北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】航空自衛隊60周年小松基地航空祭(6)イーグル三機編隊と救難隊(2014-09-20)

2020-12-20 20:05:10 | 航空自衛隊 装備名鑑
■空往くイーグル日本海へ
 青空と活況の小松基地、航空祭プログラムによれば第303飛行隊による編隊飛行の展示がいよいよ開始されます。

 二機編隊で離陸する第303飛行隊のイーグルたち。小松は1998年の北朝鮮能登半島沖工作船事件、はるな、みょうこう、あぶくま、が史上初の海上警備行動を実施した際にも出動しています、あのとき北朝鮮はミグ戦闘機を発進させたため、護衛艦に脅威及ぶ可能性も。

 第303飛行隊イーグルの編隊離陸が迫る。こんな感じだったのでしょうか、しかし北朝鮮があの時にとばしたのはMiG21といいますので、みょうこうイージスシステムが全力対応したらば一撃で全滅させられたのでしょうけれども、あのときは戦闘空中哨戒も行った。

 二機編隊のイーグルを連写性能を活かして追う。小松の重要度は、まれにソ連の後身であるロシアがTu-160超音速爆撃機などを飛行させてきたことがありまして、自衛隊が初めてTu-160と遭遇したのが小松でした、あのときは浜松基地からE-767も展開させている。

 第303飛行隊のイーグルが一瞬で真横を疾風の如く。この小松、北朝鮮への最前線となったのですが2000年代に入りますと中国の脅威がついに北陸へも及ぶようになりました。2017年に和歌山沖まで中国のミサイル爆撃機H-6Mが飛来したのですね、西日本まで。

 イエロー犬鷲イーグルが着陸の後に誘導路を目の前に。中国の脅威が沖縄へ、というのは誤ってはいないのですが、着上陸の脅威を示すもので、航空脅威は2000年代初頭に九州まで及び、そして2010年代には西日本まで充分ミサイル爆撃機の脅威が及んでいる現実が。

 三機編隊の第306飛行隊イーグルがこちらへ。2020年代の小松航空祭は飛行教導群が加わり更ににぎやかです、そしてこの飛行教導群は2016年に南九州新田原基地に展開していましたが、新田原は中国機対処という重責が年々高まってゆきます、ここしか余裕なかった。

 三機編隊イーグルを連写で追いかける。飛行教導群の2016年新田原小松移転は、小松が安全な後方になったわけでして、依然として北朝鮮脅威はあっても比較論であり、ロシアの脅威は依然として北方に、そして西方に中国の脅威増大、逃げ場がなくなった、ともいう。

 三機編隊イーグルはほぼ目の前へ。航空教育の一つの拠点となった新田原には将来、F-35B戦闘機、垂直離着陸が可能であるために局地戦闘機として使うのでしょうか、配備が予定されていまして、結果的に小松は防衛の要衝でありながら他方では後方ともなるのですね。

 三機編隊イーグルとびさる。小松基地の厳しい状況は裏返せば東西冷戦ののちの多極化時代と米中冷戦や欧州ロシア対立のしわ寄せが収斂する特異点に環太平洋の西方弧状列島が重なった構図でして、日本の防衛を考える場合、これはもう少し認識すべきでしょう。

 U-125救難機の飛行、小松救難隊の救難飛行展示のはじまりだ。航空救難団は千歳基地、秋田分屯基地、松島基地、新潟分屯基地、百里基地、浜松基地、小松基地、芦屋基地、新田原基地、那覇基地、以上の基地に救難隊を配置し、万一の航空救難に備えています。

 U-125救難機からの救命物資落下傘での投下がおこなわれる。救難隊はUH-60J救難ヘリコプター3機とU-125救難機2機を装備し即応体制を採り、先ず高速のU-125が遭難現場へ急行し位置を特定、そののちにUH-60J救難ヘリコプターが現場へと進出し救助する。

 三機編隊イーグルが再度航過飛行をおこなう。戦闘機の海上での遭難は救難航空機が充分発達する前には高速船を現場へ急行させるか飛行艇を派遣していましたが、PS-1以前の飛行艇は1.5mの波浪までが運用の限界で高速船では現場まで24時間以上掛かることも。

 三機編隊イーグルは第306飛行隊のイーグル、ドラゴンマークが眩しい。S-61救難ヘリコプターから本格的な救難運用は開始されましたが、V-107救難ヘリコプターの導入により海上での救難能力が飛躍的に向上しまして、現在のUH-60Jにより悪天候でも飛行可能に。

 三機編隊はギア出しという車輪を出した状態でのローパスをおこなう。北大路機関創設当時は、まだ、平和でしたので救難航空機は黄色と白黒という目立つ救難塗装だけの時代でした、しかし2010年代になりますと、脅威の健在かを背景に、そうもいっていられない。

 三機編隊のギア出し編隊による航過飛行で飛去って往く。こうした戦闘機が敵対勢力の競合地域で万一のこともあり得ましたので、徐々に先頭航空救難、という運用が考えられるようになり、ロービジ塗装、目立たない迷彩塗装が必要とされるようになってゆきました。

 UH-60J救難ヘリコプターの救難飛行展示が開始されました。海洋迷彩、F-2戦闘機のような迷彩は海上での救難任務に際して敵に発見されにくい運用を想定しています。実際航空救難員もベテランになると航空自衛隊を越えて陸上自衛隊で空挺レンジャー課程を受ける。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】航空自衛隊60周年小松基地航空祭(5)犬鷲306飛行隊特別塗装機(2014-09-20)

2020-11-29 20:11:05 | 航空自衛隊 装備名鑑
■第306飛行隊機動飛行
 小松基地航空祭は鮮やかな特別塗装のF-15戦闘機による機動飛行が開始されました。

 イエロー犬鷲の第306飛行隊特別塗装機による機動飛行が始まった。小松基地は1965年よりF-104が配備され朝鮮戦争時代のF-86Fから脱却が始まりますが、実際には1975年の第4飛行隊廃止改変までF-86Fは残る、ただ1976年に小松にもF-4EJ時代が到来します。

 イエロー犬鷲イーグルが真正面から750km/hでハイスピードパスする。第303飛行隊としてF-4EJ戦闘機の飛行隊が創設されまして、これが現在の303誕生なのですね。ここで第6航空団、小松は第205飛行隊のF-104戦闘機と二機種態勢として歩みを進めてゆく。

 イエロー犬鷲イーグルは急上昇しエンジンがアフターバーナーもよう。この第306飛行隊は1981年にF-4EJ飛行隊として、これが古くなったF-104戦闘機の第205飛行隊を廃止改編して創設されています。ただ、ここでもまだF-15は入らずF-4戦闘機EJの時代です。

 第306飛行隊イーグルの機動飛行も続く。さてこの戦闘機イーグル、航空自衛隊としては1981年から導入が開始され、新田原基地の第202飛行隊をマザースコードロンとして全国の飛行隊が次々と創設されていました。そして1987年に、小松にもイーグルの流れが。

 第306飛行隊イーグルが急上昇へ。このイーグルは小松基地へは1987年に第303飛行隊が先ずF-4EJからF-15Jへ機種転換を受けまして、しかしF-104を装備する飛行隊からの改編が優先され、そして北方の千歳基地や首都防空の百里基地、小松配備はあとでした。

 イエロー犬鷲イーグルが機動飛行で戻る。この第306飛行隊がF-4EJからいまのF-15Jへ機種転換したのは1997年と、まあ、F-15戦闘機の配備部隊としては最後に改編にされていまして、日本海側といいつつ京阪神地区への経空脅威は低く見積もられていた、と。

 F-15Jイエロー犬鷲イーグルの上面がみえた。一方で航空自衛隊よりも前に在日米軍から民間空港として運用していた小松空港は、1993年に第三の国内線、全日空と日本航空に続いて日本エアシステムが東京路線を整備しまして、空港機能が徐々にですが強化されてゆく。

 第306飛行隊F-15Jイーグルの下面を機動飛行にて。この機動飛行を支える飛行場機能は民間空港の需要も反映されていまして、1994年より小松空港を国際航空貨物の拠点化が進みます。これは1980年代から日本海側に航空か持つ拠点を強化する構想があったゆえ。

 第306飛行隊イーグルが天頂へ急上昇を。この上昇のように小松空港が拡張されたのは、1970年代に注目された東海地震の脅威といわれまして、要するにこの地震の津波被害が及ばないが、京阪神地区と中京地区に近い地域に航空貨物拠点を、という要求が在った。

 イエロー犬鷲イーグルの下面を仰ぐ。実のところこの構想は、かなり先進的といえまして、それは東海地震の被害想定を遙かに越える南海トラフ連動地震という、最大32万人が犠牲となる巨大災害が、あの2011年の東日本大震災以降、現実として認識されたためです。

 イエロー犬鷲イーグルがタッチアンドゴーを。小松であれば北陸本線と、そして貨物は関係ありませんが北陸新幹線は大阪開業となれば東京と大阪を結ぶ巨大な予備交通網を形成しますので、万一ということがあっても、最後のインフラは維持できる、危機管理ですね。

 イエロー犬鷲イーグルを真横から。小松基地のいや空港の方の拡張は、そして同時に小松空港に2700m滑走路が二つ平行して整備されるということとなりまして、一つはアスファルト製で予備というべきものですが、2700m滑走路が二つ整備されているの意味は大きい。

 イエロー犬鷲イーグルの急上昇が響く。2700m滑走路が二本あれば、もちろん物流、これは防衛輸送を考えても意義はあるのですがもう一つ、航空攻撃やミサイル攻撃で滑走路を喪失する脆弱性が一本の時よりもだいぶんと低下します、強靭性、この意味があるという。

 イエロー犬鷲イーグルの急上昇更に角度をあげて。小松基地の重要性ですが、しかし皮肉にもF-15が導入された当時と比較して、脅威のシフトが多様化していまして、日本海の対岸、北朝鮮の脅威というものが冷戦後に巨大化します、まさにソ連崩壊でタガ外れた如く。

 イエロー犬鷲イーグルが再度角度変えて急上昇に。この小松基地の日本海を挟んでの対岸、もっとも日本海は103万平方kmあり、黒海の面積が44万平方kmであの地中海が250万平方kmですのでかなり広大なのですけれども、それでもこの対岸が北朝鮮、という。

 小松空港ターミナルビル背景に着陸のイエロー犬鷲イーグルを。小松に半分ファントムが残っていた1993年に北朝鮮は史上初の弾道ミサイル実験を行い、ノドンが日本海に着弾しました。ここから小松基地は結果、日本に脅威を及ぼす北朝鮮への最前線となっています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】航空自衛隊60周年小松基地航空祭(4)小松上空のF-2vsVADS(2014-09-20)

2020-11-15 20:00:51 | 航空自衛隊 装備名鑑
■岐阜基地からの来訪者
 岐阜基地から来訪者、F-2戦闘機が飛来し空包射撃展示へ展開したVADS上空での飛行展示が始まります。

 F-2戦闘機、飛行開発実験団所属機の機動飛行はじまる。F-2戦闘機はF-16戦闘機を原型に日米共同開発を行った航空自衛隊戦闘機です。冷戦時代に北海道に迫る水陸両用船団を各機4発の空対艦ミサイルを搭載し打撃を加えるための支援戦闘機として、開発された。

 F-2戦闘機、機動飛行にヴェイパーを曳く。対艦攻撃用攻撃機ならばコルモラン空対艦ミサイル4発を搭載できるトーネード攻撃機などがその用途に適合しているのですが、F-2は攻撃専用機ではなく空対空戦闘も相応に重視しているため、トーネードよりも汎用性が高い。

 F-2戦闘機、模擬対地攻撃を開始した。このF-2戦闘機は飛行開発実験団所属の航空機でこの飛行展示も岐阜基地からのリモート参加となっています。そしてこのF-2戦闘機の飛行展示には重要な意味があります、それはVADSの空包射撃展示を行うために飛来したもの。

 VADSの空包射撃展示、射程1800mから2200mの高射機関砲、猛烈な段幕を張る、のですけれどもちょうどエプロン地区を招待客が移動に使っていまして、じゃまにならないようにと立ち止まったことで滞留してしまった、招待客が立ち止まって、見えにくいぞ。

 F-2戦闘機、VADSの模擬攻撃を回避しつつ。招待客も立ち止まらず動いてくれればVADSは0.7秒程度連続で空包射撃しますので一秒間にEOS-7D一眼レフならば7枚撮影できる、動いてくれれば隙間から正確に撮影できるが立ち止まったら隙間はできない邪魔でしたね。

 VADSの空包射撃展示、招待客が去った頃には終了へ。気を利かせたつもりで、外国人観光客が気を利かせて大浴場の栓を抜くような、他人のジグソーパズルを完成させるような、もうあと少しで完成する仕事を初期化して電源を切るような、そういう迷惑が思い出す。

 VADSの空包射撃展示、射撃再開するとまた目の前に招待客が立ち止まる。ううむ、仕方ないとはいえ、立ち止まらずに動いて欲しかったなあ、と思う。他方、機関砲、これはあらゆる妨害を受けた場合でも弾道は直進するための優位性はあるというお話を聞いた事が。

 F-2戦闘機、既に高高度を飛行している。自衛隊は海上自衛隊のCIWSは別として、航空自衛隊はこのVADSを運用、対して陸上自衛隊は87式自走高射機関砲を運用しつつ、前に運用していたL-90/35mm機関砲はミサイルである93式近距離地対空誘導弾へと移った。

 F-2戦闘機、タッチアンドゴーで小松基地を。機関砲からは回避が一番ですが、一方でL-90なんかは火砲整備が本当に現場のおおきな負担で93式近距離地対空誘導弾が導入された際の現場の歓迎は、これで砲システムを整備しなくて良いのは有難い、ということでした。

 F-2戦闘機、ハイレートクライムのように急上昇してゆく。F-2戦闘機は下手に高性能化したことがかえって費用を高めたという批判がありますが、そもそも導入できる機数が財務当局から上限があるために、単価も上限はありますが高性能化は必然だった、と考えます。

 F-2戦闘機、ショックコーンが機体正面に一瞬だが確実に沸き立つ。F-2戦闘機は当初国産案が、スウェーデンのグリペンを双発化したような、フランスのラファールを双尾翼化したような、要するにどの航空機とも違う独自の戦闘機を三菱重工と構想していたという。

 F-2戦闘機、急上昇してうっすらと刃物のように見えます。アメリカ製F-16を再設計、これはブッシュ政権時代の日米貿易摩擦が背景にあるのですが、形状こそF-16であるものの、なりきれなかった必要性能を盛り込んだ帰結が、このF-2といえるのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】航空自衛隊60周年小松基地航空祭(3)F15デジタル迷彩機動飛行(2014-09-20)

2020-10-25 20:09:17 | 航空自衛隊 装備名鑑
■イーグルの機動飛行は激しく
 航空自衛隊創設60周年記念の小松基地航空祭はF-15J戦闘機デジタル迷彩の機動飛行が続きます。

 デジタル迷彩、旋回へ。ソ連空軍全力の侵攻になんとか十日間、アメリカ太平洋軍の増援が本格化するまでの十日間を自衛隊だけで北海道の航空優勢を遠い松島基地から維持できる戦闘機が求められ、結果、F-16やミラージュF1は選外となります。F-14かF-15に。

 デジタル迷彩、ヴェイパーを曳いて。F-14は高コストで導入が実現しなかった、こう説明される識者も多いのですがよくよく当時の実状を調べますと空母艦載機であるF-14は松島から北海道へ航空優勢確保に進出する運用よりも、拠点を防空する設計だという評価に。

 デジタル迷彩、青空と仰ぐ。F-14は射程165kmのAIM-54フェニックス空対空ミサイルを運用できますが、空母を防護しA-6攻撃機の打撃を防空するための明確な守る対象と攻撃を受ける時機が明瞭な場合に威力を発揮し、F-14には日本列島は空母として大きすぎた。

 デジタル迷彩、紺碧の空へ急上昇だ。F-15は制空戦闘機、要するに航空優勢の確保できていない空域へ進出して敵の迎撃戦闘機を全てたたき落として制空権を奪取する、という運用思想の戦闘機でして、空母という点を守るF-14に対しF-15は、大地という面を守れる。

 デジタル迷彩、逆光気味に戻ってきた。1976年の入間基地国際航空ショーにてアメリカはマクダネルダグラスがF-15を、グラマンがF-14を展開させ当時熾烈な売り込み合戦と報道を白熱させましたが、結局この時点ですでにF-15戦闘機という結論がでていたとも。

 デジタル迷彩、群青の天頂へ。1977年の国防会議にてこのF-15導入は正式決定、1978年にはライセンス生産を受け持つ三菱重工技師団がマクダネルダグラスのセントルイス工場へ大挙渡米し、また有償供与の機体は1980年に完成、1981年3月に岐阜に到着した。

 F-15機動飛行、ヴェイパーを曳き急旋回を。このF-15は導入当時のレートから一機180億円といわれていましたがそれほどは高くなく、ほぼ一機102億円という。そして前述の通り、F-15は贅沢な部品と設計を潤沢に注いだ戦闘機故に性能もものすごいものでした。

 F-15戦闘機デジタル迷彩、真下から撮る。F-15は機内燃料だけでフェリー航続距離が4600kmとグアムまで十分飛行でき、戦闘行動半径は1900kmあるために小松基地から北京まで1789km、要するに北京上空の敵と一戦交えて小松に戻ることも十分可能だ、という。

 デジタル迷彩、機体正面が。F-15戦闘機のエンジンはIHIがライセンス生産するプラットアンドホイットニーF100-IHI-100でアフターバーナー点火時の出力は10.8t、ドライ推力でも6.62tありますので空虚重量12.9tのF-15は理論上垂直離陸であっても可能という。

 F-15機動飛行、真下から日光浴びて。空戦能力ももの凄くAPG-63レーダーは150km以遠の戦闘機を捕捉、射程70kmのAIM-7や国産で射程75kmというAAM-4ミサイルにて精密に狙えるとともに、自重12.9tながら最大離陸重量は30.8tもあり、10tの兵装も積む。

 デジタル迷彩、着陸しボーイング767ならぶターミナルと。F-15戦闘機、その最大の強みは巨大すぎる機体で、これはレーダーの改良を筆頭に近代化改修をどれだけでも重ねられ、頑丈な構造は改修に費用をかけてももとをとれるほど長期間飛行させられるということ。

 F-15滑走路上、着陸しボーイング767とまるターミナルと。航空自衛隊は213機を導入しまして、これは世界第二位、そして予定数で世界第二位となるF-35の導入予定数147機よりも多く、まだまだおそらく2040年代まで日本の防空に重要な航空機となっています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】航空自衛隊60周年小松基地航空祭(2)F15!機動飛行と編隊飛行(2014-09-20)

2020-10-11 20:10:19 | 航空自衛隊 装備名鑑
■イーグル60周年デジタル迷彩
 EOS-7DとEOS-50Dに広角ズームと超望遠ズームを装着し輪舞のように勇躍する戦闘機を追います。

 デジタル迷彩の機動飛行はじまる。F-15は戦闘機のロールスロイスと呼ばれた、アメリカ製なのでそこはキャデラックだろう、と思いつつ。鈍重な電子機器を最高の機体素材と最強エンジンで強力な機動力と長距離打撃力を両立させた夢の戦闘機、そのお値段も夢なみ。

 デジタル迷彩の上面は飛行中しか見えない。航空自衛隊は213機を導入しました、この戦闘機の選定は石油危機後の1974年に始まりグラマンF-14や安価なジェネラルダイナミクスF-16,ノースロップ社の軽量機F-17,果てはミラージュF1やトーネードIDSも候補に。

 デジタル迷彩F-15、角度を変えて青空と。航空自衛隊は1970年代、ソ連北海道侵攻を最大限の脅威としており、このために第一撃で千歳基地や三沢基地を発進し邀撃戦を実施した後に両基地が空襲で破壊された場合でも松島基地を拠点とできる機体を求めていました。

 デルタ編隊を組んだF-15戦闘機の六機編隊がこちらへやってくる。編隊飛行を撮影しますと、航空祭にきたのだ、という実感がわくところですがF-15戦闘機航過飛行は一回だけ、ということもおおく、俄然集中力を固めて見逃さないようにカメラのシャッターを押す。

 F-15J戦闘機のデルタ編隊の六機編隊が。意識しすぎてシャッターを押し続けるとピントが甘くなりますのでサーボAFか適宜AFを調整する、連写速度が鈍る為に、サーボAF機能は好きではないので小銃の指バーストが如く少し少しAFを調整しつつ撮影してゆきます。

 頭上を往くF-15戦闘機のデルタ編隊がゆく。しかしF-15戦闘機でも六機編隊、何度めかと思われるでしょうけれども寂しいですね。こののちに新田原基地より飛行教導群が小松に移駐しますと、三個飛行隊のイーグルが集まったことで編隊飛行も豪華となってゆく。

 F-15戦闘機は頭上を金沢方向へローパスして日本海上で編隊を組み直す。背後からのF-15戦闘機の写真というのはどうしても戦闘機のエンジンから放出される高温の排気が幻惑させてしまうのでピントが合いにくい、ピンボケの場合でもそんないいわけが成り立つ。

 小松空港ターミナルビルの背景に六機編隊がみえている。小松空港ターミナルビルには展望デッキがありまして、ここも航空祭撮影の名所という、いやいうのですが、フェンス沿いに撮影できる場所はかなり限られていまして、ここ以外脚立がなければ撮影には厳しい。

 横一列にF-15戦闘機六機編隊が。編隊飛行でも最初はなかなか見えない、いや目に入っていても編隊と認識しないと気づかないという。航過飛行一回で編隊飛行は終了、ということでもなく一応もう一回航過飛行があるのか、ということで少し力がこみ上げてきます。

 F-15J編隊が六機、そのまま基地上空滑走路上にてコンバットピッチにて着陸へ。この方式は敵の攻撃を受ける可能性のある場合に編隊を維持して基地上空に戻りつつ極力一列で滑走路へのアプローチを行う、というもの。そう、F-15戦闘機、これは軍用の戦闘機なのだ。

 小松空港ターミナルビルを背景に着陸したイーグルを。ターミナルビルでの撮影は、先ずビルが視界を遮る制限がある、しかし空港には食事と買い物ができまして雨天では雨宿りも、小松駅はもちろん金沢駅や福井駅への路線バスもあり、便利ではある。楽はしたいね。

 第6航空団のイーグルが次々と小松空港ターミナルビルを背景に。航空祭では臨時駐車場が空港側の小松ウオール工場駐車場などに設置されるため、ちょっと空港側から撮影してみたくもなります。実際歩くと基地から空港までは徒歩で実に二時間弱と、かなり遠い。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】航空自衛隊60周年小松基地航空祭(1)F15オープニングフライト(2014-09-20)

2020-09-27 20:17:01 | 航空自衛隊 装備名鑑
■小松基地航空祭二〇一四開幕!
 日曜特集、本年は新型コロナウィルスCOVID-19影響により航空祭は総中止となっていますが、航空自衛隊60周年小松航空祭の活況をお伝えしましょう。

 小松航空祭オープニングフライトは六機編隊へ増強されて再度若狭湾方向から。航空祭の撮影位置は多く分けて二つ、一つは滑走路前に陣取って離着陸の様子を超望遠にて格好良く撮影する定番、もう一つは出遅れた場合に敢えて後ろの方で飛行展示に重点を置いて撮影すること。

 写真は一枚目よりも十数分程まえ。小松基地上空F-15戦闘機三機編隊が0754時に航過飛行を実施する。この日は小松基地航空祭、そして福井駅前に宿泊の当方は北陸本線を小松駅に到着した時点で長大すぎるシャトルバス行列を回避しまして、小松駅から小松基地まで徒歩で一心に歩くこととしました。

 オープニングフライトを展開する三機編隊のF-15J戦闘機。小松駅から小松基地まで、タクシー乗り場も長蛇の列でしたので、路線バスで近くまで行くことも考えたのですが結局徒歩ならば一時間で4km進める、ということでざっと55分ほど歩いて漸く小松基地へと。

 再度上空をオーバーヘッドアプローチにて編隊を組み替えて。オープニングフライトは0745時からと聞いていたのですが、距離からぎりぎり間に合うかな、というきわどい時間配分で、重い撮影機材を担いで、いや片山津か加賀温泉に泊まればよかった、と思いつつ。

 小松基地ゲートにようやく到着しました。はい。オープニングフライトは焦がされるような思いと重い、重いのは撮影機材だ、素数を数えて心を落ち着かせつつ、ようやくゲートまで到着したのでした。そう、オープニングフライトは基地へ歩み進めつつ撮影したもの。

 小松基地に入場しますと小松救難隊のUH-60Jが離陸してゆく。海沿いの小松基地は1941年に帝国海軍が農水省用地むじな浜を買収し設営した飛行場で1943年に舞鶴鎮守府小松飛行場として創設、1944年には陸上攻撃機二個飛行隊を有する基地として運用が本格化した。

 UH-60Jの離陸を見上げつつ格納庫を抜けてエプロン地区へと急ぐ。歴史有る飛行場だけに来場者も多く、つまり混雑するのだ。だから撮影位置は素早く決めなければ良い写真は撮影できません。ここ小松基地は金沢からも30kmといい、京都や大阪からも文化的に近い。

 六機編隊がこの日の最大の編隊飛行という貴重なフライトなのです。航空祭でなければ大編隊はなかなか見られない、だから航空祭の撮影ではここに重点を置くのですが、残念なことにオープニングフライトで実施されると、そう、撮れるよう早起きせねばなりません。

 六機編隊を見上げつつ幸いにして滑走路脇に撮影位置を確保できた。自衛隊が小松基地を開庁したのは1958年、旧海軍を経て1945年に米軍が接収し補助飛行場としましたが、1953年に民間空港として開放、1955年から全日空が大阪への航空路線を設置しています。

 小松ではいままでに十二機編隊飛行、というものが最大であった。しかし八機程度が編隊を組んでくれませんと大編隊ではなく編隊飛行、という程度でしてもう少しF-15が参加してくれたならば良かったのになあ、とも。そして曇天も少しだけ残念なきがしますよね。

 全日空のボーイング777が羽田空港へ向けて離陸してゆく。小松航空祭は民間航空会社とも共同し、離着陸の際には各航空会社から何処へ向かうかのアナウンスが入ります。全日空は小松空港開港のさいの最初の会社で、当時の社名は日本ヘリコプター空輸、という。

 第6航空団が小松基地の戦闘機部隊、そのF-15がローリングコンバットピッチにより六機編隊は解かれてゆく。第6航空団は1961年に小松で創設、千歳基地から第2航空団第4飛行隊と松島基地から第4航空団第8飛行隊を移駐させ、7月15日に第6航空団は生まれた。

 ローリングコンバットピッチを経て一斉に着陸進路へと向かいます。F-15J戦闘機はアメリカ軍が世界中で運用し、空中戦で撃墜されたことはない無敵を誇る。ただ、1961年の第6航空団創設当時は当然、こんないいものはなく、旧式のF-86F昼間戦闘機を装備している。

 六機編隊が徐々に解かれて三機となりつつ更に旋回していった。イーグルはアメリカ空軍の中でも格闘戦を重視する"戦闘機マフィア"とよばれる理系集団が当時長距離ミサイルがあれば機動力は不要という主流派に叩きつけた挑戦状が具現化したもの、といえるもの。

 着陸し小松空港のターミナルビルとF-15イーグルの並び。小松空港は金沢から東京へ向かう定番、この航空祭当時は北陸新幹線の金沢開業前でした。新幹線で東京へ行く場合は当時、上越新幹線へ北陸本線特急を乗り継ぐ必要がありまして、空路の方が遙かに早かった。

 エアドゥ北海道国際航空のボーイング737が千歳空港へと離陸してゆく。第6航空団の始まりが千歳基地からの飛行隊派遣でしたので何か親しみを感じる、当時千歳基地はマザースコードロン、増やした飛行隊を全国の新設航空団へ供給していたという歴史があります。

 第303飛行隊F-15J戦闘機が二機編隊で離陸、デジタル迷彩の記念塗装だ。F-15Jは強度計算や構造寿命よりも最高のチタン合金で軽くしかし頑丈に設計するというものでして、これが連綿と近代化改修に対応できるタフな機体構造を構成し、これこそF-15最強伝説だ。

 デジタル迷彩記念塗装機と通常塗装F-15Jの対比が。F-86F昼間戦闘機は1964年に当時の航空自衛隊岩国基地第82航空隊に移駐し、1965年に期待の超音速戦闘機F-104Jを装備する第205飛行隊が小松にて創設されました。岩国の航空自衛隊は1963年から1967年まで。

 F-15Jデジタル迷彩は航空自衛隊60周年記念塗装でもある。航空自衛隊の創設は1954年、警察予備隊が保安隊と海上警備隊と成長を経て、独立した空軍組織としてアメリカ空軍が主軸となって航空自衛隊を創設しました。旧軍にも独立した空軍という機構はありません。

 第306飛行隊のF-15J二機が日本海上を旋回し750km/hでフライパスする。航空法の関係からこれが日本国内の航空祭で実施できる最高性能なのだとか。なお、F-15J戦闘機は搭載する二基のプラットアンドホイットニー-IHI/F-100-PW-220エンジンで音速2.5倍を出す。

 デジタル迷彩のF-15Jが着陸して誘導路をこちらへ、奥はターミナルだ。この撮影位置、いやはや出遅れたのにも関わらず良い撮影位置、最前列近くを確保できたのは僥倖でしたが、ちょっと地上展示航空機が滑走路発着する航空機を隠してしまう、残念な位置という。

 JASDF60周年と大書されたF-15Jのデジタル迷彩がみえる。考えてみればジェット機を飛ばせる搭乗員も居ない1954年創設から始まり、今やF-15に現在はF-35,それに二桁のE-2CとE-767,巨大な国産のC-2や第六世代を狙うF-2後継機、自衛隊も大きくなったもの。

 第306飛行隊の2機編隊がウェーキを曳いて上空を日本海へ旋回する。F-15はミサイル万能時代に投じられた一石とは前述の通りですが、ミサイル誘導に必要な重厚レーダーを積んで身軽に飛ぶべく頑丈に頑丈を重ねて入手しうる最強のエンジンを搭載した設計のもの。

 F-15J三機編隊、広角で地上にはU-4やP-3CにF-2が並ぶ。小松基地では2007年より脚立地区を設置し、航空祭会場にて脚立利用者とのトラブルを回避していまして、2006年まではこの構図をもう少し高い位置から撮影できたのですが、現在はそうした摩擦はない。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【8】那覇航空祭帰路へ(2011.12.11)

2019-07-21 20:19:27 | 航空自衛隊 装備名鑑
■南の空の航空祭は閉幕
 F-15が飛行できないという中でも第八回目を迎えましたが今回が那覇基地航空祭特集の最終回です。

 那覇航空祭、2011年は相当時間に余裕を持って一つ那覇基地だけではなく普天間基地も嘉手納基地も散策してゆこう、という機運で進出しましたので日程に余裕はありました。2011年は仕事に若干の余裕と特に普天間飛行場は移設問題に揺れる中、という事情もある。

 実際、学生時代から沖縄出身の同期に一度基地問題については実際に自分で見てみなければわからない、と何度もいわれまして、そのかたは安全保障を研究、安全保障といっても防衛と安全保障には大きな空隙が存在する、平和創造の視点から深く研究をされていました。

 そんな理由から岩国基地や岐阜基地と八尾駐屯地のような基地を実感としては知りませんので、実は本州の基地の方が沖縄の米軍基地よりも住宅街に近いのでは、という素朴な疑問はさておき、当方としても実際に基地を見ておきたい、という印象はあったのですよね。

 沖縄をもう少し散策してみよう、こうした気概もありまして、とりあえず那覇空港に到着するとともに那覇市内を散策してみました。既述の通り修学旅行で航空自衛隊がまだ那覇基地にF-4戦闘機を配備していた時代の沖縄は知っているのですが、沖縄も随分変わった。

 ゆいレールが走り楚辺通信所は返還され、と当時の沖縄と2011年の沖縄は随分違っているわけです。もちろん、高校生の修学旅行なのですから、嘉手納基地をみましたし、まあ戦闘機が意外に少なかったのはさておき、ひめゆりの塔、南部司令部壕跡地等もみました。

 沖縄戦の話も聞くことができました、何故か嘉数高台公園の京都の塔に慰霊参拝しなかったのかは素朴な疑問、那覇から嘉手納にいったのだから嘉数は通り道だし普天間も眺めることができたはず、まあ疑問はさておき、久々の那覇だったわけです。当然、散策しよう。

 孤独のグルメ、という我が愛読書、そこまで大袈裟なものではありませんが、まあ影響を受けたものがありますので、私はあの作品と違い、泡盛も焼酎も嗜みますが、沖縄はステーキをモリモリ食べる食文化ということもありまして、そっち方面の散策してみました。

 国際通りと市場までのアーケードは迷路のようで、ちょっと迷ってしまいましたがおもしろく、黒猫さんが客引き、黒猫といっても妹系ライトノベルの登場人物ではなくふつうの黒猫、入ってみた居酒屋さんで集まっていた中学校の先生方と乾杯してみたり、と流れ。

 居酒屋探訪、違う居酒屋さんで東京からの旅行者のかたと、なにぶん沖縄から見れば東京の方が遠い、乾杯して大皿を分け合ってみたり、お洒落なお店でお洒落なお酒を、その次に行ってみたらば閉店していた残念、楽しんでみたり、戦跡を探訪してみたり、楽しくね。

 2011年ではまだ、京都発幕間旅情特集は掲載開始していませんので、神社仏閣をもう少し巡ればよかったと後悔しつつ、しかし首里城だけはちゃっかり行ってみたり、楽しむことはできましたね。そんな沖縄県ですが、総じて中心部の密度は高く、散策していて楽しい。

 旅行者にやさしい、過ごし易い、という印象でした。名護市あたりに泊まればまた違うも野が見えたのでしょうが、苦瓜なんかは冬瓜に慣れていますと敬遠しがちではあるのですが、泡盛と一緒にいただくと歯ごたえと共に浮き沈みする繊細な苦みがまたよく合う。

 食文化という者は歴史、何しろ豚肉を長い歴史とともに調理してきた豊かな食文化が、和食の新境地を感じさせられるもので、てびち、沖縄風おでんは煮豚の王様がおでんを啓蒙した印象、これはもっと関東風おでんも見習うべきとその満足感に驚かされたものでした。

 これが沖縄の味覚だ、と定番でいえるような料理はいろいろありますが体系化されていない、当然です、これが京都の味覚だ、と体系化されていないのと同じでしょう。こうしますと、色々な店を練り歩いてみないと分かりません。こういった事は時間の有無が大事だ。

 京料理といわれる挺後の料理だけが京都ではなく、こってり系ラーメンや巨大お好み焼きの文化圏でもあるし、串揚げも大阪とは少しソースが違って個性がある、沖縄も当然ですよね。これは、沖縄がそうだったのですが、すこし長めに散策してわかるものが多い。

 沖縄の豚肉を美味しく頂く調理文化は、そのまま進駐軍のビーフステーキ文化ともよく馴染みまして、ちょっとカラダにワルい事してる的なごちそうを楽しむこともできた。大学院時代はいま航空会社にいる友人が毎年夏期休暇に丸々1ヶ月、沖縄に波乗りを楽しんだ。

 沖縄バカンスと云いますがその友人、学部時代から続けているというから凄い、そんな話を聞いたものですが安宿も多く、バックパッカーが中央アジアやアフリカ縦断という仰々しい体験ほどラジカルでもないのですが楽しめる宿泊先なんかが多いことも知りました。

 若いうちの長期滞在を楽しむには、沖縄、魅力ある島というところなのでしょう、札幌や長野と観光地はいろいろ散策しましたが、いわゆる安宿が文化として定着している地域は少ない、安宿は観光向けの軒でなければむしろ札幌よりも大阪の方が充実しているもよう。

 地域文化を満喫するには沖縄はもっと前から通ってみてもよかったのかな、少なくとも杓子定規に書庫の地下に籠もっているよりは、よかったのかな、と。もっとも、地域研究以外のフィールドワークは良くやっている方だったぞ、とは昔からの友人のお言葉でした。

 沖縄に通っていた方が、それこそ、慣れない琵琶湖にフネを出して沈没しかけたり、今話題の京都一周トレイルの走りのような散策をして遭難しかけたり、グライダーが頭上から降ってくるようなところでバーベキューをするよりは、発見は多かったように思います。

 那覇空港までは昨今かなり手頃に行くことができる旅客機のお手頃な良い時代となったわけですが、宮古島や石垣島、もう少し県内航路が充実するといいのですがね。もっとも、旅客機が此処まで安価だ、と知ったのはもっと後に入ってのことだったのですけれども。

 北海道であれば、胆振東部地震大規模停電のような事態でもない限り道内は旭川でも函館でも帯広でも、まあ手頃な料金で移動することはできます、が、沖縄ですと那覇から宮古島や石垣島、となると厳しい。県内航空路線は簡単に乗れる運賃の価格帯ではありません。

 夜行バス代わりのフェリーや、それこそ数千円で往復できる高速ジェットフォイルなどが整備されれば、また活況となるようにも思うのですが、ね。島嶼部防衛と云いますか、国境の安全を考えますと過疎化は一つの危険要素であるといえます、すると対策が必要です。

 フェリー補助金へ無計画なばらまき、という事は勿論回避すべきではあるのですが、しかし過疎化が進み過ぎて安全保障上の懸念事項となってから対応計画を練るよりは、安価に済む事でもあります。また機会均等という視点からも補助金による機会均等化は必要だ。

 結果の均等ではなく機会均等、地方や離島でも主要都市に準じる程度に教育や経済活動と移動の機会を補正するという構図での機会均等へ補助金の在り方もあっていいと思うのですよね。意外に伊江島が本島から遠く高く、ふとそんなことを想ったりもした次第です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【7】那覇航空祭大団円(2011.12.11)

2019-07-07 20:02:30 | 航空自衛隊 装備名鑑
■ブルーインパルス展示完了
 ブルーインパルスは一部操縦士の次の転属を前にブルーインパルスでの最後の飛行展示となっていました。展示と共に“卒業式”への準備が進む。

 那覇基地航空祭、F-15は飛行できませんでしたが当方にとりF-4の那覇、という印象が強い中でF-15へ転換した那覇基地、というものは新鮮でもありました。沖縄県と防衛省の防衛庁時代での協定により沖縄へはF-15を配備しない、という取極がありましたので、ね。

 F-4戦闘機を延々運用し続ける訳にも行けませんので、当方はてっきりF-2戦闘機、当時のF-2支援戦闘機が配備されるものとかんがえていまして、航空阻止任務も可能、しかし130機の量産計画が98機で生産終了となったことで、その実現には至りませんでした。

 結局沖縄県と調整してF-15を配備するほか無いのか、と考えさせられたものです。実際、南西諸島島嶼部防衛を考えた場合、F-2戦闘機の多用途性能は頼りになります。そして石破長官時代に決定されたF-2減産決定、唐突に決まったような印象は否めませんでした。

 当時の石破長官は国民に説明できない高価な装備は調達するべきではない、として打ち切ったわけですが、あのF-2を130機、計画通りに量産していたならば2011年東日本大震災の第四航空団教育用F-2B被災の影響も少なかったでしょうし、といまさらに思ったりする。

 F-2戦闘機の生産終了は痛かった、F-22を希望したF-4後継選定の難渋に際して戦闘機量産能力の喪失という現状に発展することもなかったでしょう。石破長官時代はイージス艦あたご漁船衝突事故、海難審判で海上自衛隊側に過失なし、と判決が後にでるのですが。

 あの長官時代、事故に驚き真相究明前に一人踊りする長官が艦長を事実上更迭したことも忘れられません、防衛通と自称しているようですが、なんといいますか、プラモデル愛好家として尊敬はしますが、防衛庁長官経験者としての手腕は評価できるものがありません。

 2011年は東日本大震災が発災した年度です。那覇からも第15旅団をはじめ多くの部隊が災害派遣に出動しましたが、災害時には周辺国は配慮するはず、という理想論、実はこの逆の事例しか当方は知らないのですが、実際はどうかといますと、厳しかったともいう。

 災害発生、理想論というかそうあるべきという公序の希望、これも意外と簡単に打ち砕かれました。アメリカ海軍原子力空母が対日支援トモダチ作戦終了後、佐世保を経由して東シナ海を遊弋していましたが、原子力空母ポテンシャルが必要な緊張状態があったという。

 また、発災時に朝鮮半島の通信量が以上増大したたため、対馬警備隊などは有力な部隊であるにも関わらず、結果として一人も東日本大震災へ災害派遣要員を展開させることができなかった、という。もちろん、震災に乗じて攻めてくる、というものではなく、ですが。

 震災の影響度を計るために日本周辺に情報収集を行う、というものがありますし、また情報収集体制を強化するために通信量が増大する、という状況です。したがって危機感をあおるものではないのですが、しかし結果的なものとして、緊張を拡大させる事となります。

 震災時の情報収集、この規模の災害に対してどの程度の対応力を示すか、という分水嶺は非常に大きな情報となってしまいます。結果、抑止力を強化するという視点から、あの東日本大震災にさいして一時的に緊張は高まったものであり、相応の警戒態勢が必要でした。

 その上で米海軍原子力空母の巨大な抑止力も、結果的に必要となったわけです。那覇基地に並ぶF-15、この時点で中国による尖閣諸島への軍事圧力は増大しており、F-2戦闘機の量産が少数で、予定よりも32機少ない、98機で終了してしまったことが、此処にも影響へ。

 当初は予定していなかったF-15配備、という状況へ展開していったのでしょう。尖閣諸島、この海域は台湾海峡有事にさいして重要な意味を持ちまして、言い換えれば尖閣諸島を日米が確保しているか否かで、台湾海峡有事勃発の蓋然性が大きく変わる、といいます。

 台湾海峡有事となれば、もちろん大量の機雷が敷設されることで係維機雷の一部が浮流機雷として日本近海に流失し、シーレーンに大打撃をうける可能性はありますし、なにより台湾が大陸中国、具体的には大陸中国が進める海域閉鎖、ここから推測せざるを得ません。

 現在世界各国が国際公序として共有する海洋自由原則への敵対的な挑戦、この勢力圏にはいることで日本はシーレーンの維持に太平洋戦争末期とにた状態に陥ることも考えられます。尖閣諸島の戦略的要衝としての意義ですが、要するに台湾海峡有事阻止の要諦です。

 在沖米軍が有事の際には自国民救出により台湾へ進出する上で、尖閣諸島は中継点とまではいかずとも最短距離上に存在する陸地です。ここが万一中国に奪取されますと、日本のシーレーンが寸断される事となりますし、更に人工島による基地化の懸念も非常に高い。

 中国が実際に南シナ海において進めている平和目的の爆撃機展開や平和目的の長距離対艦ミサイル配置が行われれば、台湾海峡有事にさいし米軍抑止力が機能しなくなり、平和目的で数十万の人命が失われかねません。手段に平和を選択すれば結果の平和が失われる。

 しかし、尖閣諸島が維持されている限り、台湾海峡有事に際しては沖縄の第31海兵遠征群と第3海兵師団が普天間の第1海兵航空団支援下で一挙に展開できる、普天間のMV-22可動翼機はそのまま台湾へ進出でき、岩国の海兵航空団F-35Bの支援下で強力な打撃力を。

 MV-22が旧型のCH-46よりも遥かに長大な航続距離を有する事で、自国民救出の観点で展開できる、この能力と姿勢が、台湾海峡有事そのものを押しとどめる重石となるわけですね。その上で、しかし2010年の日本政権交代により、在沖米軍撤退の可能性が生じました。

 1992年のフィリピンで起きた在比米軍撤退を中国政府は確実に記憶していますので、在沖米軍撤退の可能性が、普天間基地県外移設を掲げる当時の民主党政権により示されたことで、中国は尖閣諸島方面への圧力を増大、中国からの国籍不明井もこの時期から急増した。

 これが公船領海侵犯の日常化と冷戦時代の最盛期以来という規模での日本防空識別圏内へ戦闘機の浸透、ミサイル爆撃機の日本海や西日本沖への進出、確実な緊張として表面化している構図です。表現として賛否があるかもしれませんが、戦争回避のための闘争の様だ。

 那覇基地航空祭は近年、頻繁な対領空侵犯措置任務緊急発進により中断される、飛行展示よりもスクランブル発進の頻度の方が遙かに高い、千歳基地や小松基地のF-15が戦技競技会でもないのに那覇基地誘導路付近に多数展開している、緊急発進の為の増援でしょう。

 こうした緊張状態に包まれています。南西方面航空混成団の南西航空方面隊拡大で防空能力は強化されましたが、一回破綻した抑止力の均衡というものは簡単に再建できるものではありませんので、当面はこうした緊張が継続してゆくのだろう、と考えてしまいますね。

 実は昨年2018年の那覇航空祭は久々に一日開催できるのではないか、と言われていました、飛行展示を一日だけで充分できる程平和が戻った、という期待があった訳です。しかし、結局これは噂どまりであり、結局は二日間に一日分を分けて行う航空祭となっています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【6】ブルーインパルス(2011.12.11)

2019-06-23 20:13:20 | 航空自衛隊 装備名鑑
■ブルーインパルス飛行展示
 沖縄慰霊の日、本日は令和時代初の沖縄慰霊の日であり、1945年の6月23日、沖縄防衛を担う第32軍は沖縄本島配備部隊の壊滅と司令官の自決を以て組織抵抗を終了しました、あの災厄が二度と起こらぬ事を祈りつつ。

 那覇基地航空祭ブルーインパルス、航空祭と云えばブルーインパルスでしょう。那覇基地航空祭、しかし那覇空港は過密飛行場であり、民間機が多数お聞きしている様子が此処までの特集でもご覧いただけたでしょう。ボーイング747を間近に見れたのですが、ね。

 ブルーインパルス那覇基地航空祭飛行展示、実際、この飛行展示の調整は簡単ではなかったといいます。そこで考えたのは那覇基地が臨海部に在り、会場から海上が近い、という事でした。要するに他の航空祭のように滑走路上空を飛行しなければよい、ということ。

 航空祭でブルーインパルスが飛行展示を開始する時間帯という事でしたらば、この時間帯が一番混雑する時間帯となります。立錐の余地も、というところになるのでしょうが、この大混雑の様子を友人が喩えたのは“ザ-グレートウォール”,巨大な壁というものでした。

 ブルーインパルスが離陸するまで、一種儀式的なウォークインより開始され、編隊で離陸してゆく様子は、此処からブルーインパルスの飛行展示の始りを感じさせられます。この場面を最初から最後まで見るには、那覇基地が混雑していなくて幸いでした。最前列だ。

 百里基地航空祭のこの時間帯に最前列を確保出来ていまする、飛行展示終了と共に最寄りの石岡駅まで17kmの細い道路が全て渋滞でおおわれる為にシャトルバスの行列を経て石岡駅から電車に乗るまでの実に四時間半にわたる壮大な次の旅行の始まりを意味します。

 入間基地航空祭のこの時間帯に最前列を確保出来ていましたらば、航空祭が終了した後で基地を出て電車に乗るまで延々後ろに30万の観衆が並んでいますので、30万の行列の最前列は言い換えれば30万の行列の最後尾、つまり最寄駅から電車に乗るまで三時間半要する。

 那覇基地航空祭、若干ブルーインパルス編隊飛行は遠いですが、混雑していませんので最前列から離陸する様子と、着陸するまでをしっかりと観る事が出来ました。最前列ですと、周りの歓声が滑走路に透き通るように肌で感じつつ、飛行展示を見上げられる、好いです。

 浜松基地航空祭のこの時間帯に最前列を確保出来ていましたらば、15万の最前列に居ますが最寄駅は遠鉄線まで5kmを歩くか8km先の浜松駅までのシャトルバス行列最後尾に位置する事から、結局は駅で電車に乗るまでの二時間半の長い旅路の始りとなるのですね。

 千歳基地航空祭のこの時間帯に最前列を確保出来ていましたらば10万の最前列に位置する事は飛行展示終了と同時に広大な基地の一番離れたところに在る駐車場を出る行列へ向かうところから基地臨時駐車場を出るまで二時間の壮大な渋滞への移動の始りを意味します。

 那覇基地は混雑していませんでしたので、最前列を確保しつつ雨具と着換えを撮影位置に残してカメラだけを手に、タコライスをサルサソースいっぱいかけて、なにか地元食堂名物が商品化されたレモンティーを氷一杯と共に抱えて戻ってきても、充分撮影出来ました。

 築城基地航空祭のこの時間帯に最前列を確保出来ていましたらば、8万の最前列に位置する事になりますのは8万の築城駅へ向かう行列の最後尾を意味しますので日豊本線に数倍の臨時列車が増発されてもそれ以上の観衆が基地を出て駅に入るまで二時間半の旅が始まる。

 百里基地航空祭の場合はこれを回避する為に既にブルーインパルスが離陸準備を始める頃には石岡駅行シャトルバス乗り場に並んでしまいまして、そろそろ乗車かなという頃合いからブルーインパルスを見上げますと1600時頃には石岡駅を笑顔で出発する事が出来ます。

 那覇航空祭は目の前のブルーインパルスに集中して撮影する事が出来ました、重い荷物なんかは全部ホテルにおいてきてしまいましたから身軽そのもの、それよりも名物のソーキ蕎麦を帰路に頂こうと考えつつ、ちょっと曇天ですが気にせず撮影する事が出来たという。

 入間基地航空祭ではこれを回避するためには、さっさと午前中のC-1編隊展示終了の時点で一駅奥は飯能駅近くで特急レッドアローの特急券を予約して駅前から発車時刻まで5km先のブルーインパルスを駅前から撮影する事で大混雑と行列を避ける事が出きるでしょう。

 浜松基地航空祭ではこの大混雑を回避するためには浜松基地の午前中の飛行展示が完了する頃には滑走路の反対側に在る広報館の方へ移動してしまい、順光で撮影してしまいましたらばそのままシャトルバスには向かわず、路線バスで浜松駅へ向かう事で一時間で済む。

 那覇航空祭は帰路の事は余り心配せずに、しかしこの後に第二滑走路が建設されてしまいますと航空祭は更に会場から遠い海上で実施する為に、もっと長い望遠が必要になってしまうのだなあ、という事を考えつつ撮影しました。もう間もなく完成、なのでしょうかね。

 千歳基地航空祭ではこの大混雑を回避するにはパーク&ライド方式で千歳基地以外に自動車を停めてしまい、基地を眼下に収める南千歳駅前の土手から恵庭岳を借景に美しいブルーインパルス展示を撮影するならば、展示後には早速電車に乗車する事が出来るでしょう。

 築城基地航空祭でこの行列を回避するためには、築城基地は市街地が危険な程の人が滞留しないように基地の出場制限が長く、ブルーインパルスを基地の外側から撮影する事で築城駅まで20分ほどで移動し、駅の入場制限が本格化する前に、電車に乗る事が出来ます。

 しかし、那覇基地、この年度の航空祭は全く混雑していませんでした。だから、最前列でブルーインパルスを撮影しましても、順調に帰路につく事が出来たのですね。ゆいレール赤嶺駅まで、それ程時間が掛かりませんでした。ゆったりとブルーインパルスを楽しめた。

 2011年の飛行ですのでブルーインパルスは福岡県芦屋基地を拠点としていました、所属する第4航空団の拠点である松島基地は、同年3月11日の東日本大震災において大打撃を受けていたのですね。しかし、ブルーインパルスだけは当日、難を逃れました、僥倖にも。

 3月11日、ブルーインパルスはこの翌日に全面開通となる九州新幹線記念式典へ祝賀飛行を行うべく芦屋基地へ展開していました。松島基地は臨海部に在り、津波の直撃を受け、第21飛行隊のF-2Bは津波被害を受けています。ブルーインパルスが松島に居たら、と。

 T-4練習機が全て無事であり、しかも松島基地が基地在場隊員全員が無事であった事が幸いでした。第四航空団は訓練部隊であるのですが、例えば硬化シェルターか防爆シェルターが20機分あれば、これ一つの建設に14億円ほど掛かるのですが被災を避けられたかも。

 那覇基地は臨海部にあるのですが、幸い基地から丘陵地帯が広がっていますので、沖縄戦の不発弾さえ解決できるならば、この丘陵地帯に地下格納庫を建設する事で、津波被害は勿論、航空攻撃に対しても盤石な航空基地と出来るようにも思うのですが、どうだろうか。

 ブルーインパルスを撮影して後、そろそろ帰投航空機の離陸が本格化するのですが、航空祭そのものもそろそろ完了の時刻が近づいて参りました。地上展示航空機を撮影しつつ、移動を開始せねばならない時間帯ですね。F-15の地上展示は多く、次の撮影へ向かう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【5】ボーイング747(2011.12.11)

2019-06-09 20:02:08 | 航空自衛隊 装備名鑑
■全日空ジャンボジェット!
 那覇基地航空祭の主役が諸般の事情があるという航空祭にも楽しみは多種多様にあります、例えば数多運行される那覇空港の民間機もそうです。

 イーグルが飛行しないイーグルだけの基地の航空祭、しかしそこで主役が飛ばないのだから嘉手納に行こう、と成っては本末転倒です。実際に航空祭に展開するのですから悪天候で全く飛ばないことも想定しなければ成りませんし、また突然の天候急変もありえる。

 これを考えますとお天気が十分よいなかでの日曜日の航空祭、新しい被写体を考えなければ成りません。ボーイング747は個人的にこの日の航空祭の主役と位置づけた航空機です、ボーイング747は政府専用機にも採用されたジャンボジェットと愛称された巨大旅客機だ。

 民間航空会社には日本航空に全日空に広く採用された旅客機であるものの、都市間路線での利便性、特に一番の過密路線である羽田伊丹航路において伊丹空港の騒音防止の観点から四発機乗り入れ制限が決定します。なにしろ大阪市上空が着陸航路に入っていますから。

 大阪東京間の輸送需要は大きいのですが、那覇と違い大阪中心を飛ぶ、エンジンを四基搭載した巨大なボーイング747はその役割を終える事となった訳です。しかし、この2011年時点ではまだ全日空がボーイング747を運用しています、これは撮っておくべき、となる。

 ジャンボジェット、那覇空港は羽田から長距離路線にあたり、四発機乗り入れ制限もありません。那覇航路と千歳航路が日本のジャンボジェット最後の楽園であったのですが、そのなかでも千歳基地と那覇基地はともに航空自衛隊基地が置かれ、施設は隣接しています。

 千歳基地も那覇基地もF-15イーグルが配備されている一方、千歳基地は航空自衛隊基地が国際線側の旧施設に隣接しているため、航空祭では国内線の旅客機を戦闘機と並べて撮影することはできません。そこが那覇基地では誘導路滑走路に沿って展開している訳ですね。

 ジャンボジェットも進む誘導路、航空自衛隊基地が展開していますので、誘導路を進むボーイング747と地上展示のF-15を並べて撮影することができる。もともとジャンボは日本航空が100機以上を導入していた旅客機ですので、それほど珍しくはありませんでした。

 小松基地も小松空港と隣接していますが、この航空祭から数年前までは小松基地航空祭でも小松基地に着陸する様子を見ることができました。北陸新幹線金沢開業までは金沢から東京までは空路のみ、特急と上越新幹線乗継や京都駅新幹線乗継は僅かということでした。

 ボーイング747は並ぶ戦闘機よりも一際大きく、そういえばボーイング747は同時期のF-15戦闘機ライセンス生産費用の倍も要する高い航空機、という事を思い出しました。政府専用機はボーイング747からボーイング777へ移行しますが、やはり747は迫力が凄い。

 ジャンボを一例に挙げましたが、数年で見慣れた風景は無くなってしまう、まあ京都では清水寺や東寺に大徳寺や仁和寺と東福寺が東本願寺は不変ですが、F-4EJ戦闘機も74式戦車も203mm自走榴弾砲も護衛艦はつゆき型も、そう長く見られるものではありません。

 那覇空港滑走路隣接、という撮影環境はおもしろい。これは那覇空港の過密ぶりを示すものですので一概に高評かできるものではなく、現在進んでいる那覇空港第二滑走路完成が期待されるのですが、それでもこの自衛隊と旅客機の情景、重なりは眺めていると面白い。

 滑走路に進入する旅客機と並ぶ自衛隊機という情景、着陸へ飛行する旅客機と自衛隊機、誘導路で戦闘機の背景に並ぶ巨大な旅客機、という情景を見ますと、なにか非日常的な迫力がありますね。那覇基地はF-15の基地なのですが、同時に最寄りの基地が遠いのです。

 宮崎県の新田原基地が那覇基地最寄りの戦闘機部隊基地ですので、リモート飛行展示、つまりほかの基地から飛行展示に飛来して航過飛行をおこなってそのまま帰投、という飛行展示はできません。すると、築城基地のF-2機動飛行や芦屋基地T-4などもありません。

 そもそも那覇空港が過密空港ですので、滑走路付近での飛行展示をなかなか行えない、という実状もあります。するとF-15が飛行できない状態のまま、間が空いた航空祭飛行展示プログラムとなる訳でして、旅客機でも撮っておかないと撮るものがない、ということ。

 入間基地のようなものすごい混雑、といかずとも那覇基地航空祭は岐阜基地航空祭や小松基地航空祭と比較しても、いや余裕のあることで定評のある小牧基地航空祭と比べてみても最前列付近は余裕があります。即ちF-15と旅客機を追って自由に撮影位置を変更できる。

 もちろん全く人が以内、というわけではないのですが、ズームレンズで人垣の隙間から撮影しますと、どんなに混雑していても一瞬の凪はありますので、そこから撮影することはできるわけです。これは富士総合火力演習のシート席少し後ろの方での撮影でも似ている。

 ただ、これ後々考えてみますと琉球新報と沖縄タイムズに航空祭でF-15が飛行しない、と報じられていたからの混雑回避だったようです。実は初めての那覇基地航空祭、那覇基地は混雑しない、という認識が此処で定着してしまいましたので、空いていると安心ですね。

 この三年後の那覇基地航空祭にて意外な混雑に驚かされることになった。考えてみれば、それこそ旅客機で二時間かけて長躯那覇市内にホテル宿泊、となれば貧乏性といいますか、航空祭でF-15が飛ばないからといってしかし航空祭が行われる以上、どうするべきか。

 沖縄まで折角来たのですから、撮影しないという選択肢はないのですよね。しかし近所の方は違う、また来年、となるのでしょうか。まあ、当方の場合も近所の部隊行事で大幅中止となっていましたらば、来年でもいいだろう、と思ってしまうのと同じなのでしょう。

 那覇基地は余裕がある、那覇基地航空祭は正門付近に売店が並んでいますので、航空祭海上となるエプロン地区から売店は本来非常に遠いのですが、ここまで余裕がありますと、最小限の荷物を最前列に残して、ここで盗難に遭わないのは人間関係が大事になります。

 最前列付近で交友関係を構築しまして、お互いに見ていてもらった上でカメラを筆頭に貴重品を持って移動するという行動となるのですが、まあ、一人旅でも荷物おいてそのまま売店へ行く、という行動も可能となるわけです。他の荷物はホテルにある事情もある。

 もっとも、本来F-15の飛行展示が行われるのならば、そんな時間的余裕はありませんので空腹のまま航空祭撮影決行、空腹はF-15飛行のアドレナリンと携行食糧でまかなう、という。携行食糧とはお弁当といいますか、まあ本来、航空祭はそれでも十分なのですが、ね。

 出来立て熱々のおいしい料理をいただけるということは、旅の思い出をよりよくしてくれます。それでも再武装展示や離陸しない模擬緊急発進などF-15は地上で可能な展示を精一杯行ってくれますので、折角の那覇だから撮影できる沖縄らしい情景を撮ってゆこう、と。

 イーグルが飛行しないイーグル主役の航空祭、しかし航空祭は行われているのですから、いろいろな角度で撮影してゆこうと考えてみますと、おいしいものをいただきつつ中々おもしろい趣向の航空祭を楽しむことができるのですね。そう、航空祭はお祭りなのだから。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする