安倍晋三の“先に監視あり”となっている、監視社会を前提として初めて成り立つ「テロ等準備罪」

2017-04-20 12:41:31 | Weblog

 ――野党は「テロ等準備罪」が施行された場合、監視社会となると批判するが、国民が理解しやすいそのことの合理的な説明ができていない――

 先ず断っておくが、日本の刑法は殺人・強盗等の重大犯罪に限って実行前の予備行為の段階の場合は例外として取り締まることができるが、一般的には実際に犯罪行為が生じ、被害が発生して初めて処罰することを原則としているという。

 いわばテロ等準備罪は日本のこの刑法の大原則に反して犯罪に走る一歩手前の共謀、あるいは計画の段階で取締り・逮捕を可能とする法律ということになる。

 2017年4月17日の衆院決算行政監視委員会で民進党議員山尾志桜里が法務相の金田勝年に野党が言う共謀罪(テロ等準備罪)について様々に問い質した。当然、「テロ等準備罪」が施行された場合は監視社会となると言い立てている関係から、自身もそのように主張し、金田勝年の答弁からも、監視社会となることの理由を引出して攻め立てるかと思いきや、そういった質疑応答となっていなかった。

 このブログの趣旨に関係する個所のみを文字に起こしてみた。

 山尾志桜里は先ず法務省がマスコミにのみ発表している共謀罪構成の277種類の対象犯罪(正確には対象法律)をマスコミから借りて記したパネルを、277種類もあるから、大きな文字にすることはできない、小さな文字になって読み取りにくいがと断って示した。

 山尾志桜里「共謀罪がテロ対策に役立たない上に監視社会をつくる、国民にとって百害あって一利なしの法案だということを明らかにしたいと思っているのですが、先ず国民の皆さんに知って頂きたいのは今回の法案は共謀罪という罪が一つ増えるのではないのです。

 政府いわく。277の人を刑務所に入れる新しい犯罪を作るということです。これをパネルにしました。

 文化財保護法、これも共謀罪の対象となっていますね。重要文化財の損壊等、これも共謀罪の対象となっています。私が大変疑問なのはテロ対策という考えも関係ないこんな罪まで共謀の対象にして無用な取締まりを強化しておきながら、文化財を懸命に保護する立場にある学芸員を侮辱する、余りにも一貫性のない場当たり的な方針に大変首を傾げているわけであります」

 そして問題発言をした金田敏夫や稲田朋美、自主避難は自己責任発言した今村復興相の名を挙げて、こういった大臣を守るよりもしっかりと国民を守ることに注力を注いで欲しいと続けたが、共謀罪から国民を守るためには如何に監視社会になるかの説明を国民に受け入れさせるか、その才覚にかかっているはずだが、余分なことに時間を費やしているようでは、目的を達するに道遠しの感のみが募ってくる。

 余分な時間の浪費はこれだけではない。政府は過去の共謀罪の対象犯罪の615を277に絞ったとアピールしているが、過去二つに数えていたり、三つに数えていたいくつかの対象犯罪を一つに纏めた結果、277となっただけのことで、数の上では殆ど変わりはないことを指摘しているが、そういったカウントのカラクリが監視社会化の理由となるわけではない。

 例えば電車の往来危険罪と船の往来危険罪と別々にカウントしていた罪を今回は一つにカウントしているといった例を挙げていたが、テロ対策の対象犯罪に入れることによってどう監視社会を形成することになるのか、そのことに向けた視点がないままにカウントのカラクリだけを問題にしている。

 山尾志桜里「先程文化財保護法の話をしました。この文化財保護法然り、その他にテロ対策と言えないものが入っている。例えば種苗法、種と苗法と書いて種苗法ですね。あるいは絶滅の恐れのある野生動物の種の保存に関する法律、モーターボート競争法、著作権法、一方でテロ等準備罪という犯罪がこの277のリストの中にはありませんね。

 大臣、なぜテロ対策と関係のない法律でたくさん取り締まろうとしながら、テロ等準備罪という法律はないんですか」

 これは無理な質問である。あくまでもテロ等準備罪を構成する可能性として想定した277項目の対象犯罪である。テロ等準備罪との合理的な関わりを問い質すべきなのだが、金田勝年の方から、自分たちは合理的とする説明を行った。

 金田勝年「テロ等準備罪の対象となる法律については今法律案の別表に明確にしているところであります。テロ等準備罪については死刑または無期、もしくは中期4年以上の懲役、もしくは禁錮と定められている刑の内、組織的犯罪集団が実行を計画する場合、現実的に想定されるものを対象犯罪としております。

 加えて、只今質問の中でなぜこれがという対象犯罪もございました。そのテロ集団、組織的犯罪集団についてその資金源となるような犯罪というものもあるわけでございます。だから、組織的犯罪集団が実行計画する(場合)現実的に想定されるものを対象犯罪とする中で、それが対象となっているのだと、このように申し上げております」

 金田年男が答弁している前段は刑の重さでテロ等準備罪を構成する対象犯罪として設定していることになる。ここの設定に合理性を見い出すことができるのだろうか。

 後段は「組織的犯罪集団が実行計画する(場合)現実的に想定される」「資金源となるような犯罪」を対象犯罪としたという説明となる。

 いわば資金源として利用することができる行為に関係する法律で、その罪が一定以上に高い法律を対象犯罪として決めた。

 山尾志桜里「国民の皆さんも驚いていると思います。テロ対策のためにテロ等準備罪をつくると思っていたら、テロ等準備罪という犯罪がない。組織的犯罪集団がテロ対策の資金源となるような犯罪を入れたと仰っていますけども、保安林でキノコを盗ることも、テロ対策の資金源ですか。

 保安林で溶岩のカケラを盗ることも、これテロ対策の資金源ですか。如何ですか大臣」 

 金田勝年「保安林区域内に於いて保安林の森林窃盗は、その産物を窃取する罪であります。組織犯罪集団は組織維持・運営に必要な資金を得るために計画するのが現実的に想定されることから、対象犯罪としたものであります。

 つまり森林窃盗の対象となる産物が流木、竹、キノコといった森林から発生する一切のものが含まれる他、森林内の鉱物、その地の土砂など無機物、産出物もこのような森林窃盗の対象となる客体を考えた場合、(対象犯罪に)含まれる理由であります。

 相当な経済的な利益が生じる場合もありますことが組織的犯罪集団がその組織の維持・運営に必要な資金を得るために計画することが現実的に想定されるものであります」

 山尾志桜里「これ、テレビ中継で国民の皆さんに聞いて頂いたことが本当に良かったと思いますよ。テロ対策のために掲げていた法案が、結局、今いい答弁を頂きました。

 私も必死に書き留めましたけども、保安林の中の流木、流れ着いた木を盗る、竹を盗る、キノコを盗る、土砂を盗る、鉱物を盗る、こういうものをテロ集団の資金源になるから取り締まるんだと。

 これ国民の常識、国民の良識と余りにもかけ離れた答弁をしたんだと思っています。本当にこれテロ対策なんでしょうか。私たちはテロ対策なら喜んで協力します」

 山尾志桜里はテロ等準備罪が施行された場合は監視社会となると国民に向かって強硬に主張している以上、そうなることの合理的な理由を金田勝年の答弁を捕まえて証明しなければならない責任を国民に負っていながら、その責任に意識を集中していないから、金田勝年のこの答弁の中に証明できる可能性が含まれていながら、見逃してしまった。

 まず最初にテロ等準備罪が犯罪に走る一歩手前の共謀、あるいは計画の段階で取締り・逮捕を可能とする犯罪である以上、監視を前提としなければ成り立たない法律だということを押さえておかなければならない。

 いわば初めに監視ありの法律の体を成している。

 当然、テロ等準備罪を構成する可能性として想定した277項目の対象犯罪にしても、監視を前提としなければ、資金源獲得等の利益行為として行う法律違反かどうかは判明できないことになる。

 その監視にしても組織的犯罪集団が単独でキノコや鉱物を窃取する、あるいは手っ取り早く獲物を手に入れるために殺人を犯す場合、組織的犯罪集団に対する監視だけで済ますことができるが、関係ない他人を騙して協力させてそういった犯罪を犯そうとする場合、それが共謀、あるいは計画の段階に入ったかどうかを確認するためには関係ない他人まで監視しなければならなくなる。

 また、関係ない他人が単に利用されるだけの存在で、最後まで関係ない他人で在り続ける可能性は絶対ではない。関係ないと思っていた人間が後に組織的犯罪集団の思想に感化されて仲間に入る例はいくらでもあるのだから、監視の対象外とすることは不可能となる。

 いわば組織的犯罪集団と接触する第三者をその集団と関係あるなしに関わらず監視の対象としなければならないことになるし、その第三者が組織的犯罪集団とどの程度の関係なのか、あるいはどのような性格の関係なのか、そのことの確証を得るためには第三者の妻とか親とか兄弟とかの近親者まで監視の対象を広げざるを得なくなる。

 組織的犯罪集団が凶悪犯罪を決行する前、合意や計画の段階で取り締まるためには監視の無制限の拡大を絶対条件としなければ、不可能だということである。

 いわば組織的犯罪集団によるテロ等の凶悪犯罪を未然に防ぐためには監視が勝負となる。監視に始まって、組織的犯罪集団と疑った組織と接触する誰彼なしを監視対象に広げていかなければ、とてもテロ等の犯罪を未然に防ぐことはできない。

 テロ対策を口実に否応もなしに関係ない一般国民をも監視し、監視社会化に進むことになるテロ等準備罪となるはずだ。

 昨日2017年4月19日の衆議院法務委員会でテロ等準備罪の実質審議が始まり、金田年男の次のような答弁を「NHK NEWS WEB」が伝えている。   

 金田勝年「犯罪を計画したという嫌疑があったとしても、計画に組織的犯罪集団が関与している疑いが無ければ、テロ等準備罪の捜査が行われることはない。また、一般の人が組織的犯罪集団と関わりが無ければ、構成員であるという疑いは生じず、捜査の対象とはならない」

 「犯罪を計画したという嫌疑があったとしても、計画に組織的犯罪集団が関与している疑いが無ければ」という事実判明は強力な監視が可能として得ることができる答であろう。

 また後段の「一般の人が組織的犯罪集団と関わりが無ければ、構成員であるという疑いは生じず、捜査の対象とはならない」という決定にしても、監視がなければ不可能な決定である。

 記事は次のような発言も伝えている。

 金田勝年「犯罪実行の準備行為が行われていない段階であっても、例えばテロが計画され実行される蓋然性があって必要性が認められる場合には、任意捜査を行うことが許されると考える」

 監視という行為を前提としなければ、「テロが計画され実行される蓋然性」は把握不可能となる。先に監視ありで、初めて成り立つ「蓋然性」の把握となる。

 「犯罪実行の準備行為が行われていない段階」か行われている段階かを知るためには監視の確実性が決めることになる。

 その監視が組織的犯罪集団にとどまる絶対的保証はどこにもない。

 最終的には監視社会を許すか、組織的犯罪集団の凶悪犯罪を許すか、どちらを選択するのかという議論になるが、警察権力によるテロ対策に限られた監視に留まっているうちはいいが、警察権力の上に国家権力が覆いかぶさって、国家権力の思いのままの遂行に監視を利用する危険性は絶対的にゼロではないということである。

 特に安倍晋三のような戦前回帰を願っている国家主義者は監視利用の危険性は高いと見なければならない。

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安倍晋三の4/17「100万円寄付をしたとしても、犯罪ではない」国会答弁、寄付が露見した場合の予防線

2017-04-19 08:26:49 | 政治

 2017年4月17日の衆院決算行政監視委員会で民進党議員階猛が共謀罪(テロ等準備罪)の成立によって冤罪が増えるのではないかとの趣旨で質問していた。

 先ず共謀罪の導入によって表現の自由や集会の自由が萎縮する危険性、犯罪に走る一歩手前の共謀の段階で成立する犯罪ゆえに監視が強化され、監視社会化する危険性を指摘し、もう一つの危険性として冤罪が生じやくすなる危険性を挙げてから、質問通告していなから答えることができないかもしれないがと断りを入れて、刑事補償法に基づいて支払われた冤罪に対する補償金はどのくらいか安倍晋三に尋ねた。

 安倍晋三「突然の質問ですから、お答えすることはできません」

 階猛「(平成)24年度は3億4500万円、25年度は2億9700万円。多いと見るか少ないと見るか、金額だけの問題ではありません。冤罪を受けた人がこれだけの金額がいるのは重く受け止めなければなりません。

 冤罪を議論する上で総理は最近国会の中で悪魔の証明という言葉を言われています。悪魔の証明という概念、非常に重要で、法律家の間では半ば常識的な言葉ですが、総理のお言葉として悪魔の証明とはどういう意味なのかお答え頂けますか」

 安倍晋三「やっていないということをですね、証明することは極めて困難があるわけでございます。だから、あなたがやったじゃないかと言う側がですね、物証等を上げて立証する責任があるということでございます」

 階猛「悪魔の証明ということが森友学園に関して問題になりました。具体的に言うと、鴻池理事長が先の証人喚問で首相夫人から寄付として100万円受け取ったというふうに言われました。

 しかし首相夫人はそいう事実はなかったと言うふうに主張して言います。なかったと言う方が証明するのが悪魔の証明で、難しいと言うことを総理はおっしゃったんだと思います。

 しかしこれと同様なことが共謀罪でも起こり得る、そのことを指摘したいと思います。例えばAさんとBさんとの間で(共謀対象罪の)277のどれかの罪で共謀があったかどうか、これが刑事裁判で争いになったとしましょう。

 被告人のAさんは共謀がなかったというふうに主張したとします。ところが証人に呼ばれたBさんは共謀があったと主張したとします。目撃者はおらず、密室の中でこの共謀の罪があったかどうか争われる。

 そいう中で密室での共謀の有無が争点となった場合、真実は共謀がなかったという場合であっても、被告人のAさんに於いて共謀がなかったことを証明するのは総理のおっしゃる悪魔の証明に当たって、冤罪が生じる危険が高いのではないかというふうに考えますが、総理如何ですか」

 安倍晋三私は森友学園について話をした件については、そもそもこれは寄付をしていませんが、寄付をしたとしても、犯罪ではない。感謝こそされ、犯罪ではないわけですから、同一に議論頂きたくないと思うわけでありますが、テロ等準備罪の密室についても他の多くの密かに行われる罪の場合と同様の方法で刑事訴訟法の規定に従い、必要な立証を適切に行うことになると考えられます。

 即ち共犯者の供述後、テロ等準備罪の証拠となるものですが、テロ等準備罪の立証についての証拠により合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証ができているかどうか裁判所により厳しくチェックされることになると承知をしております」

 階猛は刑事訴訟法が改正されて来年度からスタートすることになった刑事免責制度を挙げて、免責制度によっても冤罪が生じる危険性を縷々述べているが、安倍晋三が「寄付をしていませんが、寄付をしたとしても、犯罪ではない。感謝こそされ、犯罪ではないわけですから」と答弁したことに関しては何の思いも持たなかったようだ

 階猛は首相夫人安倍昭恵が100万円を寄付した事実はないと主張している例を挙げて、安倍晋三側がない事実の証明が極めて難しい、いわゆる悪魔の証明に当たるとしている立証困難性が共謀罪でも起こり得て、冤罪を生む危険性を指摘したに過ぎない。

 但し安倍昭恵が100万円を寄付したとされている事実を冤罪だとしているわけではない。単に立証困難性が類似している例として挙げたに過ぎない。

 対して安倍晋三は改めて寄付を否定、否定しただけではなく、「寄付をしたとしても、犯罪ではない」から、共謀罪と同一に議論することを忌避した。

 寄付をしていないことが例え立証困難な悪魔の証明に当たったとしても、夫婦共々寄付を否定している以上、「寄付をしたとしても」という仮定は存在しない。

 存在しないだけではなく、存在させてはならない。

 そのような仮定が存在しない以上、「感謝こそされ、犯罪ではないわけですから」と断りを入れる必要性も全然ない。

 寄付をしていないと繰返し固く否定していながら、「寄付をしたとしても」と、否定を自分からわざわざ否定するような仮定法をなぜ用いたのだろうか。

 例えばそのような人殺しはしていないと強硬に否定したにも関わらず人殺しの容疑で逮捕され、取り調べを受けた人間が、「もしそのような人殺しをしていたなら、どのくらいの罪になりますか」という仮定を設けた場合どうなるだろうか。

 設けた途端に取調べ側に犯罪を確信させるだろう。

 なぜなら、設けてはならない仮定だからだ。

 これと同じように安倍晋三は設けてはならない仮定を設けた。

 寄付をしたという行為もなければ、100万円というカネの動きもなかったと否定し、それを絶対としていながら、「寄付をしたとしても」と寄付をしていた場合の仮定を、設けてはならないにも関わらず設けて、「犯罪ではない」と、罪に当たる行為ではないと自らを正当化した。

 もし容疑者の取調べに当たる刑事なら、この発言から寄付を確信したとしても、当然の成り行きであろう。

 なぜなら、寄付が事実でなければ、このような仮定を持ち出すことはないからだ。
 
 いわば寄付が事実だったからこそ、このような仮定を用意しなければならなかった。

 では、安倍晋三はなぜこのような設けてはならない仮定を持ち出したのだろうか。

 このような仮定は寄付が露見した場合の予防線となる。その役目を持たせた仮定でもあるはずだ。

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安倍晋三の閣僚不適切発言に見る謝罪と撤回でその責任と進退、自身の任命責任を一件落着とする暗黙のルール

2017-04-18 08:52:14 | 政治

 安倍内閣閣僚の不適切発言が続いているが、今度は地方創生担当相の山本幸三(68歳、東京大学経済学部・コーネル大学経営大学院卒大蔵省入省)が2017年4月16日の大津市での講演で不適切発言を行ったとマスコミが伝えた。

 2017年4月17日付け「NHK NEWS WEB」記事から4月16日の大津市での講演での不適切発言と翌日4月17日の東京都内で記者団に行った発言の撤回と謝罪についての発言を見てみる。   

 4月16日。

 山本幸三(外国人旅行者に対する文化財の観光案内が不十分だと指摘した上で)「一番のガンは学芸員という人たちだ。この連中を一掃しなければならない」

 4月17日。

 山本幸三「これからは文化が非常に大きな観光資源となるので、学芸員の方々も観光マインドをぜひ持ってもらいたいという趣旨で申し上げた。『一掃しなければならない』という発言は適切ではなく反省しており、撤回してお詫びしたい。菅官房長官にも『大変申し訳ありませんでした』と申し上げた。全力を挙げて地方創生、規制改革などに頑張っていきたい」

 発言の撤回と謝罪をした以上、不適切発言であることを自ら認めたことになる。だが、撤回と謝罪で不適切発言は全て一件落着、チャラになったとして、進退に影響なしとしている。

 記事はこの発言に対しての安倍晋三の4月17日の衆議院決算行政監視委員会での発言と官房長官の菅義偉の4月17日午前の記者会見絵の発言を伝えている。

 安倍晋三「本件については、山本大臣が、今朝謝罪し、撤回したと聞いている」

 安倍晋三とて謝罪と撤回で一件落着、チャラになったと片付けている。

 菅義偉「山本大臣は、文化財は保護するだけでなく、観光立国という観点からも文化財を地域資源として活用していくことが重要で、学芸員の方々にも、より観光マインドを持って頂きたいという趣旨で発言したと理解している。

 朝、山本大臣から連絡があり、『全員クビにしろ』というのは言い過ぎであり、撤回して謝罪したいという電話があり、私からもしっかり行うようにと話した」

 記者「閣僚が不適切な発言をし撤回する事態が続いている」(解説文を発言体に直す)

 菅義偉「閣僚は、常に閣僚としての責任を持って発言をして欲しい」

 菅義偉も謝罪と撤回で一件落着、チャラとしている。

 要するに閣僚任命の責任を負う本家本元の安倍晋三にしても閣僚に対する監督責任を負う官房長官の菅義偉にしても閣僚が不適切発言をしても謝罪と撤回を行えば、全て一件落着し、チャラにすることができるという暗黙のルールをつくり出していることになる。

 にも関わらず、菅義偉は「閣僚は、常に閣僚としての責任を持って発言をして欲しい」と、“責任ある発言”を閣僚の資質条件として挙げている。

 と言うことは、“責任ある発言”は総理大臣の閣僚任命の要件の一つとなっていることをも意味することになる。

 当然と言えば、当然である。

 だがである、安倍晋三にしても菅義偉にしても“責任ある発言”を閣僚の資質条件としていながら、不適切発言を行っても、安倍晋三は任命責任者であるにも関わらず、菅義偉は監督責任者であるにも関わらず、両者共に謝罪と撤回で一件落着、チャラとし、不適切発言を行った閣僚の進退には影響しないことにしていることになる。

 二人共が許しているこのような経緯は、不適切発言を行っても、謝罪と撤回をすれば、首相としての任命責任にしても生じないとし、官房長官の監督責任にしても生じないとする経緯をも同時に取らせていることになる。

 この終始一貫していない責任感――と言うよりも、責任回避意識は安倍晋三にしても菅義偉にしても見事である。

 このような見事なまでの無責任性・責任回避意識が閣僚が不適切発言をしても謝罪と撤回を行えば、全て一件落着し、チャラにすることができるという暗黙のルールを結果的につくり出していることになっているのだろう。

 この無責任・責任回避意識は上記「NHK NEWS WEB」記事が一部取り上げている4月17日の衆院決算行政監視委での民進党山尾志桜里に質問に対する安倍晋三の答弁に如実に現れている。

 山尾志桜里「まずは総理、昨日の山本幸三地方創生担当大臣の言葉について、一点質問させて頂きます。山本幸三地方創生担当大臣が昨日文化財の観光振興を巡ってこういうふうに仰った。

 『一番ガンなのは学芸員、観光マインドが全くない。この連中を一掃しないと』というふうな発言をしたと聞いております。学芸員の皆さんというのは国民の立場で博物館法に定められた専門職として文化財の保護・管理に懸命に当たっている方です。

 こういう方々を国家の大臣がガンと譬える。連中を一掃しないと、とか、こういうふうに言い放つ。これは学芸員の皆さん、そしてガンと闘っている患者、ご家族の皆さんにも国家として余りにも無礼、あり得ない発言だと思います。

 そんな大臣を任命した総理大臣として、安倍総理の見解をお伺いします」

 安倍晋三「本件につきましてはですね、山本大臣が今朝謝罪し、撤回したと聞いております」

 上記「NHK NEWS WEB」記事が伝えている発言と敬語の部分以外何ら違いはない。山尾志桜里は安倍晋三の任命責任を問い質した。だが、謝罪と撤回で全て終了したことにした。いわば一件落着し、チャラとした。

 こういった経緯を安倍晋三が自らのルールとしている以上、閣僚の不適切発言はなくならいだろうし、閣僚も謝罪と撤回をすれば全て終わりにすることができるからと、安心して不適切発言をやらかすことができることになる。

 安倍晋三の答弁に対する山尾志桜里の発言を見てみる。

 山尾志桜里「こういった大臣を任命したご自身については何ら謝罪もないということでありますけれども、今日は共謀罪の質問を準備していたんですね」

 そして共謀罪の質問に移る。

 山本幸三が謝罪したのだから、安倍晋三にも謝罪を求める。安倍内閣の何人もの閣僚が不適切発言を繰り返してきて、その殆どが謝罪と撤回で閣僚自身の進退も、安倍晋三の任命責任も一件落着し、チャラとしてきた経緯、あるいは暗黙のルールとしていることには何ら触れない。

 野党自身が安倍晋三の延命を手助けしている感がある。

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安倍政権の教育勅語や教科書検定を利用した戦前の精神・価値観を戦後の日本に蘇らせる復古主義・回帰主義

2017-04-17 10:52:02 | Weblog

 1958年から検定を受けない副読本を使った教科外活動としてスタートした「道徳の時間」が小学校では来年の2018年の春から、中学校では2019年の春から「道徳」として教科化されることになり、その授業で使用される教科書の検定で文科省は、と言うことは、安倍政権は戦前回帰、復古主義を密かに意図しているのではないかとの文脈の報道を、安倍政権寄りを除いて各マスコミが紹介している。

 2017年4月5日付「毎日新聞」記事の《道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず》から見てみる。    

 教科書出版会社の東京書籍が小1向け道徳教科書に載せる題材として、これまで副読本の中で紹介してきた「にちようびの さんぽみち」をそのまま載せたところ、祖父との散歩の途中で立ち寄るパン屋が「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし扱いが不適切」との検定意見が付き、東京書籍がパン屋を和菓子屋に修正したところ、検定に通ったというものである。

 勿論、検定意見がついた題材をどう変えるかは出版社側の判断である。しかし通すか通さないかは文科省側の判断で、そこに国側の意図が働く。

 では、検定意見がついた題材と修正後の題材はその一部を画像で紹介しているが、より多く紹介している《ネットロアをめぐる冒険》なるサイトから引用してみる。 NHKのニュース画面から文字起こししたらしくて、修正後の文章の一部が□で紹介しているから、毎日新聞の画像から補っておいた。 


 検定意見がついた文章

 「にちようびの さんぽみち」

 〈よいにおいがしてくるパンやさん。

 「あっ、けんたさん。」

 「あれ、たけおさん。」

 パンやさんは、おなじ一ねんせいのおともだちのいえでした。おいしそうなパンをかって、おみやげです。

 それからちがうはしをわたって、すこしあるいたら、

 「あれえ、いつものこうえんだ。」

 「そうだよ。きょうはちがういりぐちについたのさ。」

 あたらしいはっけん。けんたは、いつもとちがうさんぽみちもだいすきになりました。

 修正後の文章

 「にちようびの さんぽみち」

 そして、あまいにおいのするおかしやさん。

 「うわあ、いろんないろやかたちのおかしがあるね。きれいだな。」

 「これは、にほんのおかしで、わがしというんだよ。あきになると、かきやくりのわがしをつくっているよ。」

 おみせのおにいさんがおしえてくれました。おいしそうなくりまんじゅうをかって、だいまんぞく。

 それから、ちがうはしをわたって、すこしあるいたら、

 「あれえ、いつものこうえんだ。」

 「そうだよ、きょうはちがういりぐちについたのさ。」

 あたらしいはっけん。けんたは、まちのことや、はじめてみたきれいなわがしのことを、もっとしりたいとおもいました。

 検定前の文章は他の記事によると、祖父と一緒に散歩に出かけた小学1年生のけんたが普段とは違う道を歩き、地元のよさを発見するという内容だそうだ。

 検定意見はパン屋では、「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし扱いが不適切」だとした。

 文科省担当者「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つことの意義を考えさせる内容になっていない」

 つまりパン屋では小学1年生を対象とした「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」の刷り込みには不十分で、和菓子屋なら、その刷り込みはそれ相応に果たすことができると国は判断したことを意味する。

 と言うことは、パンは和菓子よりも日本の「伝統と文化」という点で不足していて、それゆえにこそ、「国や郷土を愛する態度」を学ばせる点でも物足りない食品であるということになると価値づけたことになる。

 既に断っているように検定意見がついた題材をどう変えるかは出版社側の判断であるが、職業を和菓子屋に変えたところ、検定で通したということは文科省側の判断であり、国側の判断となる以上、道徳の授業で「国や郷土」という生活空間を扱うときは「伝統と文化」を装わせた教材を用いなければならないことを基準づけたことになる。

 いわば「国や郷土」と「伝統と文化」を常に一体化させていなければならない。

 その「伝統と文化」にしても、パン屋に検定意見が付き、和菓子屋に修正したところ検定に通った経緯からして、戦前のそれを引き継ぐ「伝統と文化」に限定していることになる。

 でなければ、パン屋に検定意見がつくはずはない。

 パンが和菓子よりも日本の「伝統と文化」という点で不足しているとの価値づけは日本人が日常的にパンを食べ始めるようになったのは敗戦後のことだから、敗戦を基点としたそれ以前からの「伝統と文化」だったのか、それ以後からかの「伝統と文化」だったのか、それぞれの歴史の長さが基準となっていることになる。

 このことを言い替えると、敗戦以前からの長い歴史を抱えた「伝統と文化」は極めて日本的で、敗戦以後の短い歴史の「伝統と文化」は日本的であることから遠ざかるということになる。

 食する機会の多さの点ではパンは和菓子りも遥かに日常化しているが、日常化云々は関係なく、日本の伝統と文化という点ではたかだか70余年の歴史しかないパン食を戦前から存在した和菓子の「伝統と文化」と比較した場合、デカイ面をして“日本の”という形容詞をつけるには憚れる「伝統と文化」に過ぎないということなのだろう。

 あくまでも戦前からの「伝統と文化」なのか、戦後を主体とした「伝統と文化」なのかが問われることになる

 だが、パンの原形は8000年~6000年程前の古代メソポタミアで始まったとされ、それが欧米各国で発展、日本では戦後の経済低迷期は除いて高度経済発展以降は生活が豊かになるにつれてフランスやイタリア、ドイツ等の長い歴史を経たパンに関わる伝統と文化を取り込み、それらが入り混じって日本のパンに関わる伝統と文化となって発展してきた。

 いわば日本のパンに関わる伝統と文化は日本に於いてはその歴史は短くても、西欧の長い歴史と発展を味付けに加えて育まれてきた。

 和菓子にしても日本発生の「伝統と文化」ではなく、ネットで調べると、小豆の原産地は日本を含む東アジアとなっているが、《京菓子の歴史と知識》亀屋清永)なるサイトに、〈今日の和菓子の原型というべきは、鎌倉時代に禅宗(道元、栄西――中国の南宋に渡って帰国)と共に伝わった、点心や茶の子ではないだろうか。  

 饅頭、羊羹の原型は、中国の饅頭(まんとう)と呼ばれ、伝わった頃は、獣の肉が入った、今で言う肉まんのようなものや、羊や亀などの肉をいれた羹(あつもの)。つまり、汁物だったのです。〉と紹介し、〈砂糖が我国に伝来したのは奈良時代(754年)。唐招提寺を建立した、唐の鑑真が薬として石密(砂糖の開祖だといわれる)を天皇に献上したのが始まりという。

 その後、室町時代に中国から輸入されるようになったとはいえ、砂糖を口に出来るのは、貴族や将軍など、高貴な人々だけであった。〉と解説しているところからすると、「和」(=日本)という言葉を冠して「和菓子」と名前付け、日本の菓子としているが、砂糖なくして小豆だけでは成り立たせることができない「和菓子」なる食文化は中国の伝統と文化を取り込んだ日本の「伝統と文化」ということになる。

 昨日のブログで、〈「日本の伝統」という絶対的な規範は存在しない。〉と書いたが、和菓子にしてもこのことを裏付ける証明となる。

 と言うことは、敗戦を基点としてそれ以前から存在することの意味を持たせて日本に於ける歴史が長いからと、その「伝統と文化」は極めて日本的で優れていて、それを尊重することは「国や郷土を愛する態度を学ぶ」キッカケに繋がるとする価値判断は文化相対主義の点から言っても正しい意味づけではないことになる。

 逆に敗戦を基点としてそれ以後に一般化したがゆえに日本に於ける歴史が短いからとの理由で日本的とは言うことができず、日本の「伝統と文化」の範疇に入らないとする価値判断にしても正しいとは言えないことになる。

 いわば日本古来の「伝統と文化」は優れていて、戦後に外国から入ってきて一般化した「伝統と文化」は劣るとする価値判断から見えてくる姿勢は日本的なるものへの非常に強い拘りのみである。

 この強い拘りには戦前の精神・価値観を戦後の日本に蘇らせようとする復古主義・回帰主義しか見えてこない。

 このような復古主義・回帰主義の現れの特大の一つが教育勅語の教育への活用をここに来て俄に見せ始めた安倍政権の動きであろう。

 文科相の松野博一が2017年4月4日の記者会見で教育勅語を道徳を教える際に教材として用いることについて、「憲法の趣旨に反しない限り、一義的には教員や学校長の権限にある」と述べ、否定しない考えを示したと2017年4月4日付け「NHK NEWS WEB」記事が伝えているが、旧憲法で国民に基本的人権を十分に認めず、絶対的権能者として主権を握っていた天皇が要求し、制約する親孝行や夫婦愛といった徳目である以上、国民主権で象徴天皇制を採り、思想・良心の自由や信教の自由、表現の自由等で内心の自由を国民の基本的人権として認めている現日本国憲法と相容れるはずはなく、そうであるにも関わらず、「憲法の趣旨に反しない限り」と許されるはずもない口実を設けて教材使用に道を付けようとするのは戦前の精神・価値観を戦後の日本に蘇らせようとする復古主義・回帰主義以外の何ものでもない。

 安倍晋三からして元々戦前の日本国家を理想の国家像と崇め、戦前の精神・価値観を戦後の日本社会に蘇らせたい衝動を抱えている国家主義者であり、同じムジナの国家主義者が閣僚として周りを取り囲んでいる。

 教育行政が道徳の教科化を利用して復古主義・回帰主義を取らない方が不思議ということになる。

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アッキード疑惑渦中の安倍昭恵に巣食う日本の精神性と日本の文化を絶対とする間抜けな日本民族優越意識

2017-04-15 12:29:58 | 政治

 アッキード疑惑渦中の安倍晋三夫人安倍昭恵の思想傾向を推察する2017年4月6日付の「asahi.com」記事を興味深く読んだ。有料記事で無料個所は途中までしか紹介していないが、その短い紹介の中から安倍昭恵の本質的な思想が何に依拠しているか、敢えて自分なりの推察を試みてみた。

 《リベラル?国粋的? 安倍昭恵さんの思想とは》   

 編集委員・塩倉裕 木村尚貴

 学校法人「森友学園」への関与で注目される首相夫人の安倍昭恵氏。論壇ではこの間、「家庭内野党」と称されてきた昭恵氏の思想に新たな角度から光が当てられている。焦点は、スピリチュアルへの傾斜と国粋的な傾向とが共存している点だ。

 「主人と意見が違うように見えても、目指すところは一緒で、日本を取り戻したいんです」。文芸春秋3月号の記事「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」は、昭恵氏のこんな発言を伝えた。ノンフィクション作家の石井妙子氏が、昭恵氏へのインタビューも踏まえて執筆した。

 脱原発に共鳴し、巨大防潮堤の建設に疑問を呈し、有機農法に取り組む。左派的な言動で、右派的な夫との〈違い〉が注目されてきた昭恵氏。だが石井氏は今回、「ふたりは価値観の基礎の部分を共有」し、「枝葉末節に属する活動については何もいわない、という安定した関係性」を築いている、と記した。

 共有点の一つは、「日本の伝統」を称賛し、それが敗戦を機に米国によって奪われたと考える傾向だ。例えば昭恵氏は、日本古来の伝統だった大麻栽培が戦後は米国によって禁止されてしまった、との考えを示している。

 もう一点として「信仰」も挙げた。水は人間の思いを受け取ると主張した「水の波動」理論で知られるスピリチュアル界の著名人・江本勝氏(2014年死去)。昭恵氏がその主張や神道に共鳴している点を紹介しながら石井氏は、首相夫妻が「信仰」的なものも媒介にして深く結びついている可能性を示唆した。

 昭恵氏は、江本氏が主導した「国際波動友の会」の会員誌(11年)で「江本先生のおっしゃる水・意識・波動の話は正しいと直感しています」と述べていた。また江本氏とのつながりについて「20年くらい前、主人の父(注・晋太郎元外相)が……波動を調べてもらい、転写水を作っていただいたこと」がきっかけだったと紹介している。

 昭恵氏は昨秋、社会学者の西田亮介・東京工業大准教授によるニュースサイトでのインタビューに応じ、宗教を問われて「どちらかというと神道です」。首相については「主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんです」と紹介した。「(私は)日本の精神性が世界をリードしていかないと『地球が終わる』って、本当に信じているんです」と語り、西田さんから「地球が終わるんですか?」と聞かれる場面も。

 「昭恵氏の話は非科学的で非論理的な印象だった」「戦前の強かった日本が好きだという心情と、スピリチュアル、エコロジー。それらが混然一体になっている感じでした」と西田さんは証言する。

 スピリチュアルやエコロジーへ… 

 安倍昭恵の発言個所を纏めてみる。
…
 「主人と意見が違うように見えても、目指すところは一緒で、日本を取り戻したいんです」

 (自身の宗教について)「どちらかというと神道です」

 (亭主に関して)「主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんです」

 「(私は)日本の精神性が世界をリードしていかないと『地球が終わる』って、本当に信じているんです」

 次に昭恵氏にインタビューしたノンフィクション作家石井妙子氏の安倍昭恵と安倍晋三に関わる夫婦評。

 〈共有点の一つは、「日本の伝統」を称賛し、それが敗戦を機に米国によって奪われたと考える傾向だ。例えば昭恵氏は、日本古来の伝統だった大麻栽培が戦後は米国によって禁止されてしまった、との考えを示している。〉・・・・・・・

 以上の安倍昭恵自身の発言とノンフィクション作家石井妙子氏の安倍夫婦評から見えてくる安倍昭恵の本質的な思想は日本民族優越意識に依拠して成り立たせているということである。

 安倍晋三と「目指すところは一緒で、日本を取り戻したい」

 この熱く強い思いは「日本」という絶対的な国家形式がかつて存在していたと信じていなければ囚われることはない回復願望であろう。「日本」という絶対的な国家形式がかつて存在していたとしているからこそ、「取り戻したい」という思いが募る。

 「日本」という絶対的な国家形式がかつて存在していたとするためには存在していた当時の全ての日本人一人ひとりが日本人としての固有の絶対的な存在形式を備えていなければ、不可能となる。

 あるいは最低限、少数の日本人を除いて絶対多数の日本人が日本人としての固有の絶対的な存在形式を備えていなければ、「日本」という絶対的な国家形式がかつて存在していたとすることはできない。

 日本人としての固有の絶対的な存在形式は日本人自らが日本人を劣る民族と価値づけていたなら、手に入れることはできない。日本人自らが日本人を優秀な民族としていてこそ、手に入れることができる。 
 
 このような経緯を取って初めて、「日本」という絶対的な国家形式がかつて存在していたとすることができる。いわば日本民族優越意識に裏打ちされた、かつて存在していたとする「日本」という絶対的な国家形式であり、民族的に優越国家だったからこそ、回復願望を持つことになる。

 では、そのような日本国家はいつ存在したかと言うと、ノンフィクション作家石井妙子氏の安倍昭恵と安倍晋三に関わる夫婦評に現れている。

 夫婦の〈共有点の一つは、「日本の伝統」を称賛し、それが敗戦を機に米国によって奪われたと考える傾向だ。〉

 要するに1945年8月15日敗戦前の日本国家――戦前日本国家と言うことになる。

 安倍晋三自身も同じ趣旨のことを2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」に寄せた自らのビデオメッセージで発言している。

 安倍晋三「本来であれば、この日を以って、日本は独立を回復した国でありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本がどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、それをきっちりと区切りをつけて、日本は新しスタートを切るべきでした」――
 
 「日本」という絶対的な国家形式とその国民たる日本人としての固有の絶対的な存在形式が占領時代に占領軍によって奪われ、壊されてしまった。その影響は深刻で、今以って壊された状態のまま推移している。だから、そのようなかつての「日本」を安倍晋三と安倍昭恵は夫婦共々取り戻さなけれればならないとう熱く強い衝動に駆られている――ということなのだろう。

 安倍昭恵が占領軍に奪われた「日本の伝統」の例として米国による禁止された日本古来の伝統だとしている大麻栽培を挙げている点にも、「日本の伝統」を称賛しているという点にも、日本民族優越意識が如実に現れている。

 なぜなら、現実には「日本の伝統」という絶対的な規範は存在しないからだ。日本民族優越意識が存在させることになっている幻想に過ぎない。

 日本は縄文の時代から中国の文化や技術の移入が言われ、弥生・飛鳥の時代以降は中国のみならず朝鮮半島から文化や技術を受け継いできていると言われている。そのような影響を背景とした日本の文化に室町時代以降はポルトガルやオランダの文化と技術を接ぎ木し、幕末期にイギリスやフランス、ドイツの文化をさらに接ぎ木することで重層と融合を繰返して、伝統となっていった。

 こういった日本の文化の形成を考えると、戦後の米軍を中心とした占領軍は米国文化と技術を接ぎ木する新たな機会だったと言うことができる。

 勿論アメリカの伝統も絶対的規範を持たず、黒人文化やヒスパニック文化、あるいは西欧各国の文化の影響を受けて、あるいは逆に日本の文化の影響を受けて、それらがアメリカの伝統と化していく柔軟性や流動性を常に属性としている。

 尤も全ての伝統・文化が良性であるとは限らない。それは日本文化に於いても同じであって、そうであるからこそ、如何なる伝統・文化も絶対的規範とすることはできない。

 日本が古くからの伝統としている稲作文化にしても、中国や朝鮮半島からの伝播だと言われている。だが、安倍晋三にしても安倍昭恵に劣らずに「日本の伝統」を日本の絶対的規範と信じて疑わない。日本民族優越意識に侵されている証明でもある。

 安倍晋三「日本には世界に誇るべき国柄があります。息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら五穀豊穣を祈る伝統があります。自助自立を基本としながら、不幸にして誰かが病に倒れれば村の人たちがみんなで助け合う農村文化」――

 こういった伝統、あるいは文化は他の国にもあって、日本固有の伝統・文化ではないと相対化することができずに日本の固有の伝統・文化だとする意識を働かせている。

 この意識は当然、日本民族優越意識に裏打ちされている。

 安倍昭恵の「(私は)日本の精神性が世界をリードしていかないと『地球が終わる』って、本当に信じているんです」の発言に最も色濃い日本民族優越意識が隠されていて、その意識に促された言葉となっている。

 「日本の精神性」にしても、「日本」という絶対的な国家形式が存在しないように、あるいは日本人が日本人としての固有の絶対的な存在形式を備えていないように日本固有の絶対的な精神性なるものは存在しない。

 「日本」という絶対的な国家形式が存在し、日本人が日本人としての固有の絶対的な存在形式に恵まれていたなら、戦争に負けることはなかった。それらの絶対性を最大武器として世界を征服していたはずだ。

 だが、安倍昭恵は日本固有の絶対的な精神性が存在していると信じているからこそ、「日本の精神性が世界をリードしていかないと『地球が終わる』って、本当に信じ」ることができる。頭からそう思うことができる。

 日本民族優越意識ここに極まれりの発言となっている。

 安倍昭恵をインタビューした社会学者の西田亮介氏が安倍昭恵の中にある「戦前の強かった日本が好きだという心情」を言い当てている発言を待つまでもなく、安倍昭恵のみならず、安倍晋三にしても夫婦共々戦前の日本国家を理想の国家像とし、そのような国家が存在した戦前回帰の思想に毒されていることは今まで説明してきたことで十分である。

 戦前回帰思想に「スピリチュアル、エコロジー。それらが混然一体になっている感じ」と言っていることは、戦前の日本国家を絶対的な国家形式を備えていたと見做し、その国民を日本人としての固有の絶対的な存在形式を自らのものとしていることについての合理的な根拠を示すことができない代償と見做すことができる。

 自身の宗教を「どちらかというと神道です」と日本固有の宗教を挙げているが、神道が木や石、川の水等々を含めた自然界の万物に神様が宿ると考えた日本人の宗教観に発しているということだから(他の国にも自然に神が宿っているとする宗教観は存在する)、日本人の優越性の合理的な説明の代わりに「スピリチュアル」(霊魂的なもの)に頼らざるを得ないからであり、「スピリチュアル」の大本(おおもと)としての原初の自然に触れる道具としてエコロジー(=自然環境保全)の思想といったところなのだろう。

 上記記事は安倍昭恵が有機農法(=自然農法)に取り組んでいると紹介しているが、有機農法に取り組むことで絶対的だと信じて止まない「日本の精神性」や「日本の伝統」に密かに自身を一体化させているのかもしれない。

 安倍晋三にしても日本民族優越意識の熱に冒されている。かつて「たかじんのそこまで言って委員会」に出演して次のように発言していた。文飾は当方。

 安倍晋三「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。

この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになるのであって、天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げられた。あの姿をみて、多くの被災地の方々は癒された思いだと語っておられたでしょ。あれを総理大臣とかね、私たちがやったって、それは真似はできないんですよ。2000年以上経って、ひたすら国民の幸せと安寧を祈ってきた、皇室の圧倒的な伝統の力なんですよ

 そして2009年2月11日の明治神宮会館で開催の建国記念の日奉祝中央式典では皇室に関して次のようにスピーチしている。  

 安倍晋三「よく『国柄、国柄』と、こういうことを議論することがあるんですが、私たちの国柄は何かと言えば、これはもう、古来からの長い長い歴史の中において、日本人の営みの積み重ねの中に自然に出来上がってきたものが、私は、『日本の国柄』ではないかなと思うところでございます。
  
 日本の歴史というのは、言ってみれば、いわば、つづら織りのようなものでありまして、タペストリーですね。

 この長い歴史をそれぞれの人々が個々の歴史を積み重ねる中で、全体のつづら織ができあがってきたわけでありますが、やはり、真ん中の中心線というのは、わたくしはそれはご皇室であろうと、このように思うわけであります。(大きな拍手)
  
 そしてそれはまさに、一本の線で、ずーーっと古来から今日までつながっている。 ここが諸外国とは大きく違う点であろうと、わたくしは思います。

 日本と外国との違い、たくさんあります。また、外国の王室との違いも私はある、と思います」――

 日本の歴史をタペストリーに譬え、その中心線に長き歴史に亘る皇室を置くこの発言と同様なことは安倍晋三著「美しい国へ」でも述べられている。

 安倍晋三のこの二つの発言から汲み取ることができる思想は日本の歴史の中心線は皇室であり、それが「古来から今日までつながってい」て、それが日本の「国柄」だとしていることは日本国の歴史の主人公を歴代天皇に置いて、皇室を日本の歴史の主宰者と見做す国家観であって、そうである以上、天皇を特別な存在とする国家観であろう。

 この国家観は天皇を神聖な侵すべからざる絶対的な存在とし、そのような絶対的な存在を頭に戴く日本人を優秀な国民・民族と信じていた戦前の思想を受け継いだ国家観である。

 だとしても、安倍晋三とて日本民族優越意識など合理的な根拠で説明することはできない。

 だから、安倍昭恵同様に「主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんです」とスピリチュアルなものに頼らざるを得ない。

 合理的な根拠に基づかずにスピリチュアルなものに頼った今の時代まで引き継いでいる日本民族優越意識だから、間抜けな日本民族優越意識であるにも関わらず、自分からその殻を破ることも難しく、他人の説得にも耳を貸さず、いつまでも囚われ続けることになる。

 日本国家が担い、日本国民の多くが毒されていた戦前の日本民族優越意識の結末が、優越民族意識を武器に勝てる相手ではないアメリカに身の程知らずに戦争を仕掛けて味わうことになった手痛い敗戦をだったが、安倍晋三の優越民族意識が自身とその妻、そして一部の日本人の間に留まっている間はいいが、絶対多数の日本人を戦前のように巻き込んだ場合、合理的根拠のない間抜けな優越意識であることに変わりはないから、惨めが結末を迎えることになるはずだ。

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稲田朋美は教育勅語の正体を知らずにその徳目で「高い倫理観と道徳心」を国民性としたいと欲する滑稽な願望

2017-04-14 12:00:06 | Weblog

 右翼女子(右翼オバサン?)である防衛相の稲田朋美が2017年4月11日の防衛省での「記者会見」で、教育勅語に書いてある道徳の教えに基づいて「高い倫理観と道徳心で世界中から尊敬されて、また頼りにされるようなそんな国を目指したい」と発言したというマスコミ報道に触れて、防衛省サイトにアクセスしてみた。   

 関係個所の発言だけを挙げてみる。

 記者「話題変わりますけれども、教育勅語についてお伺いしたいのですけれども、教育勅語の内容で、理念があるという議論ですが、あるいはそういう意見が取上げられることについて、大臣は今までもお考えを示しておられますが、現時点でのお考えを改めてお願いします」

 稲田朋美「現時点でのというか、一貫して申し上げているとおり、教育勅語の学校における具体的な教育方法というか、取上げ方に関しては、防衛大臣としての所管ではありませんので、お答えは差し控えたいというふうに思います」

 記者「政治家としてはいかがでしょうか」

 稲田朋美「私も国会で申し上げてきたとおりではありますが、私自身は、今、安倍内閣の防衛大臣として答弁もしておりますので、その方針に従って行動するということに尽きるということでございます」

 記者「教育勅語の取上げ方で、大臣が今まで答弁されてきた中で、親孝行であるとか、そういった部分は、教育勅語を用いて使うこともというような議論もあったと思うのですが、なぜ教育勅語を使わなければならないのかと、野党とかは言っていたりするわけですけれども、その辺りいかがでしょうか」

 稲田朋美「私は今まで、どのように教育の現場で使われるべきかということを申し上げていたわけではないつもりなのです。私自身、防衛大臣で、教育内容、また、教育方法について何か申し上げる立場にはありません。ただ、個人的な見解というか、過去の私の、もう11年も前のインタビューを取上げて質問されましたので、私自身としては、親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係とか、そういう現代でも通用するような価値観というものはあると、すなわち、不易と流行という意味があるということを申し上げておりましたが、一方で、学校において、この教育勅語をわが国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であるということも申し上げてきたところでございます」

 記者「核の部分は取り戻すべきだという御発言をインタビューでされていらっしゃると思うのですけれども、核の部分というのはどういったものですか」

 稲田朋美「それも結局、教育基本法というよりも、親孝行ですとか日本らしさですね、家族を大切にするとか、あと私の持論であるところの、日本は単に経済大国を目指すのではなくて世界中から尊敬される高い倫理観と道徳心で世界中から尊敬されて、また頼りにされるようなそんな国を目指しましょうということを今まで申し上げてきたので、自分のそういう考え方を申し上げましたけれども、しかしながら教育勅語をどのように教育現場の中で取扱うかというのは、防衛大臣の所管でもありませんし、教育勅語を唯一の教育方針として取扱うということは不適切であるというふうに考えております」

 記者「それを取戻すために教育勅語を補助的に講義等で使うことについては教育現場の判断ですか」

 稲田朋美「ですから教育現場で教育内容、教育方針、教育における取扱いは私の所管ではありませんので、お答えする立場にはないということを申し上げているわけです」

 記者「それでは今大臣が現在でも通用する価値観があるというように仰いましたけども、正確な文言は覚えていませんが、一旦事があれば天皇のために命を投げ出せという部分は現在でも通用する価値観と考えますか」

 稲田朋美「そのようには思っておりません」

 記者「自衛官にそのようなことを求めますか」

 稲田朋美「求めません」

 記者会見はここで終わっている。

 2005年9月の衆院選での初当選以来11年間、何回かの選挙を勝ち抜き、大物政治家にのし上がるについてはそれなりのカネ集めの奔走、集めたカネの有効な配分等々、その時々に応じた知恵を使って来たはずで、いわば生真面目一方であったり、几帳面一方であったり、あるいは正直一方では生きにくい政治の世界を着実に泳ぎ渡って顔を一つも二つも浮かすためには海千山千の強(したた)かな一面、あるいは錬金術に長けた一面を否応もなしに身に着けさせられているはずである。

 そのような政治家の境遇にありながら、いわば稲田朋美自身が「高い倫理観と道徳心」を常に表現しているわけではない、表現できるわけでもない政治家でありながら、そのような厳格な規律を国民性として求めて、世界から尊敬される国を目指したいと言う。

 尤もこのような発言は以前も口にしていて、特に奇異に感じたことはこの「高い倫理観と道徳心」を教育勅語に結びつけていることである。2017年3月10日の当「ブログ」で同じく稲田朋美の教育勅語に関わる国会答弁を取り上げているが、〈戦前の日本は大日本帝国憲法で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定して天皇絶対制を採っていた。いわば天皇主権であって、国民に主権はなかった。〉と書き、そのような絶対的存在の主権者である天皇が国民にかくあれと親孝行や兄弟愛や夫婦愛といった善良な関係性を求めて、そのような個々の関係性の上に良き国民であることを期待し、最終的に、〈一旦緩急アレバ義勇公(こうニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。是ノ如キハ独リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰)スルニ足ラン。〉と、一旦差し迫った事態(=緩急)が起きたなら、国家(=公)と天皇に仕えなさい、奉仕しなさいと教えているのだから、そのような国民を育て上げて国を統治しやすくする国民統治装置に他ならないといった趣旨のことを書いた。  

 いわば〈爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵(したが)ヒ〉と言っている高い規律性は国民をそのように飼い慣らして国を統治しやすくするための徳目に過ぎない。

 大体が考える力を基本に置かずに徳目だけを並べ立てて、ああしなさい、こうしなさいと言って言うことを聞かせようとするのは、いわば考える力学を通さないままの要求なのだから、国家権力側の人間にとって都合のいい、言われたことだけをする型にはまった国民になることを期待しているからに他ならない。

 天皇や国にとって言うことを聞くだけの人間程、国家統治上、好都合な存在はないはずである。

 稲田朋美自身が「高い倫理観と道徳心」を常に表現しているわけではない、表現できるわけでもない政治家であることの一例として2016年10月6日の参議院予算委員会で共産党の小池晃議員が取り上げた安倍内閣閣僚の防衛相稲田朋美、官房長官菅義偉、総務相の高市早苗等が政治資金パーテイに出席した際、パーティ主催者側に白紙領収書を発行させていたことを挙げることができる。

 白紙の領収を出させて、後でそこに自分たちの都合のいい日付と金額と但し書きを記入する。

 稲田朋美は、出席者が多数で、主催者側が手際のよい領収書発行に対応しきれないために白紙領収書を発行する習慣になっていて、いわば「政治資金パーティーの主催者側のご都合により主催者側の権限に於いて発行された領収書に対し、主催者側の了解のもとで稲田側に於いて未記載の部分の日付・宛名・金額を正確に記載したものであります」と答弁しているが、タテマエはそうであっても、如何ようにも自分の都合に合わせることができる。

 「高い倫理観と道徳心」を言うなら、日付も宛名も金額も自由に書き換えることができると人に疑われる可能性を全て潰した行動を取るべく自身を厳しく律しなければならないはずだ。

 だが、そういった慣習になっているからと、慣習に名を借りて、誤魔化すことのできる可能性を排除した毅然とした行動を取ることができない。

 にも関わらず、「高い倫理観と道徳心」を言う。身の程知らずな滑稽な願望に過ぎない。

 稲田朋美は教育勅語には「私自身としては、親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係とか、そういう現代でも通用するような価値観」というもがあって、これは「不易」(時代を通じて変わらない、不変の価値観)であって、「流行」(時代や世相に応じて変化する価値観)ではないと言っているが、「親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係」は不変の価値観として求めるべき人間性ではあっても、絶対的存在であり、主権者である天皇が満足に基本的人権を認めていない国民に対して理想の国民像として求めている「親孝行」であり、「夫婦仲」であり、「友達との信頼関係」等々の徳目なのだから、この関係性から言うと、第一義的には天皇にとって価値ある徳目の数々に相当することになる。

 だからこその国民統治装置なのである。

 「天皇陛下のために、お国のために」と天皇や国家を絶対とするために国民に満足に基本的人権を与えずに尚且つ数々の徳目を身に付けさせようとしているのだから、天皇や国家にとって国民を無害な言いなりの存在へと飼い慣らそうとする体のよい天皇の言葉以外の何ものでもない。

 このような構造を有しているのだから、教育勅語と切り離さずに「親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係とか」の徳目だけを取り上げて、そのような徳目を国会答弁で「教育勅語の核の部分」だと言うのは教育勅語が天皇や国家にとって都合のいい国民統治装置となっている、その正体に気づかない無知に過ぎない。

 この無知は天皇を無誤謬の絶対的存在としたい衝動から来ている無知であろう。

 稲田朋美は教育勅語の各徳目を「現代でも通用する」「不易」の価値観とすることで教育勅語そのものを「不易」の価値観に価値づけようとしている。

 そしてそのような国民統治装置の道具としている徳目によって自分自身が表現しているわけでもない「世界中から尊敬される高い倫理観と道徳心」を育み、「世界中から尊敬されて、また頼りにされるようなそんな国を目指したい」と言う。

 稲田朋美自身が気づかないままに教育勅語を使って国民を無害な存在として飼い慣らし、統治したい願望を密かに抱えているようだ。

 


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トランプが北朝鮮を攻撃した場合のシリアとの違いと日本は過去の朝鮮戦争特需の僥倖を再び入手可能か

2017-04-13 08:54:09 | 政治

 アメリカ大統領トランプは北朝鮮が核開発を放棄しなければ軍事行動も辞さない構えを見せている。それが北朝鮮に対する牽制や警告、あるいは威しの類いではなく、可能性の意思表示の一つとして4月11日に米海軍の原子力空母カール・ビンソンを中心とする第1空母打撃群を朝鮮半島周辺に急派した。

 このことは4月11日の経済専門チャンネルFOXビジネスのインタビューでのトランプの発言に現れている。(47NEWS/2017/4/12 13:39)     

 「無敵艦隊を派遣した。空母よりずっと強力な潜水艦も持っている」

 圧倒的な力を以ってして軍事的制裁を加えるという意味であろう。

 安倍晋三は4月12日に「様々な事態が起こった際に、拉致被害者救出に向けて米側の協力を要請している」と述べたと「47NEWS」記事が伝えているが、気が早くも北朝鮮有事を前提とした拉致被害者解放の期待となっている。

 もしトランプが北朝鮮の核開発継続に対する制裁措置として北朝鮮国土に対して軍事行動を起こした場合、独裁者金正恩は反撃に出るだろうか。

 前々からも一旦有事があれば、「直ちに反撃、敵を壊滅させる」とか、「ソウルを火の海にする」と豪語してきているが、2017年3月7日に金正恩が指揮して在日米軍基地を攻撃する任務を負った軍部隊による4発の弾道ミサイル発射実験を行った際、「有事の際、米韓の侵略があれば、核弾頭を装着したミサイルで火の海にする」と威嚇した手前もある。

 シリアと違って、直ちに死に物狂いの反撃に出なければ、その存在に恐れ慄いて付き従ってきた金正恩の側近たちや将軍様と崇め、絶対忠誠を誓ってきた朝鮮人民軍兵士や国民に嘲笑され、たちまち権威を失墜させることになるだろう。

 権威の失墜は権力の喪失に進む。遠吠えしかできなかった弱虫な犬になり下がるだろうし、あの太った身体はコケ威しだったと北朝鮮国内ばかりか、世界中の笑い者になるに違いない。決して認めることはできない自身の予想し得る将来像である。

 反撃に出れば、韓国ばかりか、在日米軍を抱えている日本の攻撃対象となる。 

 問題はこの有事によってかつての朝鮮戦争当時のように日本が朝鮮特需の僥倖に再び恵まれるかである。

 第2次安倍内閣発足1年を経た2013年年12月26日、安倍晋三は靖国神社を参拝、談話を発表している。
 
 安倍晋三「今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります」

 2014年8月10日の当「ブログ」に書いたが、安倍晋三は月刊誌「文芸春秋」寄稿論文で、〈祖父の岸信介首相の内閣が国民皆年金や皆保険制度など「重要な社会保障制度」を整備したことを挙げて〉、次のように祖父の業績を強調したと2014年8月7日付「時事ドットコム」記事が伝えている。   

 安倍晋三「社会保障制度の整備と日米安保という土台づくりの上に、その後の池田勇人、佐藤栄作政権における高度成長があったことを忘れてはならない」

 一方では「今の日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上にある」と言い、もう一方では、「日本の高度成長は岸信介が整備した社会保障制度と日米安保上にある」と言って、現在日本の経済発展に二重基準を設けている。

 上記ブログに続けて次のように書いた。

 〈だが、日本の高度成長の土台を作ったのは岸信介ではないし、他の自民党の総理大臣でもない。広く知れ渡っているように朝鮮戦争が日本の経済に最大の恩恵としてもたらした特需であることを改めて記さなければならない。

 岸信介の在任は1957年2月25日~1960年7月19日まで。朝鮮戦争は1950年(昭和25年)6月25日に勃発、1953年7月27日に休戦協定を締結している。

 朝鮮戦争前の日本は敗戦(1945年(昭和20年))の影響でただでさえ壊滅状態にあったところへドッジ不況が加わって、最悪の不景気状況にあった。GHQ経済顧問ジョセフ=ドッジが戦後の日本経済の自立と安定を目的にインフレ収束と企業経営の合理化、資本の蓄積を柱として立案・勧告し、1949年(昭和24年)3月7日に実施した財政金融引締め政策は戦後のインフレを収束させたが、逆にデフレを進行させて、失業や倒産が相次いだ。

 そして1950年(昭和25年)6月25日に朝鮮戦争(1953年7月27日休戦)が勃発した。

 《『日本経済史』》に次のような記述がある。

 〈1.戦後経済復興期
 太平洋戦争により、平和的国富(非軍事のストック)の被害率は25%となり、鉱工業生産は戦前の1/10となり、その後も1/3前後で推移した。

 戦後の混乱への対策としては、1946年の金融緊急措置(インフレ阻止のための通貨量削減)、1949年以降のドッジ・ラインによる超均衡予算によるインフレ対策、そして重要産業への傾斜生産方式による基礎的生産能力の強化などがあげられる。また、戦前経済の反省と脱却のため、根本的な構造改革が行われた。第一は、財閥の解体である。1947年に、83社の財閥の解体が行われ、独占禁止法と過度経済力集中排除法が制定された。第二は、農地改革である。農地の多くが、それまでの小作農民に売り渡された。第三は、労働改革である。労働者の地位向上のため、労働三法(1945年の労働組合法、1946年の労働関係調整法、1947年の労働基準法)が制定された。

 生産の戦前水準への回復は、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需が主な要因となった。日本の産業界は、アメリカ軍から大量の軍需物資の発注を受け、輸出も急増した。その結果、1951年には、鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資が戦前の35年水準に回復し、1952年には実質国民総生産、実質賃金(製造業)が、同水準に回復した。こうして、戦後の混乱期からの復興をほぼ果たし、1955年からの本格的な高度経済成長過程となるのである。そして、1956年の経済白書では、「もはや戦後ではない」と宣言された。 〉――

 1950年(昭和25年)6月25日の朝鮮戦争勃発翌年の1951年には、鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資が戦前1935年の水準に、たったの1年で一気に回復したのである。

 朝鮮戦争特需による日本の復興の何よりの象徴は、誰もが指摘しているトヨタ自動車であろう。

 《『トヨタ自動車75年史』 「朝鮮戦争による特需の発生」》は次のように述べている。 

 〈1950(昭和25)年6月25日、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が北緯38度線を越え、大韓民国(韓国)に侵攻した。朝鮮戦争の勃発である。

 韓国軍の装備を早急に補うため、戦場に最も近い日本の工業力が利用され、同年7月10日には早くも米国第8軍調達部からトラックの引き合いがあった。トヨタでは、BM型トラック1,000台を受注し、7月31日にトヨタ自工・自販共同で契約を締結した。納入は、翌8月に200台、9月と10月に各400台であった。その後もトヨタは、8月29日に2,329台、翌1951年3月1日に1,350台と合計4,679台のBM型トラックを受注した。金額にすると36億600万円である。

 このような特需の発生に対して、トヨタ自工では生産計画を月産650台から1,000台へと引き上げた。要員については、現有人員による2時間残業で対応し、また計画中であったBM型トラックのBX型への切り替えは、特需車両の完納後まで繰り延べることとした。〉――

 朝鮮戦争特需の恩恵によって生産台数の急速な回復を見て取ることができる。

 その結果、〈トヨタ自工は、ドッジ・ラインの影響で深刻な経営危機に陥り、人員整理にまで手をつけなければならなかったが、朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである。〉

 倒産寸前であったが、朝鮮戦争特需が息を吹き返すに役立った。勿論戦争が終結すれば、生産側にとっての戦争による生産→破壊→生産→破壊の好循環は停止を受け、その反動としての不況に見舞われることになって一時的に実質経済成長率を下げることになるが、特需によって獲得した莫大な利益を資本の蓄積に回すと同時に技術革新と設備投資を図ることで生産活動を活発化させ、朝鮮戦争休戦1953年2年後の1954年12月から1957年6月まで神武景気と名づけた好景気を迎えることができ、日本は順調に高度成長を続けることができた。

 岸信介が首相に就任したのは1957年2月25日だから、日本の経済が絶好の位置につけていたときである。潤沢な国家予算を背景とすることができたのである。

 全ては朝鮮戦争特需が日本の戦後経済復興のスタートであって、特需がなければ、息を切らせていた可能性は否定できない。そして1960年代になると、1964年からのアメリカの本格介入から1975年終結までのベトナム戦争を受けた1970年代前半までの戦争特需によって日本の経済は再度のテコ入れを受けることになった。

 日本の経済にとってある意味、戦争様々であった。尤も戦前の戦争で日本の国力を壊滅させたことを考えると、戦後の2度の戦争特需は皮肉な巡り合わせとも言うことができる。

 安倍晋三が言うように祖父の岸信介が手がけた「社会保障制度の整備と日米安保という土台づくりの上に、その後の池田勇人、佐藤栄作政権における高度成長があった』というのは真っ赤な大ウソに過ぎない。

 朝鮮戦争特需が深刻な経営危機に陥っていたトヨタ自動車の息を吹き返させ、世界のトヨタへの階段を駆け上っていくスタートとなったように日本経済も朝鮮戦争特需が鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資を一気に戦前の水準に回復させて、その後の高度経済成長のスタートとさせしめたのである。

 1950年6月25日の朝鮮戦争では日本は無傷で、朝鮮特需の恩恵のみを手に入れることができた。だが、トランプが引き起こした場合の有事では在日米軍を抱えている以上、無傷というわけにはいかないはずだ。

 但し米軍と韓国軍の勝利で終わるだろうから、あるいは自衛隊も参加した日米韓合同軍の勝利で終わわるだろうから、例え日本が相当な被害を受けたとしても、その復興と自衛隊と在日米軍が受けた被害の機能回復に対してそれなりの投資が行われて、経済はそれなりの恩恵を受けることになるはずだ。

 東日本大震災で東北は経済的に壊滅したが、復興特需によって人手不足が起こり、賃金が値上げして低迷していた日本経済に立ち直りのキッカケを与え、アベノミクスにそれなりの恩恵をもたらしたように、かつての朝鮮特需の僥倖とまではいかないが、戦争被害の回復によっても日本経済=アベノミクスは同じく恩恵を受けるはずである。

 受けた後も、「今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります」と言い続けることになるのだろうか。

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教育勅語が天皇独裁体制に国民を取り込む目的の道徳の教えであることと日本国憲法に違反することの理由

2017-04-11 09:57:18 | 政治

 多分、2017年3月8日の参院予算委員で社民党の福島みずほが防衛相稲田朋美の過去の教育勅語賛美の発言を取り上げて、現在もその思いに変わりはないのかと問い質したのに対して稲田朋美が「私は教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとかそういう核の部分は今も大切なものとして維持していて、そこに流れているところの核の部分、そこは取り戻すべきだというふうに考えている」と答弁したことが始まりだと思うが、この答弁に対する否定的見解は主に野党、肯定的見解は主に自民党で持ち上がって、文科相の松野博一が3月14日の記者会見で、「日本国憲法と教育基本法の制定によって法制上の効力を喪失ししているが、憲法や教育基本法に反しないように配慮して授業に活用することは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものであり、教師に一定の裁量が認められる」として、文科省としてはこのような形式での学校教育に於ける教育勅語の使用を禁止しない姿勢を示した。

 安倍内閣としても2017年3f月21日の民進党衆院議員初鹿明博の質問主意書に答えた3月31日の政府答弁書で「学校において、教育に関する勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であると考えているが、憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではないと考えている」と、「憲法や教育基本法等に反しない」との条件付きで教育勅語の利用を肯定している。

 果たして教育勅語の精神自体が憲法や教育基本法等に反していないと言えるのだろうか。

 教育勅語を肯定する、特に安倍晋三等の右翼に属する勢力は教育勅語が表している道徳観は人類普遍の価値観だとして今の日本に巧妙に生き返らえようとしている。

 このような考えは上記政府答弁書を受けた官房長官菅義偉の4月3日午前と午後の記者会見の発言に現れている。
 
 午前の記者会見。

 菅義偉「教育勅語には、親を大切にするとか、兄弟姉妹が仲よくするなどの項目もあることも事実で、憲法や教育基本法に反しないような適切な配慮のもとで取り扱うことまで否定することはない。

 教育勅語は、日本国憲法や教育基本法の制定等をもって、法制上の効力は喪失している。したがって学校で教育勅語がわが国の唯一の根本となるような指導を行うことは不適切だ」

 記者「今回の閣議決定で教育勅語を教育現場で使うことにお墨付きを与えるのではないか」

 菅義偉「教育基本法の制定によって政治的、法的効力を失った経緯がある。ご指摘のような懸念は生じない」(NHK NEWS WEB/2017年4月3日 12時49分)

 午後の記者会見。

 菅義偉「戦後の諸改革の中で、教育勅語を教育の唯一の根本として取り扱うことなどが禁止されている。その後の教育基本法の制定により、政治的・法的効力は失っており、それは今も同様だ。

 憲法や教育基本法に反しないような適切な配慮の下で、親を大切にする、兄弟姉妹は仲よくする、友達はお互いに信じ合うなど、ある意味で人類普遍のことまで否定はすべきではない」(NHK NEWS WEB/2017年4月3日 18時43分)

 確かに教育勅語には「親を大切にするとか、兄弟姉妹が仲よくする」などの「人類普遍」の徳目が書き連ねられている。

 だが、教育勅語は戦前日本に於ける天皇独裁体制下の教育の指導原理としての役目を担っていた。当然、天皇独裁体制に国民を取り込む目的を持たせた教育の理念であり、徳目と見なければならない。

 そして教育勅語がそういった全体的構造を抱えている以上、「親を大切にするとか、兄弟姉妹が仲よくする」等々は天皇独裁体制に一体化させて生かしてきた道徳観であって、全体的構造を無視し、その道徳観だけを見て、いわば天皇独裁体制から切り離して「人類普遍」の価値観を有しているとすることは許されないはずだ。

 改めて教育勅語の全文をここに挙げてみるが、その前に戦前日本に於ける天皇と国民の関係性を1937年(昭和12年)編纂の「国体の本義」から見てみる。

 「国体」とは天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方を意味し、「本義」とは「根本となる、最も大切な意義」とネットで紹介されている。

 いわば戦前日本の天皇独裁という国家体制の根本的意義を説いた書物ということになる。

 〈我が国の孝は、人倫自然の関係を更に高めて、よく国体に合致するところに真の特色が存する。我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。臣民は祖先に対する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふのである。〉――

 先ず、「孝」(父母に仕えて大切にすること)は「国体」、いわば天皇独裁の国家体制に「合致」させなければならないとの表現で、父母に仕えるように国家(=天皇)に仕えなさいと国民に国家体制への従属を求めている。

 ここにある国家(=天皇)と国民の関係性は明らかに国家(=天皇)を上に置いて、国民を下に置く上下関係以外の何ものでもない。

 このような上下関係は国家の意志が常に優先されて、国民は個人として自律した存在であることを許されない。

 この天皇(=国家)と国民の上下関係、下に位置する国民の非自律性は次の文言に凝縮されている。

 「我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家(本家。中心になる家)」に相当し、「国家生活の中心」であって、「臣民は祖先に対する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛(いと)しみ給ふ」との言い方で、国民は祖先を敬慕するように本家に当たる皇室を崇敬し、その見返りに天皇は国民を自らの赤子(生まれてまもない子。君主に対して人民をその子に譬えて言う語)と見做してかわいく思って大事にしてあげよう(=愛しみ給う)と、上下関係を前提とした下の上に対する奉仕と、奉仕の対価として上の下に対する庇護を日本の国の形(=国体)と規定している。

 戦前の日本では天皇(=国家)と国民はこのようにも上下関係にあった。当然、教育勅語にもこのような関係性が反映されていて、この関係性に基づいた道徳観と見なければならないし、基づかない道徳観としたら、歴史的事実として存在した戦前日本国家の国体(天皇中心の国家体制)を無視することになる。

 では、教育勅語の原文と現代語訳を見てみる。
 

 「教育勅語」   

 原文

敎育ニ關スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

 現代語訳  

 私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。

 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。

 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
明治二十三年十月三十日 

 確かに一見すると、「父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい」と「人類普遍」の徳目を書き連ねている。

 だが、その前提は「我が国民は忠義と孝行を尽くし」と、天皇(=国家)と親を上に置いた天皇(=国家)への「忠義」と、親への「孝行」を求める、上下関係の中での徳目の数々となっている。

 親への孝行は上の天皇(=国家)への奉仕の段階に進ませるためのステップに過ぎない。

 これが天皇独裁体制に国民を取り込む目的を持たせた教育の理念でなくで何であろう。

 再度指摘することになるが、教育勅語はこういった天皇独裁体制への国民の取り込みを構造としている。

 この天皇独裁体制への国民の取り込みの意志が最も強烈に現れている個所が次の文言である。

 〈もし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。〉

 このような天皇、あるいは皇室への国民に対する奉仕要求は天皇(=国家)と国民との間に絶対的な上下関係なくして可能とはならない。

 この上下関係は北朝鮮のキム三代と北朝鮮国民の関係性と左程変わらない。

 こういった絶対的な上下関係が上の天皇(=国家)をして下の国民に対して天皇独裁体制に取り込む力学を自ずと生むことになる。

 要するに教育勅語は 天皇(=国家)と国民との間の絶対的な上下関係のもとでの道徳の教えであり、このように 天皇(=国家)と国民を上下関係で規定した中での教育に関わる指導原理である以上、国民主権を規定し、第3章「国民の権利及び義務」第13三条で 個人としての尊重を謳い、第14条で 法の下の平等を謳っている日本国憲法に明らかに抵触することになる。

 教育勅語自体が憲法に違反する精神を宿している以上、稲田朋美が「私は教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとかそういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持しているところでございます」と言おうと、文科省の松野博一が「憲法や教育基本法に反しないように配慮して授業に活用することは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものであり、教師に一定の裁量が認められる」と言おうと、あるいは安倍内閣が「学校において、教育に関する勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であると考えているが、憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではないと考えている」と政府答弁書を決定しようと、浅はかな牽強付会の類いに過ぎない。

 このような牽強付会を侵してしまうのは戦前日本の形を少しでも取り戻したい思いが強いからだろう。

 教育勅語の中の道徳観、道徳の教えだけを取り上げて人類普遍の価値観を言い立てること自体が間違っている。

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安倍晋三の米シリア攻撃支持、プーチンをして北方四島をロシア領土として死守することを決意させたはず

2017-04-10 08:01:14 | Weblog

 2017年4月4日にシリア西部の反政府勢力支配地域に対してサリン等の化学兵器を使用したとみられる空爆が行われたことに米大統領トランプはシリア政府の攻撃と断定、「人間性を踏みにじる行為」と批判、「化学兵器拡散を阻止」するとして4月6日(日本時間7日午前)、同国内にあるアサド政権の軍事施設を巡航ミサイルで攻撃した。

 この攻撃に対して我が日本の首相安倍晋三は4月7日午後3時6分から同16分までの10分間国家安全保障会議を開催、午後3時32分から同34分まで首相官邸で記者団に米国支持の発言を伝えている。

 安倍晋三「シリアにおいて再び化学兵器によって何の罪もない多くの一般人が犠牲となりました。幼い子供たちもが犠牲となった惨状を目の当たりにして、国際社会は大きな衝撃を受けています。極めて非人道的であり、国連決議にも反します。

 化学兵器の拡散と使用は絶対に許さないとの米国政府の決意を日本政府は支持いたします」

 トランプを信頼しているだけあって、なかなか素早い、そして力強い支持表明となっている。

 トランプのシリア攻撃が北朝鮮に対する牽制になると大方が見ていて、安倍晋三にしたら、そのことへの期待もあったかもしれない。トランプ自身が北朝鮮への対応についてあらゆる選択肢を検討していると伝えられていたからだ。

 あらゆる選択肢とは軍事行動も選択肢の一つとしているということなのは断るまでもない。いわば北朝鮮がこれ以上ミサイル開発と核開発を続ける場合は軍事行動も辞さないという強い態度で臨む覚悟をトランプは対北朝鮮政策の一つとしている。

 但し北朝鮮と友好国の関係にあるロシアは2014年のロシアのクリミア併合によってロシアにとっては仮想敵国となっているアメリカが軍事行動を起こして金正恩体制を崩壊させ、万が一そこに米軍が駐留することになった場合、そう簡単にはいかないだろうが、アジア大陸地続きでロシアに一歩近づくことになるという理由でロシアの国益にとって非常に不都合な事実となるばかりか、仮想敵国性を色濃くすることになる。

 トランプが大統領として登場した当座はトランプはロシアとの関係を修復する姿勢でいたが、アメリカが化学兵器を使用したとの理由で報復攻撃を敢行したシリアにしてもロシアの友好国であり、世界の大国の地位にあるロシアはシリアといわば保護する関係を築いていた。

 そのような友好国にアメリカが一方的に軍事行動を起こし、大きな打撃を与えたことで保護の関係を損なわされた。言葉を言い替えると、メンツを失わされた。

 当然、ロシアにしたら、この攻撃によってアメリカは益々仮想敵国の色合いを強めることになったはずだ。

 アメリカは日本と軍事同盟関係にあり、日本に多数の米軍基地を構えている。そしてロシアにとってアメリカは仮想敵国の関係にある。

 と言うことは、ロシアから見た場合、日本はアメリカとの関係によって仮想敵国に組み込まれる可能性を常に抱えていることになる。

 そのような日本の安倍晋三がアメリカのシリア攻撃をいち早く支持を表明した。

 ロシアにしたら、日本が仮想敵国のアメリカに組み込まれる可能性の新たな一つの象徴に映ったとしても自然の成り行きであろう。

 これまでも第2次大戦の結果ロシア領となったとしている北方四島は日本(自衛隊と在日米軍)とアメリカに対するロシアに於ける太平洋側の最前線基地としての重要性を担っていた。

 そのためのロシアの手によるこれまでの北方四島での着々とした軍備増強であったはずで、アメリカのシリア攻撃と軍事行動も辞さないとする対北朝鮮政策によってその重要性は一層増し、軍備増強は強化されていく方向を取ることが予想される。

 当然、プーチンをして北方四島をロシア領土として死守することを改めて決意させるキッカケとなる安倍晋三のアメリカのシリア攻撃支持表明と考えることもできる。

 安倍晋三は4月7日午後にアメリカのシリア攻撃を支持しただけでなく、2日後の4月9日朝、トランプと電話会談を行い、改めてアメリカのシリア攻撃を支持している。

 「NHK NEWS WEB」(2017年4月9日 11時21分)   

 安倍晋三「我が国は化学兵器の拡散と使用を抑止するために責任を果たそうとするアメリカの決意を支持する。同盟国と世界の平和と安全に対するトランプ大統領の強いコミットメントを高く評価する。引き続き、緊密に連携していきたい」

 トランプ「女性や子どもを含む無実のシリア市民が多くの損害を被ったことを受けて、化学兵器が二度と使用されないようにするために行ったものだ」

 安倍晋三のこの改めてのアメリカ支持はロシアから見た場合、日本が仮想敵国のアメリカに組み込まれる可能性をある意味蓋然化させる意思表示に映らないわけではないだろう。

 当然の反動としてプーチンに北方四島をロシアに於ける太平洋側の最前線基地としてロシア領土として死守する決意をなお強固にさせたと解釈可能となる。

 このような経緯を取ることも覚悟した上での安倍晋三の米シリア攻撃の支持なのだろうか。

 安倍晋三は4月下旬に訪ロしてプーチンと首脳会談を行う予定でいる。プーチンは表面的には信頼関係を築き合った両首脳として固い握手を交わし、和気あいあいとした態度を見せるはずだろう。

 だが、安全保障上の危機管理からロシアに於ける太平洋側の最前線基地を手放さないためにも北方四島をロシア領土として死守する心の鎧を着込み、ガードを固くしていないことはあるまい。

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今村雅弘の「福島自主避難は自己責任」発言:安倍晋三の謝罪の有無は閣僚の地位を守る基準とならず

2017-04-09 08:22:14 | 政治

 復興相の今村雅弘が2017年4月4日の記者会見で福島の原発事故を受けて県外に自主避難した被災者に関してフリーランスの記者が「福島に戻れない人はどうするのか」と聞いたのに対して「それは本人の責任でしょう。本人の判断でしょう」 と自己責任と規定、記者が「国は責任は取らないのか」と再度尋ねると、不服ならとの趣旨で、「裁判だ何だでもそこのところはやればいいじゃない?」と答弁。

 野党はこういった発言を閣僚の資質に欠けるとして辞任を要求、対して今村雅弘は記者会見で謝罪し、発言を撤回、国会でも謝罪と発言の撤回を表明、野党の辞任要求に対しては職責を全うすることを名言した。

 野党は4月6日の衆議院本会議で安倍晋三に矛先を向けた。

 安倍晋三「被災者の方々に寄り添いながら、復興に全力を挙げるとの安倍内閣の方針は、いささかも変わるものではない。今村大臣は謝罪会見を行い、感情的になったことをおわびし、冷静・適切に対応していく旨を申し上げた。

 今村大臣には引き続き被災者に寄り添って1日も早い被災地の復興に向け、全力で職務に取り組んでいただきたい」(NHK NEWS WEB/2017年4月6日 17時04分)   

 要するに今村に責任を取らせて更迭したら、安倍晋三の任命責任を問われることになって、安倍内閣のダメージとなる。だから、辞任の必要なしとした。

 このような経緯を取っているから、安倍晋三の発言に矛盾が生じることになって、いい加減な論理形成となる。

 「被災者の方々に寄り添いながら、復興に全力を挙げるとの安倍内閣の方針は、いささかも変わるものではない」と言っているが、安倍内閣がそういう方針であったとしても、復興行政に関わる直接の当事者である復興相の今村雅弘が「被災者の方々」に全然寄り添っていなければ、内閣の方針は機能していないことになる。

 いわば内閣の方針以上にその方針を代表して執行する復興相の今村雅弘が“被災者の方々に寄り添っているか否か”、その資質が問題となる。

 だが、安倍晋三は資質を基準にするのではなく、謝罪を基準にして資質を問題とせずに続投を許した。

 そうであるからこそ、「今村大臣には引き続き被災者に寄り添って」云々と、さらに矛盾を重ねる発言を口にすることになっている。

 今村雅弘が最初から被災者に寄り添う気持を強く持って復興政策に取り組んでいたなら、「それは本人の責任でしょう。本人の判断でしょう」 とか、「裁判だ何だでもそこのところはやればいいじゃない?」といった「被災者の方々」にまるきり寄り添うことにはなっていない言葉は口を突いて出ることはない。
 
 いわば被災者に寄り添う気持を持っていなかった今村雅弘なのだから、「引き続き」という連続性は存在し得ないことになるし、期待もできないことになるにも関わらず安倍晋三は「引き続き」と、さも最初から持っていたかのように被災者に寄り添う気持を求めた、その矛盾である。

 もし安倍晋三が今村雅弘の発言に現れている復興相としての資質を厳格に問題にしていたなら、このような矛盾した今村擁護の発言は口にすることはない。

 安倍晋三が今村雅弘の資質を基準にするのではなく、謝罪を基準にしてその進退を考慮した矛盾にこそ、今村に責任を取らせて更迭した場合の安倍晋三の任命責任や安倍内閣のダメージ回避という側面が自ずと見えてくることになる。

 要するに今村雅弘の地位擁護は安倍晋三自身の地位擁護の相互関連性を成している。

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