北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】雲龍院瑠璃山(真言宗泉涌寺派別格本山)心休まる新緑と垣間見える庭園

2019-08-21 20:10:23 | 写真
■雲龍院,走り大黒天と悟りの窓
 雲龍といいますと旧海軍の航空母艦を思い浮かべる方が増える昨今ですが、こちらは京都の雲龍院、その静かな情景をお伝えしたい。

 雲龍院、山号を瑠璃山として真言宗泉涌寺派の別格本山です。京都駅から南へ奈良線を一駅、東福寺駅を山手へ歩みを進めますと泉涌寺へと至ります。雲龍院の景色とは、悟りの窓、こう慕われる丸窓を向こうに借景の季節が移ろう情景で知られている寺院とおもう。

 不明門を正門に拝すると至るお寺は、泉涌寺を歩き登る高台に在り、応安年間の1372年、後光厳天皇の勅願により創建されました。開山は竹巌聖皐、泉涌寺の拙叟全珍に師事し全国に真言宗を広めると共に泉涌寺住持となり、後光厳天皇勅願を受け雲龍院を開きました。

 薬師如来を御本尊に拝するお寺は西国薬師四十九霊場40番札所で、庭園の寺院という印象、落ち着きある新緑の広がりが真夏にも涼しく、併せて湛える歴史は広がり天皇勅願寺院という皇室との所縁から後円融天皇、後小松天皇、称光天皇、帰依を受け寺領を広めました。

 龍華院は本堂、建立当初の龍華院は室町時代の康応年間1389年に後円融天皇により建立されました。龍華院は拝観できるのですが御猿様が悪戯しないようとの注意書きが門扉に在り、此処が自然に包まれていると知る。ただ、文明年間の1470年に応仁の乱にて焼失する。

 薬師如来坐像を中尊とし、日光菩薩と月光菩薩立像を脇侍とする三尊像が龍華院に拝観者を鈍色の後光を纏う如く迎えまして一拝します。この三尊像は鎌倉時代作といい、無論信仰の寄る辺故に写真模写は謝絶ですが、順路ではここから美しい庭園へと歩み至ります。

 京都の文化財の多くと同じように応仁の乱にて焼失した龍華院は室町時代の内に後土御門天皇の寄進により再建されています。しかし惜しくもこの再建龍華院も失われ、江戸時代に入り寛永年間に再建と成りました。寄棟杮葺造であり、国の重要文化財となっています。

 応仁の乱の被害は大きく、ほぼ全域が灰燼に帰しました。門徒の尽力も僅かに運び出せたものは後光厳天皇と後円融天皇の御尊像のみという。美しい庭園を借景のように御堂から愉しむ悟りの窓を始めとした気風とは、この灰燼の歴史と併せ考えると感慨深いですね。

 雲龍院は拝観と共に願い出ればお茶を愉しむ事が出来ます。庭園の寺院と感じたこのお寺は、茶の湯と併せ時間の移ろいを頂くには一つの贅沢といえるところですが、庭園を一望する数多和室へ湯気立つお茶を並べ占有できます。泉涌寺ならぬ占有寺、ではないですが。

 方広寺大仏殿、この雲龍院の庭園には秘密があります。安土桃山時代から江戸時代に遷る幕間の動乱、その始まりとなった釣鐘、国家安康君臣豊楽の文字が刻まれた事で知られる方広寺、その大仏殿の礎石が二つ、ここ雲龍院の庭園に移され、歴史を伝えているという。

 泉山七福神巡り5番札所として雲龍院には大黒天立像が奉じられています。泉山七福神巡りはその名の通り泉涌寺の塔頭寺院七塔を巡る事で七福神を巡るという七福神信仰、毎年一月の成人の日には七福神巡りが行われる事もで知られます。これは案外歩かずともよい。

 走り大黒天、泉涌寺雲龍院大黒天立像は台所に。特別な催し無く順路に走り大黒天へと至るのですが、不思議なのは台所と云えば比喩の台所ではなく文字通り朝餉昼餉夕餉の支度進む台所の日常と共に大黒天像が安置されていまして、拝観しますと何か不思議な気持ち。

 絹本著色後円融院像や後奈良天皇宸翰の法華経と重要文化財が並ぶ雲龍院は、しかし庭園美しさと共に在る山門の向こうの伽藍と拝観しますと、成程紅葉や夜の特別拝観と季節の移ろいと重ね拝観を重ねたいとも感慨深い情景が広がります。今は、どんな情景なのかな。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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富士総合火力演習2019お出かけガイド,富士の天気は変わりやすい!荒天雨天時の防滴と撮影

2019-08-20 20:10:21 | 旅行
■富士山の天気は変わりやすい
 令和元年富士総合火力演習、天気予報は微妙な予報が、北大路機関へも雨天対策の検索が目立つ。そこで今回は昨年の富士の写真と共に私の雨天の失敗談などお伝えしましょう。

 富士総合火力演習、陸上自衛隊が一般公開する国内最大の実弾演習であり、広報展示行事です。会場は御殿場駅から自動車で30分弱、タクシーで3500円程の立地にあります東富士演習場の畑岡地区、事前応募制の入場券が必要です。広大な富士山を見上げつつしかし標高は940mと高く、実は天候急変が日常茶飯事という立地での富士総合火力演習です。

 畑岡地区、入場券は戦車射撃を間近に見られるシート席、俯瞰風景で状況を一望できるスタンド席と別れていまして、早朝からタクシーか駐車場券で自家用車か徒歩自転車、夜明けからシャトルバスが運行され、前から順番に着座する。シート席は写真の通り最前列付近は迫力が凄いが安全ロープが邪魔、実は少し遅めのシート席後方は高低差があり観易い。

 山の天候は変わりやすいというのは、別に登山を経験せずともこの富士総合火力演習で実感するところでして、しかし老若男女基本的に豪雨でも退避場所は無く、避雷針は落雷からの確実な安全を保障しますが、雨具の準備が撮影機材即ちカメラと並んで重要です。スマートフォンでもかなり良い写真が撮れるといい、逆に雨具の方が、重要やもしれません。

 富士総合火力演習、自衛隊行事には雨天がつきものですが、富士の雨天は別格のものがあります。なにしろ東富士演習場の畑岡地区は標高が940mと高く、山の天候は変わりやすい、という登山注意事項が地で行く危険があります。何しろ湿った空気が富士山で滞留ますとたちどころに巨大な雨雲を形成する。ただ、富士の雨の怖さはそれだけではない。

 東千歳駐屯地祭2006年は豪雨の中で始まり雹まで降って大変でした、あの頃は防滴カバーなんて知りませんでしたので、ビニール袋で覆うのが精いっぱい、しかし、駐屯地厚生会館で着換えを買う事が出来た、乾いた服で低体温症は防げます。ところが富士総合火力演習では着換えが買えませんし更衣室が無い、そもそも来場者が雨宿りできる場所が、無い。

 豊川駐屯地祭2009年は豪雨の中でFH-70榴弾砲の発砲焔を待ち続けました、物凄い豪雨でしたが豊川駅までシャトルバスで直ぐに撤収できました。しかし総火演は御殿場駅へのシャトルバスの行列が混雑するのです、演習全部観ず帰るとか演習行かないならばシャトルバス行列は大分少ないか無いのですが、雨宿り出来ず行列一時間、覚悟する必要がある。

 今津駐屯地祭2014年は湖北の変わりやすい天候と豪雨が凄かった、しかし風が無かったので傘さえさしていれば傘の真下で快適にカメラを構えて撮影出来ました。ただし総火演では傘を使用する事が出来ません、後ろの人が迷惑となるとの理由で豪雨の際にも傘を使わないよう注意喚起の放送がありますし、それでも使うと仕舞うか退場かを直接聞かれます。

 守山駐屯地祭2015年は雨と共に風が在りました、しかし近くに雨宿りできる場所がありましたし、庇の下で雨宿りしながら撮影するという裏技も出来ました。これが総火演となりますと、そもそも建物が畑岡地区に無いのです、御殿場温泉施設まで30分歩けば雨宿りできるのですが、この移動は撤収であって雨宿りではない。雨への対策は万全にしましょう。

 富士総合火力演習、雨天時でも写真を撮影したい方々へ“本当に必要な防滴道具”を一つ上げておきますと、“輪行袋”、これです。別に秘密でもなんでもないのですが2000円から3000円くらいの、折り畳み式自転車を入れて担いでいけるナイロン製の厚手のバックですね。折り畳むと非常にコンパクトで雨さえ降らなければそのまま座布団代わりにもなる。

 輪行袋をどう使うか、簡単です、“カメラバックその他濡れたら困るものを全て収容して背負う”“開口部が広いので雨粒を気にせずに輪行袋の中でカメラのレンズ交換を行う”という。雨具は要ります、座布団もあった方が良い、演習中は使えない雨傘も開場待機とバス待ちの長時間では必携だ、けれどもこれらは全てコンビニでも売っているものなのですよ。

 カメラレインコートというカメラそのものを覆うビニールカバーも、余程の大きなレンズ、つまり600mm単焦点とかゴーヨンこと500mmF4みたいなものでなければ、使い捨てレインコートで何とかなります、カメラに着せて袖口からレンズの筒先を出す、それで意外なほどの豪雨でもカメラは無事です。しかし自転車輪行袋だけは、コンビニで買えません。

 銀箱ことジュラルミンカメラケースは絶対に大雨でも中に水は沁みません、が、カメラを取り出すための十数秒間で中が濡れれば湿気が籠る、カメラバックそのものを覆うレインカバーもあるのですが、本当の豪雨となりますと沁みてくるといいますか肩掛け紐、スリングベルトというべきか、此処とレインカバーの隙間からカメラを壊す程度の水は沁みる。だから輪行袋の方が便利だ。

 輪行袋、自転車を持って行け、という訳ではなく、意外に防水性がありますのでカメラバックごと撮影機材が駄目にならない為に必要です。業務用ポリ袋でもよいのですが、撮影機材一式入れて担いだ時に重さで破れないか、という視点が要る。輪行袋は頑丈だ。これは大きめのサイクルショップ、自転車売り場のある大型家電量販店で買う事が出来ます。

 強い雨の場合は予定を変更する事があります、とはとある演習における広報幹部の方のお話し。成程、と思い、しかし“強い雨”という定義が気になり聞いてみますと。俺より強い雨。もう一度、俺より強い雨。改めてもう一度、俺より強い雨。お分かりいただけただろうか。実弾射撃を行う関係上標的が確認できない場合等では実施できませんが、ね。

 戦車射撃は豪雨の際の方が発砲焔が乱反射し、独特の雰囲気を醸し出します。雨天の方が良い写真が撮影できる、というものはあるのです。ただ、程度というものがありまして、しかも天候が変わりやすい為に突然の雨が時間雨量30mmとか50mmということもあります、すると迫力ある写真というよりもスタンド席から戦車が見えなくなる、ということも。

 雨天で最初に影響を受けるのはヘリコプターの飛行です。UH-60JA等は気象レーダーと前方赤外線監視装置を搭載している為、実際に飛行する事は出来るのですが、通常の演習と異なり、なにしろ三万の観覧者の安全を確保せねばなりませんので、ヘリコプターの飛行は安全管理上見合わせになる、という事が多いです。ただ、多少の雨ならば飛行しますが。

 しかし、雨天で最も影響を受けるのは戦車でも航空機でも無く、観覧者のほうでしょう。濡れるという事は毎日お風呂で我々は経験していますし、雨にぬれる事も経験はあるでしょう。だがシャトルバスの待ち時間一時間二時間濡れ続けるとしたらば体温は奪われ続けます、風が吹いていれば1000mちかい畑岡地区の標高は低体温症で危険な高度といえる。

 濡れないようにビニール雨合羽で体を覆いましょう、長めのものが良い。出来るならば防滴靴カバーで靴を覆いましょう、歩く際の一歩一歩の疲労度は蓄積されますと体の行動自由を奪ってゆきます。なにも無ければ大型ポリ袋二枚で左右の脚部を多いガムテープで固定しても良い、不恰好ですが、もう一泊し温泉に直ぐ入れる方々以外は体調が第一ですよ。

 下からも雨が降っているぞ、数年前に夜間演習に行った友人からのメールです。当方はその頃、後段演習終了とともに撤収し、豊橋を散歩している頃でしたが。スマートボールとか、らしんばん品揃えが意外に充実していますし、お城に路面電車があってカレーうどんが美味しい、そして実は内緒の鮨の穴場もあります。豊橋から京都までは米原乗換だけ。

 下からも雨が降っている、超常現象ではありません。スタンド席に座っていますと風で巻き上げられて雨具が想定していない下からの雨粒でどんどん濡れてゆくという。富士総合火力演習は待機時間がありますので、この間に延々と濡れ続けるというのはちょっとした苦行です。しかも暗いので身動きがとり難く、結果どんどんと体温を消耗してゆくという。

 雨具の準備があっても、下から巻き上げる雨滴、これで下着が濡れますと、下着は意外なほどに体温を奪います。無論、川釣りの防滴装備のような万全の準備が在れば話は違うのですが、なにしろ今は八月、富士総合火力演習は雨とと戦いのように見えて暑さとの戦いでもあります、そんな中では暑いだけの防滴ズボンは見落しがちとなる装備の筆頭ですね。

 大きめのポリ袋を用意しましょう、私は、そうするようにした。これで下からの雨滴を最初に防げます。しかし、ポリ袋に座っていますと、そのポリ袋にも雨が溜まってゆきますので、これに濡れては堪ったものではありません。ですから、その上にアウトドア用の折畳座布団を用意しましょう、こうする事で若干の高低差が生まれる、私はそうしています。

 雨で下着が濡れるというのは気持ちの良いものではありません、しかし、その下着が濡れ続けて体温を延々と奪ってゆくのも、また気持ちの良いものではないのですよね。夜間演習は演習時間が短い事が救いですが、スタンド席で日中の富士総合火力演習に置いて、そうした状況となってしまいましたらば、これは結構後に響く事ともなります。準備が大切だ。なお、見ての通り昨年の富士総合火力演習予行撮影最大の失敗は安全ロープの位置でした。

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火力戦闘車初公開!19式装輪自走155mmりゅう弾砲(19WHSP)富士総合火力演習に参加

2019-08-19 20:05:03 | 先端軍事テクノロジー
■19式装輪自走榴弾砲が公開
 火力戦闘車として開発が進められた19式装輪自走榴弾砲、将来特科火砲として陸上自衛隊が開発を進める最新装備が初公開されました。

 富士総合火力演習教導団予行、毎年恒例の富士総合火力演習に最新鋭装備火力戦闘車が登場しました。19式装輪自走155mmりゅう弾砲、火力戦闘車は制式名称としてこのように命名されました。19式装輪自走榴弾砲、一般にはこう定着してゆくのでしょう。19式装輪自走155mmりゅう弾砲/火力戦闘車、装備実験隊へ納入され現在評価試験中の新装備だ。

 東富士演習場、富士総合火力演習教導団予行は昨日18日に挙行され、当初予報は曇りのち小雨の予報でした。しかし昼前までは完全に外れ晴天に暑い中小雨をという聲が各所で響き渡る後に、後段演習終了五分前に突如規格外の豪雨が、ゲリラ豪雨というには二時間程、かなりの雨量が降り注ぎ演習場は池沼のように浸されました。そんな中で装備品展示です。

 全長11.4m、全幅2.5m、全高3.4m、重量約25t、装填装置はロボットアーム方式の自動装填補助装置を採用、これは砲基部に弾薬を運搬する事で砲への装填を自動化するものです。射程は未発表ですが原型の先進軽量砲は99式自走榴弾砲と主要部は共通設計で同型、性能も同等、通常榴弾では30km程度、現実的な数値で40km以遠という推測が成り立ちます。

 19式装輪自走155mmりゅう弾砲/火力戦闘車、陸上自衛隊が本土特科部隊近代化の柱として導入したFH-70榴弾砲の後継装備として開発したもので、長大な52口径155mm榴弾砲を車載装備したもの。52口径とは155mmの52倍という長砲身、参考までにFH-70は39口径です。砲身が長ければ燃焼効率が高まり、結果、砲身鋳造技術と共に射程が伸びる。

 FH-70は479門が配備された欧州共同開発の火砲で半自動装填装置の採用や自走装置の採用と当時としては長砲身たる39口径の採用等か画期的な火砲でした。陸上自衛隊は自動装填装置を備えたスウェーデン製FH-77,米陸軍正式採用で牽引専用の軽量なM-198,そしてFH-70を評価した結果、FH-77は大き過ぎM-198は性能不足としてFH-70を選定します。

 牽引砲から自走榴弾砲へ。この背景には52口径砲の時代到来があります。世界は39口径砲の後継に南アフリカのG6榴弾砲等一部が45口径を研究した後により長砲身を期して52口径に収斂するのですが、52口径砲は長砲身である為、トラックでの牽引は全長が大きく成り過ぎ、その運用は非現実的となってゆきました。そこでガンポーティ方式に注目が。

 MAN社製HX-44M、HX-77が原型とも言われるのですがドイツ製車両です。アフガニスタンでの戦訓から装甲キャビン等が豊富に開発されており、陸上自衛隊の主要車輌にドイツ製部品が採用された事は意外ですが、MAN-HX-77全長は10.3mで重装輪回収車11m、道路運送車両法車両限界は全長12m以下、砲身と駐鋤を加えると重装輪回収車は長すぎた。

 カエサル軽自走榴弾砲、フランスがガンポーティ方式を活用し開発しました。元々ガンポーティとはイギリス軍が第二次大戦中の北アフリカ戦線で6ポンド砲をトラック荷台に車載し機動運用を行った簡易自走砲です。戦後は野砲の大型化と自走榴弾砲の開発により即製火砲を除き主流を退きましたが、牽引砲に収まらない52口径砲時代に再評価されました。

 車体配置は操縦区画と共に砲手区画が砲座前に配置され射撃時には駐鋤の展開と同時に下車し、直接操砲を行う構造です。砲弾は砲手区画後部に装甲ハッチ内に格納される構造で効力射の数斉射分を車載、車載携行する基数全体は他に弾薬輸送車へ搭載するのでしょう。道路運送車両法では連節車は18mまで可能ですので、連節構造を採用する事も出来ました。

 日本製鋼が開発した52口径砲は防衛装備庁の技術研究本部時代からの先進軽量砲、当初は日野製トラックに駐鋤と併せ砲架を組み合わせる方式を検討するも日野より射撃時の反動に従来車では懸架装置が耐用限界を超えるとして断念、重装輪回収車車体部を転用する前提で開発が進められるも、増加装甲や最大車長の関係からドイツ製車体が採用されている。

 装備実験隊において評価試験中ですが令和元年度防衛予算では量産車7輌が要求され、富士教導団特科教導隊へも評価試験を待たずに配備が開始されます。将来的には西部方面特科連隊、中部方面特科連隊、東部方面特科連隊、東北方面特科連隊、順次新編される方面特科連隊に配備され、大隊ごとに地域配備師団/旅団や即応機動師団/旅団へ配備されます。

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【日曜特集】観艦式2009-守る!この海と未来-【02】東京湾を浦賀水道へ(2009.10.23)

2019-08-18 20:15:22 | 海上自衛隊 催事
■くらま,艦隊進路は太平洋へ
 自衛隊観艦式、第二回は横須賀基地を出航した艦隊が横浜港と東京湾一円の集結地よりの艦隊出航と湾内を太平洋へ向かう様子から。

 くらま、先導する護衛艦いなづま。長浦湾を東京湾へそして浦賀水道へと進みます。観艦式は相模湾で挙行されますが、観艦式参加艦艇は横須賀基地だけでは入りきらず、横浜港と木更津港にも入り、その艦艇が航行する東京湾の情景も観艦式の一部といえましょう。

 平成21年度自衛隊観艦式、天皇陛下御即位20周年奉祝行事としても実施されました。ただ、自民公明連立政権がこの年の衆議院総選挙により民主党連立政権へ後退し、財政再建重視の新政権は防衛費縮小を強く政権公約に掲げた為、観艦式は小規模となりました。

 海上自衛隊創設50周年記念国際観艦式として平成14年度に小泉総理時代に行われた東京湾停泊式観艦式は艦船65隻と航空機11機という規模、森喜朗総理時代の平成12年度自衛隊観艦式では艦船63隻、航空機65機という規模で挙行されています。半分強、という。

 ヘリコプター搭載護衛艦くらま。十年前の観艦式ではありますが、この年は海上自衛隊が初の全通飛行甲板型のヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、を就役させました。そしてそれから十年、海上自衛隊は全通飛行甲板型護衛艦へ全て世代交代を完了、十年の長さは凄い。

 平成18年自衛隊観艦式、安倍晋三内閣総理大臣を護衛艦くらま艦上に観閲官として行った際の規模は艦艇48隻と航空機50機、対して平成21年自衛隊観艦式は艦艇40隻と航空機31機でした。小泉内閣総理大臣時代の平成15年度観艦式は艦艇52隻と航空機53機です。

 くらま。北大路機関は、はるなさん、くらまさん、と創設しましたので護衛艦くらま、には親近感があります。そしてこの年の観艦式、その半年と少し前の2009年3月19日に初のヘリコプター搭載護衛艦はるな、舞鶴基地にて自衛艦旗を返納し退役しているのですね。

 東京湾を往く護衛艦くらま。遠景にはイージス艦ちょうかい、試験艦あすか、の艦影が浮かんで見えます。2009年、考えてみれば東京タワーはあっても東京スカイツリーはまだ完成していません、そして撮影機材もEOS-7DとEOS-50Dの混成で臨んでいる時代です。

 三浦半島を背景に護衛艦くらま雄姿、観艦式は2006年と2009年に2012年と2015年、御縁が在ったのですが驚くなかれ、この四度とも内閣総理大臣座乗の観閲艦は、くらま、が務めています。佐世保基地を母港とする護衛艦ですが海上自衛隊の象徴の様な存在という。

 いなづま。むらさめ型護衛艦5番艦です、むらさめ型はステルス性を備えたシステム艦で9隻が建造、拡大改良型たかなみ型5隻、防空型あきづき型4隻、拡大改良型あさひ2隻と20隻が建造、設計に余裕が在った事から新任務の長期航海と新装備搭載に対応出来ました。

 うらが、掃海母艦が追い越してゆきます。友人が本番の日のこの艦上で荒天下大変な事になる。この観艦式、正確には写真は予行ですが本番の観閲官には首相代理として菅直人副総理がヘリコプター搭載護衛艦くらま、に乗艦艦艇40隻と航空機31機が参加しています。

 自衛艦旗と試験艦あすか。あすか、はこの観艦式に観閲付属部隊として参加しています。そして当方一行が乗艦しています潜水艦救難艦ちはや、も観閲付属部隊に所属していまして、別に競争をしているのではなく観閲付属部隊としての陣形を組もうとしているのです。

 部隊は護衛艦まきなみ(DD-112第3護衛隊群-第3護衛隊),掃海母艦うらが(MST-463掃海隊群直轄艦),潜水艦救難艦ちはや(ASR-403第1潜水隊群直轄)艦),試験艦あすか(ASE-6102開発隊群直轄艦),訓練支援艦てんりゅう(ATS-4203護衛艦隊直轄-第1海上訓練支援隊)という。

 護衛艦いなづま、を海上保安庁巡視船するが、が超越しようとしています。最大速力は巡視船よりも護衛艦の方が早いのですが、するが、は観艦式への参加艦船ではなく実任務への移動中である為、先行しています。いなづま、は観閲部隊の中でも先導艦を務めている。

 観閲部隊編成は先導艦-護衛艦いなづま(DD-105第4護衛隊群第8護衛隊),観閲艦-護衛艦くらま(DDH-144第2護衛隊群第2護衛隊),随伴艦-護衛艦こんごう(DDG-173第1護衛隊群第5護衛隊),随伴艦-護衛艦あぶくま(DE-229護衛艦隊直轄第14護衛隊),という陣容です。

 くらま、上空をSH-60J/K哨戒ヘリコプターが四機編隊で進んでいます。内閣総理大臣が観閲官を務める観艦式、当時は民主党連立政権へ政権交代した為、防衛政策に熱心ではない民主党の鳩山内閣総理大臣は出席せず、菅直人副総理が代行で出席する事となっていた。

 いなづま上空をSH-60J/K哨戒ヘリコプター四機編隊が飛行します。実は観閲官は横須賀基地出航の時点ではまだ乗艦していません、観閲官は観艦式観閲部隊が相模湾に陣形を整えた段階で、ヘリコプターにより観閲艦くらま、へ着艦するのですね。上空を警戒へ当る。

 いなづま、と旅客船や遊漁船とが重なり合う情景、牧歌的な情景ではあるのですが東京湾の海上交通総量の多さを示しています、日本でもというよりも世界でも最も混雑する海域故の情景です。万が一にも衝突事故が起きてはなりませんし、陣形も乱さないように進む。

 あぶくま、先導艦-護衛艦いなづま(DD-105第4護衛隊群第8護衛隊),観閲艦-護衛艦くらま(DDH-144第2護衛隊群第2護衛隊),随伴艦-護衛艦こんごう(DDG-173第1護衛隊群第5護衛隊),随伴艦-護衛艦あぶくま(DE-229護衛艦隊直轄第14護衛隊),この陣形完結へと急ぐ。

 護衛艦まきなみ(DD-112第3護衛隊群-第3護衛隊),掃海母艦うらが(MST-463掃海隊群直轄艦),潜水艦救難艦ちはや(ASR-403第1潜水隊群直轄)艦),試験艦あすか(ASE-6102開発隊群直轄艦),訓練支援艦てんりゅう(ATS-4203護衛艦隊直轄-第1海上訓練支援隊)部隊の通り。

 SH-60J/K哨戒ヘリコプターの二機編隊とヘリコプター搭載護衛艦くらま。ここで富士山でも背景に収める事が出来れば良かったのですが、くらま、は観閲部隊、ちはや、は観閲付属部隊です。総理大臣代理の部隊に対し観閲部隊付属部隊は並行し航行、撮影位置はここ。

 受閲艦艇部隊は旗艦、受閲艦艇部隊第1群の護衛艦部隊、受閲艦艇部隊第2群が護衛艦部隊、受閲艦艇部隊第3群に護衛艦部隊、受閲艦艇部隊第4群が潜水艦部隊、受閲艦艇部隊第5群で掃海艇部隊、受閲艦艇部隊第6群の支援部隊、受閲艦艇部隊第7群の哨戒部隊と。

 ちはや上空をSH-60J/K哨戒ヘリコプターの四機編隊が航過してゆきます。航空祭等では編隊飛行の航過飛行は一回か二回、編隊を組みなおしても三回程度ですが、部外船舶への機動巡察も兼ねている為、繰り返し上空を飛行します。ここぞとばかりに撮影しておこう。

 くらま。観閲官は三浦半島の南端、剣崎近くでヘリコプターが着艦軌道を開始し、そのまま三浦半島南端の小島である城ケ島で着艦します。ですから理論上、三浦半島の観音崎や剣崎の標高が比較的高い場所から、視程が良ければ艦隊を一望する事もできるでしょう。

 受閲艦艇部隊の旗艦-護衛艦あしがら(DDG-178第2護衛隊群-第2護衛隊)を先頭に受閲艦艇部隊第1群護衛艦はたかぜ(DDG-171第4護衛隊群-第4護衛隊)と護衛艦さわかぜ(DDG-170護衛艦隊直轄艦)始め多数の艦艇が見えてきました、観艦式がいよいよはじまる。

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【G3X撮影速報】千歳基地航空祭2019.最新政府専用機B-777真夏の初登場(2019-08-04)

2019-08-17 20:00:23 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■ボーイング777-300ER
 千歳基地航空祭は真夏の観光最高潮の季節に行われ若干宿泊も旅客機も手が届きにくい時節ではあるのですが、それでも撮りたい飛行機が在った。

 ボーイング777-300ERが新しい政府専用機です。この機体を撮影する為に千歳基地航空祭へ行った、というところが実情でして。政府専用機の写真は一回撮影しておきますと様々な話題の際に掲載できる、それ程に自衛隊といいますか、日本を代表する航空機といえる。

 G3X,一眼レフの真横に即ち二台カメラを並べて撮影する、もしEOS-7Dの絞り値が、露光時間が、ISO感度が、という事が在った場合でも保険になります。しかし、この二台連結のカメラは、重かった。一方、EF28-300mmは白レンズ、日光に熱を持たないのが有難い。

 ボーイング747-400から置換えた新しい政府専用機、実は当方、747が好きでした。四発機の迫力、ダブルデッカーの迫力、これに代わるものは無い。しかしGE90-115Bエンジン、迫力の直径でエアバスA320やボーイング737の胴体に匹敵するという。迫力は、すごい。

 ボーイング777は双発旅客機として初のトランスオーシャン機、太平洋を越える事が実現した旅客機です。それまではDC-10のような三発機が太平洋横断航路に用いられていまして、尤も後に767改良により中距離型との印象の強かったボーイング767も変わってゆく。

 新しい政府専用機ボーイング777-300ER、日本航空や全日空が多用しています。全日空が各型49機、日本航空が各型併せ40機、羽田伊丹航路が伊丹空港騒音訴訟の影響から747のような四発機が乗り入れできなくなった為の代替機で、東海道新幹線のライバルですね。

 F-15戦闘機の着陸が始りました、8機編隊でしたが、これとは別にオープニングフライトへ参加した機体と機動飛行に参加した航空機が。全部合わせれば12機編隊が可能だったはずなのですが、事前訓練の関係でしょうか。同じ部隊でも年度によって編隊規模はちがう。

 イーグルが続々と着陸する。そんな中で気付いたのですが、ここは官民両用空港なのですが全く民航機を視ません、いや正確には全部新千歳空港へ降りている、離陸も同じく新千歳空港に。これはこの写真を撮影しました少し後の話なのですが、新千歳空港は凄い事に。

 F-15とB-777の千歳航空祭、その後は夕方の早い航空便で帰路に就いたのですが、なんと旅客機が大混雑に。そういえば千歳基地は国際線と滑走路を共用していますが、旅客機を航空祭で近くには見なかったなあ、というのは全て新千歳空港に振り替えて運行していた。

 千歳基地は国際線と自衛隊、新千歳空港は国内線、という割り振りになっていますが、この日は全部民間機は新千歳へ。結局航空祭にともなう航空混雑が凄いことになっていました。いや実は前日の予行時点で航空過密は始まっていまして、前日から混雑は続く構図へ。

 新千歳空港で旅客機を撮影していますと、大空港二十四時、という雰囲気は凄くよかったのですが、利用者の面からは厳しいものがあったのでしょうか。滑走路一本の百里基地航空祭や小松基地航空祭は譲り合って運行と航空祭を両立できていますから、考えることも。

 政府専用機が着陸態勢へ。小松基地航空祭等によく展開しますと、民間旅客機の発着も航空祭の一部のように行先や出発地がアナウンスされ、共存している印象でした。観光過多の時代、千歳基地航空祭の自衛隊にもこうした配慮は将来必要になるようにも、思います。

 政府専用機B-777、こちらは747の運用、最盛期100機以上を運用した日本航空が終了し、全日空も終了する事から整備支援、特に要人訪問先での支援を受けにくくなるとして終了した経緯があるのですが、エアバスA-350やボーイング787の普及、777は今後どうなる。

 日本航空の747運用終了を念頭に状態の良い中古機を10機程度取得し、国連支援等国際協力の輸送機として使用してはどうか、とは大昔に此処でも提案したのですが、結局は777の時代に。その後全日空がエアバスA-380を導入など、いやはや航空時代は正に戦国だ。

 政府専用機格納庫前のB-777,こう書くと爆撃機のような印象で本来はC-777とするべきなのかもしれません。政府専用機、といいましても首相専用機や皇族専用機ではなく、実質的には単なる大型輸送機、先代の747はイラク派遣で自衛隊の人員輸送機にも用いられた。

 VC-777ではなくC-777,というべき機体ですが、例えば欧州の地域大国でも要人輸送機にこの規模の機体を有している事は無い、とは論調があります、これは事実だ。しかし、故に日本のB-777は無駄だ、と云われますと肯定は出来ない、これは単なる輸送機だからです。

 B-777,欧州の地域大国は要人輸送機に小型旅客機だけしか有していない場合でも、空軍が輸送機としてこの規模の機体を有している事例が多く、結局VIP専用機とは別に長距離を輸送出来る旅客機は必要なのですね。故にVC-777は不要だがC-777は必要、となります。

 三沢基地F-16の展示飛行が始まる。いやいや政府専用機の写真を説明していたのにいきなり戦闘機の写真かよ、と唐突さに憤る方も居るかもしれませんが、実際、B-777が誘導路を進む最中にF-16が離陸し、機動飛行を始めたのです、まるで海外のエアショーみたい。

 F-16デモフライトチームは太平洋空軍が有し、同盟国や友好国にF-16の実力を誇示し、併せて導入を薦める展示飛行を任務としています。だからこのG3Xでは追随できない、と言いますか一眼レフでも28-300mmでは厳しい、300mmF2.8を持ってくるべきでしたね。

 F-16,機体としてはF-2戦闘機よりも搭載レーダーの大きさや武装搭載能力で劣りますが、毎年のように近代化改修や改良が繰り返されている、いやいや、いまやブロック72という。F-2はF-16ブロック52以上の性能がったというが、その後の改良で格差が生じています。

 F-2とF-16,一眼レフで比較するならばF-2は古いフルサイズカメラでCANONでいうならばEOS-5DmarkⅡあたり、F-16は改良が続く最新のAPS-C機種、CANONでいうならばEOS-7DmarkⅡというところか。F-2も改良型を造り続ければEOS-5DmarkⅤとなれたか。

 B-777の地上展示、政府専用機は二機あるのですから、二機並べてくれれば、とは周りの方の声でした。ただ、B-747の時代も最後の一般公開となる昨年の千歳基地航空祭で初めて二機が並んだのですから、あまりぜいたくを言ってはいけませんね。贅沢言いたいけれども。

 快晴が良かった、政府専用機は純白の機体に真紅の線が伸びる、ボーイング747の時代からの伝統といえる塗装です。純白の塗装は青空に映える、曇天ですと迷彩とまでは行かずとも、やはり空に溶け込んでしまいます。真紅も蒼穹と対比できるようなこの天気が良い。

 千歳基地を代表するB-777とF-15,F-15だけでしたらば小松基地でも那覇基地でも並ぶ様子は見えますし、政府専用機だけならば羽田空港で首相外国訪問の際に御見送りを兼ねて撮影する事は出来ます、この二つの調和という情景、千歳基地航空祭らしさ、ということ。

 B-777,今年の千歳基地航空祭で少しだけ残念だったのはF-15の列線が短く、北日本防空の要衝という荒鷲の大群を堪能できなかった事、そして政府専用機の地上展示が航空祭後半、地上展示の政府専用機と共に見上げる大編隊、という構図が撮れなかったことでしょうか。

 千歳基地航空祭はまだ続きます、ブルーインパルス、令和時代初の飛行展示が間もなく始まる、ただ、ここはもう一つの撮影位置、千歳基地全景と恵庭岳を借景に北海道の壮大な景色を撮影できる場所、南千歳駅前の撮影位置へと、撮影位置の陣地変換を開始しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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令和元年度八月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2019.08.17-08.18)

2019-08-16 20:03:00 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 台風10号に伴う混乱の中皆様いかがお過ごしでしょうか。今週末の行事紹介です、ただ、今週末はお盆明けで富士総合火力演習予行が始まる以外行われません。

 今週末に自衛隊行事無し、そうした週末にはやんわりとお家の目の前商店街でランチタイムを愉しみたいところですが、一つ、地元に近い自衛隊駐屯地や自衛隊基地廻りのランチタイムめぐりといいますか、グルメ開拓と洒落てみてはどうでしょうか。行事当日などに遠方からの友人知人と、二次会、一次会は駐屯地グルメ、二次会向け場所を探す意味で。

 自衛隊基地は全国に多々ありますが、やはり地元の情報は地元の方に聞くのが一番、しかし、普段から情報を集めておかないと、某方面混成団駐屯地近くの駅から2駅行ったところの目の前商店街名物蕎麦屋が日曜日ランチ無しだったり、某方面後方支援隊駐屯地近くの某阪急特急停車駅前の鮨屋に案内したところ、日曜定休日、という事が在ったりします。

 地元の人たちの情報を頼りにしてくる場合、まあ、ご飯の話ばかり聞くのは主として当方のような気もしなくはないのですが、地元民の沽券で案内しておけるようしたいものですね。それをやってみた友人がカレーめん探しで、ああ、この部隊新年度から本州にめずらしく90式戦車へ装備更新するんだ、という妙な情報を知ってしまったりしたようですが。

 さて撮影の話題を。真夏の自衛隊行事、悩みどころは熱中症対策と日焼け対策です。熱中症を予防するには素早く水分補給、とはいっても演習場や港湾のど真ん中には自販機も水飲み場も無いものなのですが、この部分は事前にペットボトル飲料を大量に準備して、真夏の航空祭では500mlペットボトルを四本も準備したらばほぼ大丈夫でしょう。問題は日焼け対策のほう。

 帽子や長袖、は基本なのですけれども、意外な盲点が手の甲でした。考えてみると当然ですが真夏の航空祭から帰ってみると、いや帰路の空港で既に右手の甲が妙に赤く日焼けして炙られたような軽い疼痛が、もちろん大事にはならなかったのですが、思い起こせばここはカメラを構えた際に真上、日光の直射を受ける最前線となるのですね、当然の結果だ。

 直射日光は首筋などもこんがり危険な事にしますので、帽子も帽垂のついた旧軍の様なものを準備した方が良いですし、アスファルトではなくコンクリートの方が紫外線を含め反射しますので対策が必要です。これ、紫外線を前に酷使しますと数年後に響くよ、との友人の言葉もあり準備はしていたのですがサングラスでも限界があり、日本の夏の厳しさだ。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

今週末の行事なし

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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令和元年終戦記念日:戦後発展同義の敗戦下,七四年の長い日々と多文化共生時代の戦後継承観

2019-08-15 20:11:26 | 北大路機関特別企画
■戦後日本価値観の共有に難題
 本日は台風下の終戦記念日です。空しい程の快晴だったとの昭和20年8月15日を象りブルーインパルスの写真とともに。

 昭和は平成を経て令和元年となり、今年も終戦記念日がやって参りました。終戦記念日、遠い昭和の時代と呼ばれる74年前の今日、350万の人命が戦禍に潰え1000万の国民が住居を失いました、戦域は全世界に延焼し、昭和20年8月15日、日本は連合国へ降伏の意志を示し国民に布告しました。これが八月十五日、太平洋戦争が終戦となった日です。

 戦争経験の継承、これは難しくなるのかもしれません、太平洋戦争という巨大な戦争の国民の記憶、最大の理由は少子高齢化ではなく外国人材や移民というものでしょう。移民に戦争経験と利きましても第二次世界大戦を思い浮かべる方は少ないでしょう、それほどに世界は第二次世界大戦後に戦争を経験しています。そしてその問題は現在進行形でもある。

 太平洋戦争の敗戦、その後の平和憲法制定、世界に強国として復帰した戦後復興、日本の戦後はこの三点が包括化されています。しかし、平和憲法には非武装の概念が盛り込まれています。これはしかし防衛力を欠いたことで故郷が戦禍に晒された経験のほうが、世界的に見て普遍論なのかもしれません、例えば中国など。少なくとも日本は例外といえた。

 戦後復興としましても、戦争に負けたことにより経済大国となった事例、これこそ特殊論ではないかと思う、抜本的な敗戦から国土が回復した事例、日本の他はドイツくらいではないか、これら包括し終戦記念日を新しいはじまり、憲法論で言うところの八月革命説というような視点に立つことは、多極化する日本社会においては受け入れられないでしょう。

 令和時代、世界を見渡せば平成最後の年頃に世界最後の”第一次世界大戦従軍兵士”が天へ旅立たれました。第一次世界大戦は1919年の終戦、第二次世界大戦は1945年終戦、期間には戦間期の幅はありますが、終戦から74年、当時16歳で学徒動員された若い兵士でも令和元年には90歳に達します。経験者からの太平洋戦争を知ることは難しくなります。

 終戦の概念だけが徐々に曖昧模糊として継承されることとなるのですが、併せて国境内戦経験者、朝鮮戦争経験者、湾岸戦争経験者、アフガン戦争経験者、イランイラク戦争経験者、ヴェトナム戦争経験者、ウクライナ東部戦争経験者、帰化により増えてゆくでしょう。遠くない将来、終戦の記憶というものは概念を越えるものではなくなるのかもしれません。

 戦争経験と云いますと、第二次世界大戦を思い起こす方、経験していなくとも“あの戦争”という共通認識が太平洋戦争を示す、これが長く日本社会の基本でした。しかし、ヴェトナムで問えばヴェトナム戦争、韓国では朝鮮戦争、中東では中東戦争や湾岸戦争にイラク戦争、イエメンやシリアでは現在進行形のものを示します。勿論中には移民希望もいます。

 74年は実のところ長い、大政奉還は1867年、ここに74年を重ねますと1941年となります、1941年はハワイ海戦、即ち真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまった年です。終戦から74年、太平洋戦争終戦から74年ですが、維新の動乱から74年を経た、と回顧するかたは、どのくらい居たのでしょうか。74年とはそれほどに壮大な月日であることを示します。

 終戦の概念への回帰、この認識すべき視点は、戦争を回避するための防衛力の位置づけ、特に努めて抑制して、という我が国防衛政策、国際関係の原点が変容しうる事を意味しています。戦争を犠牲とともに回避へ堪え忍ぶよりも、自分の生命や家族の生命だけではなく将来と幸福追求権も含め、自衛とその拡大という選択肢が天秤に掛けられた際、どうか。

 昨今隣国が行うような浅はかといえる選択肢を優先する潮流が醸成されるのではないか。昭和初期の話だろう、と終戦の記憶を継承する事が難しくなった際に、新しい日本の価値観、国際関係と防衛政策や平和政策への価値観の一致をどのように図るのか、という視野も含め平成の次の時代を考えねばならないのかもしれません。令和元年終戦記念日は、こうした日でもあるのですね。

 終戦の認識継承、この難しさは日本よりも一足先に多文化教生を実現させた同じ枢軸の盟友ドイツにおいて現実のものとなっています。その背景とはトルコ系移民の増加が戦後復興の短期労働者が定住化したことで顕在化し、結果的に民族差別というものも内包されているものと差し引くべきなのでしょうが、戦争に関する認識の多様化を生んでいます。

 ドイツの戦争認識は、特にシリア移民の急増とともに第二次世界大戦いおいて浮き彫りとなったユダヤ系ドイツ人への認識が、イスラエルとシリアの国家間関係を間接的にドイツ国内の過去の問題を掘り起こす構図として再認識させられることとなりました、ドイツへ帰化した場合、隣国が求めるような加害側としての認識を共有等は、できるのでしょうか。

 日本には永住外国人、その帰化にさいして、終戦の記憶を継承し且つ共有できるのか、という命題があります。永住外国人の多数を占める諸国では自国を被害者と位置づけた上で加害国という関係を戦後今日に至るまで継続しており、この二国間の問題が日本国内に置ける価値観の分断へ発展する懸念、という認識も必要です。何より民主国家なのですから。

 74年とは確かに応仁の乱に幕末や戦国時代と比較するならば検証は可能な領域、資料や文献は勿論、まだ当事者も存命です。しかし言い換えるならば、資料や文献は余りに増大であり、その体系樹は巨大化していることが全体の輪郭を画一化することを阻んでいます。更に74年前とは記録に映像と記録保全が定着した後の、情報過多の時代でもあります。それ故に情報の洪水下に曖昧模糊となる戦争を今後どう考えるか、未来への課題でしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【映画講評】アルキメデスの大戦(2019)【5】戦争は数学のみで結論は出し得えるのか

2019-08-14 20:13:12 | 映画
■令和に映画が回顧する昭和
 映画のネタバレ無しの予備知識特集は観艦式写真と共にお送りするこの第五回が最終回です。令和時代に昭和の戦争を回顧する映画、その特集を終戦記念日までに終わらせられました。

 日本が太平洋戦争に打ち勝つシナリオ、数十通りはあったのだと、おもう。しかしアメリカに負けるシナリオは数千通りあった、これは国力の差が大きい。ただ、打つ手が早ければ早い程、日独伊蘇四箇国同盟や日米英連合国の結成、戦争を回避する選択肢も見出せました。始まった後も若干あったが、手持ち戦力を最大限活用しなかった事は、悲惨でした。

 映画“アルキメデスの大戦”、主人公はアルキメデスの再来と云われる程の数学の天才的人物であり、帝大生を海軍が最良の人材として海軍へ誘致した、という。ただ、原作は既に16冊が刊行しているとの事ですが、映画は戦艦大和建造から、そのCMを視る限り戦艦大和が坊ノ岬沖海戦で撃沈されるまでをえがき、主人公は大和建造に反対していたという。

 終戦といいますと戦争は昭和、今はその後の平成を経て令和時代となりました。昭和は遠くになりにけり、とは戦後74年を経て実感するところですが、戦争映画、史実を元にしたフィクションとはどの程度史実を元にしたかの多寡は有るのですけれども、創作物を原作とした映画という一つの表現方法をもって広く公開する以上、求められるものはある、と。

 史実との境界線を曖昧としたものをそのまま放置しておくことは、果たしてどういうものなのだろうか、と考えるものです。アルキメデスの大戦、本作品の映画を念頭にしかし、戦艦大和、というものを扱う以上、これは戦艦大和そのものは、排水量から艦砲の口径はもちろんその最後まで情報を得ることは情報化社会、それほど難しいものではありません。

 しかし、多くの創作物や映画に示された戦艦大和とは対照的に、戦艦大和とその時代、という認識には視野狭窄になってはいないでしょうか。戦艦よりも空母を重視しなければ、という時代であってもそれがそのまま戦艦不要論に至るのは、戦闘機が多用途化し超音速機時代が到来する先の話です。これを度外視し大和型戦艦が叩かれるのはフェアではない。

 建造の背景や当時の海上戦闘、いや、シーパワーという広い視野まで俯瞰した上で戦艦大和をみなければ、その背景は一般論として誤解があるのではないでしょうか。しかしフィクションであるとしつつ、ここで知識を完結した場合に広がるものが誤解であり偏見ではないか、と思う、これが我慢できず、一視点を、こうした視点から本特集は作成しました。

 戦艦大和、反論有れば受け入れますが、日本の選択肢としてはあれが一つの最適解であり、大和型戦艦2隻の建造を他の航空母艦などに転用したとしても空母機動部隊の護衛という問題は解決できず、代替案としては戦艦大和2隻分の建造費用で4隻を量産でき、且つアメリカが計画する新戦艦、アイオワ級等に対抗し得る戦艦が在り得たならば、代替案として成り立ったのでしょうか。

 戦艦信濃、日本海軍は大和型戦艦三番艦をより少ない資材で建造可能な航空母艦へ建造中に変更しています。大和型戦艦を批判的に考えるならば、日本海軍は技術的奇襲を図り、大和型戦艦が諸外国の15インチ砲や16インチ砲を遥かに凌駕する18インチ砲を搭載する事を秘匿し、艦隊決戦にてその威力を実戦で奇襲的に発揮しようとした構図が在ります。

 批判的に考えるならば、アメリカの新戦艦が建造開始となった時点で、日本の新戦艦はアメリカの16インチ砲を凌駕する18インチ砲を搭載する事を抑止力として誇示していれば、ドレッドノートショック、最新戦艦誕生で一夜にして従来艦が陳腐化する、こうした影響を与え、アメリカ海軍に空母以上に戦艦を新造へ走らせる効果はあったかもしれません。

 しかし謎なのは現実の日本海軍です、何故戦艦を活用しなかったのか。アメリカ海軍よりも戦艦数で優位になった真珠湾攻撃、2隻を除けば1944年までに損傷戦艦は現役に復帰します、が、真珠湾攻撃の時点では日本の戦艦数が優位でした、アメリカは元々オレンジプランとして対日戦では戦艦の活用を構想していただけに日本の艦隊決戦回避は僥倖でした。この矛盾を映画で主人公は気付くのか。

 イギリス東洋艦隊への攻撃、日本海軍は開戦三日後のマレー沖海戦においてイギリス戦艦プリンスオブウェールズと順応戦艦レパルスを撃沈しました。しかし、イギリス東洋艦隊は拠点をシンガポールからインドのトリンコマリへ移設し、戦艦ウォースパイトやダーラム等戦艦5隻を派遣し、インド洋制海権維持に当りました。真珠湾攻撃はここでも衝撃だ。

 南雲艦隊のインド洋作戦、真珠湾のアメリカ戦艦全てを撃沈乃至大破させ例外的にドック入の戦艦が小破で済んだのみの状況を再現されてはたまらない、とイギリス東洋艦隊は戦艦を1300km離れた泊地に、続いてアフリカ沿岸マダガスカルまで退避させます、見敵必戦主義のイギリスには例外的な艦隊温存主義を採ったといえるのですが、此処が問題です。

 ドイツイタリアはイギリスとの間で北アフリカ地域において激戦を繰り広げ、太平洋戦争開戦と共にアフリカ戦線へもアメリカ参戦が本格化する中、地中海の要衝マルタ島を巡る攻防が激化、こうした中で物資供給と兵員供給の巨大な後方拠点であったインド亜大陸と欧州との兵站線遮断へ、日本へイギリス東洋艦隊撃滅を繰り返し要請しています。幾度も。

 イギリス海軍の1941年マレー沖海戦後での行動可能な主力装備は戦艦10隻と巡洋戦艦1隻に航空母艦9隻、内増派された東洋艦隊には戦艦5隻と空母3隻が配備されていました。この中で空母ハーミーズは南雲艦隊のインド洋作戦において撃沈されますが、戦艦5隻はアッズ環礁やキリンジニ、アフリカまで退避し無事でした。日本戦艦は活躍を期待される。

 イギリス東洋艦隊は戦艦ウォースパイト、戦艦レゾリューション、戦艦ラミリーズ、戦艦ロイヤルサブリン、戦艦リヴェンジ、等。日本が使用していなかった第一艦隊の戦艦長門、戦艦陸奥、戦艦伊勢、戦艦日向、戦艦扶桑、戦艦山城、を投入した場合は撃滅できた戦力比であり、この艦隊決戦を実現させていれば、北アフリカ戦線の状況は一変したでしょう。

 日本は艦隊決戦の好機を逸した、それもアメリカ太平洋艦隊が真珠湾攻撃後にアメリカ西海岸方面へ艦隊決戦を行う機会を逸したのに続いて、です。そして兎に角日本は第一艦隊を本土に温存しなければならない程の切迫した脅威はありません、強力な戦力を戦時下に放置に近い形で運用、同盟国の要望にも応えなかった、完全な運用失敗でしかありません。

 イギリスは、しかし本国艦隊に強力な戦艦群を温存する必要がありました、テルピッツの脅威が在ったため。ビスマルク級戦艦ビスマルク、その通商破壊作戦の阻止に出たイギリスは最大の水上戦闘艦である巡洋戦艦フッドを撃沈され、最新戦艦が大破、反撃に戦艦3隻と巡洋戦艦1隻に巡洋艦14隻と空母2隻を集中し、漸くビスマルクを撃沈しました。

 テルピッツが再度出航した場合に備えイギリスは戦艦を本土に温存する、逆に言うならば日本はアメリカ海軍を相手に全力で戦いましたが、世界第二位の海軍国イギリスが日本と戦いつつ、その巨大な戦艦群が1945年まで日本へ本格的に反撃を加えてこなかったのは、同盟国ドイツのテルピッツが、1944年10月まで一身に引き付けた為、といえましょう。

 アルキメデスの再来と云われる程の数学の天才的人物、実際には日本には数多居たとしても戦争指導に影響力を及ぼすほどの人物、人材を活用する能力はありませんでした。既存の戦艦さえ、しっかりと活用できていないように思いまして、戦艦を動かせば大量の燃料を消費する、故に使わないか、戦艦を護衛に充て更に大量の燃料を運ぶか、此処の違いが。

 強い軍隊とは、奇想天外な新戦術や運用方法を巧みに取り込む、幕僚と指揮官に支えられた組織、といえるのではないでしょうか、この点変人とか仙人と云われる参謀を日本は抱えていましたが、戦略論といいますか、作戦体系を一変させる様な天才の指摘を実運用に内部化、強い軍隊に必要な人材はアメリカ軍の方に揃っていた、といえるのかもしれない。

 海軍作戦部長キング大将と太平洋艦隊司令官ニミッツ大将、アメリカにアルキメデスの再来という程の天才が居たかはさておき、コロンブスの卵的な発想の天才は居ました。アメリカにとっての僥倖はその内の二人が海軍作戦部長と太平洋艦隊司令官であった、ということ。いや、この発想が出来るからこそ海軍作戦部長と太平洋艦隊司令官に着任できたか。

 太平洋戦争開戦当時、アメリカ太平洋艦隊はハワイの太平洋戦域司令部と豪州ブリスベーンの南西太平洋戦域司令部にニューカレドニアに南太平洋戦域司令部、続いて開戦半年後にアラスカに北太平洋戦域司令部が置かれました。戦域司令部が空母任務群や水上任務部隊を相互融通していたのですが、この運用には無駄が多い、遊兵の比率が高かったのです。

 第五艦隊と第三艦隊という運用がここで考案されました。大規模作戦を立案するには万全の事前情報と偵察や情報分析を行い戦力蓄積と物資集積を行う。これは時間と労力を要するものですが、主としてその任務は司令部と幕僚の主管、第一線部隊は作戦発動までそれ程影響がありません。その間に部隊を訓練だけ行い休養に充てるのは戦時下で無駄が多い。

 海軍作戦部長キング大将と太平洋艦隊司令官ニミッツ大将が考えた施策は、スプルーアンス大将に第5艦隊を、ハルゼー大将に第3艦隊を充てる、という結果で、その上で太平洋艦隊の全艦艇と航空機を、陸軍支援に充てる第7艦隊は別として、作戦に当るスプルーアンス大将第5艦隊かハルゼー大将第3艦隊、どちらかに全てを付与する、という案でした。

 スプルーアンス大将第5艦隊かハルゼー大将第3艦隊、スプルーアンス大将第5艦隊が作戦立案中にハルゼー大将第3艦隊が実任務の作戦に当り、これが完了したならばハルゼー大将第3艦隊が作戦立案中にスプルーアンス大将第5艦隊が実任務の作戦に当る、押印にも休養は必要ですが長期休暇を年に何度も充てる必要はない、その為のこの施策といえる。

 日本海軍はスプルーアンス大将第5艦隊とハルゼー大将第3艦隊、どちらが相手でもアメリカ太平洋艦隊の全力が向ってくるように見え、実際事実なのですが、両方に大量の艦艇が配備されていると誤解する参謀や指揮官も多かったようです。全ての艦艇を投入するからこその数の優位により損害は少ない、故に次も新造艦を加えて数的質的優位を維持する。

 コロンブスの卵的な発想です。もっとも、この発想は戦前に計画された対日戦争計画“オレンジプラン”が大西洋正面への戦艦と空母の必要性、更に真珠湾攻撃により戦艦部隊主力が一挙に作戦不能となり、当初の一年半で南西諸島まで漸減し、戦艦同士の艦隊決戦で日本海軍を全滅させる施策が戦艦戦力で劣勢となり瓦解した故の苦肉の選択肢でしたが。

 鳳翔、赤城、加賀、龍驤、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、大鳳、雲龍、天城、葛城、信濃、祥鳳、瑞鳳、大鷹、雲鷹、冲鷹、飛鷹、隼鷹、龍鳳、海鷹、神鷹、千歳、千代田、日本海軍が太平洋戦争に投入の空母は以上の通り。戦艦は、金剛、比叡、榛名、霧島、扶桑、山城、伊勢、日向、長門、陸奥、大和、武蔵。日本はこれらを本当に使い切ったといえるのか。

 ハワイ作戦、真珠湾攻撃により戦艦の数で優位に立った日本に対しアメリカは艦隊決戦の構想を断念し、珊瑚海海戦により空母の戦力でも優位に立った日本は、しかし指揮系統の問題から、この時機を最大限活かす事が出来ませんでした。日本海軍には空母は戦艦の倍以上あり、更に踏み込んだ作戦を行うならば米豪遮断や太平洋艦隊根拠地制圧は出来得た。

 物量で負けた、とは太平洋戦争の回顧に定番となる表現でしたが、それだけなのか。あれだけの戦艦と空母を有していた日本海軍は集中運用を行えば戦域内の数的優位を維持できる局面は数多ありました。物量で負けたのではなく、保有する物量を集中運用させる為の努力の不徹底があった、と云代える事は、エセックス級空母の数が揃うまでは説得力があるように考える。

 映画“アルキメデスの大戦”、主人公はアルキメデスの再来と云われる程の数学の天才的人物という事ですが、戦争は数学のみならず哲学や歴史学と技術論も絡むものです。例えば装備で勝てずとも、将来的に物量で完全に優位を失うとしても、手持ちの戦力を最大に活かせるような、コロンブスの卵的な発想が出来る人物として描かれているのか、意見を集約し活かせる組織と出来る指揮官が居るのか、興味がありますね。

 こうした作品に対し、フィクションに辛辣であるような印象をもたれるかもしれませんが、史実を再現する創作物、史実を元にした創作物、史実に触れた創作物、細分化できるものです。その上で、幸いにしてと言うべきでしょうか、日本では外国からの帰化した方や外国人材の方々が母国で経験した戦争を除けば戦争に触れるには難しい社会となっています。

 戦争に反対することは簡単ですが、戦争を予防する具体的論理や戦争を回避する手法、逆に戦争を誘発する論理と戦争を回避できなくさせる手法の曖昧な、しかし確たる境界線については関心度はどの程度高いのか、と考えることもあります。すると、第二次世界大戦を扱う内容で、体系的な錯誤や脚色については、どうしても指摘したくなる、私見故に本論をまとめました。


北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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令和核軍拡危機【2】究極の専守防衛,自国内戦術核使用!イタリア/ベルギー/オランダ/トルコ

2019-08-13 20:16:01 | 国際・政治
■ニュークリアシェアリング
 自衛隊は違うのですが欧州では例えば日本が北海道に上陸したソ連軍を撃退できない場合に札幌近郊で核攻撃、中国軍を沖縄本島で核攻撃、という感覚の運用があります。

 AFP報道に“ベルギーなどに米核兵器配備、野党議員らが政府に説明要求”と云い驚きの報道がありました。NATO国会議員会議Webサイト上にあやまってニュークリアシェアリング用の戦術核兵器配備先が掲載されてしまった、という。欧州NATO域内には戦術核兵器が配備されている事は冷戦時代から明確に示されていましたが、再確認されたかたち。

 戦術核の前方展開、今回改めて考えさせられたのは、核兵器整備部隊と共にアメリカはNATOの北大西洋条約への義務を履行すると共に、欧州は冷戦後に在っても、アメリカの核抑止力に依存している現状が示された形です。現時点でロシア核戦力の脅威はINF中距離核戦力全廃条約にて抑止されているにも拘らず、核抑止依存が浮き彫りになったかたち。

 欧州NATO諸国に配備されているのはB-61戦術核爆弾、配備先はベルギーのクライネブローゲル空軍基地、イタリアのアビアーノ空軍基地、同国ゲディトレ空軍基地、オランダのフォルケル空軍基地、トルコのインジルリク空軍基地という。B-61核爆弾は自由落下方式の戦術核で、小型ゆえに核物質整備は重要ですが、戦術航空機の多くに搭載可能です。

 トーネード攻撃機やF-16戦闘機、F-15E戦闘爆撃機やF/A-18E戦闘攻撃機、ジャギュア攻撃機にハリアー攻撃機に搭載可能です。自由落下方式であるため、運用は近距離に限られ、ニュークリアシェアリングは欧州域内で戦術核使用が必至となった際に、NATOから領域国に緊急供与、領域国が自国内で使用します。自国民を巻き込む為にこの方式を執る。

 クライネブローゲル空軍基地、ベルギー国内のオランダに近いピアー市近郊に位置しています。ベルギー空軍のF-16戦闘機飛行隊の基地であると共にアメリカ軍お航空部隊は展開していませんが第701器材支援中隊が展開している。ドイツの在欧米空軍戦略拠点シュパングダーレム空軍基地から支援を受けていますが、シュパングダーレムに核はありません。

 アビアーノ空軍基地、イタリアのヴェニス市から北方90kmに位置し、第16空軍司令部やF-16戦闘機二個飛行隊を展開させ東欧地域や北アフリカ地域への第401遠征航空軍拠点と位置付けられていると共に海軍拠点であるナポリ基地やガエータ基地とラ-マッダレーナ基地への戦略空輸拠点、アメリカ陸軍空挺部隊の戦略策源地としても位置付けられています。

 ゲディトレ空軍基地、イタリア北部に1909年に創設された欧州でも最も古い飛行場の一つであると共に第二次大戦中にはドイツ空軍がMe-262ジェット戦闘機を配備した世界で最も古いジェット戦闘機部隊の基地、1952年まではアメリカ軍戦闘機部隊が展開していましたがイタリア空軍へ移管、現在はイタリア空軍のトーネード攻撃機部隊が展開しています。

 フォルケル空軍基地、オランダ北ブラバント州に所在し、“遠すぎた橋”として有名なアイントホーフェンから30kmに位置します。オランダ国内に三箇所しかない航空基地の一つでありオランダ空軍F-16二個飛行隊が展開し、将来的にはF-35戦闘機が配備されます。アメリカ空軍の戦闘機部隊は展開していませんが、第703弾薬支援隊が派遣されている。

 インジルリク空軍基地は1954年にアメリカ戦略空軍の戦略爆撃機と空中給油部隊用の基地として整備されました。トルコ第四の都市であるアダナ近郊に在り、加えて中東地域への要諦であるシリアトルコ国境に隣接し地中海沿岸にも近い事から補給を受ける好立地、アメリカ空軍は平時からKC-135空中給油機と共にF-16戦闘機48機を展開させています。

 B-61核爆弾は上記各航空基地へ20発から40発が配備されているとされる。核兵器は核物質を確実に整備しなければ不完全核爆発となる為に整備施設も併設されており、B-61核爆弾は1ktから340ktの可変式核爆発機能を有しています。運用に際しては少数機が分散し、内一機が戦術核を搭載、戦車師団規模密集目標に対し、周辺住民巻き込む覚悟で使用する。

 今回妙に感心したのは、ドイツ国内のシュパンダーレム空軍基地やラムシュタイン空軍基地、在欧米空軍の戦略拠点へ戦術核が配備されていなかった点です。これはクリントン政権時代に在独米軍基地からの核兵器撤収が確約された二国間合意を履行していた構図で、また、独自の核戦力を持つイギリス在英米軍レイクンヒース空軍基地も含まれていません。

 今回の問題は、しかし欧州に戦術核が前方展開している事を再確認した事ではありません、欧州が戦術核を前提とした安全保障枠組を維持している事であり、精密誘導兵器などに代替されず防衛計画に内部化されている点でしょう。言い換えれば核を不要とする程の通常戦力近代化に充分な努力を果たしていないところに、現代の核拡散問題の根底が在ります。

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【映画講評】アルキメデスの大戦(2019)【4】完全に戦力を使い切ったといえるか

2019-08-12 20:05:53 | 映画
■悲劇は連合艦隊の戦艦軽視論
 アルキメデスの大戦、間もなく終戦から74年ですが戦争を扱う映画は徐々に歴史を扱う映画となりつつある中、やはり予備知識が無ければ誤解しかねません。

 金剛、比叡、榛名、霧島、扶桑、山城、伊勢、日向、長門、陸奥、大和、武蔵。この中で金剛、比叡、榛名、霧島は金剛型戦艦であり高速戦艦であった事から空母に随伴できるとして重宝されました、が、他の戦艦を活用していない事は、実のところ戦争指導の観点から不徹底が在ったのではないか、と思う。戦艦を使い切れていなかった、という構図です。

 真珠湾攻撃のハワイ作戦とミッドウェー作戦では一応主力戦艦軍は支援名目で小笠原まで前進、ミッドウェー海戦でも主力後方600kmに布陣し決戦を準備していましたが活躍の機会は無く、戦艦群はトラック諸島の泊地や、泊地と基地間の移動に際し物資を便乗させる輸送支援が行われた程度、金剛型以外の戦艦の動員は1944年6月のマリアナ沖海戦です。

 ハワイ海戦の真珠湾攻撃が成功し、太平洋正面では日本が戦艦数で優位に立っていました、撃沈以外に大破し行動不能の戦艦を除けば日本が優位であり、当初計画の小笠原方面での艦隊決戦を繰上げ、ハワイ東方海域へ第1艦隊主力を展開させるならば、艦隊決戦により大西洋方面から増援のアメリカ戦艦を含め壊滅的な打撃は与え得たのですが、しなかった。

 戦艦アーカンソー、戦艦ニューヨーク、戦艦テキサス、戦艦ネヴァダ、戦艦オクラホマ、戦艦ペンシルヴェニア、戦艦アリゾナ、戦艦ニューメキシコ、戦艦ミシシッピ、戦艦アイダホ、戦艦テネシー、戦艦カリフォルニア、戦艦コロラド、戦艦メリーランド、戦艦ウェストバージニア、戦艦ノースカロライナ、戦艦ワシントン、1941年時点のアメリカ戦艦だ。

 真珠湾攻撃を経てアメリカの行動可能な戦艦、要するに修理が完了したらば戦列に復帰する戦艦を除けばかなりの戦力を足止め若しくは撃破できていました。勿論南方作戦として空母や巡洋艦は多数必要でしたが、瀬戸内海に維持されていた第一艦隊の戦艦部隊と支援する第1水雷戦隊は任務の無い遊兵化しており、これを活用しなかったのは失策といえる。

 真珠湾後戦艦ニューヨーク大西洋、戦艦テキサス大西洋、戦艦ネヴァダ大破、戦艦オクラホマ撃沈、戦艦ペンシルヴェニア小破修理中、戦艦アリゾナ撃沈、戦艦ニューメキシコ大西洋、戦艦ミシシッピ大西洋、戦艦アイダホ大西洋、戦艦テネシー大破、戦艦カリフォルニア大破、戦艦コロラド修理中、戦艦メリーランド小破、戦艦ウェストバージニア大破に。

 日本が艦隊決戦を挑むとするならば、真珠湾攻撃後、1942年から1944年まで修理を要した戦艦を除けば即座に投入できるアメリカ戦艦は戦艦ペンシルヴェニア、戦艦コロラド、戦艦メリーランド、この三隻と大西洋から回航可能な戦艦アーカンソー、戦艦ニューヨーク、戦艦テキサス、戦艦ニューメキシコ、戦艦ミシシッピ、戦艦アイダホ、9隻のみです。

 大西洋から全ての戦艦を回航できる訳ではありません、ドイツの戦艦テルピッツが健在でイギリスはアメリカの戦艦支援を切望し続け、イギリスはイタリアの高速戦艦群と地中海で激戦を続けていました。大西洋から半数の戦艦を回航し、最新の戦艦ノースカロライナ、戦艦ワシントンを投入したとして、日本と戦艦の規模と数ではほぼ互角といえるのですね.

 日本の第一艦隊は、戦艦長門、戦艦陸奥、戦艦扶桑、戦艦山城、戦艦伊勢、戦艦日向、最新鋭の戦艦大和、以上戦艦7隻が在ります。空母の直衛に高速戦艦である戦艦金剛、戦艦比叡、戦艦榛名、戦艦霧島、これらを除いたとしても強力な戦艦7隻があるのですから、例えば西海岸方面へ第1水雷戦隊と併せて戦艦部隊を前進させれば艦隊決戦を行い得た。

 ドイツと激戦が続くイギリス救援へ、アメリカは真珠湾攻撃に伴う対枢軸参戦前の1941年時点でアイスランド進駐を行い戦艦二隻を派遣しています、ここに最新鋭戦艦ワシントンが含まれています。他に日本の長門型戦艦に対抗し得るコロラド級戦艦3隻のうち、ウェストバージニアは真珠湾で撃沈、メリーランドは小破、コロラドは本土で修理中でした。

 西海岸沖で日本海軍が最新鋭の戦艦大和、長門型戦艦や伊勢型と扶桑型戦艦により艦隊決戦を行う姿勢を誇示していたらば、これは行うと行わざるとに関わらず艦隊決戦、その後の西海岸上陸の可能性を示唆したならば、アメリカ太平洋艦隊は西海岸防衛に戦力を温存しつつ、南太平洋地域に艦隊を派遣する必要が生じ、戦力を大きく分断できたはずでした。

 伊勢型戦艦や扶桑型戦艦に長門型戦艦を活用しなかったのは何故でしょうか。戦艦は一旦動かせば大量の燃料を消費する、との反論はありますが、それは燃料を産油地帯から運ばない為です。例えば船団護衛、輸送船の代わりに便乗させるのではなく、梯団を組む船団の護衛に投入するならば、戦争遂行に必要な補給は幾らでもできた、それが海軍の使命だ。

 ペデスタル作戦、船団護衛としてイギリスが1942年8月に実施したマルタ島への燃料輸送作戦では、戦艦ネルソン、ロドネー。空母イーグル、ヴィクトリアス、インドミタブル、ヒューリアス、アーガス。更に巡洋艦7隻と駆逐艦24隻を投入し、イタリアのシチリア島南130kmのマルタ島へ輸送を成功させています。途中で空母1隻と巡洋艦2隻等を失う。

 マルタ島攻防戦、という1953年のイギリス映画に、ペデスタル作戦、それに先んじるマルタ島強行輸送作戦ヴィガラス作戦とハープーン作戦の失敗と戦時マルタ島の人々の営みが描かれていて、お勧めの映画です。閑話休題、日本の海上輸送、最初は潜水艦、続いて空母部隊を含むあらゆる方法で妨害されており、護衛に戦艦があれば結果は違った可能性も。

 伊勢、日向の2戦艦と巡洋艦大淀に駆逐艦3隻からなる完部隊を動員した1945年2月の北号作戦、フィリピン陥落により南方資源地域と日本本土の海上交通が最後に遮断される前の最後の輸送任務として、戦艦にドラム缶等を満載し、錫やボーキサイトに生ゴムと航空燃料を輸送する作戦が行われました。幸い偽装航路や秘密保持により全艦日本へ到着した。

 完部隊の北号作戦は大成功、と記録されつつ、戦艦や巡洋艦は輸送任務に向かず中型輸送船一隻程度の物資を輸送したに留まる、とは但し書きの評価です。しかし、同時期に南号作戦として、特務艇や特設軍艦と海防艦のみの護衛により南方から日本へ15回に及ぶ大型輸送船複数による強行輸送作戦が行われ、当然全て空母や潜水艦の攻撃で失敗しています。

 南方には重巡足柄、羽黒、といった行動可能な艦艇、レイテ沖海戦の生き残りである戦艦大和や戦艦長門、金剛、榛名、他艦艇が輸送支援に動員可能でした。北号作戦に並行し南号作戦の護衛に充てていれば、いやそもそも、レイテ沖海戦よりも前の改選から南方作戦完了の後、使う事の無くなった戦艦を輸送護衛に充てていれば、そんな素朴な疑問という。

 しかし、日本海軍は大きな組織でしたので、戦艦大和の建造に反対する論調は多くありました、中には35000t規模の、つまり大和型の半分程度の高速戦艦を量産する案もありましたが、更に中には、戦艦も空母も全部不要なので航空機に特化し、航空機だけを延々量産し、飛行場から制海権と制空権を取る、という大型艦不要論さえも、上層部にはあった。

 離島の不沈空母化、日本海軍には戦艦や航空母艦よりも航空機を不沈空母である島嶼部飛行場に集中させ戦域優位を確立する、との研究もありましたが、マリアナ沖海戦でその限界が突き付けられます。要するに離島飛行場は不沈かもしれませんが動けません、アメリカ海軍には艦載機各種100機単位の搭載能力を持つ大型の航空母艦が多数量産されました。

 離島にどれだけ戦闘機や攻撃機を集めてもそれ以上の空母が来る。空母は航空機の単なる発着場ではなく、整備施設であり弾薬庫であり燃料庫であり乗員の休息拠点でもある。航空機は簡単に離島間を移動できますが、整備施設始め基地機能の移動は簡単ではありません。また、空母機動部隊の随伴艦に匹敵する野戦防空能力も簡単には移動させられません。

 エセックス級空母、アメリカ海軍は建造中止を含め1942年から32隻を順次竣工させています、各空母には100機の艦載機を搭載できる、補助用に重巡設計を応用したインディペンデンス級軽空母が9隻、護衛空母は計画含め100隻以上、護衛空母は速力こそ艦隊空母と比して大きくはありませんが、船団護衛の他に海兵隊の対地攻撃機等を搭載しています。

 空母は集中と分散を迅速に行う事が可能ですし、発着を断念し飛行甲板目一杯に航空機を搭載し輸送任務に充てる事が出来ます。第二次世界大戦のような航空消耗戦では大陸や本土を除けば必須でした。要するに戦艦を持たず航空一本化の場合、離島飛行場に数千機を集中できる燃料や弾薬と整備輸送能力が無ければ、空母に包囲、殲滅されるということ。

 ただ、航空母艦を過剰に重視しますと、結果論ですがもう一つの問題に直面します。それは艦載機の大型化で、艦載機の大型化は母艦格納庫の天井高や甲板強度で、航空母艦に余程の余裕ある設計を採用せねば成り立ちません、この構図は実際、第二次大戦中の大型空母であったアメリカ海軍エセックス級空母も戦後には手狭となり、空母は大型化します。

 日本海軍が最初に完成させた空母鳳翔は第二次世界大戦の時期には大型化する艦載機を収容できない状況となっていましたし、零式艦戦の後継機として開発が進められていた烈風、初飛行は敗戦に間に合いませんでしたが、実用化出来ていたとしても搭載できる空母は相当大型、翔鶴型を再度生産せねば搭載は難しく、時代はジェット機時代を目前としていた。

 艦載機の大型化はアメリカではF-14A戦闘機とF/A-18Eで一段落します。中型空母でも搭載出来得る最先端の機体は、これから航空自衛隊が導入を開始するF-35Bまで世界は待たねばなりません。すると第二次大戦の時点でアメリカはミッドウェー級空母の建造を開始しますが手狭で、戦艦大和に匹敵するフォレスタル級空母の建造を待たねばなりません。結局世界は巨艦の時代へ向かう、皮肉ですね。

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