょう」とか、「バスや電車電車に乗ったら、席を譲りましょう」とかと同様に、既にある言葉(既成の知識)を使って、単に機械的に伝えるだけのことはできる。
日本の教育が伝統としている教師が与える既成の知識を生徒が既成の知識の範囲を出ないまま受け止めて自分の知識とする暗記教育・暗記式知識授受に則った教え方だからだ。
既に多くの人間が言い、手垢がついているにも関わらず命に関して既成化している知識(常套句)を利用し、単に受け継ぐに過ぎない。そういった形式の教育からはまともな客観的な認識性は生まれない。
深刻ないじめを受けて自殺する生徒が出ると、学校校長は決まりきって「命の大切さを伝えたい」、「命の重さを教えたい」と言うが、生徒それぞれの内面に響かせて生徒に人の命を深く考えさせることができたと言えるのだろうか。教師だけではなく、生徒にしても既成の知識を伝達・授受する暗記教育に慣らされている。言葉としてのみ発し、言葉としてのみ受け止めて終わらせているといったところではないだろうか。
妊娠した女教師のおなかの子を流産させる――もし成功したなら、胎児殺しだけで終わらない。ある意味女教師自身を殺すことになる。命の喪失感を彼女自身の身体と記憶に巣食わせることになるからだ。命の喪失感と共に生きることが彼女の当たり前の生命感を少なからず奪う、あるいは損なうという意味での“殺人”である。
女教師が生徒に何も期待していなくても、それでも流産させられたなら、生徒に裏切られたという思いが彼女の命を損ないもするだろう。
「命の重さ」など、どうせ「指導」できないだろうから、生徒たちのしたことが最悪の場合、どういう結果を生むか教えるべきだろう。子供の命だけではなく、ある意味先生の命も奪うことになったかもしれないんだぞと。しようとしていたことの重大さを。
「命の重さ」を「指導」できっこがないのは「個々にはいい子たちで、最初は信じられず、仰々しいネーミングにも驚いた。ただ軽いのりからエスカレートしたようで、計画的とまでは言えない」といった認識とは正反対方向の認識の発動によって可能となる教えであることが何よりも証明している。
命の保障とは、十全に生きる権利の保障を言うはずである。十全に生きるとは、喜怒哀楽の感情を他からの何の制約も抑圧もなしに発揮できることを言う。喜怒哀楽の感情を抑圧したり制約を加えて歪めたり、暗い鬱々とした姿に変えていい権利は誰にもない。喜怒哀楽の感情発露の十全性が保障されて初めて、生命は生命として存在し、あるべき人間の姿を取ることができる。
以前自作HP「市民ひとりひとり」に次のようなことを書いた。一部抜粋だが、参考までに。
≪第33弾「なぜ、人をいじめてはいけないのか≫(2000/11/12(日曜日)更新)
※人間はただ単に息を吸ったり、吐いたり、呼吸だけして生きているわけではない。その人なりの喜びや怒り、哀しみ、楽しさの喜怒哀楽の感情や考え、生き方を持ち、それらを土台とした自分独自の世界を築いている。いわばその人なりの「自分」を持ち、その「自分を生きている」。その人なりの「世界」持ち、その「世界を生きている」。 ※勿論、その世界は自分に独自のものでありながら、身近な複数の他者の世界と否応もなしに関わり、交(まじ)わっている。他者とその世界を自分と自分の世界に受入れながら、それでも自分とその世界がお互いに独自なものとして成り立っているのは、一人一人異なる「自分」を土台としているからである。 ※「自分を生きる」ということは、「自分らしさ」の維持に他ならない。誰もが、「自分らしさ」を維持したいと願っている。常に自分は「自分」でありたいと願っている。そのように願わないのは、自分で「自分であること」を否定することになるからである。 ※いじめ(暴力・無視・悪口etc.etc.)は人それぞれが「自分を生きる」ことを歪めたり、妨害したりすることである。「自分の世界を生きる」ことへの邪魔立てに他ならない。「自分らしさ」の維持への抑圧そのものである。人それぞれの「自分」を攻撃することでもある。 ※いじめを行った瞬間、いじめた人間は「自分を生きる」ことを否定されてもよいと宣言したのと同じことになる。「自分の世界を生きる」ことも、「自分らしさ」を維持することも、歪められても、妨害されても、誰にも文句を言えないことになる。 ※相互に、「自分を生きる」こと・「自分の世界を生きる」こと・「自分らしさ」を維持すること・自分が「自分であること」を認め合うことによって初めて、すべての人間が「自分を生きる」ことが・「自分の世界を生きる」ことが・「自分らしさ」を維持することが・自分が「自分であること」が許される。 ※自分だけ許されて、他人には許さないのは不公平で一方的な約束事となる。 ※みんなが、それぞれの「自分」を認め合う関係となって、自分が「自分であること」の権利が生ずる。それなしに、社会の一員としての権利・資格は生じない。 ※言い換えるなら、自分が「自分であること」を相互に尊重しあうことによって初めて、社会の一員としての権利・資格が生じる。さらに言い換えるなら、誰かをいじめる人間は自分が「自分であること」の権利・資格(=社会の一員としての権利・資格)を自分から放棄することになる。 ※いじめることが「自分であること」の一部、あるいはすべてだという「自分」とは、どのような「自分」なのだろうか。教師はそのことを生徒に問うべきである。問うべき言葉を持つべきである。 ②「なぜ、人を殺してはいけないのか」 ※答は簡単である。「自分を生きる」こと・「自分の世界を生きる」こと・「自分らしさ」を維持すること・自分が「自分であること」は常にすべての人間の権利としてある相互性のもので、誰であれ、人を殺すことによってそれを侵してはならないからである。 ※いじめとの関連で言うなら、「自分を生きる」こと・「自分の世界を生きる」こと・「自分らしさ」を維持すること・自分が「自分であること」の妨害・攻撃・否定がいじめなら、人を殺すことはそれらの完全否定・完全抹殺であり、社会からの完全排除となるからである。それはその人間の存在と暗黙の社会的契約としてある相互性そのものへの完全否定・完全抹殺・完全排除に当たるからである。 ※教師は生徒に、常に常に、君たちはどのような「自分を生きている」のか、どのような「世界を生きている」のか、どのような「自分」なのか、問うことをしなければならない。自己認識能力・他者認識能力の獲得訓練となるからであり、それは当然、対人感受性の育みへと重なっていく。 |
児童虐待とそれを見過ごして保護せず、親の虐待子殺しに間接加担した児童相談所の事件を伝えるNHKインターネット記事――
≪面談7回 判断は“虐待なし”≫(NHK/09年3月30日 18時50分)
北海道稚内市で4歳の長男を水風呂の中に沈めるなどして殺害したとして、母親と同居していた男の2人が警察に逮捕された事件で、地元の児童相談所は、7回にわたって容疑者の母親と面談しながら虐待はないと判断していたことがわかりました。
この事件は、稚内市の清掃員、本望哉恵容疑者(25)と、同居している警備員の對馬博臣容疑者(38)の2人が28日夜、本望容疑者の長男の龍生君(4)を自宅で水風呂に何度も沈めるなどして殺害したとして、殺人の疑いで逮捕されたものです。
警察によりますと、龍生君は病院に運ばれた際、体温が30度を切っていて、死因はおぼれたためとわかりました。地元の児童相談所によりますと、児童相談所はことし1月、龍生君が通っていた保育園から「あざやこぶがあり、虐待の疑いがある」という通報を受け、母親の本望容疑者らと7回にわたって面談したということです。しかし、「兄弟げんかだ」などと言われ、子どもからも虐待されたという話が聞けなかったとして虐待はないと判断し、警察にも連絡しなかったということです。
さらに保育園は、龍生君のあざを見て3月7日にも児童相談所に通報しましたが、児童相談所は「様子を見ましょう」と返事をしてきたということです。
旭川児童相談所稚内分室の渡辺邦芳分室長は「子育てがたいへんだという話で、虐待の認識には至りませんでした。こういう事態になってしまい、力不足だったと思います」と話しています。
警察は、2人が以前から虐待を繰り返していたとみて、さらに捜査を進めています。死亡した男の子が通っていた稚内市の保育園の職員は、30日夕方、記者会見し、「虐待の疑いが強いと思って通報したのに、ほんとうに残念でならない」と話しました。
この中で職員は「お子さんに打撲の様子が見られたので、職員で悩んだ末に通報しました。通報が生かされずほんとうにびっくりしてショックを受けました」と述べました。また、死亡した龍生君については「とても活発で、小さな友達にとても優しく、表現豊かな絵を描く力のあるすばらしいお子さんでした。ほんとうに残念でなりません」と、時折、ことばを詰まらせながら話していました。
3月31日の別のNHKインターネット記事は児童相談所が両親と面談した際、稚内市職員も同席していたことを伝え、市職員の対応を次のように解説している。
<稚内市は児童虐待を防止するための関係機関の連絡会の事務局を務めていて、教育部の職員が龍生君にあざやこぶがあるのを直接確認していましたが、警察に連絡する必要はないと判断し、具体的な対策をとらなかったということです。稚内市教育部では「対応が不十分で反省している。今後、ほかの関係機関との連携のあり方などを見直していきたい」と話しています。>
児童相談所に劣らず、市も十分に役目を果たしたと言うわけである。何しろ「児童虐待を防止するための関係機関の連絡会の事務局を務めてい」るくらいだから。
また3月7日の通報に対して児童相談所の「様子を見ましょう」はやはり別の3月31日のNHKインターネット記事(≪虐待死 男児の妹らも虐待か≫)によると<今月(3月)初めには妹の1人が腕を骨折し、保育園側が、あらためて児童相談所に通報しましたが、母親は「ベッドから落ちた」などと説明し、相談所も「様子を見ましょう」と話していたということです。警察は龍生くんだけでなく妹たちも逮捕された2人から虐待を受けていた疑いがあるとみてさらに調べています。>となっている。
インターネット記事を読んだだけでは分からないが、ニュースを直接見るか、インターネット記事に付属している動画を見るかすれば、旭川児童相談所稚内分室の渡辺邦芳分室長の児童虐待に関わる危機管理意識(=子供の生命(いのち)に関わる危機管理意識)を窺い知ることができる。勿論、どのような意識であっても、そこには本人の人間性が深く関わっている。30日の別のNHKインターネット記事も加えて動画から、渡辺邦芳分室長の言葉と保育園の言葉を文字に起こしてみた。
まずは3月30日の記事≪児童相談所 虐待なしと判断≫から渡辺邦芳分室長の言葉を拾ってみる。
インターネット記事では<「子育てがたいへんだという話で、虐待の認識には至りませんでした。こういう事態になってしまい、力不足だったかもしれないと思います」>とごく当たり前の表現となっている。
子供にコブやアザがあるという通報を受けてからの対応を動画から。
渡辺邦芳分室長「子供たち・・・、のことについては、まあ、あのー、ま、体罰とか、虐待・・・、みたいなことは、一切ないって話は勿論していました。子育てを少しづつ楽にできるのは、もう少しどうすればいいのかなあって、そういう視点で、随分に関わったんですねえ。ええ、こういったことになるっていうのは、兎に角・・・、大変残念で(声を小さくして)らっしゃいます・・・、ええ、私の力不足だったかもしれないとは、凄く思っております」――――
「大変残念でらっしゃいます・・・」と最後の方の声を小さくして言ったのは、不適切な敬語と気づいたからだろうが、そこに敬語を持ってくる意識を生じせしめること自体が児童相談所の対応のまずさが招いてもいる虐待死だという責任を深刻に把えず、距離を置いた責任意識となっているからだろう。
両親と面談を持った。「体罰とか、虐待・・・・・、みたいなことは、一切ないって話は勿論していました」――
「勿論」という言葉を付け加えて、両親の話の中に体罰・虐待の存在を窺わせる様子が全然なかったことを強調している。その一方で自分たちが負うべき役割上の有用性に関しての反省が一切ない。
これは罪の回避であり、責任回避の意識がそうさせた会話態度であろう。そのことは次の言葉に如実に現れている。
「子育てを少し少しづつ楽にできるのは、もう少しどうすればいいのかなあって、そういう視点で、随分に関わった」
その点で「随分に関わ」ることで自分たちの役割を果たしたと、児童相談所としての役割の正当性を訴えている。
渡辺邦芳分室長の談話は母親と同居の男が子供を風呂に沈められるなどして殺してしまい逮捕されたことで明るみに出た虐待・体罰の事実を受けて、その結果、児童相談所が最初の体罰・虐待を見逃し、そのあと保育園が2度目の通報を、あるいは妹も虐待を受けているのではないかという疑いの通報を児童相談所に行ったのに対して「様子を見ましょう」と、死なせてしまったのだから、言葉でそういっただけで済ませてしまった等々の一連の経緯、児童相談所としての役割が効果を見なかった一連の無策を知った上での談話である。
当然、少なくとも自分たちの能力不足・責任不足を責める言葉、あるいは反省する言葉があって然るべきだが、一切なく、逆に狡猾にも正当化を図っている。
勿論、「力不足」だとは言っているが、「私の力不足だったかもしれないとは、凄く思っております」と、「かも知れない」をつけた「力不足」であって、ここにも責任逃れの意識と自己正当化の意識を覗かせている。
「かもしれない」とは「可能性はあるが、不確実である意を表す」(「大辞林」三省堂)言葉であり、いわば断定を避ける、あるいは事実を曖昧とする意味を含んでいるからだ。要するに「力不足だった」と明確に能力不足を訴えているわけでも、責任を認めているわけでもなく、曖昧とする方向に意識を働かせている。
また「力不足だったかもしれないとは」の「とは」にしても、断定を避ける第三者的な距離を置いた言い方であろう。「私の力不足だったかもしれないとは、凄く思っております」と、「とは」を抜かして「私の力不足だったかもしれないと、凄く思っております」とでは自分たちのことと把えているか他人事と把えているかの距離的なニュアンスに大きな違いがある。
「体罰とか、虐待・・・、みたいなことは、一切ないって話は勿論していました」――――
児童相談という重大な福祉業務に関わって7度も面談を繰返していながら、渡辺邦芳分室長はアザや怪我が「ベッドから落ち」てできたとか転んでできた、自転車を走らせていて転んでできた、喧嘩してできたと虐待や体罰を隠す常套句となっていることをこれまでの親の子供に対する虐待例・体罰例から学んで情報として頭に整理していなかったのだろうか。
また否定の言葉には潔白を証明する否定と潔白だと偽る否定とがあることを常に頭に置いて、どちらの否定なのか探る経験をしてこなかったのだろうか。
こういった児童福祉に欠かすことができない知識・情報を第一ステップとし、最悪のケースに至ることの恐れを常に抱き、例え結果的に過剰反応となったとしても、想定し得る最悪のケースを回避する方策を取ることを子供の生命(いのち)を守ることに限らず、すべてに関する危機管理と言うはずである。最悪のケースに至ることよりも過剰反応だったことの方が遥かに幸いなことだからだ。
児童虐待に於ける最悪のケースとは殊更言うまでもなく虐待が死をもたらしてしまう虐待死である。
ところが過剰反応どころか、すべて過小反応で終わらせている。
では最初の「NHK」記事に戻って、その動画から保育園や渡辺邦芳分室長の言葉を拾ってみる。
保育園「打撲の様子が、ええ、身体上で見られたので、虐待である疑いが強いと思いまして、通報させていただきました」
渡辺邦芳分室長「アザの・・・、確認もしていますが、あのー、それは、あのー、虐待ィーのものなのか、ひどい、ものなのか、ということではなかったのでー、ええー、母親が言うように、子供たちが遊んだり、喧嘩したりしてできるということだったので、ああ、まあ、そういうことも可能性としてあるんだなあと、いう風には思っておりました」
2度目の通報に関して――
渡辺邦芳分室長「見抜けなかったんですね。見抜けなかったんです。もうちょっと、考えればよかったと思いますしね。保育所が言うように、もうちょっと・・・(聞き取れない)守れるように考えればよかったと思いますしねえ・・・」
保育園「体調も悪かったので、顔色も悪くって、心配だったので、顔を撫でたり、頭を撫でたり、背中をさすって、大丈夫って、いうふうな言葉をかけたのが最後でした。(泣き声になって、声を振り絞るように)残念です、無念です」
園長だと思うが、児童相談所の渡辺邦芳分室長よりも遥かに子供の生命(いのち)を身近に引き寄せて、思い遣っている。
渡辺邦芳分室長の「ああ、まあ、そういうことも可能性としてあるんだなあと、いうふうには思っておりました」の「あるんだなあ」と「いうふうには」の物言い、そして「考えればよかったと思いますしねえ・・・・・」の「思いますしねえ・・・・・」の言葉は全く以って一人の子供の生命(いのち)をなくしてしまったことへの深刻な思いのカケラもなく、他人事として距離を置いた物言いであって、死なせてしまうことに力があった自分事のほんの一部としても把えていない。
親の説明を言葉通りに受け止める。その方が面倒がなくていいからだろう。児童相談所の分室長を名乗っていながら、子供の生命(いのち)を身近に引き寄せた危機管理意識など最初から持ち合わせていないから、面倒を避ける意識が働く。
役目に懸命でないところは、麻生と一緒だあ――と、ここでなぜか麻生が出てくる。