■天龍寺と三つの戦争
嵐山のこの寺院はかつて三つの戦争に巻き込まれた、故に伽藍の多くは幾度も再興を重ねつつしかしその戦乱を回避する方法に思い浮かべれば歴史の複雑さを学ぶところから始めねば威勢だけでは進みません。
天龍寺、嵐山と亀山の借景とともに美しい情景を醸し出す、故に冬の季節などは嵐山と亀山が早々と陽光を遮ってしまい憂国の頃には全く日陰の寂しい情景を引き出してしまう、のだけれどもそれは冬の話、今は夏です。刺すような青空がこれは逆に痛々しい。
法堂と大方丈などは明治時代の建物となっていまして、これも寺院の複雑な歴史を建物の形で示している、けれどの曹源池庭園、嵐山と亀山を借景とした庭園は夢想礎石の作庭を継承しているというもので、文字通り国破れて山河在り、庭園の風景は不変という。
橘嘉智子、もともとこの当地は平安時代に嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子が開いた檀林寺というお寺がありました。檀林寺という名前の寺院は残るものの、この時の檀林寺は残念ながら廃寺となり、四百年ほど放置されていた、土地は多く悠長な時代の話です。
後嵯峨天皇の時代、嵯峨天皇は空海とともに時代を生きた文字通り平安遷都間もない頃の天皇さんですが、その時代から放置されていました檀林寺を再興しようという機運が、後嵯峨天皇の第三皇子により掲げられました。この人はのちの亀山天皇となられる。
檀林寺を再興する、しかし寺院として再興するのではなく亀山殿という離宮として再整備するということであったのですが、ここで前に触れました足利尊氏の時代となる。亀山天皇の在位期間は西暦1259年から1274年までですので、時期的にはやや、近しい。
鎌倉幕府滅亡と建武の新政に南北朝時代という日本分裂、そうした時代に苦悩する新しい権力者足利尊氏は、思い悩む様子を信頼する禅僧夢想礎石に迷いと後悔を弔うべく寺院造営を勧められ、光厳上皇に奏請したうえで亀山殿の跡地を賜り、寺院としました。
落慶供養は後醍醐天皇七回忌の法要を意識して行ったという。そして禅寺の格を示す京都五山では第一位とされました。さて、戦争と天龍寺と銘打って散策の友の知識とした今回ですが、やはりといいますか、洛中からは離れている当地も後に戦火に見舞われる。
応仁の乱で伽藍を焼失しているのですね。いや実はこの天龍寺は火災に見舞われる事が多い寺院でもあり、開山から最初の40年間で伽藍の焼失する大火災が二回、仏殿と法堂と三門とが焼け落ちる大火災が一回、そして庫裏が焼ける火災も一回起きていました。
京都五山第一位という格付けは、火災に見舞われるも再建を果たした背景という。つまり寺域が非常に広く今の嵐電帷子ノ辻駅あたりまで伸びていた、あの鹿王院も天龍寺の塔頭というのは納得できるほど広大で、この為に度重なる火災でも再興ができたのです。
応仁の乱は、しかし幕府権力そのものを大きく揺るがした騒擾であり、これにより天龍寺もその原動力を剝がされることとなるのですが、他方で安土桃山時代には大火災は無く、江戸時代も文化年間の大火を除きほぼほぼ安泰に火災予防に成功し祈りを紡ぐ。
慶長伏見地震により、これは火災ではないのですがかなりの建物が倒壊しています。いやこの時は豊臣秀吉が1720石を寄進してくれましたし、江戸時代には徳川家康が寺領7020石安堵という、大名並みの厚遇を受けて伽藍を再構築することができているのだが。
蛤御門の変。応仁の乱という大乱を挙げましたがもう一つ、幕末の騒擾に天龍寺は巻き込まれ、今度は火砲の攻撃を受け全焼しています。太平洋戦争のB-29空襲こそ受けていないが、この天龍寺は幾度も戦災というものに直面し続けた寺院ということに、なる。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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嵐山のこの寺院はかつて三つの戦争に巻き込まれた、故に伽藍の多くは幾度も再興を重ねつつしかしその戦乱を回避する方法に思い浮かべれば歴史の複雑さを学ぶところから始めねば威勢だけでは進みません。
天龍寺、嵐山と亀山の借景とともに美しい情景を醸し出す、故に冬の季節などは嵐山と亀山が早々と陽光を遮ってしまい憂国の頃には全く日陰の寂しい情景を引き出してしまう、のだけれどもそれは冬の話、今は夏です。刺すような青空がこれは逆に痛々しい。
法堂と大方丈などは明治時代の建物となっていまして、これも寺院の複雑な歴史を建物の形で示している、けれどの曹源池庭園、嵐山と亀山を借景とした庭園は夢想礎石の作庭を継承しているというもので、文字通り国破れて山河在り、庭園の風景は不変という。
橘嘉智子、もともとこの当地は平安時代に嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子が開いた檀林寺というお寺がありました。檀林寺という名前の寺院は残るものの、この時の檀林寺は残念ながら廃寺となり、四百年ほど放置されていた、土地は多く悠長な時代の話です。
後嵯峨天皇の時代、嵯峨天皇は空海とともに時代を生きた文字通り平安遷都間もない頃の天皇さんですが、その時代から放置されていました檀林寺を再興しようという機運が、後嵯峨天皇の第三皇子により掲げられました。この人はのちの亀山天皇となられる。
檀林寺を再興する、しかし寺院として再興するのではなく亀山殿という離宮として再整備するということであったのですが、ここで前に触れました足利尊氏の時代となる。亀山天皇の在位期間は西暦1259年から1274年までですので、時期的にはやや、近しい。
鎌倉幕府滅亡と建武の新政に南北朝時代という日本分裂、そうした時代に苦悩する新しい権力者足利尊氏は、思い悩む様子を信頼する禅僧夢想礎石に迷いと後悔を弔うべく寺院造営を勧められ、光厳上皇に奏請したうえで亀山殿の跡地を賜り、寺院としました。
落慶供養は後醍醐天皇七回忌の法要を意識して行ったという。そして禅寺の格を示す京都五山では第一位とされました。さて、戦争と天龍寺と銘打って散策の友の知識とした今回ですが、やはりといいますか、洛中からは離れている当地も後に戦火に見舞われる。
応仁の乱で伽藍を焼失しているのですね。いや実はこの天龍寺は火災に見舞われる事が多い寺院でもあり、開山から最初の40年間で伽藍の焼失する大火災が二回、仏殿と法堂と三門とが焼け落ちる大火災が一回、そして庫裏が焼ける火災も一回起きていました。
京都五山第一位という格付けは、火災に見舞われるも再建を果たした背景という。つまり寺域が非常に広く今の嵐電帷子ノ辻駅あたりまで伸びていた、あの鹿王院も天龍寺の塔頭というのは納得できるほど広大で、この為に度重なる火災でも再興ができたのです。
応仁の乱は、しかし幕府権力そのものを大きく揺るがした騒擾であり、これにより天龍寺もその原動力を剝がされることとなるのですが、他方で安土桃山時代には大火災は無く、江戸時代も文化年間の大火を除きほぼほぼ安泰に火災予防に成功し祈りを紡ぐ。
慶長伏見地震により、これは火災ではないのですがかなりの建物が倒壊しています。いやこの時は豊臣秀吉が1720石を寄進してくれましたし、江戸時代には徳川家康が寺領7020石安堵という、大名並みの厚遇を受けて伽藍を再構築することができているのだが。
蛤御門の変。応仁の乱という大乱を挙げましたがもう一つ、幕末の騒擾に天龍寺は巻き込まれ、今度は火砲の攻撃を受け全焼しています。太平洋戦争のB-29空襲こそ受けていないが、この天龍寺は幾度も戦災というものに直面し続けた寺院ということに、なる。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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