■富士学校祭二〇二四
日本に学祭数あれどこれほど機械化部隊や戦車が充実しているのはここ富士学校祭をおいてほかにない。
富士学校創設記念行事、富士学校に今年も行って参りました。閉口したのは、オーバーツーリズムですね。富士学校が混雑しているのはいつものことだろうに、といわれそうですが、いやむしろ富士学校のほうの混雑は例年よりも緩和されていたように思う。
M-5速報はいってきたよ的な話題ですので、行事の詳しい内容などはG3X速報のほうでいろいろ紹介するとしまして、まずはこの喫茶店や新幹線のテーブルで思いつくままに行事の感想などを列挙したところを、ホットドックに袖がつかないよう書き上げます。
富士登山、オーバーツーリズムを痛感したのはこちらのほうで、なにがといいますとホテルがまったく、という。考えてみると例年の富士学校祭は七月初旬の、昨年は九月だったけれども、つまり富士山の山開きまえに行事をやっていたわけですから。
四月の時点でホテルを探し始めたのですけれども、定宿にしていたところはとっくの昔に満室で、まあ、それもキャンセルがでればいいよねと例年六月頃までにキャンセルがでるものだとたかをくくっていたけれども、世の中そんなに甘いものではないようで。
須走、富士学校はこの富士山麓に70年前創設され、当時としては普通科と特科と機甲科とを一つの学校にまとめるのは自衛隊としてはかなりの冒険であったらしい、歩兵学校と砲兵学校と戦車学校の統合なのですからね、しかし苦労は別のところにあったのです。
防衛大学校として、自衛隊は統合するのが得意だったのだろうか、陸海空の士官学校前期課程を統合しているのは、世界ではれいがなく、インド軍が一時期ためしていたのか、陸海空はなにしろ統合軍というものをカナダが創設したのが2000年代だからはやいもの。
富士学校、統合は大変だったかもしれないけれども、ほんとうに大変だったのは、寒さ、霧、であったと聞きます。いまでこそ多少は緩和されましたが、旧軍の施設があったのはもっと南の御殿場、板妻のあたりでしたから、それに比べてここは標高が900m程度ある。
御殿場ではない、富士学校を御殿場を思われる方がかなりいらっしゃるようですが、ここは小山町、昔は須走村といいました、富士登山の須走口があることで江戸時代から有名な宿場町であったのですが、その登山口があるほどですから、駐屯地はひじょうにさむい。
須走、富士学校開校当時は凍傷患者まででていて、しかも東富士演習場はそのころ霧で演習がむずかしい期間が長く、大丈夫か、といわれていたそうです。まあ、駐屯地を入ると上り坂が延々会場まで続くので、富士山麓というよりもこの標高はもう中腹ですから、ね。
しかし、今回困ったのはホテルの確保でして、結局、御殿場駅前にしました、富士学校からは8.8kmほどはなれています。しかし、御殿場駅前にしてもビジネスホテルが次々と開業するものの、やはり値段がシングル二万円台後半というところばかり、ちょいと厳しい。
ホテル不足といいますか、あんなところでそんな値段を取れるならばいっそホテルキタオージイとかいうホテルでも京都の北区と御殿場駅前に開業してやろうか、というほどなのですけれども、偶然、カプセルホテルのような簡易宿泊のビジネスホテルが高速手前に。
簡易宿泊というと、オーサカやトーキョーにヨコハーマの有名な一角を思い出すのですが、ここは早朝登山前の仮眠施設のような、結核や南京の心配が無い比較的まともなところでした、そして安かった。富士学校の撮影テクニックはまず、宿確保という時点から難しくなっているのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
日本に学祭数あれどこれほど機械化部隊や戦車が充実しているのはここ富士学校祭をおいてほかにない。
富士学校創設記念行事、富士学校に今年も行って参りました。閉口したのは、オーバーツーリズムですね。富士学校が混雑しているのはいつものことだろうに、といわれそうですが、いやむしろ富士学校のほうの混雑は例年よりも緩和されていたように思う。
M-5速報はいってきたよ的な話題ですので、行事の詳しい内容などはG3X速報のほうでいろいろ紹介するとしまして、まずはこの喫茶店や新幹線のテーブルで思いつくままに行事の感想などを列挙したところを、ホットドックに袖がつかないよう書き上げます。
富士登山、オーバーツーリズムを痛感したのはこちらのほうで、なにがといいますとホテルがまったく、という。考えてみると例年の富士学校祭は七月初旬の、昨年は九月だったけれども、つまり富士山の山開きまえに行事をやっていたわけですから。
四月の時点でホテルを探し始めたのですけれども、定宿にしていたところはとっくの昔に満室で、まあ、それもキャンセルがでればいいよねと例年六月頃までにキャンセルがでるものだとたかをくくっていたけれども、世の中そんなに甘いものではないようで。
須走、富士学校はこの富士山麓に70年前創設され、当時としては普通科と特科と機甲科とを一つの学校にまとめるのは自衛隊としてはかなりの冒険であったらしい、歩兵学校と砲兵学校と戦車学校の統合なのですからね、しかし苦労は別のところにあったのです。
防衛大学校として、自衛隊は統合するのが得意だったのだろうか、陸海空の士官学校前期課程を統合しているのは、世界ではれいがなく、インド軍が一時期ためしていたのか、陸海空はなにしろ統合軍というものをカナダが創設したのが2000年代だからはやいもの。
富士学校、統合は大変だったかもしれないけれども、ほんとうに大変だったのは、寒さ、霧、であったと聞きます。いまでこそ多少は緩和されましたが、旧軍の施設があったのはもっと南の御殿場、板妻のあたりでしたから、それに比べてここは標高が900m程度ある。
御殿場ではない、富士学校を御殿場を思われる方がかなりいらっしゃるようですが、ここは小山町、昔は須走村といいました、富士登山の須走口があることで江戸時代から有名な宿場町であったのですが、その登山口があるほどですから、駐屯地はひじょうにさむい。
須走、富士学校開校当時は凍傷患者まででていて、しかも東富士演習場はそのころ霧で演習がむずかしい期間が長く、大丈夫か、といわれていたそうです。まあ、駐屯地を入ると上り坂が延々会場まで続くので、富士山麓というよりもこの標高はもう中腹ですから、ね。
しかし、今回困ったのはホテルの確保でして、結局、御殿場駅前にしました、富士学校からは8.8kmほどはなれています。しかし、御殿場駅前にしてもビジネスホテルが次々と開業するものの、やはり値段がシングル二万円台後半というところばかり、ちょいと厳しい。
ホテル不足といいますか、あんなところでそんな値段を取れるならばいっそホテルキタオージイとかいうホテルでも京都の北区と御殿場駅前に開業してやろうか、というほどなのですけれども、偶然、カプセルホテルのような簡易宿泊のビジネスホテルが高速手前に。
簡易宿泊というと、オーサカやトーキョーにヨコハーマの有名な一角を思い出すのですが、ここは早朝登山前の仮眠施設のような、結核や南京の心配が無い比較的まともなところでした、そして安かった。富士学校の撮影テクニックはまず、宿確保という時点から難しくなっているのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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