横畠法制局長官の憲法は核兵器使用を禁止していないは安倍晋三の安全保障観と軌を一にしたものと考えるべき

2016-03-20 07:23:39 | 政治

 2016年3月18日の参院予算員会で白真勲民主党議員の質問に横畠裕介内閣法制局長官が核兵器の使用を憲法は禁止していないと答弁したと各マスコミが伝えている。「時事ドットコム」記事から見てみる。

 横畠裕介内閣法制局長官「憲法上、あらゆる核兵器の使用がおよそ禁止されているとは考えていない。(但し)核兵器に限らず、武器の使用には国内法、国際法上の制約がある」

 白真勲議員「集団的自衛権行使の一環として日本が海外で核兵器を使用することは可能か」(解説体を会話体に直す)

 横畠裕介内閣法制局長官「そうならないと思う。我が国を防衛するための必要最小限度を超える海外派兵は許されないという考え方は変わらない」

 記事解説。〈日本政府は非核三原則を堅持し、政策的に核兵器の保有や製造などを認めていない。憲法上禁止していないとする横畠氏の答弁は、過去に岸信介首相らが示した同様の見解に沿ったものだが、安全保障関連法の施行を29日に控え、国内外で疑念を招く可能性もある。〉――

 長官が言っていることは日本国憲法は核兵器の所有を禁止していないということである。“所有”があって初めて“使用”が可能となる。だから、北朝鮮の場合はせっせと核の開発に勤しんでいる。

 だが、日本国憲法「第2章戦争の放棄 第9条」は、〈日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。〉と戦力の不保持を規定している。

 「戦力」の意味を正確を期すためにネット辞書から引用することにした。

 【戦力】

 1 戦争を遂行するための力。兵力だけでなく、兵器など軍需品の生産力や物資輸送力を含めて、総合的な戦争遂行能力をいう。
 2 スポーツや政治・労働運動などで、戦う力。また、事を行ううえでの重要な働き手。「あの選手は―になる」 (goo辞書

 つまり「総合的な戦争遂行能力」とは兵士が自らの身体性を用いて扱う兵器全体の能力や戦術・戦略、そしてその身体性をも含めて戦力と言うということなのだろう。

 当然ここに核兵器も入ってくる。

 安倍政権は憲法の番人は最高裁の判断だと言って、1959年(昭和34年)12月16日の砂川事件最高裁判決を持ち出し、集団的自衛権は合憲だとの判決を下していると憲法解釈による集団的自衛権行使を認めさせているが、同じ砂川最高裁判決は日本国憲法9条の「戦力」について次のような判断を示している。

 「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる 侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

 従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」

 ここで言っている「外国の軍隊」とは断るまでもなく日本駐留の米軍のことで、日本国憲法9条第2項が禁じる戦力に当たらないから、米軍の日本駐留は憲法違反に当たらないとしたのが砂川最高裁判決の主たる判断対象であって、集団的自衛権が認められているとか認められていないとかは判断対象とはしていない。

 それどころか、日本国憲法9条第2項が禁じる戦力とは、「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいう」とし、「結局わが国自体の戦力を指」すと、自衛隊そのものを違憲としている。

 にも関わらず、長官は日本国憲法は核兵器の使用を禁止していないと主張した。そのように主張している以上、使用するのは自衛隊であり、“使用”は“所有”を前提条件としなければならないから、核兵器の使用に「国内法、国際法上の制約」があったとしても、所有したい願望を内に秘めていることになる。

 いわば核兵器を所有して、「国内法、国際法上の制約」上から、核兵器は先に使うことはないと核の先制不使用宣言はするものの、核兵器そのものを抑止力として利用する願望のことである。

 官房長官の菅義偉が3月18日午後の記者会見で、横畠長官の主張に関して、将来的な核兵器の保有や使用の可能性を否定、「全くあり得ない」と強調したと言うが、保有したい願望がなければ、日本国憲法「第9条第2項」が禁じる戦力の主たる武器となる核兵器の使用を憲法は禁じていないなどと主張することはない。

 安倍晋三が2013年、2014年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式挨拶では「非核3原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、世界恒久平和の実現に力を惜しまぬことを誓う」と述べていたが、2015年8月6日の挨拶では非核3原則の堅持には一言も触れなかった。

 但し広島の後の8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典挨拶では、「非核三原則の堅持」に触れているが、あくまでも広島の挨拶で触れなかったことを問題視されたことの修正であって、この修正によって広島で触れなかったことの意図が抹消されるわけでなない。

 安倍晋三が望み掲げている安全保障観からすると、横畠長官の主張が安倍晋三の意図に対して軌を一にした動きだと考えると、全て納得がいく。

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3/18参院予算委白眞勲追及の従軍慰安婦日韓合意、岸田の国家性善説と安倍晋三のお詫びと反省のマヤカシ

2016-03-19 10:53:33 | 政治

 3月18日参議院予算委で民主党の白眞勲議員が昨年末2015年12月28日の慰安婦日韓合意はなぜ文書の形を取らなかったのかと外相の岸田文雄を問い質し、安倍晋三には韓国を訪れたなら元従軍慰安婦に会うつもりはあるかと尋ねた。

 両者の答弁は論点をすり替えて辛うじて誤魔化す苦しい内容となっていたが、その苦しさを顔には見せない強かさは流石に海千山千の政治家である。

 白眞勲議員「外務大臣は(昨年12月28日の従軍慰安婦日韓合意を)明確且つ十分な確約を得たものであると答弁された。だったら、文書に書いて署名すればよかったのに、何でしなかったんですか」

 岸田文雄「今回の日韓合意につきましては昨年12月28日、日韓の外相が直接会い、会談を行い、直談判で内容を確認し、その後日韓の首脳が電話会談を行い、内容を確認した上で共同記者会見に臨みました。

 その記者発表に於いて日韓の外相がテレビカメラの前で両国の国民のみならず、全世界に向けてこの合意内容を明言致しました。このことは大変重たいと思います。十分な確約が得られたと我々は受け止めております」

 白眞勲議員「お答えになっていないんですね。なぜ文書にしなかったのか聞いているんですよ。例えば2年前の日中首脳会談で合意した日中関係の改善に向けての話し合いというのがあるが、やっぱり文書にしているんですねえ。

 今回は15億円程度の日本政府の資金の供出ですよ。日本政府の予算で出すと決めているのに、15億円というのは予算でしょ。国民の税金です。それを口約束で確約してしまうということですか。もう一回お聞かせください」

 岸田文雄「要は両国の合意内容を両国がしっかりと確認をし、これを明らかにすることが大切だということです。そのためにどのような形を取るのか。これはそのテーマによって、その場合によって、両国でしっかりと話し合った上で決めるべきことだと思います。

 今回の合意に於いては文書にしなかったわけでありますが、先程申し上げまして手続き、そして形を取ることによって、両国の合意確認は十分にできたと受け止めておりますし、明確な、そして十分な形で国際社会からもしっかりと確認をされたものであると認識をしております」

 白眞勲議員「ですから、何度も聞くようで申し訳ないのですが、手続き取ってるんだったら、最後は文書でしょう。何で手続き取ったのに文書にしなかったのですか。文書にできない、後ろめたいところがあるんですか。

 (岸田が自席て首でも振ったのだろう)そうじゃない。では、理由を教えて下さい。今のは理由になっていない。確約して手続き取って、確認したんだから、文書にしなくていいんです、それはおかしいです。論理的にあり得ないんです。そういうことなんです。もう一回言ってください」

 岸田文雄「先程申し上げたように合意の中身を如何に確認するか、しっかり確認できるということが大切だと思います。文書にするというのも一つの形であります。今回のようにこうした公の場で両国の外相が世界に向けて発信する、これも一つの形だと思います。

 いずれにせよ、その合意がしっかりと確認され、それを広く知らされる、そのことが大切であります。文書にするというのも一つの形でありますが、今回は両国でしっかりと話し合った上で、こういった形が取られたわけであります。文書にしなかった理由は以上であります」

 白眞勲議員「何か理由があったから、しなかったんだと思いますが、言いたくないんだったら、仕方がないと思うんですが・・・・」

 そして伊勢志摩サミットに話題を持っていって、サミットに朴韓国大統領をオブザーバーに招いたらどうか、首脳同士が頻繁に合うことで両国関係が改善される、シャトル外交をやった方がいいなどと提案。

 そして従軍慰安婦日韓合意でクローズアップされることになった韓国の元従軍慰安婦の話題を取り上げる。
 
 白眞勲議員「(シャトル外交で)韓国に行ったときにですね、安倍総理、元慰安婦のお婆さんと会う予定はありますか。会いたいと思いますか」

 安倍晋三「いわゆる慰安婦の問題につきましては昨年の合意によって最終的不可逆的に解決したのであると、このように考えております」

 白眞勲議員「いや、質問は韓国に行ったときにいわゆる元慰安婦のお婆さんと会う気がありますか。もう一度お答えください」

 安倍晋三「今のご質問でございますが、この問題につきましてはですね、今申し上げましたようにこの合意というのはお互いに相当に議論を進めた中に於いてやっと統一した合意でございます。

 そこで今申し上げましたようにそこで完全且つ最終的に不可逆的に解決をした、そのように考えております。

 これからは今後未来についてお互いに議論していきたいと考えているところでございます」

 白眞勲議員「まあ、お答えにくいんだったら、しょうがないというふうに思うんですが・・・・・」

 最近韓国では北朝鮮との平和的統一の話をする人が多くなっているからと統一後の協力体制を質す質問に移っていった。

 岸田に対する質問にしても安倍晋三に対する質問にしてもどうも気の抜けた追及で終わったようだ。

 岸田の答弁を読めば、文書化しない方が都合のよい、両国にとってメリットとなる何らかの理由の存在を疑わないということはあり得ない。

 そのメリットとは何らかの密約の存在以外に考えることはできない。

 岸田自身は「両国の合意内容を両国がしっかりと確認をし」、その内容を「日韓の外相がテレビカメラの前で両国の国民のみならず、全世界のに向けて明言した」から、文書にしなくてもいいと言っている。

 だが、公にした合意内容が世間の目から閉ざされた場所で両国間が合意した内容と常に一致するとは限らない。一致するとしたなら、この世界に密約なるものは存在しないことになる。

 だが、密約は例に事欠かないぐらいにいくらでも存在する。

 当然、岸田文雄が言っていることは国家は間違ったことも、誤ったこともしない、隠し事もしないとする「国家性善説」に立った戯言(たわごと)を振り撒いたに過ぎない。

 もし「国家性善説」が通るとしたら、立憲主義の政治原則に基づいて国家権力の恣意的行使を規制する民主憲法は必要なくなる。放っておいても国家は常に性善のみを行うことになるからだ。

 マスコミに於ける権力監視の役目も必要なくなる。

 成年後見制度に基づいて財産管理能力喪失者の後見人となった弁護士などが被後見人の財産や預金を横領する事件はこの世に存在しないと言うに等しい。

 誰が信じるだろうか。

 勿論、文書化する場合、密約が存在したとしても、公の目に耐え得る合意内容のみを文書化するのは当然なことで、密約は文書化した合意内容の背後に隠し、文書化した合意内容のみが“真”となるが、いつの日か歴史の検証が入ってその密約が暴かれるとき、密約は文書化した合意内容との比較でその是非が論じられるが、文書化していない場合、正確な比較は行い得ないことになる。

 つまり、歴史の検証を回避した非文書化ということもできる。

 安倍晋三は従軍慰安婦問題を日本の歴史から抹殺したい意思を根強く持っているから、その意思が歴史検証回避に向かわせたと疑うこともできる。

 安倍晋三は直接的な言葉でその意思のないことを表明したわけではないが、例え韓国を訪問しても、元従軍慰安婦に面会して謝罪するつもりはないとする趣意の答弁を行った。

 外務省のサイトに《日韓両外相共同記者発表》(2015年12月28日) が載っていて、次のように記述してある。 

 〈(1)慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。

安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からお詫びと反省の気持ちを表明する。〉――

 従軍慰安問題は「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」であり、「日本政府は責任を痛感」、安倍晋三自身も「心からお詫びと反省の気持ちを表明する」日韓合意であったはずだ。

 だが、安倍晋三は日本の総理大臣として日本政府を代表、韓国の元従軍慰安婦に直説面会して「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」「責任」を進んで伝えることも、自身の気持として「心からお詫びと反省」を伝える機会を持つことも考えていない、その程度の日韓合意であることが判明した。

 だとしたら、その気持もないのに責任や反省やお詫びの文言を共同記者発表に書き連ねたことになって、そのこと自体がマヤカシそのものとなる。岸田文雄の国民を誑(たぶら)かすに等しい「国家性善説」に立った答弁と言い、二人のマヤカシは目に余る。

 
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安倍晋三は安田純平さんを真に人命第一で扱うのか、テロ組織に屈しないを貫くのか、説明すべき

2016-03-18 08:06:52 | 政治

 フリージャーナリストの安田純平さんが2015年6月に取材でシリア国内に入ったあと行方が分からなくなった。その安田さんの映像が2016年3月16日、シリアの反政府勢力の活動家のフェイスブック上で公開されたと「NHK NEWS WEB」が伝えている。 

 〈映像を公開したシリア人男性はNHKの電話取材に答え「安田さんはアルカイダ系の武装組織ヌスラ戦線に拘束されており、映像は解放に向けた仲介役を務めている人物から16日に入手した」と話したうえで、映像がどこでどのような状況で撮影されたのかについては「分からない」としています。〉と書いている。

 記事は最後に政府の対応を伝えている。

 安倍晋三は3月17日午前、外相の岸田文雄を首相官邸に呼び、映像についての報告を受けた上で万全の態勢で情報収集に全力を挙げるよう指示したとしている。

 菅義偉(午前の記者会見)「本事案については、これまでも安倍総理大臣の指示を受けて体制をしっかり整えて対応してきているが、今般の映像の公開を受けて、改めて、安倍総理大臣からは『引き続き、邦人の安全確保を最優先で対応するように』という指示があった。内閣危機管理監のもとで必要な体制をとり、さまざまな情報収集をして、対応に全力で取り組んでいく」

 記者「政府や家族に身代金の要求があったのか。また、拘束している集団と接触はしているのか」

 菅義偉「身代金の要求は承知していない。接触については事柄の性質上控えたい」――

 「本事案については、これまでも安倍総理大臣の指示を受けて体制をしっかり整えて対応してきている」と言っていることは、2015年6月に安田さんの行方不明が伝えられてからのことを言っているのだろう。

 「イスラム国」に拘束され、殺害された湯川遥菜さんのケースでは安倍政権は2014年8月に行方不明を把握、直ちに同じ月に首相官邸に連絡室を、そして外務省に対策室を設置。ヨルダンに現地対策本部設置という素早い対応を見せている。

 同じように「イスラム国」に拘束、殺害された後藤健二さんのケースは2014年11月に行方不明を把握、直ちに首相官邸に連絡室、外務省に対策室を設置。ヨルダンに現地対策本部設置と、同じ手続きで進めている。

 安田さんにしても行方不明が伝えられた2015年6月の時点で安倍晋三の「邦人の安全確保最優先で対応」という指示を受けて同じように情報招集や救出に向けた組織を立ち上げてきたということなのだろう。

 そして今回インターネット上に安田さんの映像が公開されたことから、「改めて、安倍総理大臣からは『引き続き、邦人の安全確保を最優先で対応するように』という指示があ」り、必要な体制を取った。

 「邦人の安全確保」とは人命第一を指す。湯川さん、後藤さんの拘束事件時も「人命第一」を言い続けてきた。

 両者が行方不明を伝えられてから年が明けた後の2015年1月20日、二人が後ろ手に拘束され、72時間以内に身代金の支払いがないと二人を殺害するとの動画がインターネットに公開された同じ日、安倍晋三は訪問先イスラエルで内外記者会見を開いている。

 ベイカー・エルサレム・ロイター通信支局長「過去にこうした状況で第3国がこの地域で身代金を支払うといったことがあった。そうしたやり方は今回の問題を解決する上で検討されうるか」

 安倍晋三「先ず、今回の事案については、我々人命第一に考え、各国の協力も得ながら情報収集に当たっております。今後も、人命を確保する上において、全力で取り組んでいく考えであります。いずれにせよ、国際社会は決してテロには屈してはならない、とこう考えております」――

 その後安倍晋三も菅義偉も岸田文雄も「人命第一」を連発した。 

 2015年1月20日の身代金要求の動画公開から4日後の2015年1月24日に湯川遥菜氏の遺体の映像がインターネット上に流され、それから8日後の2015年2月1日に後藤健二さん殺害の映像が流された。

 官房長官の2015年2月1日午前の記者会見。

 菅義偉「この事案発生以来、これまで『人命第一』で、可能な限り、ありとあらゆる手段を行使しながら、全力で取り組んできた。そういう中で、湯川さんに続いて後藤さんが殺害されたとみられる映像が配信された。ご親族のご心痛を思えば、言葉もない。誠に残念で、無念だ」

 記者「日本政府からイスラム国への(直接の)接触は。試みていないとすれば、なぜか」

 菅義偉「今度の事案について、何が最も効果的であるか、そういう観点から対応してきた。関係諸国、あるいは部族長とか、宗教の指導者とか、ありとあらゆる方の中で、日本としては協力を要請してきた」

 記者「日本から接触していないという理解でいいか」

 菅義偉「接触もなかったし、接触することはどうかということも含め、一番効果的なことを政府としては考えて対応してきた」(産経ニュース)       

 要するに仲介者を立てた間接的な交渉に任せて、「イスラム国」に直接接触する試みは一切しなかった。そのような形の「人命第一」であった。

 但しこのような形の「人命第一」だけではなかく、他の形も取っていた。

 同じ日(2015年2月1日)の午後の菅義偉の記者会見。

 記者「身代金を用意していたのか」

 菅義偉「それは全くない。100%ない」(殆んど聞き取れない動画から、「それは全くありません、100%ありません。明快に否定します」だけを聞き取る)

 記者「『イスラム国』と交渉する気はあったのか」

 菅義偉「全くなかった」(ロイター) 

 要するに「人命第一」を掲げていたが、最初から身代金交渉も直接交渉もするつもりはなかった、仲介者任せの“人命第一”が、その正体だった。

 カネを出せと言っている相手にカネは出さずに第三者任せで問題解決を図ろうとする利害の不一致を持ち込んだのであり、その利害の不一致が招いた二人の殺害ということになる。

 但し身代金交渉に応じなかったことで示すことができた最大の利益はテロには決して屈することはなかったという姿勢である。つまり身代金交渉に応じることとテロに屈しないとすることは相容れない姿勢だと言うことである。

 前者を優先させれば、テロに対する敗北宣言ともなりかねない。後者を優先させれば、その姿勢を内外に示すことはできるが、逆に人命は度外視せざるを得ない。

 安倍政権は後者の姿勢を貫くことで邦人二人の命を軽視し、その代償としてテロには決して屈しない、自身にはメリットとなる断固とした姿勢を国内的にも対外的にも示すことができた。
 
 「人命第一」と言っていたのは国民にそのことを悟られないためのペテンに過ぎない。

 だからこそ、今回の安田純平さんの拘束でも、菅義偉は記者の「身代金の要求があったのか」の問いに「身代金の要求は承知していない」と、不都合な立場に立たされたり、事実に反する情報とされないためにあったと肯定することも、今までないと否定することもせずに、情報収集に当たっていながら、そのことに反する聞いていない、あるいは把握していないという姿勢を示すことになったのだろう。

 このような姿勢を最後まで貫くことによって、「人命第一」を口にし続けることができることになる。

 例えテロに屈しない姿勢を優先させたとしても、「人命第一」を言い続けることでそのことを悟られないためのペテンが既に始まっている。

 安倍政権がテロに屈しない姿勢を優先させると決めたなら、ペテンに走ることなく国民に前以てそのように説明すべきである。

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皇室典範の皇位継承男系男子規定は日本民族の男女差別=男尊女卑の権威主義を相互反映させた伝統と文化

2016-03-17 08:33:39 | 政治

 


      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《3月15日小沢一郎代表定例記者会見動画党ホームページ掲載ご案内》 

     小沢一郎代表は3月15日、国会内で定例の共同記者会見を行い、新党「民進党」や、野党連携
     のあり方などについて記者からの質問に答えました。その中で小沢代表は、「安倍政権では国
     民に幸せをもたらさない、日本の行く末を危うくすると考えている人達すべてが手をつないで
     、安倍政権と対決して国民に訴える」と強調。   

 国連女子差別撤廃委員会の日本に関する最終見解は皇室典範が皇位継承に関して男系男子と規定していることは女子に対する差別で、これを改めるべきとする勧告案が盛り込まれていたが、安倍政権の抗議で、この勧告案が削除されたという。

 つまり女性差別に当たらないと抗議して、女性差別でないことが認められたことになる。

 3月14日の参院予算委員会。

 山谷えり子(国連女子差別撤廃委員会の当初の勧告案は)「内政干渉であり、日本の国柄、伝統に対する無理解だ」

 安倍晋三「わが国の皇位継承のあり方は条約のいう女子に対する差別を目的とするものではないことは明らかだ。撤廃委が皇室典範について取り上げることは全く適当ではない。

 我が国の皇室制度も諸外国の王室制度もそれぞれの国の歴史や伝統が背景にあり、国民の支持を得て今日に至っている。議論の過程で皇室典範が取り上げられたことは一度もなかった。手続きの上からも疑問を感じる」(産経ニュース/2016.3.14 09:52)  

 そう、安倍晋三の言う通り、「我が国の皇室制度も諸外国の王室制度もそれぞれの国の歴史や伝統が背景にある」

 但しその「歴史や伝統」が問題となる。歴史や伝統が常に正しいとは限らないし、時代に応じて価値観が変わっていながら、歴史だから、伝統だからと時代錯誤となった歴史や伝統を正しい考え方として後生大事に抱え続けるということもある。

 そういったことまで考えないのが安倍晋三の真骨頂なのだろう。

 2013年9月28日に当「ブログ」に書いたことだが、安倍晋三は2012年1月10日発売「文藝春秋」2月号に 『民主党に皇室典範改正は任せられない 「女性宮家」創設は皇統断絶の“アリの一穴”』と題する一文を寄稿、その中で当時民主党野田政権が議論していた「女性宮家創設」に反対する意向を示して、「私は、皇室の歴史と断絶した『女系天皇』には、明確に反対である」と、既に主張していたというから、国連女子差別撤廃委員会の見解に対する当然の継続的な反応ということなのだろう。  

 「皇室典範」第1章「皇位継承」第1条は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めている。

 男系・女系についても上記ブログに書いた。

 〈女系天皇とは、インターネット上の説明を借りると、仮に現在の皇太子と雅子妃の子供である愛子内親王が即位しても、父は皇太子、祖父は今上天皇であって、父方の祖先を辿っていけば必ず初代神武天皇につながる血統を有していて男系として問題はないが、愛子内親王の子が、父が(男系の)皇族でない限り、その父の祖先をどのようにいくら辿っても初代神武天皇に辿り着くことができない非男系となると言うことになって、男系天皇支持派は反対ということになる。

 だから、平沼赳夫は2006年、「愛子さまが天皇になることになって、海外留学して青い目の外人ボーイフレンドと結婚すれば、その子供が将来の天皇になる。そんなことは断じて許されない」と女系天皇容認に反対した。

 女系に反対し、男系に拘るのは女性の血よりも男の血の尊重を意味する。いわば血で以って、男女を上下に価値づける差別を精神としていることになる。

 また、血の区別は権威の区別でもある。男と女性の血の違いを基準として男に権威を置き、女性を男性の権威下に置く権威主義をそれぞれの存在性のモノサシとしている。

 このような男女それぞれに対する価値づけの上下が日本の男尊女卑の風潮となって社会に脈打ち、歴史となって引き継ぐことになって、男女平等を謳う民主主義の時代になっても現在も色濃く残すことになっている社会の状況ということであるはずだ。
     ・・・・・・・・・
 安倍晋三たち女系天皇反対派は皇族と一般国民は違うと言うかもしれないが、そのような反論は許されない。なぜなら、皇族と一般国民を血の違いで上下に権威づけた価値づけを行っていることになるからだ。

 もし厳密に一般男女を血の違いで権威づけも価値づけもせずに、真に男女平等であるとする思想に立っていたなら、女性天皇の夫が皇族ではなく、青い目の男性であったとしても、妻たる女性天皇と青い目の夫は血の違いで権威づけられることも価値づけられることもなく、権威も価値も血も等価値ということになって、二人の間の子どもの父親たる青い目の祖先を辿って初代神武天皇に辿り着くことができなかったとしても、優先されるべきは二人の存在性の平等性であるはずだ。

 初代神武天皇に辿り着くことができないことが問題とされ、辿り着くことが優先されるとするなら、女性天皇と青い目の夫との等価値・等権威――二人の存在性の平等性は意味を失う。

 皇族であろうが一般国民だろうが、最優先に尊重されるべきは男女の存在性の平等性であるはずだ。男性と女性、どちらの血が上だとか下だとか、その上下で権威や価値が判断されるとしたら、そのように判断する者が女性尊重をどう言おうが、女性の権利をどう訴えようが、マヤカシ、キレイゴトの類に堕することになる。

 安倍晋三が血の違いを価値基準として女系天皇反対の姿勢を取っている以上、国連総会演説で取り上げた、一見して女性の人権尊重を訴えているように見える「女性に対する性的暴力の防止」とか、弱者の立場に置かれがちな女性の存在性に対する配慮等はいいところを見せるための付け焼き刃に過ぎないと断言できるし、すでに言ったようにキレイゴト名人の戯言としか言い様がない。〉――

 男系と女系でその価値に差別をつける。女性と男性の血の違いを言い、女性の血はダメで男性の血ならオーケーと価値づけていることは女性差別以外の何ものでもない。

 つまり皇位継承に於ける男系の規定は男性の血に権威を置き、女性の血に何ら権威を認めていない思想構造で成り立たせていて、そのような思想構造を頭のいい安倍晋三が言っているように単に日本の歴史や伝統としてきたに過ぎない。

 当然、その思想構造は日本民族の思想構造と相互反映し合う関係性にある。なぜなら、皇族単独で成り立たせることができた思想構造ではないからだ。

 このことは皇位継承権をその時代時代の世俗権力者が握っていたことからも理解可能となる。世俗権力者が男系の皇位継承の形を取ることで、男系に権威を置き、その権威を通して自らの世俗権力の正統性を表現した。

 そして日本民族自体がこういた男女価値観に関して男性を上に置き、女性を男性の下に置く権威主義を素地としていなければ成り立たない男系の皇位継承であろう。

 当然、日本国民も関わって伝統と歴史としてきた皇位継承に於ける男系規定としなければならないし、例え皇位継承が女性に対する差別を目的としていなくても、その継承観には明らかに現代の価値観に反する女性差別の思想を根付かせている。

 官房長官の菅義偉も安倍晋三と同様に「皇位継承のあり方は、女子に対する差別を目的としていない」と主張しているが、繰返し言うが、男系と女系でその価値に差別をつけ、男性の血はよくて、女性の血はダメだと女性と男性の血の違いを言っているのである。

 女性差別そのものではないか。

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国家権力による学校現場での「国旗」掲揚と国歌斉唱の強制は基本的人権への介入度のリトマス試験紙とせよ

2016-03-16 09:10:01 | 政治

 岐阜市にある岐阜大学の森脇久隆学長が3月15日定例記者会見の質疑で、今春の卒業式と入学式で国歌「君が代」を斉唱しない方針を改めて示したと同日付「asahi.com」が伝えている。   

 森脇久隆学長「3月の卒業式と4月の入学式は例年通りです」

 「例年通り」とは大学の愛唱歌「我等(われら)多望の春にして」の斉唱だということと、2月17日の定例会見でこの愛唱歌を既に歌う考えを示していたということの説明が入っているが、多分、記者が確認を取ったことへの答弁なのだろう。

 森脇学長のこの2月17日の発言に対する安倍晋三と同様の国家主義者文科相の馳浩の2月23日の閣議後会見の反応も伝えている。

 馳浩「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずかしい」

 卒業式や入学式で「君が代」を歌わないことは日本人として恥ずかしいことだし、特に国立大学に籍を置く教授や学生にとって恥ずかしいことだと批判している。

 多分、馳浩は国立大学関係者をより国家に近い存在と見ているのかもしれない。国家に近い存在がそんなことではダメじゃないかと。

 学長は馳浩の上記発言を聞かれて、「コメントを差し控えます」と答えたと書いている。

 要するに我関与せずの態度を取ったということなのだろう。本人はどんな思いでこの発言をしたのか窺いようがないが、結果的には国家に近い存在であることを拒否したとも解釈できる。

 国家主義の立場から自らを国家に近い存在だと認識していたなら、喜んで国歌斉唱もするし掲揚した国旗「日の丸」に喜び勇んで恭しさを全身に表現し、深々と頭を下げたに違いない。

 別の「asahi.com」記事によると、昨年2015年6月、これも安倍晋三と同様の国家主義者下村博文前文科相が全国立大学長に、「国旗・国歌の適切な取り扱い」を要請したことを紹介している。

 〈大学の教育内容については国の統一基準はなく、国旗・国歌についてのルールもない。「大学の自治」の原則があるためで、国は式典の方法などに介入できない。〉と記事は解説しているが、それでも大学の自主性に任せることができずに国家権力の側の人間が「適切な取り扱い」――国旗掲揚と国歌斉唱を求めたということなのだろう。

 そして上記馳浩の発言をより詳しく伝えている。

 馳浩「「私が学長なら君が代斉唱が望ましいと思う。(国立大には交付金として多額の税金が支払われていることに触れた上で)我が国社会の支援に感謝の気持ちを示す姿勢も儀式儀礼にはある。日本人として、特に国立大学として、こういうふうにおっしゃることはちょっと恥ずかしい」――

 「我が国社会の支援に感謝の気持ちを示す」ことは大学生が社会に出て社会に何らかの役に立つことで貢献できることで、大学にいる間はその思いさえあれば十分である。掲揚した国旗に頭を下げたり、国家を斉唱することが社会への支援に対する感謝の表明だと厳格に限定されているなら問題は生じないが、安倍晋三や馳浩、下村博文のような国家主義者たちは「日の丸」に対しても「君が代」に対しても国民の上に置いた国家をそこに見て、国家と共にある国家権力者としてその場に臨む意識構造が問題となる。

 いわばこのような意識構造の国家権力者たちにとっては一般国民に「君が代」斉唱や掲揚した「日の丸」への一礼を通して、それぞれが象徴している国民の上に置いた国家と一体性を持たせることで、国家と共にある彼らは国民をも下に置くことが可能となる。

 新興宗教の教主が信者たちをある何らかの偶像を崇拝させることに成功した場合、信者たちはその偶像に屈し、コントロールされた下の存在と化すが、教主はその偶像と共に存在することによって信者を下に置くことができるのと同じ構造であって、だからこそ国家と共にあろうとする国家権力者たちは「国旗」・「国歌」への強制を常なる衝動とすることになる。

 安倍晋三も2015年4月9日の参院予算委員会で国立大学の入学式や卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うことが望ましいとの認識を示している。

 このことは2015年4月10日の「ブログ」に書いた。 

 松沢成文次世代の党「殆どの国立大学で国歌斉唱を実施せず、国旗を掲揚しない大学も12から13ある」

 安倍晋三「学習指導要領がある中学、高校では実施されている。(国立大でも)教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきだ」

 この発言を掴まえて、次のように解説した。〈国旗を掲揚し、国歌を斉唱するということは、その瞬間だけのことではあっても、それを行う者にとってはそれらのことを通して国家と共にあることの表明の儀式となる。

 勿論、掲揚した国旗にそうしなければならないからと形式的に一礼し、形式的にただ口を動かして国歌を斉唱をする者も存在するが、国家と共にあることの表明の儀式とすることが国旗掲揚と国歌斉唱に求められる真の意味であろう。

 国家権力の側から言うと、国民に国家と共にあることの表明の儀式を繰返させることによって、その表明を意識に植えつけ、習慣的な意識とさせて、国民を国家と一体化させることを望む。

 このことは戦前の日本国家を見れば理解できる。

 と同時に戦前の日本国家は同じ日の丸の日本の国旗であっても、時代の思想や時の国家権力の政治思想によって日の丸が象徴する色合いは違ってくることを教えている。

 戦前の日の丸が軍国主義・植民地主義の象徴であったとしても、あるいは大東亜の盟主を象徴した日の丸であったとしても、戦後の日の丸は平和国家の歩みを象徴しているのだからと国旗掲揚の正当性を与え、併せて国歌斉唱の正当性を与えることはできる。

 だが、国旗というものがそのように時代時代の思想や国家権力の政治思想によって異なる象徴を映し出す性格を有するなら、戦後の日の丸が例え戦後日本の平和の歩みを象徴していたとしても、時の国家権力者が平和とは相容れない政治思想を有していたなら、日の丸自体がそのような政治思想を象徴するまでになっていなくても、国旗掲揚、あるいは国歌斉唱という国家と共にあることの表明の儀式はその国家権力者の政治思想が体現している国家とと共にあることの表明の儀式ともなり得る。

 例え形式的な国旗掲揚に対する一礼であり、単に口ずさむ形式的な国歌斉唱であったとしても、国民の殆どが慣習とした場合、国家とと共にあることの表明の儀式と解釈して、平和とは相容れない政治思想を有している国家権力者を喜ばせ、力を与えることになって、そこに権力の正当性を見い出させることになる。

 平和の時代であったとしても、あるいは日本が平和の歩みを進めていたとしても、時の国家権力者の政治思想次第では下手には国旗掲揚も国歌斉唱もできないということである。

 右翼の軍国主義者安倍晋三が国家権力を握っている日本で、その政治思想に正当性を与えるような国家と共にあることの表明の儀式である国旗掲揚と国歌斉唱を素直に行うことのできる国民がどれ程存在するというのだろうか。

 だが、安倍晋三は国旗掲揚も国歌斉唱も行わない大学にまで強制しようとしている。〉――

 時の政治権力者たちが真の基本的自由と民主主義を体現していて、国旗と国歌がそのような国家観を象徴しているなら、その国家観は決して国民を下に置くことを意味せず、対等な位置に立つことを意味するから、掲揚への一礼や斉唱を通したそのような国家と共にあることは取り立てて忌避感を感じさせはしないだろうが、国家主義を纏った政治権力に対しては忌避感を持ってこそ、基本的自由と民主主義の思想に適う。

 と言うことなら、国家主義を纏った国家権力による学校現場での国旗掲揚と国歌斉唱の強制の度合いは基本的人権や民主主義への介入度のリトマス試験紙となる。リトマス試験紙とすべきだろう。

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民主党の名に拘った議員は党名に目を置き、党名を超えて合流後の全体性の行方に目を置く意欲を欠いていた

2016-03-15 09:42:32 | 政治

 3月14日(2016年)、民主党と維新の党の合流に伴う新党名が、「民進党」と決まった。民主党と維新の党がそれぞれ新党名を公募し、民主党は「立憲民主党」と決まり、維新の党は「民進党」と決めたが、世論調査で後者に決することになった。

 民主党の党名公募で「民主党のまま」とする応募が最多だったというが、民主党側として最終的に「立憲民主党」と決めたのは「民主」の名前に拘る議員が党内に多く、その反映だということは誰の目にも明らかである。
 
 だが、世論調査ではそれが覆った。

 「民主党」という名前とは何だろう。名前を契機として党の体質や政策の傾向、主だった構成員を思い浮かべ、それらの情報が頭に入ってくる。あるいは否定的情報として時として国民を失望させた失政やスキャンダルを思い浮かべることもある。

 いわば「民主党」という党名自体が民主党のアイデンティティとして機能していることになる。有権者の側からすると、民主党のアイデンティティを党名に見ることになる。

 だからこそ、党名に拘ることになるのだろうが、実際には党名自体がアイデンティティを表現しているわけではない。簡便な方法として党名にアイデンティティを見ているに過ぎない。

 アイデンティティを表現しているのは地方議員や党員、サポーターの影響をも含めた所属する国会議員たち全員による自分たちという全体性である。

 その全体性が民主党という党名に集約される。

 つまり党名よりも議員たちの全体性がより肝心要の問題だということである。世論調査の党支持率でも、議員と直接的な関係のない一般国民は、一般的には民主党という名前に支持を与えるのではなく、議員たちの全体性、その政策の全体性にであろう。

 勿論、自分たちのその全体性が政策の傾向や党の体質として表されることになる。

 要は全体性をどうかするという問題であるはずだ。どうかする契機として維新の党との合流を決めた。

 だが、民主党の多くの国会議員は全体性をどうするのかということよりも、実際のアイデンティティを表現しているわけでもない党名に拘った。

 党名を超えて、合流によって全体性をより良い方向に向けて国民の理解を得ようとする、最も肝心であるべき意欲に欠けていたということではないのか。

 つまり党名に目を置いて、合流後の全体性、その行方に目を向けていなかった。民主党代表の岡田克也自体が党名に拘っていたというから、何となく情けない気がする。

 全体性をどういう方向へ持っていくかは今後の課題である。官房長官の菅義偉が合流を批判している。 

 菅義偉「(政策不在を批判して)先ずどんな政策をやるのかをきちんとした形で議論し、それについて国民は関心を持つ。

 (民主党の名が約20年で消えることについて)順番が逆なのかなと思う」(産経ニュース) 

 政策の一致があって合流、新党名と進むべき手続きが逆になっていると言っている。

 あくまでも以後の全体性が課題となる。全体性をより良い方向に持って行き、如何に国民の支持を得ることができるのかの今後にかかっている。如何に全体性が新党のアイデンティティとして認められるかどうかにかかっている。

 私自身も党名公募に応じた。「協和国民党」。日本国憲法の前文、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し」云々から、「協和」という言葉と国民主権から「国民」という言葉を取った。

 勿論、ここでの「協和」という言葉は全世界向けの意味を含む。日本国内だけで収束する言葉ではない。

 日本国憲法自体が立憲主義を構造としていて、その前文だから、党名の出自を日本国憲法、その立憲主義に置くことができ、言葉自体が持つ厳粛な響きに自分なりに気に入ったが、相手にされなかったようだ。

 最後に日本の満州国建国時の理念「和(日)・韓・満・蒙・漢(支)」の「五族協和」の「協和」とは無関係なのは断るまでもない。大体が立憲主義に反した「協和」に過ぎない。

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女性が2人以上産み、産めない女性は施設に寄付が社会的義務化した場合、どういった社会・国家となるのか

2016-03-13 10:28:50 | 教育

 大阪市鶴見区の市立茨田北(まったきた)中学校長寺井寿男(61)が2月29日(2016年)の全校集会で「子どもは2人以上産むべし」、「産めない女性は施設などに寄付すべし」といった趣旨の発言をしたとマスコミが伝えている。

 寄付する施設とは児童養護施設を指すのだろう。「asahi.com」記事、《「キャリア積む以上の価値」 「子は2人以上」発言要旨》(2016年3月12日16時14分)から、その発言を見てみる。   

 寺井寿男校長「全校揃った最後の集会になります。

 今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げて良く聴いてください。女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。

 なぜなら、こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか、こどもを産むことができません。男性には不可能なことです。

 女性が、こどもを2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部を能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたら良い」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと、大学で学び医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けば良いのです。子育ては、それほど価値のあることなのです。

 もし、体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます。

 次に男子の人も特に良く聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。

 人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。

 子育てをしたら、それで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。

 やっぱり結論は、『今しっかり勉強しなさい』ということになります。以上です」

 「女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むこと」で、このことは「仕事でキャリアを積むこと以上に価値」がある。この男が言いたいことの中心を成す考えと言うことなのだろう。

 以上の発言はあくまでも要旨である。同じ発言を取り上げた別の「asahi.com」記事は、少子高齢化や不安定な年金制度などの課題を指摘した上で、〈「男女が協力して子どもを育てるのが社会への恩返し。子どもが産めず、育てられない女性はその分施設などに寄付すればいい」と主張した。〉と、その発言を伝えている。

 このような考え方が社会的に一般的常識化した場合、国家や社会からどういった影響を受け、どういった社会の姿・国家の姿を取ることになるのだろうか。

 この答を出すのは誰にでも容易に予測がつくはずだ。そのような国家・社会の将来像を私なりに書いてみたいと思う。

 なぜ容易に予測がつくかと言うと、日本人は別の役割を強制される一時期を戦前既に経験してきたからだ。兵士に向かない身体性(例えば虚弱体質や身体障害)・精神性(例えば精神障害)を持った男子はお国のために役立たない存在として国賊、非国民と非難され、排斥を受けた。

 戦前の日本は男子の価値基準を兵隊さんとなってお国のために役立つことができるかどうかに置いていた。

 今回、この校長は戦後の日本に於いて女子の価値基準を2人以上の子どもを産んでお国のために役立つかどうか(「こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまう」)に置いたことになる。

 結果、2人以上の子どもを産む役割を担うことが女子にとっての国家的・社会的な最大価値とされることになる。

 女子の側からすると、と言っても、出産の前提となる妊娠には男子も関わることになるから、国民の側からすると、女子が2人以上産むこと、男子にとって女子に2回以上は妊娠させることを国家に対する最優先の義務としなければ、後ろめたさを抱えることになる。

 当然、2人以上産むことができた女子は、あるいは女子を2回以上妊娠させ、妊娠を回数通りに出産に結びつけることができた男子はお国のために役立つ役割を担ったとされて最大の価値ある女性・男性の伴侶として国家的栄誉・社会的栄誉を受けることになる。

 少なくとも国家的意識・社会的意識はそのような方向を志向するることになる。意識が国家的・社会的に大勢を占めた時、意識のレベルにとどまらずに何らかの実際の姿を取らない保証はない。戦前、お国のために戦争を勇ましく戦い、敵兵を多く殺した兵士は勇士として讃えられ、勲章を授与され、徴兵検査に不合格の男子は兵士としてお国の役立たないと言う理由で無視したり、イジメたり、嫌がらせをしたり、排除したりしたように一定の形を取った。

 10人も産めば、国家的栄誉の対象とされ、表彰を受けることになる。そのとき安倍晋三が総理大臣を務めていたなら、そのような女性を前に、「ヒョーショージョー」と大声を張り上げて、その女性の栄誉を讃え、無視できない額の金一封を与えることになるだろう。

 社会的・国家的に一定の基準を満たした女性やその夫を栄誉の対象とした場合、対象となる条件を満たさない国民は、少なくとも社会的・国家的意識のレベルで恥の対象とされる。

 既に触れたように意識は常に意識のレベルにとどまる保証はなく、1人産んだが、余病を併発して妊娠できない身体となった等の何らかの事情や障害があって2人目を産むことができなくなった女性、いわば結果として子どもを1人しか産むことができない女性や1人も産むことのできない女性、子どもを望まない女性は最初は意識の面で、次の段階として何らかの形を取って、戦前と同様の栄誉とは反対の恥の対象としての仕打ちを受けることもあり得る。

 その代償として校長は「体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます」言って、里親となることを国家・社会の義務としたい意識を働かせている。

 その意識が社会的に受け入れられて大勢を占めた場合、それは意識の面から国家・社会の強制力として働いて、出産できない女性は率先して里親になることを選択する実際行動となって現れることになる。

 最終的には、戦前の日本で跳梁跋扈したように国家・社会の意志を優先させる力として動き出し、個人の自由を抑圧する、いや、個人の自由を抹殺する国家的・社会的拘束力としての力を発揮しない保証はない。

 いわば校長の主張は国家を優先させて個人の自由を否定する国家主義の形を採用している。安倍晋三同様、校長自身が国家主義者だということである。

 民主主義の時代の民主主義的社会の学校教育現場に民主主義とは相容れない国家主義者が存在する。何という危険な逆説なのだろうか。

 《結婚年齢(初婚年齢)出産年齢が遅くなる5つの理由》Conshare/2015年5月15日)なるサイトから女性の平均初婚年齢、その他を見てみる。  

 女性の平均初婚年齢は2012年29.2歳。
 
 第1子出生時の母親の平均出生時年齢30.3歳
 第2子は32.1歳
 第3子は33.3歳
 
 2012年「合計特殊出生率」1.41。つまり2人産む女性が圧倒的に少ない。

 晩婚化の理由を5つ挙げている。

 「独身の自由さや気楽さを失いたくないから」(女性約55%)
 「経済的に余裕がないから」(男性の方が高い)
 「結婚の必要性を感じていないから」
 「異性と知り合う(出会う)機会がないから」
 「 希望の条件を満たす相手にめぐり会わないから」

 そして出産条件として6つ挙げている。

 「働きながら子育てできる職場環境であること」(6割以上)
 「教育にお金があまりかからないこと」
 (自身の)「健康上の問題がないこと」
 「地域の保育サービスが整うこと」
 「雇用が安定すること」
 「配偶者の家事・育児への協力が得られること」

 女性に多い晩婚化の一因である「独身の自由さや気楽さを失いたくないから」は独身の状況にある初期的な段階で結婚した友達の家庭や同じく結婚した兄弟・親戚の家庭を見たり覗いたりして学習し、染みつかせていく精神性であろう。

 「何で子育てや育児にそんなに苦労しなければならないの」、「満足に保育所に預けることもできない」、「預ける保育所探しにも苦労しなければならない」、「旦那さんは子育ても家事も手伝わない、一人で何でそんなに苦労しなければならないの」等々の思いが学習させることになる「独身の自由さや気楽さ」であるはずである。

 もし他処の家庭を見て、子どもを産むのは何て素晴らしいことなのだろう、幼い命を母親として与(あずか)るのは何て素敵なことだろう、子育ても育児も家事も旦那さんが分担してくれて、睦まじい余裕の生活を送っていると、全てを肯定的に感じ取ることができたなら、「女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むこと」だと誰が強制しなくても、「仕事でキャリアを積むこと以上に価値がある」と勝手な価値づけをして個人の自由を束縛しなくても、自らの人生を肯定的に感じた方向に舵を切っていくものである。

 だが、それが叶わない日本の社会、日本の国となっている。給料は安い、保育所は見つからない、見つかったと思ったら、定員一杯だ、民間の無認可保育所に預けるとなったら、カネがかかり過ぎて、生活自体が苦しくなる。だったら、少ない給料でも、一人でいて、少ない給料のままに誰の束縛もされない勝手気ままな自由な生活が一番だということになる。

 要するに国家・社会が晩婚化の理由を一つ一つ消していき、出産条件を一つ一つ満たしていく、そういった社会をつくり上げることが最優先の先決問題であるはずである。

 だが、学校教育者で校長という最高位の位置に就きながら、そういった諸々を学習できずに国家・社会の強制力で義務化したい国家主義の意志を露骨に覗かせた。
 
 危険な思想の持ち主であると同時に、だからこそかも知れないが、学校教育者失格の愚かしい考えの持ち主と言わざるを得ない。

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安倍晋三の被災地の格差が進んでいる中での訪問回数の誇示と復興加速の誇示はもうやめた方がいい

2016-03-12 10:27:09 | 政治

 東日本大震災から5年となる2016年3月11日の前日、3月10日、安倍晋三は首相官邸で「記者会見」を行った。いつものパターンを繰返したに過ぎない。

 政権復帰後に訪問した被災地は、東日本大震災2011年3月11日発災から1年8カ月程度しか経過していない2012年12月26日の首相就任の3日後の訪問だから、当然なのだが、至る所無残な光景を残していたこと、そして被災地訪問回数は何回に至ったかを誇示、復興推進のため霞が関の「縦割り」を打破し、「現場主義」を徹底して復興を加速させ、その例をいくつか挙げて、安倍政権下で復興が進んでいることを誇示する、そういったパターンである。 

 安倍晋三「何としても、復興を加速する。その決意のもと、総理就任以来、3年余りで30回近く、被災地に足を運んでまいりました」

 安倍晋三「政権交代した3年前、計画すらなかった高台移転は、ほぼ全ての事業が着工し、この春には、全体の4分の3の地区で造成が完了します。ほぼ全ての漁港が復旧します。7割を超える農地が作付可能となり、9割近い水産加工施設が再開を果たしました」

 民主党政権下、高台移転の構想はあった。だが、被害が余りにも広大な上甚大で、仮設住宅の用地確保から建設、そして完成させ、被災者を学校の体育館等の劣悪な住環境の避難所から仮設住宅に移住させたり、その他の復旧に手一杯で、復興にまで手が回らない状況だったに過ぎない。

 それをさも民主党政権の責任であるかのように高台移転は「政権交代した3年前、計画すらなかった」と言う。

 安倍晋三「先週訪れた福島では、避難生活を送る5人の酪農家が集まって、500頭もの乳牛を育てる、東北最大規模の牧場をオープンしました。出荷が始まったばかりの乳製品を前に、『一日も早く福島が自立して、真っ向勝負ができるよう頑張っていきたい』と、復興への情熱を、私に語ってくれました。

 原発事故で大きな被害を受けた福島は今、太陽光発電やリチウムイオン電池などの関連企業も集まり、未来のエネルギー社会を拓く「先駆けの地」になろうとしている。被災地でも、新しい産業の芽が次々と生まれつつあります」

 東日本大震災発災の2011年3月11日から5年が経過、安倍晋三が首相に返り咲いてから(日本の不幸現象だが)、2年3カ月、持間の経過と連動して復興が進むのは当然である。それが地域に応じて、あるいは被災者が置かれている状況に応じて過不足のない復興なのかを問題としなければならない。

 安倍晋三「復興庁のもと霞が関の『縦割り』を打ち破る。そして、『現場主義』を徹底する。それまでの復興行政を一新し、復興を加速してまいりました」

 言っていることは復興加速には霞が関の「縦割り打破」と徹底した「現場主義」が必須条件となるということである。そして霞が関の縦割を打破し、現場主義を徹底させることができる状況をつくり出したことになる。

 だからこそ、「復興を加速してまいりました」と自信を持って述べることができる。

 大震災2年目を迎えた2013年3月11日の記者会見でも縦割り打破と現場主義に触れている。

 安倍晋三「現場では、手続が障害となっています。農地の買取りなど、手続の一つ一つが高台移転の遅れにつながっています。復興は時間勝負です。平時では当然の手続であっても、現場の状況に即して復興第一で見直しを行います。既に農地の買取りについては簡素化を実現しました。今後、高台移転を加速できるよう、手続を大胆に簡素化していきます。

 これからも課題が明らかになるたびに、行政の縦割りを排して一つ一つきめ細かく手続の見直しを進めてまいります」

 安倍晋三「一方で、被災地の皆さんは、懸命に今を生きておられます。仮設住宅の厳しい生活の中にあっても、互いに声をかけ合って、励まし合っている皆さん。一部ではありますが、復興住宅の建設も進み出しました。被災した工場を再び立ち上げた方もいらっしゃいます。

 その光は、いまだかすかなものかもしれません。しかし、被災者の皆さんの力によって、被災地には希望の光が確実に生まれつつあります。この光を更に力強く、確かなものとしてまいります。全ては実行あるのみです。その鍵は現場主義です」(首相官邸) 

 震災発災から3年目を迎える2014年3月10の前日3月10日の記者会見でも同様である。

 安倍晋三「総理に就任以来、13回にわたり被災地を視察いたしました。昨年春ごろはあちこちで用地確保が難しいという切実な声がありました。特に、いつ、何戸の住宅が再建されるかの見通しも全く立っていませんでした。

 こうした中、安倍内閣におきましては、省庁の縦割りを排しながら現場主義を徹底し、政府一丸となって加速化に全力をあげました。被災地 の抱える課題は制度面、執行面、多岐にわたります。現場主義で用地取得手続の迅速化、そして自治体へのマンパワー支援などきめ細やかに対 応してまいりました」(首相官邸) 
 
 4年目を迎える前日の2015年3月10日の記者会見では「縦割り打破」も「現場主義」にも触れていない。

 つまり2015年3月10日以前に縦割り打破と現場主義を完成させることができた。そして5年目を迎える前日の2016年3月10日に完成を受けた復興の成果を誇ったと言うことなのだろう。

 だが、第3次安倍改造内閣2015年10月7日発足と同時に復興相に就任した高木毅は翌/2016年1月4日の復興庁の年頭訓示では違うことを言っている。

 高木毅「いまだにやはり被災地へ行きますと、どうしても省庁の縦割りというような話も聞かされております。私たちは復興庁、正に復興の司令塔でございます。それぞれの省庁は一生懸命取り組 んでいただいておるわけでございますけれども、被災地において、やはり縦割りだなというようなことのないように、しっかりとその辺は、正に私たちが横串を刺していくというような考え方も引き続き必要だと いうふうに思います。   

 しっかりと現場主義に徹する、そしてまた、被災地に寄り添う、そして、省庁の縦割りを排除する、そして、私たち復興庁はしっかりと復興の司令塔だというその使命を持って今年1年、そして、今年1年は 正に新しい5年の初年度でございますから、この1年を頑張っていただきたいと、そのように思うところでございます」(復興庁HP) 

 高木毅は決してタテ割り打破ができていない状況、現場主義が徹底できていない状況を訴えている。

 確かに復興は進んでいる。安倍晋三の被災地訪問の殆どが再建を果たしているか、果たしつつあるか、あるいは再建のレールに乗ることができている企業や同業者による共同運営体を対象としていて、復興が進んでいることを目にすることができる。

 だが、朝日新聞社は福島放送が2016年2月27、28両日実施・2016年3月4日報道の「共同電話世論調査」を見てみると、安倍晋三被災地訪問の実態と異なる復興の景色が見えてくる。 

 「復興への道筋」

 「あまりついていない」53%(2012年度調査54%)
 「まったくついていない」9%(2012年度調査38%)

 「ある程度ついた」35%(2012年調査7%) 
 「大いについた」1%(2012年調査0%)

 上記無料記事には2012年調査の「大いについた」が何パーセントか載っていないが、調べてみると、0%である。

 「まったくついていない」が38%から9%。「ある程度ついた」が7%から35%。復興が進んでいる光景を見せている。

 だが、「大いについた」が0%から1%。「あまりついていない」が54%から53%へとほぼ横這いとなっていて、殆ど復興が進んでいない光景を一方では示している。

 これは復興に格差が生じていることの何よりの現象であって、地域や被災者の状況に無関係に過不足のない復興の姿となっていないことを示している。

 いわば安倍晋三が記者会見で誇っている復興状況は生じている格差の上層を対象にした発言に過ぎないことになる。

 経済産業省の東北での出先機関であるの東北経済産業局の今年2016年2月24日発表の《東北地域における産業復興の現状と今後の取組 〜5年を振り返って〜》にも、格差の状況を伝える記述が見当たる。

 〈福島県内中⼩企業・小規模事業者の復興加速化に向けた経営支援のあり方に関する検討会〉

 ○福島県内の中小企業・小規模事業者は、震災後の顧客の喪失や⾵評などにより厳しい状況(※)。
  ※震災前の売上まで回復せず。補助⾦等本業以外の収益で資⾦繰りを維持。実態は⾚字企業が多く、今後、顕在化のおそれ。

 〈検討会における意⾒〜事業者の現状に対する認識〜検討会における意⾒〜⽀援にあたっての現状と課題〜〉

 ○福島県内中小企業・小規模事業者の経営状況は厳しい。
 ○経営者の経営改善への意欲が低い。
 ○特需縮⼩後の影響を認識すべき。阪神淡路大震災より影響大。

 〈グループ補助⾦事業者の売上回復状況〉

 ・平成23〜26年度グループ補助金の交付先8,569者に対しアンケートを実施し、6,097者(71.2%)から回答があった。

 ・全体では、震災前と比べて売上が増加している割合が少しずつ伸びている。44.8%の事業者が震災直前の水準以上まで売上が回復。一方、売上げが半分以下の事業所も30.8%。
 ・業種別によると、水産・食品加工業の回復は他業種と比べて遅れている。
 ・また、卸小売・サービス業、旅館・ホテル業は、売上が増加している事業者と、売上が低下している事業者が2極分化している。
 ・建設業は約6割の事業者が震災前よりも売上が増加している。

 どこをどう読んでも格差が生じていることを伝えている。復興需要で公共事業から民間建設事業まで含めて増え、人手不足が騒がれていながら、震災前の売上以上に伸びている建設業は6割で、あとの4割は伸びていない。旨味は東京に本社を構える大手ゼネコンがかっさらっていっているのだろう。

 2016年1月下旬~2月末に実施した、3月8日報道の「読売新聞世論調査」も格差を伝えている。

 「全体的に見た復興の進捗度」

 「進んでいると思う」51%
 「進んでいない」48%

 見事に二極化している。

 2016年1月現在で5万8948人、6万人近くが未だに仮設住宅での生活を余儀なくされている。この人数は震災発生翌年2012年10月の11万3956人と比べると半分程度だと言うことだが、逆に言うと、5年で半数しか仮設住宅から解放されていないことになり、ここにも住環境の格差、あるいは二極化を見ることができる。

 各調査から見ることのできる復興の状況は安倍晋三が記者会見の度に誇示する復興の様子とは明らかに異なる。記者会見で表に出さず、進んでいるところだけを見せているからに他ならない。都合のいい統計だけを出して、都合の悪い統計は隠す宣伝術は安倍晋三の十八番である。

 いわば訪問回数を誇る程には過不足のない復興とはなっていない。復興が進んでいると同時に格差も進めて二極化現象を生じさせているのだから、記者会見やその他での訪問回数の誇示と復興加速の誇示はもうやめた方がいい。

 歪んだ復興となっている以上、当然、「縦割りの打破」だとか、「現場主義の徹底」だとか言う資格はない。

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広島県府中町立中3男子自殺から見える人間を見ようとする姿勢を持たない教育者集団という逆説

2016-03-11 11:45:21 | 教育

 各マスコミが広島県府中町立中3年の男子生徒の自殺に関する調査報告書を3月10日に報道し始めた。読み直して、女性担任教師の自殺した生徒に対する指導についての町立教育委員会や学校の調査に対する証言なのだろう、その言葉に対する疑問と、生徒一人ひとりの人間を見ない規則主義優先の学校組織であったことと、同時にそれに染まっていた担任の姿に改めて気づかされた。

 今回は「産経ニュース」(2016.3.10 17:47)が伝えている調査報告書の要旨から見てみるが、例えば高校推薦の基準を毎年検討することにしていて、従来は非行歴がある場合は推薦の対象としないとする基準を3年生の1年間を対象としていたのを現在の平成27年度の3年生は1年時に問題行動を起こした生徒が多かったことから、1、2年時の非行歴も含むことに決めて3年間を対象とした規則に変えたことである。   

 この規則変更が去年及びそれ以前の高校進学者と今年度の高校進学者との間に不平等が出てくることになるケースの発生を考えもしなかったことと、万引きが成長途上での友達に自慢するための一過性の勲章行為であるケースが多いが、そのようなケースと常習的万引き行為との線引きがないままに全ての万引き行為を触法行為として推薦の対象から外したことは一過性である場合の成長を認めていないったことになって、学校教育者が生徒一人ひとりがどの程度成長しているか、どのような可能性を広げているのか、それぞれの人間を見ない、規則だけに焦点を置いた規則主義優先に陥っていたことの証明以外の何ものでもない。

 学校教育者が生徒一人ひとりの人間――どういった人間かを見る姿勢を欠き、それ故にだろう、規則を通してしか見ることができなかった。人間を見ない教育というのは一体どんな教育なのだろう。学校教育の世界でありながら、そういった世界ではないという逆説を踏んでいることになる。

 賢い人間は万引きといった触法行為からも学ぶ。賢くない人間だけが学年が進んでも触法行為を続ける社会的成長が停止した状態を示す。逆に悪賢さのみを成長させる。

 例え自殺した少年の万引きの非行歴の記録が間違っていなかったとしても、生徒一人ひとりを見る教育を行っていたなら、それ以降の非行歴はなく、学校の成績は良かったと言うことだから、1年時に既に刑期満了と看做して推薦を出すことができたはずで、そうしていたなら何ら問題は生じなかったはずだが、2年経過後も万引きの刑で服役状態に置こうとしたために生徒をして自らの生命(いのち)を絶たしめることになった。

 多分、推薦が取れなかったことよりも、無実の罪で服役状態に置かれることの遣り切れなさ、屈辱が彼を死へと誘(いざな)った最大の原因ではないだろうか。

 上記記事から改めて担任女性教師の進路指導の個人面談が如何に生徒一人ひとりの人間を見ない内容となっているかを見てみる。 

 記事は、〈3年時の担任、H教諭は資料にA君が万引したと記載されていることを知って驚き、優秀な生徒で「1年時に何があったのだろう」と思ったという。〉と、調査報告書の内容を伝えている。

 11月16~19日にかけての1回目の面談。

 H教諭「万引がありますね」

 A君「えっ」

 H教諭「3年ではなく、1年の時だよ」

 A君(間を置いて)「あっ、はい」

 この遣り取りを以って、〈H教諭は万引したのだと認識した。〉となっている。

 ここで疑問が一つ。他の記事によると、学年主任が万引きをしたという誤った資料に基づいて11月30日までにその事実を確認をするよう担任に指示を出したということである。

 但し今年度から「推薦・専願基準」が変わったことをいつ伝えたのだろう。

 伝えないままに資料に記録されていた1年生のときの万引きを問題にしたのだろうか。2年生、3年生と問題行動がなく、成績も良い生徒である人間を見ていたなら、「昨年度は3年生の1年間に触法行為がなければ推薦は出せたけど、残念だけど、今年からは1年生のときまで遡って3年間の触法行為で出す出さないの基準に変わったの」ぐらいは言ってから、「1年生のときに」と、それがいつのときか具体的に触れてから、「万引がありますね」と触法行為の種類を言い、さらに万引きをした品物、金額でいくらするかそいういったことを伝えて相手の記憶を鮮明にさせてこそ、万引きの事実が確認でき、尚且つ推薦が出せない事情を相手に納得させることができるはずだが、そういった人間を見てする手続きを一切踏まずにいきなり「万引がありますね」から入っている。どこからどう見ても、生徒の人間を見て接する親身な態度には見えない。

 しかも推薦を出すことができないことを生徒に納得させる、そのための確認の面談だというのに生徒が間を置いて、「あっ、はい」と言っただけで万引を認識したとする安易さは教師と生徒が人間対人間の関係で向き合わなければならない、いわば生徒の人間を見なければならない学校教育者の態度だろうか。

 11月26日から27日にかけて行った2回目の面談。

 H教諭「進路のことだけど、万引があるので専願が難しいことが色濃くなった」

 A君「万引のことは、家の人に言わないで。家の雰囲気が悪くなる」

 記事。〈前回とこの答えでH教諭は万引の事実があったと確信した。〉

 要するに担任は万引の事実に対する機械的な確認を担任教師としての指導や面談の内容とした。なぜ万引きをしたのか、出来心なのか、友達同士で万引きした品物を獲物に見立てて自慢し合い、勲章とする類いの万引きだったのか、生徒を一人の人間と見る態度で接していたわけではない。

 3回目以後の面談も万引きの事実のみに立って生徒と接する担任の報告となっている。だから、1年生のときの誤った万引きの事実を、その過ちを剥がすこともできないままに引きずることになったのだろう。

 「NHK NEWS WEB」記事が弁護士を通した両親の話を伝えている。

 両親「(調査報告書は)そもそも誰に向けて作られたものなのか分からず納得がいかない。また、報告書に書かれた担任との面談の会話が本当に、このとおりだったのか、疑念を持っている。学校の言い分は正確ではないと思う。

 息子の性格を考えると『万引きがありますね』などと決めつけられると、もめごとを起こしたくない性格から、明確に反論できないところがあると思っている。全くの想像にすぎないが、もしかしたら本当に万引きをした友だちの受験に影響が出ることを心配して、誰にも相談できず1人で悩んでいたのかもしれない」

 担任が生徒を一人の人間と見る態度で接していたなら、いわば万引き事実の機械的な点検・確認で推薦を出すか出さないかを決める態度のみで接していなかったなら、生徒が勘違いして万引きをしたと思い込んでいたとしても、あるいは両親の言うように万引きをした友達を庇って万引きの罪を被るつもりでいたとしても、お互いが理解し合うことができ、誤った記述に行き着かない可能性は捨て切れない。

 調査報告書には、〈A君は「どうせ言っても先生は聞いてくれない」という思いを保護者に話していた。〉と記されているそうだが、この思いこそが担任が生徒一人ひとりの人間を見ない、生徒との接し方をしていた何よりの証明であろう。

 この思いは生徒が万引きをいくら否定しても、担任が資料の記述を根拠に生徒の万引きの事実を譲らなかったのではなかったかと疑うことも可能とする。

 担任一人だけに罪があるわけではない。生徒一人ひとりの人間を見ずに推薦・専願基準を3年の1年間から1、2年まで含めて3年の間非行歴がある生徒は対象としないと規則優先で機械的に決めた学校のみならず、同じく生徒一人ひとりの人間を見ずに生徒と接していた担任は生徒の自殺に同罪と見做さなければならない。

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府中町立中3男子自殺 女性担任の説明が生徒が万引きをしているかのような内容となっているのはなぜなのか

2016-03-10 10:13:13 | 教育

 


      「生活の党と山本太郎となかまたち」

        《」3月8日小沢代表・山本代表定例記者会見動画 党HP掲載ご案内》

      〈東日本大震災から5年「被災地の状況は、地域の皆さんの努力によって徐々に以前のレベル
      に戻りつつあるようだが、まだまだ力を注がないといけない」小沢・山本両代表〉    

  昨日の当ブログで、自殺した生徒に対する担任の指導回数を、マスコミ記事の〈記述は進路指導が「自殺当日まで5回にわたって行われた」としているが、最後の5回目は両親と生徒を混じえた三者懇談であったが、生徒は出席していない。生徒自身に対する進路指導は4回となる。〉と書いたが、自殺当日の午後の三者懇談の前の朝も指導が行われていて、計5回となる。謝罪しなければならない。

 それにしても、この件に関する3月9日夕方発信のマスコミ報道を見ると、指導とは名ばかりであることを知ることになる。

 自殺した生徒の担任が女性であることを3月8日夕方7時からのNHKニュースの画像を見て、その人物が女性の姿になっていることから知ることができた。その女性担任教師の話を聞いて、あるいは話に基いて書いた記事であるはずの《中3生徒自殺 担任と5回の面談 その内容は》NHK NEWS WEB/2016年3月9日 16時55分)を読むと、生徒が実際に中学1年のときに万引きの非行歴があって、そのことを前提にした態度を取っているかのような女性教師の説明となっている。  

 なぜなのだろう。

 学校は自殺した当日の12月8日に調査を開始、12月10日に生徒が万引きをしていなかったことを最終的に確認していたはずである。

 つまり生徒は女性担任教師の指導に対して万引きをした覚えはない態度を取るのが普通の対応であるし、人間としての自然な姿であるはずだが、そうはなっていない。一瞬、生徒は実際には万引きの非行歴があったのではないのかと疑った。

 だとすると、学校の調査と矛盾することになる。この矛盾に整合性を与えるとしたら、学校が生徒の名誉を守るために非行歴を抹消したとも疑うことができるが、より簡単に整合性を見い出すには女教師が事実を隠していると決めつけるのが最も手っ取り早い。

 事実を隠すのは責任を回避したい意識が働いているからだろうが、3年生の1年間を対象に非行歴がある場合は推薦の対象としないとする規準を1、2年のときも含めて3年間を対象とすると規則を変えたのは学校であり、非行歴の確認は学年主任から求められてしたことで、何も事実を隠す必要性はどこにもない。

 この矛盾をどう解いたらいいのだろうか。それとも昨日のプログに書いたように資料に記録してあった万引きの非行歴を事実とする先入観で生徒と向き合い、生徒が否定したにも関わらず、先入観が上回って逆にその否定をウソと決めつけてしまい、面倒臭くなって、あくまでも非行歴があったことを前提として学年主任に確認が取れたと報告してしまい、あとになって非行歴がなかったことが明らかになって、自身が生徒に取った態度や確認を曖昧にしなければならなくなったということなのだろうか。

 しかし全ては新聞記事から読み取った憶測でしかない。憶測は証拠にはならない。

 上記記事が伝えている会話はそのまま、解説や説明として伝えている個所は会話体に直して、担任の説明が万引きの非行歴に身に覚えのある生徒の態度となっていることを浮き立たせて、担任の態度をどう読み取るか、読者に任せたいと思う。

 女性担任「生徒に対する計5回の指導はすべて教室の前の廊下での立ち話程度で、持間は長くても5分程度でした」


 女性担任「1回目の指導は昨年11月16日頃です。学年主任が『資料に万引きをした非行歴が記録されている。11月30日までに確認をするよう』指示されたから、生徒に万引きがありますねと尋ねました。

 しかし生徒は不明確な言葉を返しただけで、具体的な時期や場所の確認はありませんでしたが、確認が取れたと思い、学年主任に確認が取れたと報告しました」


 女性担任「2回目の指導は11月26日頃です。万引きのために専願受験が難しいことが色濃くなった」

 生徒「家の雰囲気が悪くなるので、家の人には言わないでほしい」


 女性担任「3回目の指導は12月4日です。専願受験はできないことが決まった。他の高校に受験するか別の受験の方法もあるが」

 生徒「受けたくない高校もある。一般で志望校を受験した場合、落ちますか」

 女性担任「はっきりしたことは言えない。家に帰って受験校を親と相談するようにして欲しい」


 女性担任「4回目の指導は自殺する前日の12月7日です。前回話したことが保護者に伝わった?」

 生徒「親が忙しくて話ができなかった」

 女性担任「親と話し合うようにして。一般での受験は点数が高ければ合格できるので頑張ろう」


 女性担任「5回目の指導は自殺した当日の12月8日の午前です。親に話したの」

 生徒「『3年になってからガラスを割っているので専願受験はできない』と親に伝えたら、『そんなことで受けられないのはおかしい』と親が怒っている」

 女性担任「そうじゃないよ、万引きで専願受験はできないんだよね。一般受験でも志望校に合格する可能性はあるが確実ではないので、もう1校受けたら」

 生徒「親は私立は1校しか受けさせないと言っている」

 女性担任「きょう午後の三者懇談で、私の方からご両親に話してみる」


 女性担任「午後の三者懇談には生徒は持間になっても現れませんでした。携帯に電話してもつながらなかったので、懇談を始め、(推薦をさせない理由として)両親に万引きのことを伝えました。両親は驚いていました」〈以上)

 先ず最初に驚いたのは担任の生徒に対する“指導”なるものが膝を突き合わせて生徒が抱えている問題点をじっくりと話し合う形式のものも含めているだろうが、それだけではなく、単に過去の非行歴の確認を取るために廊下で数分間立ち話をする程度のものまで含めて“指導”と言っていることである。

 後者のどこに教育なるものの要素を含んでいるのだろうか。教育という要素を含まない指導など、存在しないはずだ。

 女性担任教師が生徒の中学1年のときの万引きの非行歴を前提に生徒と話しているのは当然だが、教師の説明の中の生徒は学校の調査で万引きをしていないことが証明されて、万引きはしていないことになっているのに、万引きの非行歴を断固と否定する態度は一度も見せていない。

 そういった態度を取るどころか、事実万引きをしていなければ必要はないはずなのに、「3年になってからガラスを割っているので専願受験はできない」と、できない理由をより軽い罪にすり替えるウソを親についてまでして、担任から言われたより罪の重い万引きの非行歴を隠そうとさえする姿を取っている。

 担任教師が話したように生徒が罪をすり替えるような態度を事実取っていたしたなら、生徒は万引きの非行歴があったことになって、学校の非行歴はなかったとする調査は何だったのかということになる。

 新聞の新たな報道によって新しい事実が出てくるかもしれないが、その事実が出てこない限り、はっきりしたことは言えない。

 確実に言うことができるのは、誰がウソをついているにしても、誰が汲々とした責任逃れの意識を働かせているにしても校長が明かした3年生の1年間を対象に非行歴がある場合は推薦の対象としないとする規準を1、2年のときも含めて3年間を対象とすると規則を変えたことだと、昨日のブログと同じ結論に辿り着かざるを得ない。

 学校という生徒を学び育てる教育する空間でありながら、生徒に更生させる空間とも再チャレンジを試行させる空間ともなっていないから、3年生のときの非行歴なら兎も角、1年生のときや2年生のときの非行歴を生徒の生活態度や人格を計る指標としなければならないのだろう。

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