広島県府中町立中学3年男子生徒自殺に見る中1時の万引き非行歴の余りにも不寛容な効力期間

2016-03-09 10:06:39 | 教育

 昨年2015年12月8日、広島県府中町の町立中学校3年15歳男子生徒が自宅で自殺し、3月8日に公表されたが、自殺の原因を各マスコミから要約すると、高校への進路指導に関して生徒自身には関係のない誤った情報に基づく誤った取扱いを受けた可能性を伝えている。

 主に「NHK NEWS WEB」記事、《中3男子生徒が自殺 誤った非行歴で「推薦出せない」》(2016年3月9日 0時07分)からと、他の記事を少し混じえて、報道されている内容を見てみる。   

 公表は今年に入ってからだが、自殺の3日後の3月11日に文科省には報告していたという。

 生徒は高校進学を目指していた。第1志望は公立高校。第2志望は校長推薦が必要となる私立高校だったそうだ。

 12月自殺の前月11月から自殺当日まで4回に亘って担任による進路指導が行われた。4回の進路指導の都度、担任は中学1年のときの万引きの非行歴が記してあった「生徒指導用の会議資料」を根拠に第2志望校への推薦は出せないと伝えた。

 上記記事が、〈教育委員会が調査したところ、この前月の11月から自殺当日まで5回にわたって行われた進路指導の際、万引きの非行歴があったとする誤った資料に基づいて、学校が生徒に志望校への推薦は出せないと繰り返し伝えていたことが分かりました。〉と、「繰り返し伝えていた」という表現を使っているから、進路指導の4回共に万引きの非行歴を理由として生徒に対して推薦は出せないと告げていたことになる。

 今回の自殺を考えるとき、この事実がカギを握ることになる。

 上記記述は進路指導が「自殺当日まで5回にわたって行われた」としているが、最後の5回目は両親と生徒を混じえた三者懇談であったが、生徒は出席していない。生徒自身に対する進路指導は4回となる。

 担任は生徒に対して12月8日の三者懇談では万引きの非行歴とそれを理由として推薦は出せないことを両親に告げると前以て伝えていたという。

 そして12月8日の三者懇談の日、予定の時間になっても生徒は現れず連絡も取れなかったため、担任と両親のみで始めた。担任は生徒に前以て告げていたように生徒が1年生のときに万引きした事実があるため志望校に推薦できないと伝えた。

 父親がその日の夕方帰宅して、生徒が倒れているのを発見、病院に救急搬送したが、救命に至らなかった。

 ところが府中町教育委員会の調査で生徒指導用の会議資料への中学1年の時の万引き非行歴の記載は間違いであったことが分かった。生徒指導に資するための会議だったのだろう、複数の生徒の非行歴が記されていたが、会議の途中で出席した教諭から自殺することになる生徒は「実際は万引きをしていない」という指摘があり、万引きの事実がないことを出席した教諭の間で確認し合ったが、資料は修正されず、誤った記載で残されたという。

 いわば生徒の知らないところで一旦は万引きの非行歴を負ったが、教師たちには冤罪であることが判明したにも関わらず、同じく生徒の知らないところでその冤罪を冤罪のまま背負い続けて、それが元で推薦を出して貰えず、自殺を選んだということになる。

 だから、マスコミは誤った非行歴に基づいた進路指導が自殺につながった原因の可能性があると報道することになった。

 果たしてそれだけだろうか。

 では、各関係者の発言を見てみる。

 高杉良知府中町教育長「学校の情報管理に問題があり、生徒の尊い命が失われてしまったことについて大変申し訳なく思っています。今後、第三者による調査を行って情報管理の在り方を見直し、このような事案が二度と起きないよう再発防止に努めます」

 文部科学省「誤った非行歴に基づいた指導によって子ども1人を自殺に追い込んでしまったのであれば大変遺憾で、あってはならないことだ。なぜそのようなことが起きたのか、徹底的に調査してもらいたい」

 情報管理の拙劣さが中学生1人の命とその人生を奪ってしまった。

 だが、原因はそのことだけではないはずだ。それが本人の知らない冤罪ではあったとしても、担任は中学1年のときしたとされていた万引きの非行歴に中学3年になっても犯罪行為であることの効力を持たせていただけではなく、高校生の年齢になってまでもその効力を維持させる意思を働かせていたことになって、そのことが自殺を選択したより大きな原因となっていたはずだ。

 この意思によって推薦は出さないと決められた。但しこの意思は担任から発したものではなく、学校の意思として存在していたことが3月8日午後10時半頃から学校の記者会見での校長の発言で分かった。

 このことを3月9日朝7時からのNHKニュースで知った。《中3男子生徒自殺 誤り判明後もデータ未修正で残る》NHK NEWS WEB/2016年3月9日 5時27分)から見てみる。   

 中学校校長「生徒みずからが命を絶つようなことが起こったことについて、生徒を預かる学校の責任者として深くおわび申し上げます。

 (公表の3カ月遅れについて)亡くなった翌朝に遺族から『みずからの命を絶った事実を知らせると同級生の動揺が大きく進路にも影響があるかもしれないので進路が一段落するまで急性心不全で亡くなったことにしてほしい』と希望が寄せられた。公立高校の入学試験が終わったので公表した。

 (なぜ資料に誤りがあったか)男子生徒が1年の時の生徒指導推進委員会の資料で触法行為をした生徒として名前があった。記録上のミスで、会議の席でミスであると確認したものの、サーバー上の電子データは未修正のまま残されてしまった。

 当時、生徒が万引きをしたと連絡を受けた教諭が資料を作成する生徒指導部の教諭に生徒の名前を口頭で連絡した。データの入力の過程で誤ったと思われる。あくまで会議で使うための資料だったので、その後、ほかのことに活用するということは考えず、データも直されなかった」

 だが、会議の資料はいつ、どのようなことを議論したのか記録として残すことを前提としているはずだ。

 もしその前提がなければ印刷した紙資料のみならず、会議終了後にパソコン内のデータ資料も消去されなければならない。だが、前提があったから、データ資料は残された。だが、データの間違いは修正しないままにしておいた。

 パソコン操作一つで情報が簡単に誰にでも入手可能な現代社会で、もう何年も前から、ちょっとした情報の間違いが人一人の人生を大きく狂わすこともある危険性が指摘されている。情報という概念についての意識が低かったのではないのか。

 中学校校長「(担任の生徒指導について)担任は去年11月から自殺した日の朝にかけて5回、男子生徒と面談した。担任は1回目の11月16日の面談で触法行為があったことの確認を取ろうとしたが、具体的な事実を確認せず、生徒本人の不明確な言葉で確認が取れたと思い込んでしまった。5回の面談を通しても担任は生徒が触法行為を否定したと感じなかったため、触法行為があったと確認が取れたとしていた」――

 担任は正直に話しているのだろうか。校長にしても学校の責任逃れの意識はなかっただろうか。担任が責任回避意識から正直に話さず、校長も学校の責任を軽くしようとする責任回避意識を働かせていたなら、その情報は限りなく事実から離れる。

 生徒にとっては見に覚えのない万引きである上に推薦がかかっている。人間の自然な姿として生徒がきっぱりと否定した態度を取ったと見るべきであろう。見に覚えのない万引きをしたのかしなかったのか、不明確な言葉で濁したとしたら、生徒の態度としてと言うだけではなく、人間の態度としても余りにも不自然である。

 もし実際に生徒が万引きをしていて、そのことを理由に推薦を出すことができないと担任から告げられたなら、「あれは中学1年のときです。二度と万引きをしていませんから、どうにかなりませんか」と懇願することは人間の自然として考え得る。

 それを、「生徒本人の不明確な言葉で確認が取れたと思い込んでしまった」とか、「担任は生徒が触法行為を否定したと感じなかったため、触法行為があったと確認が取れたとしていた」と、生徒の曖昧な態度を根拠とした“確認”としているのは余りにも不自然過ぎる。

 考えるに担任は頭から万引きをしたと固定観念に囚われて、生徒の否定を受付なかったとした方が人間の自然に適う。

 但し非行歴に関わる推薦の基準は担任の意思から発したのではなく、学校の意思から発していた。記事は解説体で校長の発言を伝えているが会話体に直した。

 中学校校長「生徒を高校に推薦する際の基準について、それまで3年生の1年間で非行歴がある場合は推薦の対象としないとしていたが、去年11月に1、2年生の時も含めて非行歴がある場合には推薦の対象にしないと改めた

 生徒の成長を認め、生徒の意欲を高めるという観点に欠けていた」――
 
 学校教育者でありながら、悲惨な出来事が起きてから気づく。前以て考えることができなかった。
 
 担任は自殺した生徒の人となりを普段見ていたはずだが、この規準に忠実に則って、中学1年のときの冤罪であったとは気づかずに万引きの非行歴を自殺した生徒に狂いなく当てはめようとした。

 このような規準を決めた学校も、その規準を適用していく側の担任も余りにも不寛容性に過ぎる。

 校長を始めとした学校は3年生の1年間だけではなく、1、2年生まで含めた3年間を通して一度でも非行歴がある生徒は推薦を出さないという規準が例えそれが1年のときの非行歴であっても、中学の3年間のみならず、高校生の年齢になるまで、その非行歴に対して犯罪行為であることの効力を持たせることになると認識しなかったのだろうか。

 勿論、更生しない人間もいるが、更生する人間も確実に存在する。この規準はその更生の可能性まで排除している。あるのは厳罰のみで、あるいは厳罰主義の考え方のみで、それぞれの人となりを見て残しておくべき情状酌量の余地も再チャレンジの余地も残していなかった。

 校長の言葉を借りると、学校教育者であるにも関わらず生徒の成長の余地も、意欲を高めさせる余地も残していなかった

 学校が新しい規準の性格に気づいていたなら、1年生のときの万引きが間違った情報であろうと正しい情報であろうと、生徒を自殺にまで追い込むことはなかったろう。

 この新しい規準こそが生徒を死に追いやった大本の原因であるはずだ。

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安倍晋三と似た、側近萩生田光一の「共産党が絵をかいて自民党政治に風穴をあけよう」の言葉に見る単細胞さ

2016-03-08 08:47:33 | 政治

 東京都八王子市での自民党の会合で安倍内閣官房副長官の萩生田光一が次のようにお言葉を述べられたようだ。

 「asahi.com」からの転用だが、勿論、記事は「お言葉」とは書いていない。だが、2014年12月の総選挙約1カ月前に在京テレビ各局に文書を送って選挙報道の公平・中立性を求める形で安倍晋三とその政権の批判を抑えようとする報道圧力を実践した民主義国家では稀有且つ偉大な人物だから、その発言は“お言葉”と表現してこそ相応しい。  

 文飾は当方。

 萩生田光一先生「いま野党はなりふり構わないで連携している。民主党が共産党と一緒に候補者をたてる。共産党は候補者を引っ込める。きれいに見えるが、候補者を引っ込めたほうが強い。要求を色々言える。どう考えても、民主と共産、どっちがしっかりしているかと言えば、共産の方が全然しっかりしている。

 共産はもともと革命政党、民主は(かつて民主を離党した議員が多い維新の党と合流する)ブーメラン政党。その違いを考えたら、共産党が絵をかいて自民党政治に風穴をあけようというのが、今回の国政選挙の構図だ。『自公対民共』の争いだ。

 衆参ダブル選挙じゃないかと言われるが、あるかないかは、私もわからない。総理の腹の内にしかない。あるかもしれないし、ないかもしれない、というのが今の状況だ」――

 「共産党が絵をかいて自民党政治に風穴をあけようというのが、今回の国政選挙の構図だ」とのお言葉を述べられている。

 確認と証拠のために一応ネットで「風穴を開ける」なる言葉を調べてみた。

 【風穴を開ける】デジタル大辞泉

 1 槍・鉄砲の弾丸などで、胴体を貫く。「どてっぱらに―・けてやるぞ」
 2 転じて、閉塞感のある組織や事態などに新風を吹き込む。「寡占市場に―・ける」

 二つの意味がある。仮に萩生田光一先生は1の意味で言っているとする。つまり「自民党の土手っ腹に風穴を開ける」という意味で使ったとしたら、最近ではそのような表現を使うのは暴力団員か、暴力団員紛いの人間が威しに使う言葉ということになり、暴力団員風の体格・風貌の萩生田光一先生が口にするには似合いの言葉ではあるが、些か物騒な意味合いを持つことになって、その物騒さを共産党に纏わせることになり、民主主義に則った選挙による決着に反することになり、名誉毀損の謗りを免れ得ず、決して適切な言葉の使い方とは言えない。

 共産党にしても、「そのような物騒な党であるかのような表現は使わないでくれ、共産党は平和の党だ」と抗議しなければならない。

 では、萩生田光一先生は2の意味を使ったと仮定してみる。いわば共産党の狙いは民主党と選挙協力して「自民党政治に風穴をあけようということだ」と発言した。

 と言うことは、“自民党政治に新風を吹き込む”という意味を持たせていたことになる。ある組織に新風を吹き込むためにはその組織が閉塞的、あるいは閉鎖的な状況に陥っていなければならない。

 萩生田光一先生は自民党がそのような状況にあると見たみたことになる。萩生田光一先生のような人物が官房副長官を努めていられるのだから、当然ということなのだろうか。

 そうであるからには、「今回の国政選挙の構図は『自公対民共』の争いだ」と言ってはいるものの、民共との対決を「閉塞的な自民党に新風を吹き込む改革的な対決だ」と歓迎していることになる。今の旧弊な自民党を変化させるには民共との対決が必要だと。

 だが、民主党と共産党からしたら、「自民党政治に風穴をあけ」たいとも、“自民党政治に新風を吹き込み”たいとも露程も思わないだろう。

 自民党の戦前復古主義的な国家主義体質に風穴を開けることも新風を吹き込むことも、頑固に凝り固まり過ぎていて、新風の吹き込みようがないからである。唯一、政権の座から引きずり下ろすことが最大の解決策であろう。

 萩生田光一先生にしても実際には1の意味で使ったわけでも、2の意味で使ったわけでもないだろう。

 だが、1の意味か2の意味で使ったことにとなる。

 安倍晋三同様、その程度の単細胞な頭しかしていないということであり、そのことの証明となる「自民党政治に風穴をあけよう」なのである。

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安倍晋三の民主党子ども手当“子育ての社会化・国家化”デマに体よくあしらわれた岡田克也と緒方林太郎

2016-03-07 12:35:27 | Weblog

 まさに安倍晋三の人間性の醜悪な部分を露骨に曝け出した遣り取りの一場面であった。

 民主党代表岡田克也は2月29日の質疑で夫婦別姓と民主党の子育て手当についての安倍晋三の過去の発言を取り上げて、問題があることを追及した。夫婦別姓に関する発言に関しては3月2日のブログに書いたが、今回は後者の発言に関連した岡田克也と安倍晋三の、そして翌日3月1日になって同じ民主党の緒方林太郎が同じ問題で行った質問と安倍晋三の答弁を取り上げてみることにする。

 岡田克也がパネルにし、民主党のサイトに載せてある、当方で少し加工した画像を前回に続いて利用することにした。

 岡田克也「子ども手当についてとんでもないことを言っておられますね。『子ども手当によって民主党が目指しているのは財政を破綻させることだけではなく、子育ても家族から奪い去り、家や社会が行う子育ての国家化・社会化です。これは実際にポルポトやスターリンが行おうとしたことです』

 これ、総理の発言ですよ。今総理は子ども・子育てに十分力を入れておられるような、具体的政策にも展開しておられますが、根底にあるのは共産型ですか。国家化・社会化であると、子育ては。

 言うことになると、これは非常に歪んだ形の子ども・子育て政策になってきませんか。考え方、撤回されませんか。如何ですか」

 安倍晋三「これはもう民主党政権時代にですね、行われた、いわゆる子育て支援ですね、私共の支援と違うということを申し上げたわけであります。私は全てを社会化、あるいは国家が担う、そういうことは間違っているということを申し上げたわけであります。

 やはり大切なことはですね、各家庭が子どもをですね、育み育てていく。それを社会や地域が支援していく。国家も勿論支援していく。そういう姿が新しい姿であろうと、こう申し上げているわけであります。この考え方は今も変わっていないということであります」

 岡田克也「総理、それは基本的に違いますよ。我々が言ってきたのは子ども・子育ては勿論家族の問題でもある。しかしそれだけで十分ではない。社会全体で支援していくんだと、それが民主党の考え方ですよ。

 今総理が言ったことと非常に似てるんだけど、当時私ね、担当大臣として自民党議員の質問をよく受けましたが、今総理が言われたような話ではなくて、やっぱり社会全体で支援することが間違ってるんだ、そういう議論を展開する方がよくいらっしゃいましたが、この(パネルの)総理の発言もその一環ではないかと言うふうにも思えるわけですね。やっぱ考え方をちゃんと改めるべきだと、この発言二つ、撤回されませんか」

 安倍晋三「今まさに子育てについては家族が子育て、家族が愛情を注いでですね、子育てを行う。しかしその中に於いて地域や社会や国家がしっかりと支えていく。それが新しい子育て支援だと私は今でも考えているわけでございます。

 つまりあのとき民主党の中でですね、こういう発言をされた方々もおられたんだと思います。つまり子育て支援、子ども手当というのは両親や家族から養育費が払われることではなく、まさに国家が直接子どもたちにですね、養育費を移していくということによってですね、自分たちは両親に対して何の義務も義理も感じる必要はないんだということをですね、そういう議論があったわけであります。

 そういうことではなくてですね、(議場内が騒がしくなる)すみません、皆さん静かにしてください。大切なところですから、そういう全てを子どもではなく、国家が育てると言う考え方は間違っているということを申し上げたわけであります。その考え方は今も間違はないと思っています」

 岡田克也「総理、今の発言は私は聞いたことがありません。ですから、そこでどういう発言があったか明確にしてください。民主党がですよ、民主党がそういう発言をしたのかどうか。

 もしそういう事実がなければ、撤回して謝罪してください。終わります」

 岡田克也がパネルで示し、口に出して言った「子育ての国家化・社会化」だとか「実際にポルポトやスターリンが行おうとしたことです」等の言葉を安倍晋三は「私共の支援と違うということを申し上げた」ものだという表現で自身の発言であることを認めた。

 だとしたら、「子育ての国家化・社会化」だとしたのは民主党の子育て・子ども手当政策についてであって、当然、自民党の同じ政策はその逆、自由主義に基づいた政策としていることになる。

 にも関わらず、安倍晋三の子育て政策の根底にあるのは共産型か、国家化・社会化なのか、歪んだ形となると見当違いな質問をしている。

 なぜ民主党の子育て政策は「子育ての国家化・社会化」となるのかと単刀直入に問い詰めなかったのだろうか。なぜ「ポルポトやスターリン」の国家主義的政策と判断されなければならないのかと。

 なぜと問い詰めていたなら、民主党の子育て施策が「子育ての国家化・社会化」だと看做しているはあくまでも自身が発言した安倍晋三の解釈なのだから、安倍晋三がその問い詰めに答えずに「国家が養育費を子どもたちに移していくために子どもたちは両親に対して何の義務も義理の感じる必要はないといったことを民主党の中で発言をしていた」との趣旨のことを言ったとしても、安倍晋三の解釈とは関係ない後付けの強弁と看做して無視すればいいものを、岡田克也は誰が言ったのか明確にして貰いたいだ、それが事実でなければ発言を撤回し謝罪して欲しいなどと逆に囚われてしまったから、次の日の緒方林太郎も“なぜ”を問わずに発言の撤回・謝罪に拘ることになった。

 岡田克也は最初から質問の趣旨を間違えていた。安倍晋三の発言の撤回・謝罪は質問の“なぜ”に合理的に答弁できなかった場合にのみの要求でなければならない。それ抜きで見当違いの質問をしたから、緒方林太郎が翌日の質問で安倍晋三の強弁にハマり込んでしまった。

 改めて断るが、安倍晋三は「子育ても家族から奪い去り、家や社会が行う子育ての国家化・社会化です」を自らの発言だと認めた。

 当然、安倍晋三が意味させている「子育ての国家化・社会化」とは、家族が子育てに関与することを一切禁止して(=「子育てを家族から奪い去って」)、社会、あるいは国家が家族を通して子育ての全てに関与する形式ということになる。

 その完璧な姿が国家、あるいは社会が子育ての拠点を家庭から奪い、その拠点を社会の何処かに何個所かずつ置いて、それぞれの拠点に一定の人数ずつ集め、国家か社会がこれと決めた教育、あるいは思想を植え付ける子育てということになる。

 そういった形式の子育てにまでなって初めて、「ポルポトやスターリンが行おうとしたこと」と言うことができる。あるいは誰が口にした言葉であっても、「子どもたちは両親に対して何の義務も義理の感じる必要はな」くなると言うことができる。

 例え国家、あるいは社会が子育ての資金を全て賄ったとしても、子育ての拠点を家庭に置き、親が子どもの子育てに何らかの関わりを持つ限り、「両親に対して何の義務も義理も感じ」なくなるということはあり得ない。

 民主主義国家である日本で果たしてそんなことは可能だろうか。安倍晋三は民主党の子育て・子ども手当政策をそのような政策だと断じた。根拠のない、悪意ある飛んでもないレッテル貼りであり、そのように主張していたとしたら、悪質・醜悪なデマそのものである。

 2016年3月1日の緒方林太郎と安倍晋三の遣り取り。緒方林太郎は前の日の岡田克也の質問の終わりの言葉に呪縛され、「何の義務も義理の感じる必要はない」といった言葉は誰が言った、言わなかったの無意味なやり取りに終止することになった。

 緒方林太郎「冒頭、この会議が始める前に少し理事間で色々とこじれていましたが、恐らくてテレビを見ている方は何のことか分からないので、私の方から明かさせて頂きたいと思います。

 昨日(2月29日)のこの予算委員会に於きまして我が党岡田代表の質問に対しまして安倍総理は子ども手当についてこのように述べておられます。

 『民主党の中でもこういう発言をした方もおられたんだと思います。つまりは子育て支援・子ども手当というのは両親や家族から、いわば養育費を支払われるということではなくて、まさに国家から直接子どもたちに養育費がいくいうことによって、自分たちは両親に対して何の義理も感じる必要はないというものであった』と。

 こういうことを我々民主党が言ったと。安倍総理が言われたわけであります。で、それに対して、これ、根拠は何だと、我々聞きましたところ、我々が与党時代の平成22年3月16日に於きまして我が党議員の賛成討論として述べた言葉がですね、『これまで子どもは家庭で育てるものという考え方ですべての負担が子どもを育てる家庭が負っていました』

 そのあと、『現代の日本では児童虐待の問題や7人に1人の子どもが貧困であるという問題や、家庭の中だけでは解決できないという問題が山積しています』

 子どもは社会で育てるという考え方というものを我々は述べたわけであります。子どもは社会で育てるという考え方を述べたのが、安倍総理の頭の中の理解では『自分たちは、子どもたちは両親に対して何の義務も感じる必要はない』と置き換えるのですか。安倍総理」

 安倍晋三「私はですね、私の発言については、いわば民主党の中での発言というのと、そういう議論もあったということです。二つの段階に分かれているわけでありまして、つまりですね、私は(場内が騒がしくなる)、少しは静かにして頂きたいと、このようにに思います。

 あのとき、民主党の中でこういう発言をした方もおられたわけだと思いますが、つまり子育て支援・子ども手当というものはですね、両親や家族からいわば養育費を払えというわけではなく、国家で直接子どもたちに養育費がいくと、こういう趣旨の発言があったと。

 こういう意味に於いてそれはですね、そんなこと誰が言ったのかとヤジがございましたが、しかしあれは突然の質問でございましたから、そこで民主党の発言録を持っているわけではございません。

 そこで記憶を、(何かヤジ)そういう正確な発言そのものを私に望むんであればですね、ちゃんと通告をして頂きたいとこのように思いますが、通告のない中に於いてですね、記憶として申し上げたことはですね、つまり福田(衣里子)議員ですね、言われた『これまで子どもが家庭で育てるものという考え方のもとで育てるということから、家庭で押し付けましたことから、子どもは社会が育てるという考え方・・・』という発言が代表質問であった。

 また太田和美委員がですね、『子どもを産み育てることを家庭や家庭の責任にするのではなく、子どもは社会全体で育てるという考え方に行かなければならない』

 つまり子どもは家庭で育てるのではなくてですね、社会で育てるという考え方、というふうに捉えることもできるわけであります」

 斜め背後の大臣席で石破茂が頭をのけぞらせるようにして安倍の答弁を聞いていたが、上体を起こして下を向く形となると口を固く閉じて薄ら笑いを受かべた。口を開けて笑う訳にはいかないから、口をきつく閉じる形になったのだろう。その後も時々苦笑めいた表情を見せた。腹の中で安倍晋三の詭弁に呆れ返っていたのかもしれない。

 安倍晋三「『生まれたときから社会の責任で』ということが、その後書かれていて、『今回の子ども手当はそういう思想で作られたものである』という、そういう思想ということが書かれているわけでございます。

 ま、そこでですね、いわば議論があったのは当然のことでありまして、えー、今緒方委員が言われたようなことについて議論があったのは事実、我が党の中でそういうことを、そういうことを、自民党の中でも議論が、つまり議論があったという部分とですね、民主党の発言ということについて、言われた要旨について私が捉えた要旨について申し上げたわけであります」

 緒方林太郎「我々、安倍総理、今、私が読み上げたところ、途中までは自分の言葉で読み上げましたが、『自分たちが両親に対して何の義務を感じる必要がないという議論があったわけでございます』と。 こんな議論、民主党はしていないです。

 安倍総理大臣、これは明らかに公共の電波を使って根拠のないことを、事実無根のことを言っているわけですよ。撤回してください」

 安倍晋三「これはですね、つまり私言っていたことは民主党の中でそういう発言をしていた方もおられるということで、最初、前段の趣旨について私が話したわけであります。それがそのまま発言通りではなかったわけでありますが、私の受け止めであります。私はそういうふうに受け止めたわけでございます。

 そしてそれを受けてですね、議論があったというのは我々の中であった議論についてご紹介したわけでございます」

 緒方林太郎「 この今の安倍総理の答弁を見る限り、自由民主党の中でこういう議論があったなどと到底読めないですよ。民主党に対して自分たちが親に対して何の義務も感じないという議論をした、我々がしたかのように答弁しているわけですよ。明らかにこれ間違っていますよ。
 
 安倍総理、ここは素直に撤回して、謝罪すべきだと思いますが、もう一度」

 安倍晋三「これはですね、この後も、この後もですね、岡田さんとやり取りがあればですね、それはこういうふうに説明いたしましたよ。でも、それはいきなりの質問の中でですね、私がこういうふうに申し上げたわけでありまして、いわばどこにカギ括弧するかということにおいてですね、どこにカギ括弧するかということにおいてですね、この回答、『子育て支援』に括弧がつていていですね、そのあと、『子どもたちに支援がいく』というところで括弧を切っている。

 あるいは『そう言うことによって』というところで括弧を切っているわけであります。その後のことについてはですね、自分たちは何の義理や義務を感じる必要はないという議論が、議論があったということは、普通議論があったというのは、民主党の中でどういう議論があったということは私は知らなかったわけでありますから、自民党の中に議論があったと言うことについて紹介をしたわけでございます。

 これはまさに私が言ったことがどのように理解するかということについて、今見解の相違を今議論しているわけですが、これは何と言ってもですね、28年度予算の締め括りの総括でありますから、しっかりとですね、28年度予算にかかることについての議論をすることが国民に求められている予算委員会での議論ではないかと、このように思う次第であります」

 緒方林太郎「まさに28年度締め括り総括質疑であります。そこで問われるのは安倍総理の資質であります。根拠のないことを言って、それに対して謝罪しない。事実無根のことを言う。そういうことは絶対に許されない。安倍総理、根拠のないことを言ったことは事実なんですよ。撤回すること。撤回した方がいいですよ。安倍総理もう一度」

 安倍晋三「これはですね、いわば質問通告なくてですね、質問したことに対して、そしてこれは文書で出しているわけではありません。いわばどこからどこまでカギ括弧で切ったということにそちら側はそちら側の見解を述べられ、今は私は私の(発言の)趣旨について述べたわけでございます。そして正確にですね、質問通告ありませんから、そこで正確にですね、民主党の議員の発言をここで残念ながら私はご紹介はできません。

 私は記憶の中について述べたわけでございます。その根拠については今福田委員の、当時の委員の発言と太田議員のですね、その発言の中からご紹介をさせて頂いたわけでございます。

 その後ですね、その後議論ということについてはまさにそういう議論になっていたということを申し上げたわけで――(ヤジ)。

 いや、議論は自民党の中でそういう議論があったということでありまして、そのことについてはですね、その時々ですね、その後、その後ですね、その後岡田委員がですね、私にそれがどういうことなんだと言えば、自民党の議員だったと、そういうことであります。

 ここでですね、謝罪とか撤回と言うのはですね、それはあまりにも過大な要求であると、このように思う次第であります」

 緒方林太郎「この発言の前のところで昨日岡田委員の方から質問がありましたが、『子ども手当によって子育ての国家化・社会化が行われる。これが実際にポルポトやスターリンの行おうとしたことです』

 これ、安倍総理の発言でありますか。この発言とそして『子ども手当に対して自分たちは両親に対して何の義務も感じる必要はない』という発言を全部合わせてみると、実は安倍総理は子どもを社会で育てると言うことについて極めて否定的な考え方を持っているのではないかと思うわけでありますが、安倍総理」

 安倍晋三「今まさにですね、今まさに緒方委員の質問を聞いて、私が言ったことをよく聞いておられなかったんだなあということがよく分かりました。『今まさに子育てについては家族が子ども育て、愛情を注いで子育てを行い、その中に於いて地域や社会や国家がしっかりと支えていく、それが新しい子育ての支援だと思う』

 そう答えているわけでございます。今おっしゃるようなことを一言も言っていないわけでありまして、つまり、このようにですね、私の発言自体についてですね、人によっては受け取り方が違うということなんでありまして、私が言ったことを違うように緒方議員が受け取っておられたということも、証明ではないのかなあというふうに思います。

 繰返しになりますが、その中に於いて地域や社会や国家がしっかりと支えていく、それこそが正しい子育てで支援だと、私は今でも考えているわけであります。このように申し上げたわけであります」

 緒方林太郎「 明らかに公共の電波で、NHKのテレビが入っているときに事実に反することを言って、それを指摘されてもああでもない、こうでもないと言って、そして言い訳ばかりして、撤回、謝罪の一つもしない。

 これは本当に総理大臣の資質として非常に問題がある。強く抗議をさせて頂来まして、次の質問に移って行きたいと思います」

 埒もあかない質問を長々と続けた、持間のムダ以外の何ものでもない。 

 緒方林太郎は岡田克也と安倍晋三の遣り取りを学習したはずである。なぜ緒方林太郎にしても民主党の子育て政策が「子育ての国家化・社会化」となるのかと単刀直入に問い詰めることができなかったのだろうか。どこでどうつながるのだと。

 その“なぜ”を追求せずに、民主党議員の過去の発言を「安倍総理の頭の中の理解では『自分たちは、子どもたちは両親に対して何の義務も感じる必要はない』と置き換えるのですか。安倍総理」などと尋ねるから、発言の受け止めの問題にすり替えられることになった。

 では、鳩山内閣末期の平成22年(2010年)3月16日の本会議、福田衣里子の発言を衆議院会議録から見てみる。文飾は当方。

 「平成22年度における子ども手当の支給に関する法律案」の賛成・反対討論が行われた。

 福田衣里子「民主党の福田衣里子です。

 私は、民主党・無所属クラブを代表いたしまして、ただいま議題となりました平成二十二年度における子ども手当の支給に関する法律案に賛成の立場より討論いたします。

 本法律案は、次の世を担う子供の育ちを応援するために、平成二十二年度において、ゼロ歳から中学校修了までの子供たちに対し、月額一万三千円の子ども手当を支給するものです。その際、保護者の所得制限は設けず、対象年齢や出生順位にかかわらず、ひとしく一律の手当額としております。

 我が国は、子供に対する予算のGDP比を見ますと、先進国に比べても、最も少ない国の一つとなっています。今まで、我が国においては、物申すすべのない子供たちに対する予算は、後回しにされてきたのではないでしょうか。

 子ども手当の創設は、子供たちが安心して育つことのできる日本をつくっていく第一歩であると考えています。

 子供たちへの支援が経済的支援だけでは足りないということは、言うまでもありません。長妻厚生労働大臣からも、保育サービスなどのいわゆる現物支給についても、車の両輪としてしっかり取り組んでいくということが、厚生労働委員会の中で明らかにされています。子供が安心して育つことができ、保護者が安心して子育てができるよう、子育てに係る経済的負担を社会全体で負担すべきだと考えます。

 本法案では、保護者の所得にかかわらず、すべての子供たちに支給されることになっています。

 所得制限については、多くの議論をいただいたところでもあります。しかし、考えても見てください。子供は、生まれる家庭を選べません。また、昨今の景気の状況を見れば、家計の急変が起こる可能性も大きく、それは、そのまま子供たちの生活に影響を与えます。前年の保護者の所得によって子供たちに不平等を与えるのでは、子供たちに対する確実な支給にはつながらないと考えます。また、先進諸国を見ても、子供に対する手当に所得制限をかけている国はありません。

 これまで、子供は家庭で育てるものという考え方で、すべての負担が、子供を育てる家庭に負っていました。現在の日本では、児童虐待の問題や、七人に一人の子供が貧困であるという問題など、家庭の中だけでは解決できない問題が山積しています。子供は社会で育てるものという考え方で、どのような家庭に生まれ育っても、安心して育つことができる環境づくりが求められています。

 少子化への対応については、産めよふやせよという考え方ではなく、子供を持ちたい人が安心して持てるように、総合的な子育て応援政策に取り組むことが何よりも重要だと思います。

 各種の世論調査からも明らかなように、子供を持てない最大の理由には、経済的な負担が挙げられています。子育て世代は、収入に余裕がないことも多く、子供を育てることで家計が余計に圧迫されていきます。また、もう一人子供が欲しいと思っても、経済的事情のために断念する人も少なくありません。

 子供たちは、日本の未来を担う貴重な存在です。社会の宝です。子供たちを大切にするためには、子供たちを育てる人たちを社会全体で支援することが重要だということを御理解いただきたいと考えます。

 また、孤独だと感じる、そういった子供がふえています。子供たちが、社会に守られ、育てられ、社会とつながっているんだという思いの目覚めとなればと願います。そのためにも、何としても本法案の成立が必要です。

 本法案は、公明党、共産党及び連立与党の方々が、共通の認識を持って、限られた時間の中で、子育て支援政策の拡充のために精力的に議論を進め、必要な修正がなされており、まことにうれしい限りであります。

 議員の皆様におかれましては、子供たちの未来のために、ぜひとも本法案に御賛同いただきますよう強くお願い申し上げ、賛成の立場からの討論といたします」――

 次に安倍晋三が挙げ、2010年5月付で「民主党プレス」に載っている太田和美議員の発言を見てみる。 

 太田和美「子どもは社会全体で育てる

 子どもを生み育てることを家庭や個人の責任にするのではなく、『子どもは社会全体で育てる」という考え方に変えなければならない。どんな家庭に生まれた子でも、生まれた時から社会の責任で支援する。今回の子ども手当は、そういう思想で作られたものです。

 子ども手当をつくり、子どもと子育てを社会全体で応援することは、これまでの政策の大転換であり、未来への投資そのものです。子育てが大変だから応援しますという『美しい理由』だけではなく、国家100年の計に立つ政策だと言えるのです」――

 文飾を施した「子供は社会(あるいは「社会全体」)で育てる」にしても、「子供たちを育てる人たちを社会全体で支援する」にしても子育ての拠点を家庭に置き、その第一義的な責任を親に置いている。

 子育ての拠点を社会や国家に置き、その責任も社会や国家が負う「子育ての国家化・社会化」を主張しているわけではない。単に社会全体で子どもを支えよう、子育てを支えようという思想のもと、国が何万円かずつ子どもたちのために支給・支援するだけの話である。

 この思想のどこが悪いのか、安倍晋三の頭の中が理解できない。

 この子育て方式が安倍晋三の解釈ではなぜ「子育ての国家化・社会化」となるのか、聞けば済むことである。

 いずれにしても安倍晋三の詭弁・ゴマカシは凄まじい。どこに括弧を置いているとか、自分の発言(=自分の解釈)だと認めていながら、質問通告がなかったとか、民主党の議員がそういう発言をしていただとか、民主党提案の家庭を否定して社会で育てるといった趣旨の議論が自民党の中にもあったとか、それぞれの受け止めの問題、見解の相違だとか天性の巧妙さで口実を作り上げ、返答に窮すると、いつもの手で、「28年度予算の締め括りの総括でありますから」と大事な議論の場という意味を持たせて質問を牽制する発言にすり替えてまでして、なぜ民主党の子育て政策が「子育ての国家化・社会化」であるのかの説明から最後まで逃げた。

 まさに安倍晋三の人間性の醜悪さが饒舌なまでに露骨に現れた詭弁・強弁・ゴマカシのオンパレードな答弁であった。

 逃がした原因は、“なぜ”を問い詰めなかった岡田・緒方の追及のまずさにあるのは断るまでもない。

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中国は安保理4回制裁下の北朝鮮を生かしてきたし、今回5回目も生かすサインを既に出している

2016-03-06 07:28:49 | Weblog

 ――金正恩はそれをカードに自らの独裁体制を生かし続けるだろう――

 国連安保理は3月2日午前(日本時間3月3日未明)、北朝鮮のこれまでの国連決議違反となる核実験や長距離弾道ミサイル発射に対する5回目となる北朝鮮制裁決議を全会一致で採択した。

 今回の5回目の制裁決議採択は今までの4回の制裁決議がほぼ無効であったことの証明でしかない。5回目も同じことの繰返しにならないためにだろう、今回は前例のない最も厳しい内容となったという。

 安倍晋三はこの厳しさに満足したのか3月3日、「全会一致採択を高く評価し、国際社会の北朝鮮に対する断固たる姿勢を示すものである。その実効性を確保するため、関係国と協力し、毅然として対応していく」との趣旨のコメントを発表した。

 これまでの4回のように同じ繰返しとならずに今回こそ北朝鮮を追い詰めることができると信じているようだ。「実効性を確保するために毅然として対応していく」ということは実効性確保の可能性を信じているからであり、確保できなければ、自らの行動力の不足を露呈し、「毅然」をウソにすることになる。

 だが、実効性の確保は第一番に北朝鮮の貿易額の約90%を占めている中国がカギを握っていると誰もが言っているし誰もがそう見ている。安倍晋三がカギを握っているわけではない。中国が如何に各制裁を決議通りに忠実に実行するかにかかっているし、日米韓などの外国が中国に対して如何にそのように仕向けることができるかに全てがかかっている。

 中国が北朝鮮の意向を無視して自律的に決議通りの制裁を実行していくなら何も問題はないが、北朝鮮が以後6カ国協議にも応じない、韓国への軍事的恫喝もやめない、ミサイル発射も続けるようなら、制裁からの経済的困窮に何ら追い詰められていないことになって、制裁に漏れが出ている何よりの証拠となり、中国を先ず疑わなければならない。

 そのようなとき、中国と柔軟な外交関係を築くことができていない安倍政権は中国に対して決議通りの制裁を実行しているのか単刀直入に聞くことができる関係にあるのだろうか。

 北朝鮮の1月6日の核実験に対する安保理制裁決議のためにアメリカのケリー国務長官は1月27日中国を訪問、北京で王毅外相と会談して安保理制裁決議について話し合い、2月7日の長距離弾道ミサイル発射後の2月12日にはドイツ・ミュンヘンで開催の安全保障会議出席の際、再び制裁決議を話し合うために王毅外相と会談、2月23日にはアメリカ訪問中の王毅外相とワシントンの国務省で会談、同じく制裁決議について話し合っている。

 オバマ大統領も習近平国家主席側からのものだが、同じ問題で2月5日電話会談している。

 一方、我が日本の外務大臣岸田文雄は1月の北朝鮮の核実験以降、中国の王毅外相との電話会談を要請していたが、「多忙」を理由に一度も応じて貰っていないという。いわば安保理を舞台とする以外では蚊帳の外に置かれている。

 日本の首相安倍晋三に至っては北朝鮮の軍事的危険性を言い募っても、その積極的平和主義外交は中国には何ら通じない。

 米中がいくら対立していても、外交関係は柔軟に維持している。北朝鮮に対する制裁実効性のカギを握っている中国と柔軟な外交関係を築くことができていないにも関わらず厳しい制裁内容だけを以てして「実効性確保に関係国と協力し、毅然として対応していく」と言うことができる。

 いつもの大口にしか見えない。

 各マスコミ記事が纏めた制裁内容は次のとおりになるそうだ。

●北朝鮮へのロケット用燃料を含む航空燃料の提供と輸出禁止。但し北朝鮮民間機への海外での燃料販売と供給は認める例外規定が盛り込まれた。

 北朝鮮民間機が海外に飛行する際、目的地まで必要とする燃料のギリギリの量で飛んで燃料タンクをほぼ空っぽにし、そこで満タンの燃料を補給して、北朝鮮に戻ってきて、次に飛ぶ海外までの燃料を残した余分を軍へ提供するということはないだろうか。

 それを繰返して、軍の燃料を蓄積していく。

●北朝鮮からの金・チタニウム・石炭・鉄鉱石等の鉱物資源の輸入制限。
●違法行為に関与する北朝鮮外交官の追放の義務化。
●12団体と16人に対する渡航禁止や資産凍結の制裁対象リストへの追加。
●贅沢品リストへの高級時計や2千ドル(22万8千円相当)以上のスノーモービルの追加。
●航空燃料の輸出禁止や不正に関わった北朝鮮外交官の追放等々――

 中国外務省の洪磊報道官が3月3日午後の定例記者会見で安保理制裁決議全会一致採択を受けて次のように発言している。

 洪磊報道官「中国は一貫して国際社会の責務を果たしてきたし、今回も例外ではない。(但し)北朝鮮の人々の暮らしや人道支援に対する影響は、できるだけ避けるべきだ」(NHK NEWS WEB) 
 制裁の実効性は既にこの発言の中に隠されている。

 対北朝鮮制裁に関して「中国は一貫して国際社会の責務を果たしてきた」

 前回までの制裁が核開発とその実験、ミサイル開発とその実験を阻止するために開発や実験に資する国連加盟国に於ける北朝鮮関連の資金や金融資産の凍結、経済資源の移動の禁止等を決議していながら、開発や実験を阻止できなかった。

 いずれかの国が「国際社会の責務」を果たしていなかったからであるし、北朝鮮の貿易額の約90%を占め、2014年にはそのうち輸入全体の48%にのぼる地下資源大国北朝鮮の石炭1546万トン、鉄鉱石283万トン、合計13億6000万ドル(日本円約1500億円)を輸入し(NHK時論公論)、2014年と2015年2年連続で対北朝鮮石油輸出ゼロの統計を発表しているが、韓国統一省が「例年通り年間50万トンに達する水準で原油支援が行われている」と見ていることと北朝鮮経済が支障を来す程には原油不足の徴候が見られない(産経ニュース)ことから、抜け道を用意していた中国の「国際社会の責務」だと見られても仕方がない。      
  
 そして「今回も例外ではない」と言っているのだから、「果たしてきた」としている「国際社会の責務」は従来通りの抜け道ある責務だと既に宣言してようなものである。そしてその根拠を「北朝鮮の人々の暮らしや人道支援に対する影響は、できるだけ避けるべきだ」に置いている。

 北朝鮮国民の暮らしや人道支援をカードとすれば、北朝鮮からの金・チタニウム・石炭・鉄鉱石等の鉱物資源の輸入は続けることができることになる。

 当然、金正恩にしても、同じカードを逆手に取って、自らの体制を生かし続けることになるはずだ。

 国連安保理で制裁決議が全会一致で採択されるや否や、制裁実効性のカギを握る中国は自らが実施する「国際社会の責務」の程度を明らかにした。

 勿論、安倍晋三は自らの関係国と協力した毅然とした対応によって制裁の抜け道を塞ぐことはできる。積極的平和主義外交の見せ所ではあるが、中国と柔軟な外交関係を築くことができていない安倍晋三に積極的平和主義外交の出番はあるだろうか。肝心な見せ場では何もできないで積極的平和主義外交である。出番があるようには到底思えない。

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安倍晋三が9条改正を言い出したのは砂川判決が集団的自衛権行使容認の根拠足り得ないことに気づいたからか

2016-03-04 11:56:44 | 政治

 3月2日(2016年)の参議院予算委員会で小川敏夫民主党参議院議員が集団的自衛権について安倍晋三に問い質した。

 小川敏夫「総理、集団的自衛権は憲法違反ではないでしょうか」

 安倍晋三「集団的自衛権についてはですね、既に閣議決定をしているところでございますが、ま、いわば(昭和)47年(政府)見解に於いて必要な自衛措置として我々は認めることができるという、その中に於いて当時の環境、我々の保障環境の中に於いては集団的自衛権の行使は認められないという結論を導き出しているわけでございますが、しかしその中に於いて3要件に当てはまる中に於いての限定的な集団的自衛権の行使については認めると(平成26年(2014年)7月1日に)閣議決定し、我々は政府としてそう考えているところでございます」

 この答弁にこのブログのテーマを置いているから、この発言だけで記事を書くには十分だが、小川敏夫が引き続いてちょっと面白い、だが、政府追及の材料としては殆ど役に立たない質問をしているから、ついてに文字に起こしてみた。

 但し小川敏夫のこの面白い質問が安倍晋三とほぼ同じ中谷元の答弁を引き出した点は役に立っている。

 小川敏夫「総理、自由民主党のホームページを見ましたなら、(自民党の)憲法改正草案の『Q&A』というものが載っています、今も。そこでですね、(パネルを出し)赤で線を引いたところなんですが、『現在、政府は、集団的自衛権について「保持していても行使できない」という解釈をとっています」と、こういうふうに書いてあったんですね。

 つまり集団的自衛権の行使は憲法違反だと自民党が広く言っているのと総理の説明が食い違うんじゃないですか」

 中谷防衛相「自民党の『憲法改正案Q&A 」に載っておりますが、これは平成24年当時にですね、自民党が改正草案を発表した際に同時に『Q&A』を作成しまして、掲載されているものであります。

 この『Q&A』というのは当時の憲法についての考え方に於きまして、この根拠になるのが昭和47年の政府見解と昭和56年に出された政府見解によるものでございまして、当時はこの考え方でございましたが、一昨年閣議決定をした際にですね、この見解につきましては縷々説明致しているように3要件のもとにですね、憲法上容認できるということにしたわけでございます」

 安倍晋三「これは防衛大臣が答弁させて頂いたようにこれは当時総裁だった谷垣総裁のもとで新しい憲法について、これは草案を作成したものであります。当時の事務局長が中谷防衛大臣だったわけでございます。

 当時作成した『Q&A』によればですね、当時の解釈に於いて政府が一貫して答弁していたわけでございますが、47年見解から導き出される結論として集団的自衛権の行使はできないという解釈でございましたが、その後一昨年(平成26年・2014年)の閣議決定に於いて政府の解釈は変わったところでございます」

 小川敏夫「これは平成25年(2013年)10月の増補版というふうにホームページに載っていますが、ですから、平成25年10月にこのように整えて載ってるんでは?」

 安倍晋三「これはですね、古いものをそのまま載せているんだろうと。私も今党務を行っていませんので、つまびらかではございませんが、いずれにしましても今申し上げたように政府の見解としては勿論合憲であると、いわば諸条件の根拠としてですね、まさに昨年議論をし、そして閣議決定しているところでございます」

 小川敏夫「じゃ、党は憲法違反と言っているものを政府は合憲だと解釈して、立法してしまったということになるんですね」

 安倍晋三「たまたま載っている、『Q&A』に載っているのに過ぎないわけでございまして、それはホームページの担当者にですね、新たな『Q&A』をですね、『Q&A』がそのまま載っていたというだけの話だろうと、このように思います」

 小川敏夫「まあ、結局無理な憲法違反の解釈をしたから、こういう矛盾を露呈したんだと思いますがね、総理はこの検討会の最高顧問でいらっしゃいますよ。やはり総理は全く知らない、無関係ということではないと思いますよ」

 安倍晋三「新しい憲法草案をつくった時にはですね、勿論顧問として関わっております。『Q&A』等については事務方が作っていくわけでありますし、且つまたそのとき載ったものがずっと載っていたかどうかについては事務的な話でございまして、党全体の能力ということではなくて、事務処理能力等について少し課題があったのかなあという感じは致しますが、それはですね、削除すればいいので、何もですね、我が党がですね、違憲であると考えているんであればですね、平和安全法制を作ることはあり得ないわけであります」

 小川敏夫は海外派兵へと質問を変えた。

 安倍晋三は最後の答弁で「事務的な話」、あるいは「事務処理能力に課題があった」こととしているが、元を正すと、党の情報管理能力の問題である。事務処理能力はこの後についてくる。大本の一つの決まり事を変えることで影響を受ける下層に位置するすべての決まり事を変えて上下全体の決まり事の整合性を整え、矛盾のないように処理するのが情報管理であって、その管理は大本の決まり事を決める中枢部が握っていなければならない。その指示がなければ、末端までの事務処理はついてこない。

 一つの法律のある個所の条文を変えることで影響を受ける他の法律の関係する条文をすべて変えていかなければならないことと同じで、その責任は最初の法律を変える部署が担う。それが党の執行部ということであれば、安倍晋三が否定しようとも、「党全体の能力」に関係してくる。

 憲法草案と「Q&A」の矛盾についての安倍晋三の認識は、その程度の頭だからだろう、ズレている。

 安倍晋三は昭和47年の政府見解を、中谷防衛相は昭和47年の政府見解と昭和56年の政府見解を挙げて、現憲法下では個別的自衛権しか認められないとされていたが、2014年7月1日の閣議決定で集団的自衛権の行使を認めるに至ったとしている。

 では両方を見てみる。

 〈1972年(昭和47)の自衛権に関する政府見解(全文)

 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条(サンフランシスコ平和条約)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。

 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。

 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。〉――

 〈わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって〉と、個別的自衛権は認めているが、〈他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。〉と現憲法のもとでの集団的自衛権を容認していない。

 〈1981年(昭和56)の自衛権に関する政府見解(抜粋)
 
 「憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。〉

 これは稲葉誠一日本社会党衆議院議員の質問主意書に対する閣議決定された答弁書の内容である。

  昭和47年の政府見解と昭和56年の政府見解では個別的自衛権しか認めないとしていたが、平成26年(2014年)7月1日の閣議決定で集団的自衛権を認めるに至った。

 その根拠は「安全保障環境の根本的な変容」となっている。そして、〈現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った〉として、日本と密接な関係にある他国が攻撃されたとき共同して防衛に当たる集団的自衛権を容認している。

 但し「安全保障環境の根本的な変容」は主観的受け止めに過ぎない。このことは個別的自衛権のみで十分だと主張する政治勢力もあれば、自衛隊は違憲であると主張する政治勢力も存在することが証明している。

 そこで安倍政権は1959年(昭和34年)12月16日の砂川事件最高裁判決を持ち出して、集団的自衛権は合憲だとの判決を下しているとして、そのことを根拠に憲法解釈による集団的自衛権行使容認を含む新安保法制を立法化させた。

 このことは安倍晋三も2015年6月26日の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する衆議院特別委員」での答弁で触れている。

 勿論、初めてではない。他の日の答弁でも触れている。

 安倍晋三「平和安全法制について、憲法との関係では、昭和47年の政府見解で示した憲法解釈の基本的論理は変わっていないわけであります。これは、砂川事件に関する最高裁判決の考え方と軌を一にするものであります。

 そこで、砂川判決とは何かということであります。この砂川判決とは、『我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない』、つまり、明確に、必要な自衛の措置、自衛権について、これは合憲であるということを認めた、いわば憲法の番人としての最高裁の判断であります。

 そして、その中における必要な自衛の措置とは何か。これはまさに、その時々の世界の情勢、安全保障環境を十分に分析しながら、国民を守るために何が必要最小限度の中に入るのか、何が必要なのかということを我々は常に考え続けなければならないわけであります。そして、その中におきまして、昭和47年におきましてはあの政府の解釈があったわけでございます。

 今回、集団的自衛権を限定容認はいたしましたが、それはまさに砂川判決の言う自衛の措置に限られるわけであります。国民の命と平和な暮らしを守ることが目的であり、専ら他国の防衛を目的とするものではないわけでありまして、それは新たに決めた新三要件を読めば直ちにわかることであります」

 ここでは「憲法の番人としての最高裁の判断」だから、絶対だとしている。

 だが、安倍晋三が言っている砂川事件最高裁判決、「我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない」には続きがある。

 「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければな らない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。

 そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではな く、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる 侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」云々――

 砂川事件は1957年に基地反対派の学生が基地拡張に抗議して米軍立川基地内に突入、日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反で逮捕され、裁判沙汰となって、そこを出発点として日本政府が日本への米軍の駐留を認めているのは9条で武力の不行使、戦力の不保持、交戦権の否認を規定している日本国憲法に違反しているのではないか、それとも合憲かを争うことになった裁判であるから、そのことを前提としてその判決の解釈に当たらなければならない。

 上記判決を要約すると、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」ではあるが、「憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は」「わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではな」く、「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」として、米軍の日本駐留という形でアメリカに「安全保障を求めることを」禁じているわけではなく、何ら日本国憲法に違反しないと判決し、駐留米軍を以って「国家固有の権能の行使として当然」取り得る「自衛のための措置」と位置づけたのである。

 つまり自衛の措置を米軍に肩代わりさせたことになる。

 決して自衛隊自身の自衛権の行使を合憲と判断したわけではない。その証拠に「同条項(9条2項)がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指」すとして、自衛隊を「「同条項(9条2項)がその保持を禁止した戦力」に逆に位置づけている。

 いわば自衛権の行使を禁じられた自衛隊という論理を取っている。あるいは日本が「その主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」は違憲だとの論理を展開している。

 自衛隊が戦力を保持した軍隊として存在しながら、日本がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力ではあってはならないとされたなら無意味な存在でしかないが、最高裁判決は自衛隊がそのような存在であることは9条2項に違反するとした。

 つまり自衛隊違憲の判断を下した。

 そして今回の参議院予算委員会で民主党小川敏夫議員の「集団的自衛権は憲法違反ではないでしょうか」との質問に安倍晋三も中谷元も政府見解を根拠とするばかりで、これまで根拠として挙げてきた砂川最高裁判決には一言も触れなかった。

 新安保法制後、憲法学者が砂川最高裁判決は集団的自衛権行使の根拠足り得ないと声を上げ続けた。2015年6月下旬、「朝日新聞」が209人の憲法学者等にアンケートを取ったところ、122人が回答、「違憲」104人、「合憲」2人の結果を伝えている。  

 安倍政権が合憲の根拠としている砂川事件最高裁判決の根拠の妥当性についても尋ねている。

 「この判決は集団的自衛権行使を認めていない」95人
 「認めている」1人
 「判決は判断していない等その他」24人
 無回答2人

 憲法学者でなくても、普通に読めば集団的自衛権を認めた判決だとすることはシロをクロだと言いくるめるようなものである。

 安倍晋三も中谷元も今回砂川事件最高裁判決を根拠に挙げなかったのはその判決が合憲だと判断していないことに気づいたからではないだろうか。

 だから、憲法9条を改正して何が何でも合憲だとする必要に迫られた。

 と言うことは、これまで砂川事件最高裁判決を持ち出して、「合憲だ、合憲だ」と散々国民を騙してきたことになる。

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3月2日小川敏夫追及の丸川珠代松本市講演発言は話すべき対象に話さなかった環境相としての責任不履行

2016-03-03 09:56:26 | 政治

 3月2日の参院予算委員会で弁護士、裁判官、検察官を歴任し、野田内閣下で法務大臣を務めた(「Wikipedia」)小川敏夫民主党所属参議院議員67歳が環境相丸川珠代の2月7日松本市講演での発言を取り上げて追及した。

 2月9日の衆院予算委で既に民主党の緒方林太郎が取り上げて追及したが、他の議員も追及したのかもしれないが、気づいたのはこの2回である。

 最初の緒方林太郎と丸川珠代の質疑を、《丸川珠代の「除染基準1ミリシーベルトに科学的根拠なし」に見るウソつきは泥棒の始まり、環境相の資格なし - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》と題して2月13日(2016年)にブログにしたが、そこで次のように書いた。 

 〈丸川珠代の答弁から窺うことのできる趣意は、ICRPが1ミリシーベルトから20シーベルトの間と勧告しているのに民主党政権が除染基準を1ミリシーベルトと決めてしまったから、除染がいつまで経っても完了しないと、そのことの不満と20ミリシーベルトにしたい願望である。

 だったら、原子力規制委員会等に問題提起して変更を求めるべき問題であって、講演で話すべき問題ではないはずだ。〉――

 3月2日の小川対丸川の質疑をNHK総合テレビの中継を聞いていて、この思いを強くした。但し話すべき対象は原子力規制委員会等の専門家や原子力関係の有識者から始まって、除染すべき最適切とすることができるミリシーベルトをきちっと決めてから、決まったイキサツと決まったミリシーベルトが健康を害する放射線量ではないことの説明を福島の被災者を話すべき対象として行い、納得を得なければならなかった。

 いわば松本での講演で、話した内容が講演会場の閉ざされた空間で完結すると思ったのかもしれないが、その場にいた聴衆を話すべき対象とする発言内容ではなかった。

 小川敏夫が緒方林太郎対丸川珠代の質疑を確認し、参考にしたかどうかは分からない。参考にしたていたなら尚更のことになるが、小川敏夫は弁護士、裁判官、検察官歴任の経歴にふさわしくない追及の仕方をしたことになる。結果、追及しきれずに質問を終えることになった。つまり丸川珠代に同じ答弁を繰返させただけのことで、巧妙に言い抜けさせてしまった。

 どう追及すべきだったか。当然、話すべき対象の違いを指摘するだけでいいことになる。そして話すべき対象に話さなかった責任の不履行を問い詰めて、環境相の任にないことを迫って、辞任を要求すればいい。

 小川敏夫自身、どのように追及したのか知って貰うためにご丁寧にも質疑を文字起こししてみた。

 小川敏夫「丸川大臣、何か松本市内の発言を撤回されたそうですが、どんな発言をしたんですか」

 丸川珠代「先ず2月7日に講演を致しました。発言について福島に関連する発言について撤回をさせて頂いたものです。発言の内容といたしましては、要旨を申し上げますと、ICRP(国際放射線防護委員会――民間の国際学術組織)の考え方では年間1から20ミリシーベルトの範囲内で地域の汚染状況等に応じて参考レベルを設定すべきだとされており、自発的見地から最も厳しい値が選択されたことや追加被爆線量年間1ミリシーベルト以上の地域について面的条件を実施する過程に於いて専門家の議論の場で具体的な数字についての説明がなかったことなどでございました。

 いずれにせよ、私の発言については撤回をさせて頂きまして、福島を始めとする被災地の皆様方には多大なご心配をおかけして、まことに申し訳なく思っています」

 小川敏夫「発言についての大臣の解釈を聞いているんじゃないんですよ。どういう発言をしたのか、発言のナマの内容を聞いているんです」

 丸川珠代「地域被曝線量が20ミリシーベルトを超えている地域については除染の目標を先ず20ミリシーベルト、これご承知のように避難基準でございますけれども、これを目標にしましょうと決めました。

 一方で20ミリシーベルト未満の地域では専門家が議論をして除染は面的に5ミリシーベルト、これまで遣りましょう、提案をしたところ、これは取り下げて、13ミリシーベルトのところまでのところまでやると決めました。

 専門家の議論の中には取り下げについて具体的な数字の議論はございませんでした。その結果、受け止めが除染も含めて総合的な対策によって長期的に目指すべき追加被曝線量1ミリシーベルトが除染のみによって達成される目標でなければならないという認識が広がってしまったという趣旨の発言になったんです」

 小川が発言した一字一句を聞いているのに発言に至る経緯の説明となっていることに納得せず座ったままでいると、他の委員が委員長席に抗議に行き、ほんの暫く中断する。結果、答弁の遣り直しとなった。

 丸川珠代「撤回した部分はとりわけ私、今福島の仕事をしているから、本当に凄かったんだなと思いますというところから、そういった人が帰れなくなったことに未だ帰れなくなっている人が出てきているという部分でございます」 

 再び中断、抗議。答弁のやり直し。

 丸川珠代「少々時間がかかりますが、全部読ませて頂きます。『とりわけ私、今福島でお仕事をしているから、本当に酷かったんだなと思います。私、何で福島の仕事をしているかと言うと、環境省の仕事をしていますから、除染の仕事をやっているんですね。

 今まで環境省はエコだ、何だって言っていればよかったんですけど、震災から5年間ずっと除染の仕事をやっています。どれだけ除染をするかっていう議論があるんですね。100ミリシーベルトを下(くだ)ったとこ。年間100ミリシーベルトを下ったと言うのは基準がなかったもので、ずっと国際的にも20から100までの間のとこでいいとこで区切ってください(ということになっている)。

 その現場、現場で何から線量を受けるかということは違いますから、森にいるとか、平地にいるとか、岩場にいるとか、海の傍にいるとか全然違いますから、地域地域に合った線量を決めてくださっていうのでやっていたんです。

 ところがこの一番低い20ミリシーベルトになるように除染しましょうねと言っても、反放射能派って言うと変ですけれども、どれだけ下げても心配だという人が世の中にいるんですよ。

 で、そうういう人たちが、ワア、ワア、騒いだ中で、何の科学的根拠もなく、このときの細野さんという環境大臣の1ミリシーベルトまで下げますって急に言ったのです。誰にも相談しないで何の根拠もなく。そう言った結果、帰れるはずの所に未だ帰れない人が出ている』。以上です」

 想像を絶する酷さだったはずですと断定できる程の理解の程度ではなく、「とりわけ私、今福島お仕事をしているから、本当に酷かったんだなと思います」と距離を置いた推測程度の理解となっている言葉の感覚と、この理解の程度が表現することになる、「私、何で福島の仕事をしているかと言うと、環境省の仕事をしていますから」と、福島を環境省の仕事と結びつけた関係にのみ置いている事務的な感覚には人並みの血、温(ぬく)もりを感じさせない。

 このことと対応しているのだろうか、どのような場面でも表情一つ変えずに無表情を押し通すことのできる能面さながらの顔は人並みの血も温もりもを感じさせないばかりか、逆に酷薄ささえ漂わしているようにみえる。ロボット仕立ての着物を着せたデパートの受付嬢の方がより人間的な表情をしている。

 詭弁を弄して言い抜ける話術を本能のように備えている安倍晋三でさえ、ときにはプライドで顔を赤らめたりするが、丸川珠代にはそれがないようだ。顔を赤らめるだけの血を持っていないのかもしれない。

 当然、福島に対するその程度の理解を背景とした発言ということになって、福島の被災者を話すべき対象とせずに松本の聴衆を話すべき対象としたことも、発言の内容が軽くなったことも理解できることになる。

 だが、そのことを許したなら、環境相としての責任不履行まで許すことになる。

 小川敏夫「大臣、お尋ねしますけどもね、1ミリシーベルトというものが何の根拠もないものと大臣は思っていたんですか」

 丸川珠代「ただ今申し上げさせて頂いて恐縮ですが、ご指摘の点も含めて、私の福島に関する発言は撤回させて頂きました。なお私が『根拠もなく』というふうに申し上げています。科学的根拠もなく』という発言をしたというふうに私申し上げたとおりです。

 この科学的根拠というのが疫学調査などの統計的分析に基づく客観的な裏付けを指しております。なお科学的根拠というものについては例えば平成23年7月8日の予算委員会の枝野官房長官のご答弁、『被爆した放射線量の100ミリシーベルト未満では放射線がガンを引き起こすという科学的根拠はない』ということでございます。
 
 であるとか、あるいは平成23年7月26日の担当大臣の会見での発言ですが、『100ミリシーベルト以下については他の要因に隠れてしまって明確な影響は疫学的には出ていないというのがICRPを含めた様々な専門家の間の前提となっている』というものを踏まえて私なりに理解したものです」

 もし事実上記二者の発言を踏まえた松本での講演の発言だと言うなら、尚更に専門家の間で地域地域の状況の違いに応じて除染のルールを決めて、それを政府認識として福島の被災者を話すべき対象として対話集会なりを開いて相手が納得できるまで説明するのが環境相としての責任であったはずである。

 そのような責任を果たすつもりもなく、「反放射能派」だとか、「ワア、ワア、騒いだ中で」とか、「何の科学的根拠もなく」といった話を直接的利害者ではない松本の聴衆を相手にウケ狙いで、直接的利害者ではないからこそそうできるのだろうが、話す責任の軽さを見せる。

 小川敏夫「そういうふうに大臣の発言は『何の科学的根拠もなく』時の大臣が決めたということで、1ミリシーベルトについてお話しされたわけですよね。ですから、その1ミリシーベルトということについて何の根拠もないと、このように認識していたんですか、発言当初」

 丸川珠代「ですので、科学的根拠、つまり疫学調査など統計的な分析に基づく客観的な裏付けを指していることについては先程私がご答弁申し上げたような、先の民主党政権でも行われた答弁等を踏まえて私なりに理解していたということでございます」

 既に繰返しの答弁を許している。繰返しの答弁を許す追及となっていることに気づかなければならない。

 小川敏夫「何か後からつけた難しい答弁のように思いますがね。『この反放射能派と言うと変ですが、どれだけ下げても心配という人は世の中にいる』と。そういう人たちの声で1ミリシーベルトに下げたという趣旨に取れるんですが、そういう趣旨で発言されたんじゃないですか」

 丸川珠代「先ずこの点も撤回させて頂いておりますけども、例えばICRPの考え方に於いて地域の汚染状況に加えて住民生活の持続可能性、住民の健康等の多くの要因のバランスを慎重に検討して、適切な相当レベルを選択すべきとされています。放射能についてこのような議論を受け付けずにリスクがどれだけ減っても、全くゼロではないと受け入れないという方々はこの中にはいらっしゃるということをイメージして申し上げたものですが、福島で被災されて放射線に対して不安を抱いていらっしゃる方々について申し上げたものではありません」

 用意してあった答弁なのだろう。だが、話すべき対象はやはり松本の講演会場の聴衆ではなく、ICRPの考え方を参考にして許容放射線量はルールとして確立できる専門組織であり、そこで決めたことを福島の被災者を話すべき対象として説明する責任を負っていた。

 だが、そうする責任を果たさないでいた。果たしていさえすれが、松本で余分なことを言わずに済んだだろうし、国会で追及されて、筋の通らない弁解に追われることもなかったはずだ。

 小川敏夫「じゃあ、誰に対して申し上げたんですか」

 丸川珠代「ですから、一般論として先程申し上げたけれども、放射能について参考レベルと言うものの考え方についての議論を全く受け付けずにリスクがどれだけ低くても、全くのゼロでなければ受け入れない方も中にはいらっしゃるということをイメージとして申し上げたものでございます」

 除染の事務を司る環境相を務めている以上、全くゼロ派を話すべき対象として説明する責任を負っていたはずだ。その責任を果たすためには専門家組織の中で地域ごとに許容可能なレベルの放射線量を決めなければならない。

 小川敏夫「そうした人たちがどうやって騒いんだんですか」

 こそ泥裁判の検察官を務めているわけではない。相手は議員歴も大臣歴も短くても、自然にそうできるのか、顔に表情を見せないで無表情を装うことのできる海千山千の人間と見なければならない。言い抜ける意志を固めているのだから、発言自体を微に入り細に亘って突ついても始まらない。

 丸川珠代「色々な所で色々なご発言があったと見られています」

 自身が直接目にした情報ではなく、間接的な情報で逃げている。

 小川敏夫「じゃあ、色んな所で色んな発言を幾つか例に上げて言ってください」

 丸川珠代「私もつまびらかにどの方がどの時期にどのようなことをおっしゃったか、ことまで今、具体的に申し上げることはできませんけれども、当時の世論の中にそういう考えが大勢を占めていたと言うことを申し上げております」

 と言うことは、多くのマスコミが伝えていたか、環境省の職員が福島を回って得た情報ということになる。でなければ、大勢を占めていた考えは知りようもない。

 当然、大勢を占めていたということなら、あるべき除染線量のルールを確立して、徹底させる責任を負っていたことになる。

 小川敏夫「まあ、全く納得のできる説明ではありませんね。持間がなくなったので――」

 丸川珠代に対する追及のサジを投げて、司法取引について岩城法相相手に質問を移した。

 繰返しになるが、丸川珠代は環境大臣として話すべきではない対象に話し、話すべき対象には話さない、その機会さえ設けない、不適切な責任の果たし方を見せた。

 小川敏夫はこの点を突いて、環境相としての責任能力の欠如を暴く戦法を取るべきだったが、不完全燃焼の追及で終わらせてしまった。

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2月29日衆院予算委 安倍晋三の夫婦別姓家族解体論に関わる対岡田答弁は自民党を旧弊な政党としている

2016-03-02 09:37:00 | Weblog

 2月29日(2016年)の衆院予算委員会で民主党岡田克也代表が夫婦別姓と子育て支援に関する安倍晋三の過去の発言をパネル(左傾画像)に書き連ねて取り上げ、その内容の不適切さを追及した。

 ここでは夫婦別姓に関してのみ、それなりの自己解釈を施したいと思う。

 岡田克也「総理が野党時代に行った発言を紹介したいと思います。夫婦別姓の問題ですね。総理は『夫婦別姓は家族の解体を意味します。家族の解体が最終目標であって家族から解放されなければ、人間として自由になれないという左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)』です。

 まあ、そういうふうに答弁されていますね。これ、どういう意味ですか。お答え頂けますか」

 安倍晋三「あの突然の質問でございますので、後ほど確認させて頂きます」

 岡田克也「これ、昔の発言じゃないんですよね。野党時代の発言ですから。これ、『WiLL』という雑誌の平成22年(2010年)7月、この時の対談ですね。自民党の議員が何人か対談をしております。

 これ総理の発言なんですよ。こういう考え方で夫婦別姓というものを考えていればですね、我々は選択的夫婦別姓、法案も国会に出していますが、まあ、そういうことについて頭から、イデオロギー的にダメだということですか」

 安倍晋三「まあ、そういうものはですね、全部がどういう発言をしているのか、対談ですから。それを踏まえてですね、私は俄(にわか)にはお答えのしようがないわけでありますが、私は家族の価値を重視する保守党としての自民党の考え方を恐らく述べたものであろうと、こう考えるわけでございます。

 いずれにしましても、夫婦別姓に対するですね、夫婦別姓に対する考え方については政府としての長である内閣総理大臣として既に答弁しているとおりであります」

 岡田克也「ご自分で発言なさったことですから、覚えていないということはあり得ないというふうに思うわけですね。いずれにしても、ここに総理の基本的な考え方というのが出てきているんじゃないかと思うんですよ。

 この間最高裁が憲法違反ではないという判決を下しました。あとは法律の問題だと。国会で議論する話だとそういうことであります。ですから、我々は選択的夫婦別姓を、別に夫婦別姓を強制するんじゃなくて、そういうことも可能ですよという法案を国会に提出しているわけであります。

 最高裁の判決の中で憲法違反でないという判決に反対した裁判官、何人かいらっしゃいます。女性の裁判官3人全員が憲法違反だという意見を述べられました。ここで(安倍晋三が)こういう論理を述べておられたというと、多くの場合には夫の姓になってしまうと。現実、96%が夫の姓になるんですね、結婚した場合に。

 で、『妻となった者のみが個人の尊厳の基礎である個人識別機能を損ねられ、また自己喪失感といった負担を負うこととなり、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度とは言えない』(反対意見)

 だから、憲法違反だと言っているんです。

 私は憲法違反だという立場に立つ者では必ずしもないんですが、最高裁が判断されたわけですから、尊重しますが、ここ(判決)の論理というのはやはり立法的にしっかりと対応すべきだということになるんじゃないですか。男女平等の本質に反するような、同姓を尊重するような、そういう仕組はやっぱおかしんじゃないないでしょうか。

 先進国の中で結婚したら同じ姓にしなければならない、いけないと強制している国はありませんよね。日本だけですよ。なぜ、ここのこうしているのか、私には分からないですが、如何ですか」

 安倍晋三「諸外国では中国や韓国はそうでありますが、それぞれ別姓であったわけございます。(ここからテーブルに視線を落として原稿を読む)夫婦の氏(うじ)の問題はですね、単に婚姻時の氏の選択にとどまらず、夫婦の間に産まれてくる子の有無の問題も含めてですね、我が国家族のあり方に深く関わる問題であろうと考えています。

 選択的夫婦別姓制度については国民の間で様々な意見があるのも事実であります。例えば直近の世論調査を例に取ってみますと、反対が36.4%、容認が35.5%、通称のみ容認が24.5%といった結果になっているというところでございます。

 そのため最高裁判決の指摘や国民的議論の方向を踏まえながら慎重に対応していく必要があると考えております」

 岡田克也「これ日本の伝統だという人もいますが、(現民法施行の)明治31年からですね、法制的には。それまでは一部の人を除いて、日本人は氏がなかったわけでしょう。いずれにしても、総理がこういう固定観念を持っていると、選択的夫婦別姓という話は全く進まないですね。

 これはしっかり考えを改めて頂きたいというふうに指摘したいと思います」

 安倍晋三の過去の子育て支援についての発言に移る。

 パネルで取り上げた安倍晋三の発言が夫婦別姓に対する安倍晋三のホンネである。にも関わらず、岡田克也は「総理がこういう固定観念を持っていると、選択的夫婦別姓という話は全く進まないですね」などと悠長なことを言っている。

 ホンネである以上、夫婦別姓容認に対する抵抗勢力に位置しているのだから、進むはずはない。最高裁が憲法違反と判決しない限り、表立ってはそうしないが、裏側では容認されないように徹底的に画策すると見なければならない。

 安倍晋三の『WiLL』という雑誌で対談した時の発言を見てみる。

 「夫婦別姓は家族の解体を意味します。家族の解体が最終目標であって家族から解放されなければ、人間として自由になれないという左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)だ」と発言した。

 「家族からの解放」とは家長が絶対的な支配権を持って他の家族を支配・束縛して、そのゆえに個々の家族の自律的行動や人間としての自然な感情を抑圧する全体主義(個人の全ては全体に従属すべきとする思想)的生活空間、あるいは全体主義的閉鎖性から自らを解放するという意味であって、解放によって個人として自由に行動することが可能となる。

 そしてそういったプロセスが社会的趨勢となったとき、初めてそれまでの伝統的な家族の解体現象が起きる。何も夫婦別姓が家族の解体を意味するわけではない。

 なぜなら、夫婦話し合って決めるべき問題だからだ。勿論、中には結婚してある一定の持間を経てからいきなり妻の方から、「夫婦別姓にしたい」と申し出て、夫との話し合いがこじれて離婚するという例はなきにしもあらずだろうが、結婚してから、性格の不一致を妻から宣告されて離婚するのと、理由は違っても、あくまでも個々の家族の解体であって、社会的大勢としての家族の解体を意味するわけではない。

 離婚によって妻にしろ、夫にしろ、それまでの家族から解放されて、人間としての自由を獲得できるというのなら、自己確立を果たすプロセスと把えるべきだろう。

 戦前は天皇の日本国家に於ける絶対的支配権と各家長の各家庭に於ける絶対的支配権は相互対応し合っていたのであって、戦後の民主主義の移入によって個人の解放が始まって現在に至っている。

 いわば日本人一人ひとりが旧来の家族のあり方から解放されてきて、現在の家族のあり方があるのであって、何も「左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)」でも何でもない。そう解釈すること自体、安倍晋三が古い伝統に囚われた無知・狭隘な精神の持ち主であるが故に家族の変遷を自覚できないだけの話である。

 問題は自身の言葉を「私は家族の価値を重視する保守党としての自民党の考え方を恐らく述べたものであろうと、こう考えるわけでございます」と言っていることである。これは自民党の考え方だと。

 もしこれが事実なら、戦後ほぼ一貫して政権を担い、3年の野党経験後再び政権を担った自民党は戦前のような家長に絶対的な支配権を持たせた家族のあり方への回帰を願っているわけではないだろうが、少なくとも夫婦別姓でなくても、家族からの解放も、さらには人間として自由に行動することも、そういったことは左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)だからと許さない家族のあり方をこそ最大の家族の価値としている、そういった旧弊な政党だということになる。
 
 安倍晋三はその親分ということになる。

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安倍晋三が第一段階は欧州諸国並みに目指すとした同一労働・同一賃金のコストを計算してみた

2016-03-01 09:00:58 | 政治

 安倍晋三が2月28日(2016年)、一億総活躍社会の実現に向けた政府開催の国民対話集会で同一労働・同一賃金について次のように話している。 

 安倍晋三「働き方改革の第一の柱は、日本の労働者の4割を占める非正規雇用で働く方の待遇改善です。

パートタイム労働者の賃金水準は、欧州諸国においては正規労働者に比べ2割低い状況ですが、日本では4割低くなっています。

 このため、同一労働・同一賃金の導入に本腰を入れて取り組みます」

 要するに欧州諸国の2割の給与差を例に取ったということは、第一段階はそれを目指す基準としたことになる。欧州諸国は同一労働・同一賃金を導入しているが、その制度を以てしても正規と非正規間に2割の給与差があるが、日本の4割を改善して、2割差まで持っていくと。

 勿論、安倍晋三は日本を以てして世界の中心を目指すとしているから、EU諸国に追いついたなら、それを追い越して完全なるで同一労働・同一賃金にまで持って行くに違いない。
 
 但し2015年5月12日衆議院本会議での代表質問に対する答弁で同一労働・同一賃金についての自身の考えを述べている。

 安倍晋三「 同一労働に対し同じ賃金が支払われるという仕組みは、一つの重要な考え方と認識しています。しかし、ある時点で仕事が同じであったとしても、様々な仕事を経験し責任を負っている労働者と経験の浅い労働者との間で賃金を同一にすることについて、直ちに広い理解を得ることは難しいものと考えています」

 一見、日本の雇用慣行が同一労働・同一賃金実現に障害になることの指摘であるように見えるが、経験や責任の度合いを賃金決定の考慮に入れなければならないことの謂(いい)であるはずだ。

 この考え方は榊原経団連会長が上記国民対話集会後に記者団に語った言葉と軌を一にする。

 榊原会長「正規社員と非正規社員の格差を是正するため導入するという安倍晋三首相の考え方には賛同する。

 (但し)日本では同じ職務でも、将来への期待や転勤の可能性など様々な立場がある。日本の雇用慣行を十分考慮した上で導入を検討してほしい」(時事ドットコム

 「将来への期待や転勤の可能性」にしても能力や責任と対応させた考え方であって、両者共に落着くところは日本の雇用慣行を下敷きにした同一労働・同一賃金ということなのだろう。

 欧州諸国ので同一労働・同一賃金について「毎日jp」(2016年2月4日 22時31分)が次のように伝えている。 

 〈欧州の同一労働同一賃金制度は、「客観的な根拠によって正当化されない賃金の差」は認めないことが法文化されている。パートタイム、有期契約、派遣などの雇用形態によって複数の法律があり、例えば、欧州連合(EU)のパートタイム労働指令は「パートタイムで労働するというだけの理由では、客観的な根拠によって正当化されない限り、比較可能なフルタイム労働者よりも不利な取り扱いを受けない」と規定している。

 「客観的な根拠」に関し労使間で認識の食い違いがあれば、最終的には裁判で判断される。内閣府によると、学歴や資格が違う場合や、在職期間の違いで認められた例があるという。【堀井恵里子】〉――

 「客観的な根拠によって正当化されない賃金の差」は認めないと言うことは賃金の差は常に客観的な根拠が求められることになる。但し学歴や資格、在職期間の違いを同一労働・同一賃金の例外として客観的な根拠のうちに入れることができることも示してもいる。

 と言っても、学歴・資格・在職期間共に能力という価値観に収斂されていなければならないはずだ。学歴があっても、資格を持っていても、在職期間が長くても、能力に結びつかない人間はザラにいるからだ。

 「客観的な根拠」に例外を設けていることが安倍晋三が言っていたように欧州諸国でも正規・非正規間で2割低いという格差を生じさせている原因となっているのだろうが、日本は日本型雇用慣行を根強い思想として染みつかせているから、欧州の例外を日本型雇用慣行を生かしたり残したりする手段に利用するかもしれない。

 日本型雇用慣行はまた、学歴や身分・地位・収入の違いで人間の価値を上下に見る日本人の思考様式・行動様式となっている権威主義に関係・基づいている。だからいつまで経っても日本型雇用慣行から抜け出ることができず、延々とした伝統としてきた。
 
 仕事内容も勤続年数も同じか、ほぼ同じでありながら、学歴や年齢や勤続年数で給与に違いが出たりする。勤続年数の1年違いで、大卒と高卒とで大きな違いが出ることもある。学歴の差は能力の違いとして表現しなければ正当性を得ることはできないはずだが、表現できなくても、大卒で採用した給与を基準に上積みされていく。

 どうも日本型雇用慣行にきっぱりと決別することはできない日本型同一労働・同一賃金になるような予感がするが、その理由の一つとして権威主義が大企業優先の思想と結びついていることを挙げることができる。

 自らの利益を大幅に下げてまでして同一労働・同一賃金に快く応じるようには見えない。このことは巨額の内部留保が物語っている。内部留保が大企業の一種のステータスとなっている。その金額を崩したくない思いが先に立ったとしても不思議はない。

 そこで非正規社員と正規社員を同一労働・同一賃金とした場合のコストを計算してみた。勿論、勤続年数や学歴の要素を残した場合、その度合の強さで正確なコストは出てこないが、単純に計算してみる。

 先ず、《労働力調査(詳細集計)2015年10~12月期平均(速報)結果の概要》総務省統計局)から2015年10~12月の正規社員数と非正規社員数を拾い出してみる。   

 正規の職員・従業員 3307万人
 非正規の職員・従業員 2015万人

 次に、《2016年雇用形態別賃金》厚労省)から、雇用形態別の賃金を見てみる。

 正社員・正職員 321.1千円(年齢41.5歳、勤続12.9年)
 正社員・正職員以外205.1千円(年齢46.8歳、勤続7.9年)

 勿論、どちらにも無視できない金額の男女賃金格差が存在するが、あくまでも平均で計算してみる。

 正規社員の年収321万1千円に非正規社員の年収が205万1千円。その格差116万円✕非正規社員2015万人=2兆3780億円。

 欧州諸国並みに2割の格差をつけるとしたら、1兆9024億円。更にここから日本型雇用慣行を加味して1割引くと、1兆7122億円。

 安倍政権が2%分の軽減税率導入で必要とする財源1兆円をどこから持ってくるか未だ決めかねている金額の1.7倍である。あるいは1円の円高への振れで大企業は300億円の営業損失だ、200億円の営業損失だと騒ぐ金額の50倍以上する。

 しかも単年度で済むわけではない。人件費に関わる必要経費として毎年積み上げていかなければならないし、能力の伸長に応じて更に金額は増えるかもしれない。

 これだけのコストをクリアできる同一労働・同一賃金を実現させることができるのだろうか。

 もし大したことのないコストなら、直ちに実現できない同一動労・同一賃金ではないということになる。

 安倍晋三の頭にある同一労働・同一賃金はどのくらいのコストが必要だと計算しているのだろうか。

 計算などせず、参院選だけのことしか頭に入っていないのかもしれない。非正規雇用に期待を抱かせさえすればいいと。

 個人的な考えだが、同一労働・同一賃金は同じ仕事なら、新入社員であろうと勤続年数の長いベテラン社員だろうと、兎にも角にも同一の基本給とする。但し能力の違いがあるなら、あるいは能力の違いが出てきたなら、能力給を、能力や経験の差が生み出す責任の違いが出てきたなら、責任給を加算していく賃金体系を取ったらどうだろうか。

 単に勤続年数、あるいは経験年数に応じて賃金を上げていく年功序列型賃金は廃止する。
 
 と言うことは、大学卒だろうと高卒だろうと、中卒だろうと、年齢や学歴に変わりはなく、同じ仕事に就いたなら、出発点は同一の賃金となる。最初の1カ月勤務で能力の差がでたら、次の月の給与にその能力差を反映させる。

 こういう方式なら、学歴格差はなくなる。学歴が無意味になって、人間単位で人間そのものの価値を見ることになり、日本人が囚われている権威主義の思考様式・行動様式から少しぐらいは抜け出ることができるかもしれない。

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