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【京都幕間旅情】天龍寺,天龍寺と三つの戦争-間もなく迎える終戦記念日を前に思い浮かべた遠い歴史の蜃気楼

2023-08-09 20:00:11 | 写真
■天龍寺と三つの戦争
 八月九日は長崎原爆慰霊の日であり今年は台風に見舞われていますがその先は直ぐに八月十五日です。

 今年も八月十五日、終戦記念日を迎えるのですが、考えてみると戦後、という感覚は日本史では江戸時代などを例外として戦乱に見舞われていない稀有な時代であった、と感謝することもあるのですね。文字通り、わたしの祖父の世代までしか戦争経験はない。

 天龍寺は三つの戦争に巻き込まれた、偶然にしてその三つに戦争にアメリカとの太平洋戦争は含まれていませんが、三つの戦争により生まれ、そして荒廃と灰燼に帰し、しかし釈迦三尊を奉じる寺院として今に至ります。その歴史を経た立地の寺院を歩んでみよう。

 応仁の乱が京都では前の戦、という言葉があるようですが、応仁の乱よりも太平洋戦争の方が戦争という意味ではしっくりくるように思います。九条を守ろう、というスローガンは烏丸線九条駅を守るのではなく憲法九条を示すものが大半、その源は先の大戦で。

 嵐山へ。平和の尊さを云々するために嵐山へ、というよりは京福電鉄嵐電の増結という季節ですので長い編成を見るついでに散歩の歩みを嵐山まで伸ばそう、と考えました次第です。しかし、ここは考えてみれば京都でも戦争というものを考えさせられる地だ。

 天龍寺。そう天龍といえば巡洋艦で船団護衛の最中に潜水艦に沈められたので平和のなどなど、なんてことは考えないのですが、この寺院は、戦争、太平洋戦争ではないのだけれども、関係のある歴史をたどっています。偶然とはいえ散策の先に歴史を見つけた。

 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町、要するに嵐電嵐山駅の目の前にありまして、京都五山の一つに数えられる禅寺であるとともに、その美しい庭園から嵐山観光の定番となっています。しかし熱い、陽炎が立つほど熱くアスファルトの地面は火傷しそうとさえ。

 八月十五日、あの日も暑かった、と様々な方が回顧しています。気温は今ほど高くはなかったにしろ冷房が全く普及せず電力は戦力といわれ扇風機さえ憚れた時代ですので、感覚からしますともっと暑かったのでしょう、いまは気候変動との戦争に巻き込まれる。

 霊亀山天龍資聖禅寺、天龍寺は正式にはこう冠せられていまして臨済宗の寺院、より正確には臨済宗天龍寺派の寺院となっています。京都五山の通り禅寺ですので日本に入ってきました仏教としては後発、創建は康永2年こと西暦1343年と京都の寺院では新しい。

 夢窓疎石を開山に足利尊氏が開基となりまして開かれた寺院なのですが、当地に寺院を開こうと足利尊氏が決意した背景には、後醍醐天皇の崩御でした。もちろん阿りのような感覚ではなく、鎌倉幕府を滅ぼし始まった建武の新政を経て天皇と足利尊氏は対立する。

 鎌倉幕府滅亡は、最後の執権赤橋守時が新田義貞との会戦で戦死し、北条家当主北条高時が生き残りの家臣と慕って付き従った白拍子たちとともに炎上する東勝寺において全員死亡するという、日本史にある三つの幕府の中では際立った最期を遂げています。

 建武の新政、鎌倉幕府滅亡とともに公家一統を掲げ親政に臨んだ醍醐天皇は、しかし政治手段とともに補佐役など統治機構や法治体系の構築に失敗し、結果的に足利尊氏と対立、吉野に逃れて南朝を興すことで日本は史上初、南北朝の分裂時代を迎えてしまう。

 後醍醐天皇崩御は、こうした南北朝対立の最中での吉野での崩御という背景があり、いわば戦争と権力闘争の末に開かれた寺院、それが天龍寺のもう一つの姿でもあるのです。しかし、天龍寺と戦争の関係はもう更に、歴史が重なるのですが、また別の機会に。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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