北大路機関

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【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【4】F-15再発進展示(2011.12.11)

2019-05-26 20:10:43 | 航空自衛隊 装備名鑑
■那覇に緊張走る南西諸島防空
 緊張走る、という安直な表現は平成時代の沖縄においては、決して誇張ではありません、中国がヴェトナムやフィリピンに対し行った事と同じ施策、限定侵攻は有り得ました。

 那覇基地航空祭は那覇空港と滑走路を共有する那覇基地の航空祭です。那覇空港は現在拡張工事が進んでいるのですが、航空祭にて並ぶ航空機の地上展示の奥を次々と旅客機が誘導路を離陸へ向かってゆく様子に驚かされました、沖縄本島、空の玄関口ですから、ね。

 国管理空港、つまり空港法第4条第1項第6号に該当する空港として政令で定める空港という法的区分の空港です。小禄飛行場として旧海軍がこの地に1933年、建設した飛行場がこの巨大空港の始りなのですが、旧軍が設営した飛行場が基地として現役ということに。

 小禄飛行場は沖縄戦においても拠点飛行場の一つとして位置付けられ、そして日本陸軍は1940年代に入り沖縄の北飛行場と中飛行場を本当中央部に建設し、本島離島の伊江島飛行場と合せ、三箇所を拠点飛行場として運用する構えでした。この飛行場はお気づきの通り。

 嘉手納基地と普天間基地は北飛行場と中飛行場跡地付近に、嘉手納基地近傍の読谷補助飛行場と合せ連合軍が接収していまして、現在は在日米軍基地として転用されています。そして伊江島には伊江島補助飛行場としてSTOVL機等の発着施設が維持されている訳です。

 那覇基地は、こう考えますと日本側が維持できている数少ない飛行場、となる訳でして。勿論日米安全保障条約があるアメリカは現在同盟国ではあるのですが、沖縄の過去の歴史に遡りますと個人的にですが、この小録飛行場跡地たる那覇基地とは特別な響きを感じる。

 沖縄空の玄関口としての那覇空港、しかし過密空港であることは確かでして、3000×45m滑走路が一本しかありません。誘導路を進む旅客機の数の多さ、なにしろ貴重なボーイング747も運行されていた当時なのですが、旅客機を真剣撮影しつつ航空祭も撮れるという。

 F-15戦闘機の緊急発進はこの2011年当時、それ程顕著ではない、実態には件数で2011年時点では既に日本一の頻度ではあったのですが、なにしろのちの、那覇基地一カ所の緊急発進件数とその他全ての基地を併せた総数で前者が上回る程の状況ではありませんでした。

 ボーイング737とT-4練習機、頻繁に発着する民間旅客機はこの日の航空祭に九州での部品脱落の影響からF-15が飛行展示できないという状況を前に活況ある写真を撮影できる、比較的貴重な機会ではあるのですが、それにしても発着件数の多さというものを痛感する。

 エアバスA330とRF-4偵察機、という写真なども撮影しつつ、緊急発進箱空砲上で最優先の発着が定められていますので、緊急発進の増大する時期にはここ過密空港である那覇を発着する航空機がさらに増大する為、上空待機等で相当な苦労を強いられるのだろう、と。

 2003万名、これは那覇空港の2016年利用者数とのこと。2016年度の年間利用客数は2003万3021名となっていまして、利用者内訳は国内線が1695万4819名でして、国際線利用者数が307万8202名、とのこと。滑走路一本の空港としては破格の過密度とえいます。

 着陸回数を視ましたら、日本の空港全体では国内線に限定しますと、着陸回数で第2位と旅客数では第4位という事です、国際線を含めた発着数と旅客数では那覇空港は実に第5位といい、旅客数でも第6位、成程、航空祭で多数の旅客機の離着陸往来を視る訳ですね。

 ボーイング767とUH-60J救難ヘリコプターを撮影しつつ、実はこの那覇空港の過密ぶりは既に問題となっていまして、翁長那覇市長、沖縄県知事として大病を圧して職責を全うされました偉大な政治家、市長時代にここ那覇空港の拡張工事に尽力、実現させています。

 滑走路1本あたりの密度は、着陸機で8万3189回となっています。これは第二位で、第一位は福岡空港の8万7198回、福岡市内に高層ビルが少ない理由が納得できるほどの過密ぶりです。二位というと、上には上があるもの、と思われるかもしれませんが、此処で一つ。

 福岡空港は滑走路に万一の際には北九州空港というもう一つの代替空港があります。また、福岡空港は自衛隊基地と滑走路併用ではなく、春日ヘリコプター空輸隊のCH-47が置かれているのみ、陸海空統合基地といえる那覇基地とは根本的に状況が異なる訳なのですね。

 沖縄の基地負担、とは日々報道のたびに考えさせられるものなのですが、しかし、緊急発進の件数から沖縄県への軍事圧力の増大というものも併せて考えさせられるもので、しかし、滑走路拡張を実現した那覇空港を見ますと、ここの基地機能を考えさせられてしまう。

 2017年には緊急発進件数が遂に冷戦時代の942回を越えて1100台に突入、この大半が那覇基地からの沖縄県や鹿児島県への国籍不明機の接近であった事実を突き付けられますと、那覇空港をもう少し本島の静かな広い空港へ移転させては、と思ったりもしてしまいます。

 那覇空港第二滑走路の建設は順調に進んでいますが、今後の緊急発進の増大、2017年に1100回の発進を強いた中国の空軍力は健在で強化が進む、こうした中で遠くない将来に第二の本島地方空港建設と那覇空港第三滑走路建設の必要性も、出てくるのかもしれません。

 ボーイング747とE-2C早期警戒機を撮影しつつ、2011年は、この少し前に新田原基地航空祭にてF-4とF-15の写真を撮影しているのですが、部品脱落がもう少し前であったならば、新田原基地では飛行中止にて撮影するものがほとんどなかったなあ、と考えましたね。

 F-15戦闘機、しかし再武装展示と模擬緊急発進を展示していまして、これは飛ばないものではありますが、ある種迫力の写真を撮影する事が出来ました。隊員の動きというものは写真と仕立てていますと、基地の雰囲気と云いますか、航空祭では普段撮りにくい様子が。

 沖縄まで長躯進出したのだから、なにか絵になる写真と云いますか、F-15が飛行しないというだけで意気消沈したままではもったいない、という印象です。そこで、しかし考えようによっては航空祭はこの日混雑していない、ということは貴重な機会だったのかも、と。

 ゆいレール、那覇市都市モノレールにて市内中心部から指呼の距離に在ります那覇基地ですが、要するに一番の目玉、F-15が飛行できないという事は新聞報道にて既に既知の事実ですので、この日航空祭へ訪れる那覇市民の方々、相当減っている、ともいえるのですね。

 那覇都市モノレールの利便性、もちろんこの那覇航空祭は県外からの来場者も相当多いのですが、地元の方が比率として一番来場者の大勢を占める事は、やはり変わらない事実でしょう。来場者が少ない、という事は基地の人口密度も低く、自由に歩き回れるという。

 ブルーインパルスも飛行展示を行うのですが、これほど人口密度の低い航空祭というのも2011年では貴重、というものでして、成程自由に撮影場所を変更したとしても数分後や十数分後にままた良い場所を最前列から撮影できる、これはストレス感じなくて良いですよ。

 F-15機動飛行を撮影出来ずに、負け惜しみを欠いているだけなのでは、と思われるかもしれませんが、まあ、それは当っている。しかし、Weblog北大路機関にて沖縄の安全保障防衛問題を掲載する際に、那覇基地の写真があるのか無いのか、という部分では重要です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【3】CH-47J飛行展示(2011.12.11)

2019-04-21 20:10:52 | 航空自衛隊 装備名鑑
■那覇基地の歴史と共にあゆむ
 那覇基地航空祭、飛行展示が限られた年度故に少々間延び気味ですが那覇基地の歴史を話題としつつ当時の情景を紹介しましょう。

 那覇基地、安全保障や防衛問題に関心のない方々にとってみれば沖縄県といえば米軍基地との印象がありますが、当たり前ですが対領空侵犯措置任務に当っているのは航空自衛隊です。那覇基地第9航空団は当時第83航空隊として南西諸島防空任務に当っていました。

 第83航空隊は1973年10月16日に創設、F-104戦闘機やF-4EJ戦闘機を経て現在のF-15戦闘機へ機種転換しました。2016年1月30日に第83航空隊は飛行隊を増強し第9航空団へと拡大改編を受けました。もっとも新田原基地から一個飛行隊を引き抜いて、ですが。

 第83航空隊、1972年の沖縄返還とともに沖縄県という広大な空域を航空自衛隊は管区に返還されることとなり、まず茨城県百里基地より第207飛行隊を編入することとなります。第207飛行隊はF-104戦闘機を運用しています。F-104は基地の保存展示機として並ぶ。

 F-104は航空自衛隊初の超音速戦闘機ですが、飛行隊として1966年に創設されます。しかし、百里基地第7航空団はF-104を上回るF-4EJ戦闘機のマザースコードロン、つまりは最初の飛行隊として続く飛行隊の要員を練成する拠点部隊が置かれることとなりました。

 第207飛行隊は余裕が生まれまして、F-104戦闘機ごと南西諸島へ転地される事となりました、当時の戦闘機は現代の陸海空情報を包括管理し戦域優勢への統合第一線端末、というような大げさなものではなかったため、飛行隊単位で毎年戦闘機を量産できた時代です。

 1973年1月1日より第207飛行隊は第83航空隊隷下部隊としてアラート待機を開始しました。那覇基地は在日米軍の訓練空域と重複する空域が多く、そのために難渋することも多いということなのですが、それでも航空自衛隊戦技競技会では優勝する事も少なくない。

 戦技競技会優勝という、第207飛行隊は優秀な飛行隊といえたわけです。しかし1986年にはF-104戦闘機の老朽化もあり部隊廃止となりました。こうして沖縄県の防空はその後継機となるF-4EJファントムへと受け継がれてゆくわけでして更にF-15イーグルへと続く。

 沖縄の防空を一手に担う、これは一大防衛事業でもあり、1972年5月15日の沖縄返還に先だって自衛隊は綿密な準備を行います、8月1日には臨時沖縄派遣隊を編成、10月11日にはこの派遣隊を拡大改編する形で南西諸島の防空は各部隊創設準備の臨時部隊へ改編が。

 臨時那覇基地隊、臨時第83航空隊、臨時警戒管制隊に臨時管制隊と臨時救難隊、臨時部隊を順次創設します。受け入れ準備が完了した時点で11月10日にF-104が轟音とともに那覇基地へ到着しました。翌年元日にはF-104の第207飛行隊が実任務体制へ移行します。

 F-104の第207飛行隊はこうして、対領空侵犯措置任務アラート待機へ移行したことは前述の通り。防空任務は更に1973年2月15日に高射訓練隊というかたちで那覇と知念および恩納に分屯基地を開き、同年10月16日、これら部隊を正式に部隊新編へ移行しました。

 南西方面航空混成団、南西航空警戒管制隊、第5高射群、那覇基地隊、と再編、こうして沖縄防空の体制は編成完結しました。F-4戦闘機、ファントムは中距離空対空ミサイルも運用可能、1985年に配備されました。千歳基地の第302飛行隊が那覇に移駐したのです。

 この千歳基地は北海道のソ連にもっとも近い戦闘機部隊基地、そして1981年から航空自衛隊へは現在も主力戦闘機の座に輝くF-15戦闘機の配備が開始されており、千歳基地はF-15戦闘機を必要としていました。F-15は迎撃よりも制空権確保が目的の高性能戦闘機です。

 このため、第302飛行隊は旧式となったF-4を運用していた関係もあり、もう少し安全な、安全というのも当時中国空軍には沖縄を戦闘行動半径に含めた戦闘機を全く持っておらず、ソ連海軍は軽空母しか有していませんので戦闘機の脅威が無い上に、地域が安定していた。

 在比米軍と在沖米軍が防備を固めている当時、F-4戦闘機でも南西諸島の防空は安泰、という考え方があったのですね。第302飛行隊は航空自衛隊史のなかでも転換点となる事案に直面した飛行隊でもあります。もともと飛行隊は1974年に千歳基地で創設されました。

 第302飛行隊は編成完結を経て1975年からアラート待機に移行しましたが、1976年9月6日の緊急発進にさいし国籍不明期が突如高度を下げ低空を函館空港に緊急着陸するという事件が発生、マッハ3を越えるソ連最新鋭戦闘機MiG25函館亡命事件が発生しました。

 このMiG-25函館亡命事件はソ連群特殊部隊が戦闘機機密維持の任務により函館へ強襲する準備があるとのアメリカ情報があったとされ、航空自衛隊は津軽海峡上空の24時間戦闘空中哨戒CAPを開始、函館駐屯地第28普通科連隊が即応体制を維持し、最大限の警戒が敷かれた。

 北海道全域が、第11師団と第1戦車団も待機体制をとったといわれ、海上自衛隊はソ連船の津軽海峡周辺遊弋をうけ護衛艦と駆潜艇や掃海艇を常駐させ警戒を強化、東北方面隊も津軽地区警戒強化という極めて緊迫した状況となりました。この一件は調べてみますと興味深い話が多い。

 第302飛行隊はこの日ソ関係が最大の緊張度を帯びたMiG-25函館亡命事件の最初の緊急発進を行った部隊だったのですね。那覇基地へ移転した第302飛行隊は、1987年12月9日、ソ連領空侵犯機警告射撃を実施します。緊急発進し実弾で警告を行ったということ。

 自衛隊史上初と成る実弾によるソ連機への警告射撃はTu-16偵察機が繰り返し領空侵犯を実施したため、繰り返し領空外退去を求め、進路上を領空外に誘導を試みるものの、沖縄本島上空に侵入、緊急発進機は南西方面航空混成団司令部へ警告射撃の許可をもとめた。

 正式に警告射撃実施が命令、自衛隊発の警告射撃が二回にわたり実施されました。那覇基地では強制着陸に備え64式小銃を準備しソ連捕虜に備えましたが、Tu-16はそのまま着陸を拒み領空外に、その後先島諸島上空を領空侵犯した後にソ連本土方面へ飛去りました。

 本事案は在日米軍も支援体制をとっていたといい、その後Tu-16は北朝鮮平壌近郊の空軍基地へ着陸しています。しかし、日本政府は過去に例がないほどの厳しい態度でソ連に抗議し、ソ連国防省はTu-16領空侵犯機操縦要員の階級降格と航空機搭乗禁止を行いました。

 ソ連側はTu-16領空侵犯について、計器故障による領空侵犯であり故意ではないと強調しましたが、アメリカメディアを中心にソ連航空機は沖縄本島さえ確認できない地紋飛行能力の欠如を皮肉る報道を行い、結果的にソ連側はその威信を落とすこととなっています。

 幸い今日まで続く警告射撃の事案は発生していませんが、今日、沖縄周辺空域は中国からの国籍不明機が多数接近し、冷戦時代の北海道を越える緊張の空となっています。実際問題、最盛期は一日の航空祭で七回とか八回の緊急発進が離陸してゆくという状況になる。

 何故沖縄県だけ、という印象は無いでもないですが、師団規模の着上陸を想定する必要があり自衛隊が四個師団で北海道の防備を固めた冷戦時代の北海道程は緊張状態にはありません。しかし、国境に近い都道府県というものは周辺情勢の影響に直面するようですね。

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【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【2】F-15J再武装展示(2011.12.11)

2019-03-17 20:13:34 | 航空自衛隊 装備名鑑
■南西方面空混団第83航空隊
 南西方面航空混成団の那覇基地航空祭はF-15Jの再武装展示や活動展示とP-3C哨戒機やヘリコプター展示飛行、いよいよ本格的に始動します。

 イーグルの基地那覇、F-15戦闘機がこの2011年当時は那覇基地第83航空隊に1個飛行隊配備されていました。過去形で書くのは現在は第83航空隊はF-15戦闘機2個飛行隊基幹の第9航空団へ拡大改編を果たしていまして、相当に強化されているという実状が。

 二個飛行隊へ拡大改編ののちに那覇基地航空祭を再訪しましたが、一個飛行隊の航空隊と航空団規模、航空祭の規模がぜんぜん大きくなった、という印象でしたね。しかしそれは沖縄県を取り巻く安全保障情勢が緊迫度を増したためということも忘れては成りません。

 第83航空隊のイーグル、期待していたのですが前にもお伝えしましたとおり、別の基地で増槽破裂事故が発生、その後に今度は部品落下という、翼端の保護材が剥離する事故も発生しまして、原因究明へ那覇基地航空祭でのイーグル飛行展示は無くなってしまいました。

 航空基地として、つまり那覇基地は航空自衛隊那覇基地であるとともに海上自衛隊那覇航空基地でもありまして、この関係からP-3C哨戒機が配備されています。そして那覇基地は防空の拠点であると共に当時は南西方面航空混成団司令部、これで間に合っていたのです。

 現在は強化され南西航空方面隊司令部が置かれ、司令部飛行隊も配置されています。その那覇駐屯地が国道を隔てて配置、第15ヘリコプター隊は那覇基地に格納庫を置く。イーグルが飛行しなくとも、陸海空自衛隊が駐屯し展開していますので、飛行展示は期待できる。

 那覇基地は1933年に創設された海軍小禄飛行場から続く由緒ある飛行場です。そして基地ゲートは比較的高台に位置しているのですが、滑走路は海岸線近くに配置されていまして、元海軍基地の風景、これも海軍飛行場故の名残なのかな、とかんがえさせられるところ。

 海軍飛行場は海抜の低い地域につくられている、この理由は簡単でして海軍は零式偵察機や二式大艇など水上航空機を重視しており、その発着には海岸線近くである必要があったのですね。航空祭では高台の基地内道路に沿って模擬売店が多数並んでいまして、活況だ。

 沖縄の屋台、なるほど沖縄ならではの、といいますか沖縄のお祭りに並ぶ屋台はこうした感じなのだなあ、と。那覇基地航空祭では太鼓演奏よりもエイサーの掛け声が響いていまして、雰囲気は、入間基地とも小牧基地とも岐阜基地や小松基地とも違った祭りの装い。

 ゆいレール、沖縄都市モノレール赤嶺駅が自衛隊ゲートの最寄り駅となっています、ここは那覇空港駅から1.95kmの位置にありまして、隣の駅で更に那覇市中心部へ進むと隣に小禄駅があります。実はここが日本最南端の駅となっていまして、記念碑もたっている。

 記念碑では、お隣那覇空港駅が日本最西端の駅となっている、鉄道愛好家には是非とも現地を訪れたい場所のひとつ。日本最西端の駅は、ゆいレール開通前ではJR九州指宿枕崎線の西大山駅だったのですが、現在はここ赤嶺駅に譲り西大山駅は九州最西端となっている。

 モノレール路線の素晴らしいところは風通しでしょうか、高架の上にありますから、ね。そしてこの赤嶺駅の海抜が19mにあるのです、確か海抜表記は駅前ですので駅のホームの海抜ではなかったか、と。那覇基地、海抜から見ますと滑走路は3m程の海抜となっている。

 正門は19mの海抜となっていまして、滑走路が3mということですから、なだらかな丘陵という。基地を入り、南西方面航空混成団司令部の地下シェルター式施設がちょっとみえつつ、一路エプロン地区へと向かいますと眼下に飛行場施設が広がっているということ。

 沖縄の玄関となった那覇飛行場、現在は官民両用那覇飛行場となっていまして、この始まりも1936年に那覇飛行場が小禄飛行場に隣接し拡張されたという歴史が。那覇基地は即ち沖縄県内に複数現存する防衛用飛行場にあってもっとも長い歴史を持つ基地といえますね。

 戦前のこの官民両用飛行場は、しかし有事の際の余裕を持たせることとなり1941年には海軍が那覇飛行場を接収、郵便航空機などの航空便は海軍飛行場を経由するという戦時体制に転換しましたが、海軍は沖縄に第4海上護衛隊司令部と沖縄根拠地隊司令部を配置する。

 第4海上護衛隊司令部と沖縄根拠地隊司令部を配置際、この小禄に司令部を置き、重要視していました。なにしろ重巡洋艦の艦砲を転用し多数の防空火器と地下陣地を複郭陣地とした重厚な地下要塞を建築したのですから、海軍の那覇と小録への力の入れようは重い。

 歴史ある飛行場ですが、イーグル飛行しない。しかしそれが却って最近の那覇基地航空祭の雰囲気を醸し出している、とは高頻度で沖縄を散策しているお方の言葉、要するに最近の航空祭の雰囲気とイーグルが飛行できない2011年の航空祭の雰囲気は似ているとのこと。

 九州の部品脱落で那覇のイーグルが飛べない状況が昨今の那覇航空祭と似ている、どういう事かと聞きますと、現在那覇基地航空祭は二日間にわたり行われるという、しかし、小牧基地航空祭が過去に同じ飛行展示を二日間展示した活況と比較すれば全く違うという。

 緊急発進が多すぎて航空祭のプログラムがくめなくなり、初日の最初の飛行展示は正午過ぎ、航空祭プログラムは通常航空祭が閉門となる日没後も開かれ、実質全国の航空祭三日分の時間を基地開放に当てているのですが、飛行展示総数は航空祭半日分でしかない、と。

 南西諸島の緊張が垣間見える厳しい実状ですが、つまり、この間延びした飛行展示のプログラムの方が、まだ昨今の緊張状態のなかで頑張って広報行事を行う厳しさの雰囲気を醸し出しているというお話です。情勢が安定化したならば、元の活況となるのでしょうか。

 2011年といえば我が国は東日本大震災が発災し、当時の民主党政権が初動の対応を誤ったため、国難というべき事態に発展していました。しかし、この後に当方は幾度か沖縄を探訪するのですが、その際には頭上を北朝鮮弾道ミサイルが飛翔し、ちょっと驚かされた。

 ミサイル警報が携帯電話で通知されるという妙な21世紀気分を味わったり、旅客機を撮影している那覇空港の待ち時間に緊急発進が立て続けに発生する、というような緊張は無かったのですね。北朝鮮弾道ミサイル発射で携帯電話にJアラート緊急メールが一斉受信へ。

 このときは那覇市内のホテルにいたのですが、なにしろ当方の周りで本物の空襲警報を知っているのはお爺ちゃんお婆ちゃん世代、祖母は当方沖縄で空襲警報が発令された話をしますと真面目に驚いていましたが、2011年はまだそれほど緊張が大きくなかった時代です。

 しかし、この沖縄旅行の最終日、中国航空機による初の領空侵犯事案が発生しました。中華民国空軍とは第二次世界大戦中にやりやった仲ですが、中華人民共和国航空機の領空侵犯は史上初ということでして、しかも空軍機ではなく公用航空機が低空低速で来たという。

 E-2C早期警戒機を三沢基地から臨時分遣隊として航空自衛隊が緊急派遣する事となる中国機領空侵犯事件はこの数日後に発生する訳でして、それが第9航空団や第603警戒飛行隊と南西航空方面隊創設に繋がる訳でして、この時点でも情勢は決して安泰ではありません。

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【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【1】真冬の航空祭開幕(2011.12.11)

2019-02-17 20:17:23 | 航空自衛隊 装備名鑑
■那覇基地航空祭2011開幕
 日曜特集新連載は南西諸島防衛最前線であると共に、真冬の季節に温かい南国沖縄は那覇基地航空祭の活況を紹介しましょう。

 沖縄、響きとしては寒くなりますと憧憬を感じる地名の一つです。しかし、北海道と並んで気軽に行くには遠い場所でもありまして、なにしろ旅客機でなければ鉄道ではいくことができません。那覇基地航空祭、毎年十二月に開催されているものでして一種憧れでした。

 師走の忙しい時期ということもあり、憧れというのは忙しすぎて行きたくとも行けない、という毎年、航空祭の報道を羨望の眼差しで見ていました。しかし要領を得てきますと師走でもなんとか時間を捻出できるもの、そこで2011年に万端の準備と共に海を渡った。

 本島にはモノレール路線であるゆいレールが整備されていまして、那覇空港と那覇中心部を短時間で行き来することができます。沖縄自動車道にて那覇空港まで移動した当時は渋滞という想定が必要で、なにしろ路線バスからして沖縄は京都以上に遅れる事で有名です。

 結果飛行機お時間ぎりぎりまで観光、という選択肢は若干の勇気を必要とするものでしたが、ゆいレール開通後はその心配もなく、また那覇航空祭へも那覇市内のホテルを朝に出てゆったりと撮影へ行く事ができたわけです。初めて行く航空祭というものは、緊張する。

 地理に疎く緊張するものなのですが、なにしろ駅から徒歩で直接基地ゲートまで移動できる、つまりシャトルバス待ちの長蛇の列に並ばずとも良い、ということは大きな安心材料でしょう。南国、一昔では確かに遠かったのですが昨今はスカイマークのお蔭で身近に。

 スカイマークも2011年に行ってみました数年後に経営破綻してしまい使い勝手は少々変わってしまったのはさておき、高い空路に安価な選択肢を開拓してくれました。スカイマークのワンマン経営は破綻の直接原因であり、ここから学ぶ点は反省の方が多いのですがね。

 時にスカイマークの出現が全日空や日航に早期大幅割引の道を開拓するとともに日本国内の航空旅客需要の大きさがピーチアビエーションやバニラエアとジェットスターというLCC就航へつながった。スカイマークを利用しますと、案外安価に行けるものなのですね。

 2011年、東日本大震災が発災した年ですが、この年の那覇基地航空祭、一念発起して行ってみることとしました。実はこの2011年は普天間飛行場移設問題再燃が大きな問題となっている最中、安全保障上必要な論点である一方で普天間飛行場の写真が手元にありません。

 普天間写真、手元に置かないまま、論じているという状況に忸怩たるものを感じていた頃、そして南西方面の緊張が増大していた転換期、これは改めて撮っておく必要がある、ということで那覇基地航空祭、普天間基地、嘉手納基地、巡行してゆくこととしたわけです。

 那覇基地航空祭、那覇駐屯地祭、自衛隊行事関係なく米軍基地だけを撮影に幾度か沖縄を探訪しましたが、この中で敢えて2011年の航空祭を紹介することとしたのはいくつか理由があります。第一にこのころの沖縄は緊張が高まる時期ではありましたが、まだ平穏です。

 第83航空隊が南西方面航空混成団として防空担い、漸く第1混成団が第15旅団となった頃、現在ほど緊張度が高まった状態ではありませんでした。そして、結果論なのですがこの年度の那覇基地航空祭は飛行展示が残念な事となってしまいまして、これは後述します。

 しかし、昨今の那覇基地航空祭と比べれば飛行展示が活況だった、という、説明するよりも特集を見てもらった方が、という航空祭の雰囲気もありました。知っている方は知っているのですが現在の那覇航空祭は緊急発進の頻度に圧迫されて間延びしているのですよね。

 普天間基地移設問題、自民党時代に橋本内閣時代の日米新ガイドライン確定とともに少女暴行事件が発生し大きく在沖米軍の是非が討論され、その懸念がさめぬ中、沖縄国際大学構内へCH-53重輸送ヘリコプターが墜落するという事件が発生、世論が正に一変しました。

 小泉内閣時代の日米蜜月期を背景にアメリカのラムズフェルド国防長官が普天間飛行場を視察、その際に述べた世界一危険な飛行場であり移設の必要、との言葉から一気に移設論が優勢となりました。ただ前述の通り移設は橋本内閣時代から真剣に検討されていたもの。

 ラムズフェルド長官の発言が発端ではありません。しかし、ラムズフェルド長官の言葉が大きく強調された事もまた事実でしょう。そこで飛行場移設に際し、普天間飛行場は危険、という部分が強調された結果、その移設先選定に大変な難渋があったのはご承知の通り。

 辺野古へ、そして漸く名護市辺野古へ移設が確定したところで、自民党連立政権から民主党連立政権への政権交代が起こり、状況は大きく変わります。その選挙公約に大衆迎合的な、昨今でいうポピュリズム公約が含まれていることが支持され政権交代となりました。

 大衆迎合的な、高速道路無料化に子供手当や建設中の八場ダム建設中止と多々ある公約とともに普天間基地県外移設が含まれ、折角決定したことが中断し、逆行した事が2020年代間近の今日にも影響しています。血の滲むという文字通り合意を一旦反故にすると厳しい。

 沖縄は修学旅行以来だ、という実状なのですが、修学旅行では那覇基地と嘉手納基地に楚辺通信所等は探訪する機会に恵まれたものの、普天間基地までは時間がありませんでした。修学旅行、なにしろ20世紀、驚く事に当時那覇基地写真はF-4戦闘機が多数並んでいます。

 もっと驚くべきはそのF-4戦闘機が百里基地へ移転しまして首都防空の重責にあたっている、ということなのかもしれませんが。しかし、当時率直に感じたのは嘉手納基地がいうほど市街地に近くない、という印象でした。それは基地を多数知っている故の印象ですね。

 岐阜基地や八尾駐屯地のほうが住宅街に近い。申し訳ないが当方はご縁あって岐阜基地航空祭へT-2ブルーインパルスの時代から行っていますので、空軍基地、いや自衛隊基地だが、住宅地に近い基地というものは知っています。小松基地も市街地を背景にF-15が見える。

 八尾駐屯地のヘリコプター部隊なども市街地の真ん中から離陸していますから、ね。しかし、もう一回しっかりとよく見るには、沖縄に行くほか無いだろう、と。その上で那覇基地へ、という事となったわけですがここで残念なお知らせが、ホテルの朝と共に知ります。

 琉球新報に沖縄タイムズがF-15戦闘機の那覇基地航空祭飛行展示中止を報じます、やはり県民の方の中でもF-15を視たいという人は多いのでしょうか、ね。那覇基地は南西諸島防空強化へ従来からの旧式のF-4戦闘機を比較的新しいF-15戦闘機に転換したばかりでした。

 つまり那覇基地はイーグルの基地なのですが、築城基地のF-15戦闘機が飛行訓練中に増槽破裂事故に見舞われます。この関係からこの年度の那覇基地航空祭はF-15の飛行展示が中止という情報を、現地で知ったのでした。この前の週の新田原航空祭は飛行できたのに。

 それでも那覇空港から自衛隊基地を視た事はありましても、航空自衛隊那覇基地へ入るという事は初めてですし、南西方面航空混成団司令部や海上自衛隊第5航空群に第15ヘリコプターの拠点という南西の一大防衛拠点那覇、そんな事もあり意気揚々と出かけた訳です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【8】岐阜航空祭終幕と航空機続々着陸(2014-11-23)

2018-10-28 20:03:00 | 航空自衛隊 装備名鑑
■将来技術拓く岐阜飛実団
 大編隊の飛行展示は順次解かれ、着陸へ。岐阜基地航空祭2014特集は今回が最終回となります。

 戦闘機開発、一つの巨大なプログラムに統合するのではなく、分散し無数の技術が並行し研究されているわけですね。あたかも部品部品を毎週買い続けて結果膨大な費用を投じて完成品に長期間を経てたどり着く、週刊雑誌ディアゴスティーニのような、開発である。

 週刊エアクラフト、という印象だ、と云おうと思ったのですが、週刊エアクラフトという雑誌が実際に在り、小冊子を毎週毎週バインダーに詰め込んで長大な航空雑誌を造る、というものでした。友人知人も買っていたり書いていたり拾っていたり、これは別の話しだ。

 FSX,として日本はF2戦闘機をアメリカとの共同開発により実施しましたが、すべての機体を日本独自で開発することはかないませんでした。当初は双発でステルス性に配慮した双尾翼構造を採用し、新しい第五世代戦闘機として運用可能な航空機を志向していました。

 純国産FSX計画ではカナード翼構造により高い空中機動性を確保する新型機を検討していました。主任務は対艦攻撃で、空対艦ミサイルを搭載、敵の艦隊防空網を突破し、日本上陸へ向かう敵艦隊を一挙に制圧すると共に、空対空戦闘能力を有し防空戦闘にも参加する。

 しかし、日米貿易摩擦による貿易黒字相殺へF16を直接輸入する外交圧力が高まり、F-16をそのまま調達しては日本の国産開発能力が全く育たない、という懸念に直面します。またF-15戦闘機まで維持してきたライセンス生産での製造基盤も直輸入では失いかねない。

 この結果、日米共同開発によりF16を原型として新型機を開発、このために必要な技術を相互に提供する、という玉虫色の結論にいたりました。この画定で日本の戦闘機開発は頓挫したとも考えられたのですが、一方で、必要な技術研究だけは継続されていたのです。

 F2の開発はとの途中にアメリカがF16を基本としつつ、その中核技術であるフライバイワイア機能の提供をソースコード提供の協定を一方的に破棄するという事案がありました、フライバイワイア技術のソースコードを提供されないものでは戦闘機は飛行できません。

 しかし、擬医術を研究していたことが結果につながりました、T2練習機を原型とするCCV実験機が岐阜基地において長期間フライバイワイヤ技術を蓄積していまして、純国産FSXもフライバイワイヤを用いる計画でした、この応用を行うことで対応できたのですね。

 フライバイワイヤ技術は、そもそもステルス機などが航空力学を無視しレーダーに反射しにくい形状を採用しています、レーダーに反射しない事は戦闘機の生存性を高めるのですが、それで飛行中に簡単に安定を喪失し墜落してはまず最初に実用戦闘機となりえません。

 FSXの開発では、フライバイワイヤ技術を、操縦士が上昇する、と操縦動作した場合、通常の舵操作では方向舵を可動させた場合に横風などで揚力を喪失し墜落する懸念がありますが、フライバイワイヤの技術は操縦者が送受動作を行った通りに演算装置が補正を行う。

 フライバイワイヤ技術を通じ飛行安定化へ計算を重ねた操舵を行うことで、上昇したい操縦手の意志をそのまま航空機の上昇動作へ転換する、というシステムです。航空力学よりもステルス性を重視した航空機では、それを飛行させるための技術が必要、ということ。

 アメリカはF16から本格的に実用化していますが、この導入へは開発に多くの技術蓄積を要し、特に議会が国防総省による日本への技術提供に拒否の姿勢を突きつけたわけです。しかし日本はCCV実験機での実績により、この状況をFSX計画は打破できたわけですね。

 F-2開発は実験航空隊以来の技術開発の積み重ねが生んだ成果ですし、F-2戦闘機へ至る際に日の目を見なかった純国産FSX計画の技術はそのままさらに蓄積され、現在のX-2実験機へと繋がり、いつかは将来戦闘機F-3戦闘機へと結実する技術といえるでしょう。

 P2実験機により、CCV実験機寄り前にも日本ではフライバイワイヤ技術の研究を実施していまして、P2実験機による成果がT2実験機としてのCCV実験機へ応用されています。P2実験機では最初の研究で電子操作で操縦動作をフラップに伝送するだけのものでした。

 もちろん、P2実験機より以前にも航空機に搭載しない形で陸上実験設備を用いての長い技術蓄積が行われていたことはいうに及びません、極論で言い換えれば、第二次世界大戦中の海軍局地戦闘機紫電改が採用した空戦フラップ技術の延長線上にあるといってもいい。

 このようななかなか日の目を見ない、長い長い技術開発が応用されているわけです。戦闘機開発では、通常メーカーごとに蓄積した技術を、開発計画が具体化した時点で正式に発動します、しかし日本の技術開発は、開発が具体化した場合でも、そこが終点ではない。

 実用機開発が見送られた場合でも開発計画だけは継続している。日本の実用機開発は、開発が決意された時点での進められている技術研究の成果が総合的に具現化される方式を採っているといっていい。全ての技術開発と研究に終点は無い、というところでしょうか。

 F2は必要であれば当時持っていた技術を総合し、当時の技術の限界範囲内で国産機を開発できましたし、日米共同開発ならばアメリカの技術が提供されない部分や、日本独自の要求性能に基づく仕様へ必要な技術を組み合わせることもできた、選択肢があるということ。

 X2とF2ですが、F2開発の時点ですべてを国産開発した場合、戦闘機という複雑で膨大な技術をプログラムとして一体化させ包括し統合した兵器システムとして完成させることができたのかは、未知数です。国産初の超音速戦闘機であったF1支援戦闘機などは、それ。

F-1支援戦闘機は、電子戦能力の致命的欠如や、ミサイルによる対艦攻撃を行う状況での出力重量比の限界に依拠する機動性への悪影響、射撃管制装置搭載位置に起因する後方視界の影響、中距離空対空戦闘能力欠如、F1支援戦闘機は設計と実性能が及第点以下といえる。

 要員の戦術研究と運用体制に補強され、必要な性能を辛うじて発揮していました。この問題の根底は個々の分野の技術に秀でたものはある一方、システム全体を統合化するプロジェクトマネジメントの手法と意見集約方法へ、未熟な部分があったかもしれません。

 将来戦闘機を開発するに際して、やはり大きな問題は第五世代戦闘機に続く第六世代戦闘機の運用と必要な能力、戦術と戦略を開発者と運用者が意見と認識を一致させ、その上で航空機というシステムへ反映させることができるか、という部分に収斂するでしょう。

 これは、しかし同時に防衛産業と防衛省の癒着と誤解されかねない構図ともいえ、もちろん戦闘機という単純な零戦や飛燕の時代とライトニングやイーグルに続く戦闘機システムとしての複雑を理解したならば、長期化、開発と関係する企業も複雑化する事は自明です。

 岐阜基地航空祭はこうした日本の戦後航空機開発、特に草創期は徒手空拳というべき予算も無ければ技術も廃れ、その中で文字通り世界に追い付くための血の滲む努力が進められてきました。飛行展示を終えた航空機は、その技術を抑止力へ繋げる熱意の結晶といえましょう。

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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【7】飛実団,異機種大編隊第二第三飛行(2014-11-23)

2018-09-30 20:10:38 | 航空自衛隊 装備名鑑
■大空に織りなす異機種大編隊
 岐阜基地航空祭最大の目玉、異機種大編隊は次々編隊を組みかえて航過します。

 戦闘機開発、航空自衛隊が主力として運用するF-15開発の前に、相当な苦労がありました。当初は、アメリカが空軍と海軍が共通する戦闘機を採用したならば、量産効果が上がり運用費用も安価に抑え、国防費を最大限有効活用できるという視点から行われました。

 しかし、この種の開発は用途の違う航空部隊の需要に合致させる事は難しく、海軍航空隊と空軍ではどちらか一方に主導権を付与させるわけにもいかない、都合開発を複雑化させてしまい、これは今日の多国間共同開発F-35等の開発よりも難しい条件があったのです。

 とにかく海軍が空母艦載機として艦隊防空に必要な性能を全部盛り込もうとしましたし、空軍は戦闘爆撃機として必要な性能を盛り込みましたので、どんどん機体が期待とともに大型化しまして、身軽さは失われ、とても格闘戦を実施できる期待とはなりませんでした。

 F111は戦闘爆撃機として敵基地破壊や指揮中枢への攻撃には最適の航空機、戦略空軍が長距離打撃戦闘にも用いる事が出来、F-111を戦闘機ではなく設計が想定している戦闘爆撃機として運用する限りでは、非常に優れた航空機なのですが、戦闘機としては向いていない。

 統合戦闘機として鳴り物入りで開発されたF111,海軍は大型すぎて航空母艦に充分搭載できないとして拒否しますし、空軍も戦闘機としては性能が不十分、としました。もちろん、それだけで大量の開発費を投じたものを廃棄にはできませんので、用途を考える事に。

 F-111は結果、海空軍の主力戦闘機として当初想定された数千機単位の量産は行われず、少数が戦闘爆撃機、そして電子戦航空機に転用されました。この中で、F15は誕生しました、同時にF14も誕生している。空軍がほしい航空機は自前で開発、海軍も同じように行う。

 F15とF14の誕生ですね。F15は技術的に開発し得る最高出力のエンジンを二つ搭載し、レーダーにより大型化する機体を高出力のエンジンで遮二無二機動力を確保する、機体に掛かる強烈な重力負荷はチタン合金はじめ機体構造をとにかく頑丈無比なものとしました。

 F15はこうして開発されています。結果、とにかく機体は頑丈で多くが積めますし、新しいレーダーもコンピュータも追加搭載することができた、多くを積める能力は偉大です。そして機体構造が頑丈ですので、老朽化まで時間があります、これも長く使える理由です。

 そして鈍重になることなく、機体を機動性とともに戦闘機として成り立たせる、強力なエンジンを搭載していた。こうして何度も近代化を重ね現代でも通用する航空機が完成しました。新しい情報処理装置や新型レーダーを搭載し、ミサイルも大量に搭載できるゆえ。

 この戦闘機は戦闘機のロールスロイスと呼ばれ、ロールスロイスというよりも個人的にはアメリカの戦闘機ですので戦闘機のキャデラックというべきだともおもうのですが、調達費用も維持費も高価な戦闘機として完成、この航空機を自衛隊は多数を導入したわけです。

 経済大国と呼ばれるようになった当時の日本でも、自衛隊にとってF15は高かった、防衛費が二兆円以下の時代に為替レートの関係から一機180億円といわれた航空機です。例えれば2000年代に自衛隊がF-22を導入するような、それ程の経済的負担と云えましょう。

 安い戦闘機が欲しければF16という機種もありました、中距離空対空ミサイルの運用能力が初期型にはなく、それこそ開発当時はF104をそのまま置き換えるような性能にとどまっています、順次改良されまして、もっともその分相応にF-16でも高価になるのですがね。

 F-15戦闘機は航空自衛隊が導入した当時、二兆円程度の防衛予算で当時為替レートの関係で一機180億円という極めて高い戦闘機でした。経済大国と呼ばれるようになった日本でも、この費用は、特に防衛費にはGNP、今のGNIで1%の枠があり高いものでした。

 F-16,中距離空対空ミサイルの運用能力はもちろん、対地攻撃にも威力を発揮するようになります。しかし当時はそれほどではなかったし、もともとF16は何十年も運用するような頑丈な設計ではなかった、そこで航空自衛隊がF15を導入したのは正解であったといえる。

 三菱重工によりライセンス生産が実施されたF15は、当初96機程度の調達に止める計画でしたが、F104戦闘機を置き換えた後にF4戦闘機の後継としても調達されることとなり、毎年15機程度が生産されることとなりました。これはほぼ一個飛行隊に相当する規模だ。

 F-4戦闘機では調達費用の90%がライセンス生産されていましたが、F-15は70%と国産率が低くなったとされ、部品の一部はアメリカからの直接供与に依存しましたが、飛行基幹部品などは日本国内に生産基盤を構築し、日本国内で整備と補給と維持できるようなった。

 これにより飛行に必要な支援体制はすべて三菱重工により実施できる体制が整いました。その上で、構造寿命の計算や近代化改修などの基盤も構築されることとなります。すると、レーダーの改良や新型空対空ミサイルへのソフトウェア適合も日本国内で実施出来ます。

 戦闘機のキャデラック、いやロールスロイスは単に高級志向ということで導入されたのではなく、必要であるために導入されたのですが、基本性能は高いまま、長大な戦闘行動半径と国内の運用基盤と総合し、日本防空に欠かせない基幹装備となっていったわけです。

 F-15は古い戦闘機という印象ですが、近代化改修も重ねて実施されていまして、このF15近代化改修にはロシア製Su27戦闘機に匹敵する費用を要しますが、敢えて新しい戦闘機を調達するのではなく改修予算へ投じ、今尚第一線で通用する高性能を維持できています。

 岐阜基地飛行開発実験団と防衛装備庁では現在、将来の日本の防空を担う二つの将来戦闘機計画が進展中です。一つはアメリカから導入した国際共同開発の統合打撃戦闘機F35,そしてもう一つは防衛装備庁が開発を続けている国産戦闘機開発へ技術を強化すること。

 先端技術実証機X2を基本とする将来戦闘機開発です。F35については防衛省が導入を進めていますが、岐阜基地飛行開発実験団では今年の三菱FACO最終組立機初飛行に先んじ、防衛省が次期戦闘機としてF35を導入し早々にF35準備隊を設置し、導入準備にあたった。

 X2は先端技術実証機であり、これまでに開発した様々な技術を航空機の形状として実際に進空を行った上で検証する実験機材です。このため、独自のエンジンと飛行性能を有していますが、このX2にミサイルを搭載し、次に実用航空機、とできるわけではありません。

 ただ、防衛装備庁は技術研究本部の時代から様々な航空技術を分散し研究しています、機体構成素材や制御技術、レーダーから操縦装置、小さなものでは安定翼付け根の素材研究、操縦席の配置研究なども行われています。この中から勿論、日の目を直ぐ見るものもある。

 しかし、技術研究は諸外国から見れば簡易な裾野研究を積み重ねており、その裾野研究が次世代まで持ち越して部分的に応用されるものもあります。即座に使えるものではない分、汎用性ある技術をそのまま培ってゆくだけというものもあり、気の長い開発なのです。

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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【6】飛実団,異機種大編隊第一飛行展示(2014-11-23)

2018-09-16 20:07:31 | 航空自衛隊 装備名鑑
■岐阜航空祭多機種の最大名物
 岐阜基地航空祭、いよいよ戦闘機から練習機に輸送機まで多機種の航空機が編隊飛行、異機種大編隊が展開される瞬間がやってまいりました。

 日本は専守防衛だからこそ戦闘機を始め主要な装備の自主開発能力を持つ必要がある、自主開発できなくとも開発を行う姿勢を見せなければ、第一線航空機を供給する国からの政治的圧力に屈しやすく、専守防衛を堅持する事への政治的な空隙を醸成しかねない。

 一方で、日本は武器輸出三原則を拡大運用した事で、海外への装備供給という選択肢を敢えて封じており、結果的に量産効果のうすい割高な防衛装備品を調達することしかならなくなりました。しかし、規制を行う国の兵器輸出は購入側からも厳しいものがあります。

 スウェーデン製軍用短機関銃はヴェトナム戦争中にアメリカ軍の准制式火器となっていたのですが、スウェーデンはヴェトナム戦争に反対する立場から輸出を中止し、アメリカはS&W社に代替装備開発を依頼しています。これは受け手からすれば重大な問題でしょう。

 中立国などには供給を維持していましたが、スウェーデン装備は近年の武装中立政策転換まで、それ程の多くは売れていません。その後は例えばCV-90装甲戦闘車が成功し欧州共通装甲戦闘車の地位を射止めたように、傑作装備を多数輸出するようになっていますが。

 日本の防衛産業は、レーダー等の汎用品や情報処理装置での躍進、画像素子と映像システム等は大きな評価を受け、多くの海外製装備品の基幹技術として転用されていますが、完成品としての装備品輸出は事実上不可能となっており、自衛隊専用ともなっています。

 結局近年の野田内閣による緩和措置までほぼ全ての防衛装備品を輸出できなくなりました。ただ、この政策の難点は日本製電子機器や汎用品には兵器転用可能な技術が多く、武器を輸出していないわが国でも、その政策は思った程の世界から評価を受けていない点です。

 その一方で、これは輸出による量産効果を目指すには破滅的な禁止政策なのですが、これをもとに高コスト化を擁護する究極の保護政策ともなりえる、海外へ輸出を自制するのだから海外から輸入も自由自在としない、いわば防衛装備品の鎖国政策ともいえました。

 限られた予算ですが、日本は防衛装備開発を、それこそ草創期は国産戦闘機などもってのほか、作業服や防寒着などの被服の開発や、缶飯はじめ糧食関連の装備開発など、いわば太平洋戦争で灰燼に帰した軍需産業の生き残り、小規模なものに限られる事となりました。

 そして連合国により廃止されることなく民生事業へ転換した新興産業を再編し協力しての防衛産業育成でした。しかし、1950年の朝鮮戦争勃発とともに国連軍装備整備や補給などの日本における重工業復興の端緒についたことから、転換点を迎える事となります。

 日本の装備開発は、戦後の自衛隊草創期こそ分野は限られていましたものの、将来はすべての分野で国産化を志向し、その一例で航空防衛では世界最高水準の戦闘機を含め航空機開発を目指す、という防衛力整備と防衛産業の一体化により進展していったわけですね。

 F15戦闘機を航空自衛隊は最終的に213機導入しましたが、F-15、この施策は日本の防衛政策をその後30年以上にわたって大きく貢献することとなりました。これを調達費用が半分程度であるといってF16を導入した場合ではこのようになったかはわかりません。

 F-14戦闘機が導入当時には大きな競争相手として認識されていますが、長距離迎撃能力があるとして有力視されつつ費用面で導入にいたら無かったF14を導入していた場合でもここまでの実績は残せなかったでしょう。それはF-15の高い発展性が裏付けていました。

 アメリカ空軍が将来戦闘機として当時は戦闘爆撃機として航空阻止能力が重視されていた戦闘機開発に敢えて一線を画し、1960年代に開発を開始したF15は迎撃専用の戦闘機を一歩凌駕し、航空優勢を喪失している空域へ長大な航続距離をもって展開する戦闘機です。

 敵制空権下へ進出するF-15戦闘機は相手の迎撃戦闘機をすべて撃墜することで制空権を確保するという、制空戦闘機、という性能を期して開発された戦闘機です。このため、長大な航続距離を有する戦闘機として開発され、火器管制装置も最高度の物を搭載しました。

 しかし、当時は戦闘機に様々な性能を盛り込んだ場合、機体が重く鈍重となり軽量戦闘機との格闘戦に勝てない、という問題を含んでいました。航続距離を稼ぐには大量の燃料を搭載、遠距離戦闘を行うには空対空ミサイルの大型化とレーダーを受け入れねばならない。

 この点についてはアメリカ空軍もヴェトナム戦争においてF4ファントムが遙かに格下のMiG21戦闘機やMiG19戦闘機に格闘戦を挑まれ苦戦した経験があります。空軍には軽量戦闘機もありましたが、軽量戦闘機は戦闘行動半径の問題から主流とはなり得ていません。

 F4ファントムは、当時としては長距離レーダーを搭載し専門のレーダー管制要員を搭乗させる複座型を基本としています。これにより軽量戦闘機の攻撃を受けた場合は高度なレーダーによりその接近を長距離から捕捉し、専門のレーダー管制士官が追尾してゆきます。

 長射程のスパローミサイルにより一方的に撃墜する、という運用を基本としていました。しかし、混戦となりますと遠距離を隔てた目標が味方のF100スーパーセイバーが戦闘爆撃任務に当たっているのか、敵のMiG19が攻撃を行っているのか、簡単にはわかりません。

 識別、そこでIFFという敵味方識別装置を搭載し、レーダーを照射した場合に味方戦闘機であれば応答する自動識別装置を搭載したのですが、これがよく故障する。結果、あてにならないので肉眼で目標を確認することとなり、この確認の間隙で格闘戦になってしまう。

 F4ファントムはF104スターファイター戦闘機が一基搭載するJ79エンジンを二基搭載しています。このJ79はアメリカがジェットエンジン草創期から高性能と世界の第一線を担っていたイギリスのロールスロイス社製エンジンを初めて上回った高性能エンジンでした。

 F-4戦闘機はそのJ79エンジンをF4は二基搭載しています。機体は大型レーダーの搭載で確かに重い機体ですがJ79の双発でこれを上回る高性能を発揮できましたので、MiG21に対抗することは充分可能でした。空対空戦闘でも運動性能は当時の戦闘機として充分です。

 ただ、当初F4はミサイルキャリアーとして格闘戦を想定した訓練が不十分であったことから、訓練を転換するまでは苦戦を強いられました。初期型には機関砲不要論の影響があり、これも設計時点で格闘戦不要論が海空軍の要求仕様に影響していたとも言えるでしょう。

 ここでF4を運用していた海軍は専門教育課程として有名なトップガンをミラマー航空基地に設置しますが、同時に海軍と空軍が次期戦闘機の開発を開始しました。作戦運用環境と航空戦闘の様相転換へ対応する、文字通り世代交代を期した戦闘機を欲した訳ですね。

 F111アードバークとして海軍と空軍の共通戦闘機を開発していましたが、これはミサイルキャリアー時代の象徴するような航空機として開発されていまして、実体は戦闘爆撃機、いや爆撃機が戦闘機の形状をしている、多少自衛戦闘は可能な爆撃機、という設計だ。

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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【5】F-2機動飛行と岐阜航空祭祝賀会(2014-11-23)

2018-08-19 20:15:41 | 航空自衛隊 装備名鑑
■快晴祝う岐阜基地航空祭祝賀会
 岐阜基地航空祭はF-2飛行展示と共に祝賀会へと進みます。そして祝賀会職と同時に救難飛行展示も実施され、並行して異機種大編隊飛行展示も準備が進む。

 岐阜基地実験航空隊は1960年の時点でF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、各種航空機による評価試験を実施していました。

 日本は第二次世界大戦中にジェット機開発には成功していました、日本は精神論重視といわれますが、それも技術の裏付けがあって。ドイツからの技術導入が大きな原動力とはなりましたが、中島飛行機の橘花は、一応の完成したジェット攻撃機として完成しています。

 橘花は高速飛行に適した後退翼構造を採用し、中島飛行機、のちの富士重工で現在のスバルにより開発されていましたが、特殊攻撃機の名の通り、この日本初の実用ジェット機は特攻専用機となっていました。ジェットエンジン、キ20エンジンは今も現存しています。

 搭乗員の内情を考えますと、特殊攻撃機が最初の実用機であったのは残念ですが、当時の戦況を考えますと、国内の戦闘機量産網は航空攻撃とシーレーン途絶により激減、少数のジェット機を活かし最大戦果を目指すには特攻の非情戦術しか、消去法で残っていません。

 そこまでして戦争継続を行った当時の政府に非難を集める歴史教育の手法もありますが、決死の航空攻撃を継続したことで地上戦は沖縄と満州や北方領土、それに南洋諸島に止められました。技術開発の努力が辛うじてこの状況で抑えた、といえるかもしれませんね。

 県民の三割が死亡した沖縄戦の悲劇を思い出せば、外地居留民含め一億の人口、その三割が死亡していてもおかしくありません、太平洋戦争での日本の戦死者犠牲者350万、悲壮な特攻作戦を筆頭に文字通りすり切れるまで航空攻撃と海上攻撃を継続した結果は。

 東京や大阪を戦場とする戦闘はありませんでした、パリが戦場となったフランスやベルリン陥落後も占領地域での最後までの戦闘は勿論、国土全域での戦闘を継続したドイツを考えますと、航空戦力の意味と大量の戦死者はせめて、無駄ではなかった、といいたい。

 日本の航空技術開発が目指したのは、技術立国として国産戦闘機はじめ高度な航空機開発能力を整備することで、二度と国土を戦場とせず、特攻のような悲壮な航空作戦のほかに選択肢がないとの状況に追い込まれないように、という願いも込められているのでしょう。

 草創期の飛行開発実験団、実験航空隊はF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、という陣容、バンパイアは地上試験用でした。

 ここからF-104戦闘機やF-4EJ戦闘機と飛行開発実験団の航空機は順次増強され、同時に各種実験機材からF-1支援戦闘機やF-2戦闘機と技術が実り、X-2実験機による評価試験やF-35戦闘機導入、長射程AAM-4空対空ミサイルやASM-2空対艦ミサイルが生まれた。

 岐阜基地飛行開発実験団は日本独自の航空機開発技術を維持し、抑止力として戦争を回避すると共に万一の際には戦闘を極力短期間で終息させ、平和的生存権を護る為の技術の要塞、特に戦闘機の能力を最先端とする事で他国に付け入る隙を与えない事に在ります。

 しかし、戦闘機という装備はシステム化されており、単純に高出力のエンジンを機動性に配慮した燃料タンクを内蔵する機材に搭載、もしくは積載し、それに機関砲を搭載して完了、という簡単なものではなく、エンジン一つとっても機械工学と電子光学の結晶です。

 強い戦闘機は期待とエンジンの組み合わせ、そんな単純な戦闘機設計で対応できた時代は、それこそ航空転換期に日本が航空機開発を封じられていた十年間で過ぎ去ってしまいました。もちろん、現在でもその手法は可能ですが、設計に無駄が生じる事も否めません。

 草創期のジェット機は珍奇な構造のものが多く、試行錯誤の苦闘がその設計や写真からかいま見得ます、ジェットエンジンの推力が足りないのでターボプロップエンジンと併用した設計というものもありましたし、ロケットエンジンを搭載したものさえありました。

 これ、海上自衛隊のP2J哨戒機を思い出しますが、P2Jが緊急用に補助エンジンを搭載したのにたいし草創期は巡航飛行の際にプロペラとジェットエンジンを併用しているものもおおく、しかもジェットエンジンとプロペラエンジンを搭載した戦闘機があったほど。

 ジェットエンジン単体では巡航飛行が限度であるので翼にロケット弾と並べてロケットエンジンを轟々と噴出し推力不足を補った事例はある意味凄い発想で、一回使えばその加速手段が無くなりますが、当時の運用思想ではそうしてでも航空戦に対応しようとしたもの。

 日本の航空機開発は、飛行機の草創期のような、この試行錯誤が続いた時代に航空機開発から隔絶されていたことで、不思議な航空機は開発されませんでしたが、技術から起き去られたことで失敗から拾得できる貴重な技術情報に連接することができなかったわけです。

 その技術を追いつくことが目下のところの、そして草創期から続く飛行開発実験団の責務でもあります。ただ、防衛予算が限られる中、航空機開発に投じることのできる予算は極めて限られており、そのなかで我が国では創意工夫により部分部分を開発してゆきました。

 自衛隊は専守防衛を国是としており、このために可能であればすべての装備品を自給自足し、国際関係の影響による装備品調達の影響を回避するという壮大な希望がありました。こうした発想は現代のスウェーデン、昔のスイスの兵器開発に通じるものといえましょう。

 実のところ、日本の防衛はアメリカとの同盟関係により国土総力戦を専守防衛政策が不可避であるところを、目理科の抑止力に依存することで国土戦を回避しつつ、しかし日本本土への限定侵攻は我が国がその独力で排除するという、難しい防衛政策を採用しています。

 この施策は、一方で必ずしも一国平和主義を放棄したわけではなく、極力国際情勢に距離を置きつつ、しかし国際社会の一員としてその発展に参画したいという矛盾する政策への我が国が導きだした一つの方法論でもあり、そのために技術開発を行っている訳ですね。

 国産装備開発ですが、大きな影響を与えたのは武器輸出三原則です。もともとは共産圏や紛争当事国と国連制裁対象国への武器輸出を禁じた限定的な武器輸出制限政策でしたが、拡大解釈に拡大運用が悪循環を招き、法的な線引きがその都度不明確となってゆきます。

 防衛産業も折角輸出を考えた場合でも生産設備を強化したとしても最後に通産省や外務省が輸出禁止を突き付ける可能性もあり、長期的に輸出計画を構築できない、また最先端装備を欲する国もいつ供給が止まるか分らない装備は頼まれても欲しくは無いでしょう。

 実際問題、例えばスウェーデン等は武装中立政策を採る一方で国産兵器の輸出を積極的に行ってきました、スウェーデン居奥では防衛産業を維持するだけの装備調達を行えない為ですが、紛争当事国へ輸出しない政策を採っていました。実際輸出を停止した実例もある。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【4】F-15機動&編隊飛行,XASM-3展示(2014-11-23)

2018-07-01 20:12:19 | 航空自衛隊 装備名鑑
■青空を往くイーグル飛行展示
 岐阜基地航空祭、XASM-3初公開とともに装備品展示を眺めていますと、同時並行してF-15飛行展示が始まりました。

 岐阜基地航空祭は撮影ポイントから見ますと、北側メイン会場の最新鋭機が並ぶ情景と南側会場の順光の環境がある。その移動にはシャトルバスを利用する事で、滑走路の向かい側にも素早く移動する事が出来る。これで人一倍航空祭を愉しめるという話題の続き。

 シャトルバスが混雑している場合には、シャトルバスを断念して徒歩で南側会場に移動するという選択肢があります。滑走路の信号が赤信号のうちに急いで歩行者信号を横断、ということではありません。当たり前ですが、基本徒歩で滑走路は入ることができません。

 滑走路は、落下物確認の要員かランウェイウォークという滑走路散策の専門行事がありますが、航空祭では絶対滑走路立ち入り禁止、誘導路とを結ぶ安全ロープを越えてはなりません、ではどうするか、簡単です、歩いてゆけばいい、基地外周道路を徒歩で移動する。

滑走路は安全帯含め3km以上ありますので一周したならば幅を含め8kmになってしまいますが、メイン会場から南側会場まで2kmから3kmほど、歩いて40分前後です。利点は天井が無い点、歩いている最中に飛行展示が始まりましても、歩きながら撮影すればよい。

 誘導路沿いに撮影する事もできます。絶対混雑しませんので純粋に家族や友人と航空祭を楽しむには誘導路沿いを敢えて選ぶ航空愛好家も少なくありません。少なくないならば結局混雑するのでは、と思われるかもしれませんが、実はこの撮影位置、全長は非常に長い。

 誘導路沿いは2kmから3km、1mに2人で並んだ場合でも最前列だけで数千名が最前列に並ぶことができる。もちろん、飛行展示は遠いです、また滑走路北側の誘導路沿いですので確実に逆光となります。誘導路沿いで撮影最適の位置というと限られるのですが、ね。

 それでも混雑しない、人混みは疲れるという方々には理想的な場所でしょう、お弁当を持ち込んで家族で楽しむこともできる、最近は誘導路沿いにお手洗いも配置されるようになりました。どのくらい余裕がある場所かと問われれば、脚立を使っている人が居ません。

 誘導路は、着陸した航空機がメイン会場へ戻る経路でもあります。その誘導路を進む様子は、この誘導路沿いの撮影位置から航空機の優美な姿を間近に写すことができる好立地です。また、制動傘、ドラッグシュートともいわれますが、この撮影にも理想的な場所だ。

 ドラッグシュート、着陸後これを切り離す瞬間も写すことができます。誘導路は一機二機ではなく、編隊飛行に参加した航空機が一斉に着陸しますので、誘導路を曲がり込む瞬間に複数航空機が重なる瞬間を望遠レンズで撮影しますと、これはなかなか迫力があります。

 躍動感ある航空機写真へ、敢えてこの場所で撮影するという方々の話も頷けるものです。そして北側と南側の中間にあり、歩いて南側会場へ向かう場合はこの誘導路沿いを通りますので、敢えて一回二回、誘導路を進む航空機撮影へ歩みを止めてみるのも一興でしょう。

 かかみがはら航空宇宙博物館、岐阜基地に南側から隣接する博物館ですが、この周辺から撮影するという方法もあります。撮影位置としては遂に基地を出てしまった、という立地ですが、ここはここで興味深い、もちろん民有地に隣接しますのでマナーには注意したい。

 特に総合予行などの際には基地にはいることができない航空機愛好家の定番撮影位置といえるでしょう。実際、日曜日に休むことができない業種の人たちにはここから予行を撮影することで本番のメイン会場より遙かに優美な編隊飛行や機動飛行を撮影する方々も多い。

 ただ、距離がありますので若干長めの望遠レンズが必要となります。一方、編隊飛行については多数の航空機が参集する異機種大編隊を中心に、南側会場の真下から仰ぎ見るよりも、少し距離をおいた航空宇宙博物館側から撮影した方がまとまってみることができる。

 南門が開放されている年度には、岐阜基地でメイン会場を撮影した後に、南門へシャトルバスで移動するという行動が可能でした。ただ、南門は開放されない年度も多く、この場合は一旦、正門から基地を出まして基地外周と工業団地を抜けて歩かなければなりません。

 博物館へは、若宮神社と切り通しを経て移動することになりまして、徒歩では正門から40分ほど要します、この長時間、しかも外周道路は電線や建物等の障害物も多いのでこの間、飛行展示を撮影する事はかなり厳しい。しかし、予行を撮影するには理想的でしょう。

 南側会場に到着しますと、最初に出迎えてくれるのは保存展示航空機です。C-46輸送機が間近に雨が降った際には雨宿りできるほどに近くへ寄る事が出来ます。そしてこの機体は他の基地からの転用ではなく、岐阜で評価試験に用いられていた航空機、他にも多数並ぶ。

 岐阜基地は航空自衛隊技術開発の拠点です。並ぶ多くの保存機が物語り、そして日本の航空技術は第二次世界大戦後に連合国により航空機開発を禁止された空白の時代があるため、ジェット機の草創期という最も重要な時期に技術開発から取り残されることとなりました。

 十年程度の空白期間ですが、航空機開発で十年間というものは特に転換期にあっては致命的です。エンジン開発一つとっても空白は厳しく、そして航空自衛隊を筆頭に日本の航空産業はこの十年間を取り戻すために今なお苦闘しているといっても過言ではありません。

 第二次世界大戦中と冷戦初期の軍事技術発展は、今日の視点から見ても異常としか言いようがない速度でした、超音速爆撃機B-58や核攻撃用爆撃機を運用可能なフォレスタル級空母の出現、なにしろゼロ戦が制式化されてからファントムが出来るまで僅か十数年です。

 航空開発十年の空白、思い出すべきは日本が敗戦を迎えた1945年、その十年前の1935年は複葉機と単翼機の過渡期であり、実用機では第一線用戦闘機を含め複葉機がまだ多数を占めた時代で、例えば日本海軍の主力艦載機であった九五式戦闘機も複葉機でした。

 単翼機もあるにはありましたが、海軍九六式戦闘機は一見近代的な単翼機でありながら、車輪の脚部は固定脚であり、風防も密閉式ではなく、文字通り正面部分の風除けでしかありませんでした。ゼロ戦と愛称される零式艦上戦闘機の開発は九六式戦闘機の後継です。

 ゼロ戦誕生、固定脚と半密閉風防、それが零式艦上戦闘機から一挙に近代化、1945年には旧式化が著しく、高出力の小型エンジンと高高度飛行に必須の排気タービンの連接技術に苦闘しつつ、同時に陸軍は一式戦隼から毎年新型戦闘機を制式化してゆきました。

 欧州では初期のジェット戦闘機メーッサーシュミットMe262とイギリスのミーティアが実用化され一方は爆撃機迎撃に威力を発揮し、もう一方は巡航ミサイル迎撃に奮闘、アメリカも数年でP80戦闘機としてのちにF80へと発展する航空機を開発しているわけです。

 朝鮮戦争緒戦で活躍するジェット戦闘機の原型が初飛行を待っていました。ジェット戦闘機の時代、日本もキ20エンジンとしてドイツより潜水艦を用いジェットエンジンの導入に成功、この国産化を図ると共に国産初のジェット機、特殊攻撃機橘花を開発しています。

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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【3】技本,超兵器XASM-3型初公開(2014-11-23)

2018-06-17 20:14:09 | 航空自衛隊 装備名鑑
■岐阜飛実団&技本装備品展示
 飛行開発実験団と技術研究本部装備品展示を飛行展示の様子と共に紹介しましょう。技術研究本部は現在の防衛装備庁へ拡大改編されています。

 岐阜基地航空祭の撮影、最前列からメイン会場の飛行展示を撮影しますと、逆光ではあるのですが、離着陸の瞬間、滑走路に車輪が接地した瞬間の白煙から制動傘を展開し切り離すまでの迫力の情景を撮影することができまして、どの瞬間も格好よく撮影できます。

 この情景を撮影することができるのはメイン会場最前列のみです。開門二時間半前に並び、要領よく最前列に走り込めばメイン会場最前列を確保することができます。数名で基地へ展開し、順番で地上展示撮影及び買い出し班と撮影位置確保班に分けて航空祭を愉しむ。

 航空祭でこのようにローテーションを組めば効率よく撮影できます。しかし一人で撮影できないのかと問われればそうではありません、一人で撮影する場合は食事と水分を携行し、主立った撮影を完了した後に地上展示へと転進するという撮影方法もあり得るでしょう。

 南側会場、順光で撮影するにはこの南側会場が最適です。年々人気が増大しているのが南側会場です、勝手に南側に入り込んで撮影しているというようなものではなく、列記とした航空祭実行委員会が設定している会場です。北側のような地上展示航空機はありません。

 しかし、正門に近いことから南側会場付近には航空機保存展示地区がありまして、F86昼間戦闘機にF86D夜間戦闘機とF104全天候戦闘機にT-34練習機にT6練習機とC46輸送機などが並んでいます、エプロン地区と異なり、航空機発着施設や整備施設はありません。

 岐阜基地の南側は倉庫区画や地対空ミサイル陣地になっているのですね。正門から近い南側会場ですが、岐阜基地は実は飛行開発実験団が主力の基地ではなく、第2補給処が拠点とする基地です。航空自衛隊には3カ所しかない補給処ですので、その意味は大きい。

 実戦部隊として考えた場合にはこの岐阜基地第2補給処は日本防空を左右する重要施設です。岐阜基地正門はそのまま第2補給処に至りまして、岐阜基地司令も第2補給処長が務める。南側会場には売店も出店も手洗い設備も潤沢にありまして、航空祭を楽しめます。

 南側会場でも最前列付近は混雑することも確かなのですが、最前列を確保できなかった場合でも、順光での撮影環境はほかに代え難い。そして、メイン会場程航空機に近くない関係から、最前列競争はメイン会場ほど厳しくはありません、芝生の上に座る事も出来る。

 岐阜基地航空祭南側会場は、晴天の日に撮影しますと航空専門誌に載る写真そのものの構図で撮影することができ、最前列を確保できなくとも群衆の頭上を大編隊が飛行します。曇天の日には少々鈍ってしまう撮影条件ですが、晴天となりますと抜群の撮影環境です。

 戦闘機機動飛行も模擬対地攻撃も全部順光で頭上を一直線にメイン会場に向かう様子を撮影できます。こう書きますと、最前列を確保している面々はなにを撮影しているのかを興味深くなるかもしれませんが、実は滑走路の向こう側に北側のメイン会場が見えるのです。

 それがどうしたのかといわれますと、メイン会場には管制塔に格納庫、並ぶ地上展示航空機が滑走路の向こう側に見える。着陸した航空機はすべて滑走路を誘導路へと進みます、イーグルと管制塔、ファントムと管制塔、F2と管制塔、基地らしい迫力の写真が撮れる。

 岐阜基地航空祭、メイン会場と南側会場があります。メイン会場は飛行展示がすべて逆光になってしまいますが、離発着の迫力の様子や戦闘機の制動傘展開の様子を撮影できますし、飛行展示参加航空機の列線が間近にあり列線整備の様子から誘導路をゆく航空機まで。

 航空祭の機械音と空気た雰囲気を体感でき、そして格納庫はじめ日本初公開となる装備品や航空機も多い。初公開の航空機というと国産ステルス戦闘機への技術実証機となるX2実験機も岐阜が日本初公開、日本国産機ですので世界初公開ですが撮影できました。

 中国空母から日本を守るXASM-3についても世界初公開は岐阜基地でしたね。南側会場は順光、飛行展示も編隊飛行もすべて順光ですので快晴の日には青空に映える航空機をこれでもかというほど撮影することができます、迫力の度合いが違う、というところか。

 逆光の写真十枚撮影するよりも順光の写真一枚のほうが撮影後、特に数年後の満足が違います。昔は、それこそ逆光順光の意味を実感する前のブルーインパルスがまだT2であった時代に、何処から航空専門誌記者は順光に撮影できているのか、と不思議に思っていた。

 南側会場から撮影したならば、疑問解決、いい写真、満足できる写真、撮影できます。編隊離陸する航空機を青空背景に撮影できますと、何度もWebで使いたくなる写真を撮影できます、編隊離陸は一機の機動飛行よりも迫力があります、音が聞こえるような写真だ。

 これを順光で撮影したならば、青空と機体塗装がよく映える。好い写真を撮影できますと、別の話題の記事でもWeblog北大路機関では活用しますので、これぞ航空機だと叩きつけるような写真を撮影できる意味は大きい訳で、多くの方も撮れるならば良い条件で撮りたい。

 二者択一、ウェストミンスター方式の勝ちは総取り、メイン会場と南側会場はそのように思われるかもしれませんが両方行くこともできます。京都の北にあるかの鞍馬で天狗に十五年、師事したならば滑走路を飛び越える飛行術が使える、というわけではありません。

 伊賀で二十五年修行したならば分身の術が会得でき両方撮影できるのでもありません。京都の九条で残業を重ねればその残業代でもう一人カメラマンを雇ってメイン会場と南側会場で同時に撮影できる、という訳でもありません。シャトルバスが運行されているのです。

 シャトルバスはメイン会場の輸送機用格納庫前から南側会場保存展示区の間を結んでおり、所要時間四分、多少並ぶ時間帯もありますが、飛行展示の合間の時間帯、本来この時間こそ移動の適した時間ですけれども、時間帯では待ち時間なしで乗車することも可能です。

 シャトルバスへ長蛇の列が伸びている事もあるのですが、一般車両の通行が出来ない基地内では渋滞が起きませんので、シャトルバスは次々と臨時バスターミナルへやってきまして、列は素早く動き、時間帯を工夫することで当方は十五分以上待ったことはありません。

 飛行展示プログラムを慎重に検証し、飛行展示でもっとも迫力のある異機種大編隊飛行のようなメインプログラムの時間帯に南側撮影位置確保をおこなうにはどの時間帯に移動するかを考えまして、南側滞在時間を多めに確保して、地上展示航空機だけ、ともできる。

 岐阜らしい航空機を撮影する、例えばブルーインパルスの飛行展示時間にメイン会場で航空機地上展示や装備品展示を撮影するとともに一番混雑するブルーインパルス飛行展示を広角レンズで満員のエプロン地区の観衆とともに写し込む、という選択肢がありますね。

 また、朝一番にメイン会場へ入りましてオープニングフライト撮影と並行して地上展示航空機や装備品展示を撮影し、本格的な編隊飛行までにシャトルバスで移動する、という選択肢もあるでしょう。シャトルバスをどう活用するかが航空祭満喫への秘訣かもしれない。

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