■舞鶴の古刹に青椛包む三重塔
舞鶴、護衛艦はるな、護衛艦しらね、護衛艦ひゅうが、と海上防衛の骨幹戦力が母港として抑止力を発揮する要衝も京都府の北辺、連綿と長い歴史を湛えています。
金剛院、ここは京都府舞鶴市鹿原の日本海に面した舞鶴の海側故に山谷が海に面して海色が広がる側から少し山手に、こう広く木々の緑を湛える静けさの中に寺院の独特の祈りの香りと木の響きが佇んでいます。古くからの三重塔が当地にあると聞き歩み進めました。
舞鶴に古い三重塔が在る、真夏の太陽とともに青椛が爛漫と輝く最中にふと急に聳える三重塔、決して広くは無く大きくも無いといわれましたが、舞鶴と云えば護衛艦と田辺城、こうした考えは視野狭窄ではないかと自戒し、古い御寺の拝観へと歩み進めた訳でして。
慈恩寺金剛院、金剛院はこう称します。石階段と三重塔、そして舞台造の拝殿など、拝観しその境内を巡りますと一つの世界観を醸成していまして、京都でありながら舞鶴は製鉄の、海運の、海軍の、造船の、こうした歴史を纏う風情を端的に示している様にも思える。
鹿原山金剛院、真言宗の寺院です。歴史は古く、創建年は寺伝によれば天長6年、西暦829年に創建されたと伝わりまして、真如法親王が開山となっています。三重塔とともに絹本着色薬師十二神将像と木造執金剛神立像が奉じられ、しかし歴史はそれ以上に深いものが。
金剛院慈恩寺縁起、江戸時代は元禄年間にここ金剛院について記しました寺伝によれば、真如法親王こと高岳親王が高野山から弁才天を勧請し創建したのが金剛院のはじまりとされています。高岳親王は平城天皇の第三皇子で嵯峨天皇の皇太子に列せられていました。
高岳親王の歴史は大河の如き歴史に翻弄された一人といい、故合って空海の弟子となっています。故というのは皇太子から天皇となる殿上人でしたが、薬子の変、騒擾により廃位され出家します。真言宗では高岳親王は争いを避け身を引いたとも教えられるようですが。
空海十大弟子の一人、騒擾による廃位は天皇の望むところではなく復権され四品に列せられるのですが、そのまま殿上に戻る事無く高岳親王は出家しますと真如法親王として、中国より戻りました弘法大師空海に師事、こうして空海十大弟子の一人となったわけです。
高野山から弁才天を勧請した、この高野山との繋がりは真如法親王と弘法大師空海との繋がりそのものでして、弁才天とともに阿弥陀如来を御本尊として奉じ庵を営みました。ただ、真如法親王は当地での祈りに甘んじることなく師空海の道程を辿ることとなりました。
仏法を求めるには空海の歩んだ道程を辿るほかない、真如法親王は空海没後に入唐として遣唐使船に道を求めるのですが、その頃既に老齢で、そして唐でも国家として老齢を迎えつつある時代でした。当時既に唐は武宗の治世下、中国仏教は衰退を極めている時代です。
会昌の廃仏、武宗の治世下では仏教弾圧が進められている中、貞観6年こと西暦864年、長安に至りました真如法親王ですが、求める悟りへの道は海の向こうにも無かったのですね。ただ、日本から出家した皇太子仏僧留学とあり、唐は真如法親王を快く迎い入れます。
天竺へ。真如法親王は長安の西明寺に迎えられるのですが、インドの祇園精舎を象り建立されたという西明寺にて師事し得る、空海にとっての恵果、空海へ伝法阿闍梨位灌頂を授けた青龍寺の恵果のような高僧は既に唐には居らず、皇帝に直訴し天竺行きを願い出ます。
真如法親王の弘法大師空海を辿る道は、しかし、天竺へ、皇帝より二人の従者を賜りインドに向かう長大な道のりを広州から出帆した後、消息は途絶えます。一説にはマレー半島で老齢故天竺行きを断念し、庵を結んだとも伝わりますが、それも定かではありません。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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舞鶴、護衛艦はるな、護衛艦しらね、護衛艦ひゅうが、と海上防衛の骨幹戦力が母港として抑止力を発揮する要衝も京都府の北辺、連綿と長い歴史を湛えています。
金剛院、ここは京都府舞鶴市鹿原の日本海に面した舞鶴の海側故に山谷が海に面して海色が広がる側から少し山手に、こう広く木々の緑を湛える静けさの中に寺院の独特の祈りの香りと木の響きが佇んでいます。古くからの三重塔が当地にあると聞き歩み進めました。
舞鶴に古い三重塔が在る、真夏の太陽とともに青椛が爛漫と輝く最中にふと急に聳える三重塔、決して広くは無く大きくも無いといわれましたが、舞鶴と云えば護衛艦と田辺城、こうした考えは視野狭窄ではないかと自戒し、古い御寺の拝観へと歩み進めた訳でして。
慈恩寺金剛院、金剛院はこう称します。石階段と三重塔、そして舞台造の拝殿など、拝観しその境内を巡りますと一つの世界観を醸成していまして、京都でありながら舞鶴は製鉄の、海運の、海軍の、造船の、こうした歴史を纏う風情を端的に示している様にも思える。
鹿原山金剛院、真言宗の寺院です。歴史は古く、創建年は寺伝によれば天長6年、西暦829年に創建されたと伝わりまして、真如法親王が開山となっています。三重塔とともに絹本着色薬師十二神将像と木造執金剛神立像が奉じられ、しかし歴史はそれ以上に深いものが。
金剛院慈恩寺縁起、江戸時代は元禄年間にここ金剛院について記しました寺伝によれば、真如法親王こと高岳親王が高野山から弁才天を勧請し創建したのが金剛院のはじまりとされています。高岳親王は平城天皇の第三皇子で嵯峨天皇の皇太子に列せられていました。
高岳親王の歴史は大河の如き歴史に翻弄された一人といい、故合って空海の弟子となっています。故というのは皇太子から天皇となる殿上人でしたが、薬子の変、騒擾により廃位され出家します。真言宗では高岳親王は争いを避け身を引いたとも教えられるようですが。
空海十大弟子の一人、騒擾による廃位は天皇の望むところではなく復権され四品に列せられるのですが、そのまま殿上に戻る事無く高岳親王は出家しますと真如法親王として、中国より戻りました弘法大師空海に師事、こうして空海十大弟子の一人となったわけです。
高野山から弁才天を勧請した、この高野山との繋がりは真如法親王と弘法大師空海との繋がりそのものでして、弁才天とともに阿弥陀如来を御本尊として奉じ庵を営みました。ただ、真如法親王は当地での祈りに甘んじることなく師空海の道程を辿ることとなりました。
仏法を求めるには空海の歩んだ道程を辿るほかない、真如法親王は空海没後に入唐として遣唐使船に道を求めるのですが、その頃既に老齢で、そして唐でも国家として老齢を迎えつつある時代でした。当時既に唐は武宗の治世下、中国仏教は衰退を極めている時代です。
会昌の廃仏、武宗の治世下では仏教弾圧が進められている中、貞観6年こと西暦864年、長安に至りました真如法親王ですが、求める悟りへの道は海の向こうにも無かったのですね。ただ、日本から出家した皇太子仏僧留学とあり、唐は真如法親王を快く迎い入れます。
天竺へ。真如法親王は長安の西明寺に迎えられるのですが、インドの祇園精舎を象り建立されたという西明寺にて師事し得る、空海にとっての恵果、空海へ伝法阿闍梨位灌頂を授けた青龍寺の恵果のような高僧は既に唐には居らず、皇帝に直訴し天竺行きを願い出ます。
真如法親王の弘法大師空海を辿る道は、しかし、天竺へ、皇帝より二人の従者を賜りインドに向かう長大な道のりを広州から出帆した後、消息は途絶えます。一説にはマレー半島で老齢故天竺行きを断念し、庵を結んだとも伝わりますが、それも定かではありません。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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