■雲龍院,走り大黒天と悟りの窓
雲龍といいますと旧海軍の航空母艦を思い浮かべる方が増える昨今ですが、こちらは京都の雲龍院、その静かな情景をお伝えしたい。

雲龍院、山号を瑠璃山として真言宗泉涌寺派の別格本山です。京都駅から南へ奈良線を一駅、東福寺駅を山手へ歩みを進めますと泉涌寺へと至ります。雲龍院の景色とは、悟りの窓、こう慕われる丸窓を向こうに借景の季節が移ろう情景で知られている寺院とおもう。

不明門を正門に拝すると至るお寺は、泉涌寺を歩き登る高台に在り、応安年間の1372年、後光厳天皇の勅願により創建されました。開山は竹巌聖皐、泉涌寺の拙叟全珍に師事し全国に真言宗を広めると共に泉涌寺住持となり、後光厳天皇勅願を受け雲龍院を開きました。

薬師如来を御本尊に拝するお寺は西国薬師四十九霊場40番札所で、庭園の寺院という印象、落ち着きある新緑の広がりが真夏にも涼しく、併せて湛える歴史は広がり天皇勅願寺院という皇室との所縁から後円融天皇、後小松天皇、称光天皇、帰依を受け寺領を広めました。

龍華院は本堂、建立当初の龍華院は室町時代の康応年間1389年に後円融天皇により建立されました。龍華院は拝観できるのですが御猿様が悪戯しないようとの注意書きが門扉に在り、此処が自然に包まれていると知る。ただ、文明年間の1470年に応仁の乱にて焼失する。

薬師如来坐像を中尊とし、日光菩薩と月光菩薩立像を脇侍とする三尊像が龍華院に拝観者を鈍色の後光を纏う如く迎えまして一拝します。この三尊像は鎌倉時代作といい、無論信仰の寄る辺故に写真模写は謝絶ですが、順路ではここから美しい庭園へと歩み至ります。

京都の文化財の多くと同じように応仁の乱にて焼失した龍華院は室町時代の内に後土御門天皇の寄進により再建されています。しかし惜しくもこの再建龍華院も失われ、江戸時代に入り寛永年間に再建と成りました。寄棟杮葺造であり、国の重要文化財となっています。

応仁の乱の被害は大きく、ほぼ全域が灰燼に帰しました。門徒の尽力も僅かに運び出せたものは後光厳天皇と後円融天皇の御尊像のみという。美しい庭園を借景のように御堂から愉しむ悟りの窓を始めとした気風とは、この灰燼の歴史と併せ考えると感慨深いですね。

雲龍院は拝観と共に願い出ればお茶を愉しむ事が出来ます。庭園の寺院と感じたこのお寺は、茶の湯と併せ時間の移ろいを頂くには一つの贅沢といえるところですが、庭園を一望する数多和室へ湯気立つお茶を並べ占有できます。泉涌寺ならぬ占有寺、ではないですが。

方広寺大仏殿、この雲龍院の庭園には秘密があります。安土桃山時代から江戸時代に遷る幕間の動乱、その始まりとなった釣鐘、国家安康君臣豊楽の文字が刻まれた事で知られる方広寺、その大仏殿の礎石が二つ、ここ雲龍院の庭園に移され、歴史を伝えているという。

泉山七福神巡り5番札所として雲龍院には大黒天立像が奉じられています。泉山七福神巡りはその名の通り泉涌寺の塔頭寺院七塔を巡る事で七福神を巡るという七福神信仰、毎年一月の成人の日には七福神巡りが行われる事もで知られます。これは案外歩かずともよい。

走り大黒天、泉涌寺雲龍院大黒天立像は台所に。特別な催し無く順路に走り大黒天へと至るのですが、不思議なのは台所と云えば比喩の台所ではなく文字通り朝餉昼餉夕餉の支度進む台所の日常と共に大黒天像が安置されていまして、拝観しますと何か不思議な気持ち。

絹本著色後円融院像や後奈良天皇宸翰の法華経と重要文化財が並ぶ雲龍院は、しかし庭園美しさと共に在る山門の向こうの伽藍と拝観しますと、成程紅葉や夜の特別拝観と季節の移ろいと重ね拝観を重ねたいとも感慨深い情景が広がります。今は、どんな情景なのかな。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
雲龍といいますと旧海軍の航空母艦を思い浮かべる方が増える昨今ですが、こちらは京都の雲龍院、その静かな情景をお伝えしたい。

雲龍院、山号を瑠璃山として真言宗泉涌寺派の別格本山です。京都駅から南へ奈良線を一駅、東福寺駅を山手へ歩みを進めますと泉涌寺へと至ります。雲龍院の景色とは、悟りの窓、こう慕われる丸窓を向こうに借景の季節が移ろう情景で知られている寺院とおもう。

不明門を正門に拝すると至るお寺は、泉涌寺を歩き登る高台に在り、応安年間の1372年、後光厳天皇の勅願により創建されました。開山は竹巌聖皐、泉涌寺の拙叟全珍に師事し全国に真言宗を広めると共に泉涌寺住持となり、後光厳天皇勅願を受け雲龍院を開きました。

薬師如来を御本尊に拝するお寺は西国薬師四十九霊場40番札所で、庭園の寺院という印象、落ち着きある新緑の広がりが真夏にも涼しく、併せて湛える歴史は広がり天皇勅願寺院という皇室との所縁から後円融天皇、後小松天皇、称光天皇、帰依を受け寺領を広めました。

龍華院は本堂、建立当初の龍華院は室町時代の康応年間1389年に後円融天皇により建立されました。龍華院は拝観できるのですが御猿様が悪戯しないようとの注意書きが門扉に在り、此処が自然に包まれていると知る。ただ、文明年間の1470年に応仁の乱にて焼失する。

薬師如来坐像を中尊とし、日光菩薩と月光菩薩立像を脇侍とする三尊像が龍華院に拝観者を鈍色の後光を纏う如く迎えまして一拝します。この三尊像は鎌倉時代作といい、無論信仰の寄る辺故に写真模写は謝絶ですが、順路ではここから美しい庭園へと歩み至ります。

京都の文化財の多くと同じように応仁の乱にて焼失した龍華院は室町時代の内に後土御門天皇の寄進により再建されています。しかし惜しくもこの再建龍華院も失われ、江戸時代に入り寛永年間に再建と成りました。寄棟杮葺造であり、国の重要文化財となっています。

応仁の乱の被害は大きく、ほぼ全域が灰燼に帰しました。門徒の尽力も僅かに運び出せたものは後光厳天皇と後円融天皇の御尊像のみという。美しい庭園を借景のように御堂から愉しむ悟りの窓を始めとした気風とは、この灰燼の歴史と併せ考えると感慨深いですね。

雲龍院は拝観と共に願い出ればお茶を愉しむ事が出来ます。庭園の寺院と感じたこのお寺は、茶の湯と併せ時間の移ろいを頂くには一つの贅沢といえるところですが、庭園を一望する数多和室へ湯気立つお茶を並べ占有できます。泉涌寺ならぬ占有寺、ではないですが。

方広寺大仏殿、この雲龍院の庭園には秘密があります。安土桃山時代から江戸時代に遷る幕間の動乱、その始まりとなった釣鐘、国家安康君臣豊楽の文字が刻まれた事で知られる方広寺、その大仏殿の礎石が二つ、ここ雲龍院の庭園に移され、歴史を伝えているという。

泉山七福神巡り5番札所として雲龍院には大黒天立像が奉じられています。泉山七福神巡りはその名の通り泉涌寺の塔頭寺院七塔を巡る事で七福神を巡るという七福神信仰、毎年一月の成人の日には七福神巡りが行われる事もで知られます。これは案外歩かずともよい。

走り大黒天、泉涌寺雲龍院大黒天立像は台所に。特別な催し無く順路に走り大黒天へと至るのですが、不思議なのは台所と云えば比喩の台所ではなく文字通り朝餉昼餉夕餉の支度進む台所の日常と共に大黒天像が安置されていまして、拝観しますと何か不思議な気持ち。

絹本著色後円融院像や後奈良天皇宸翰の法華経と重要文化財が並ぶ雲龍院は、しかし庭園美しさと共に在る山門の向こうの伽藍と拝観しますと、成程紅葉や夜の特別拝観と季節の移ろいと重ね拝観を重ねたいとも感慨深い情景が広がります。今は、どんな情景なのかな。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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