植物の寿命は動物の20倍とかで、5000年くらい生きる木もあるようである。そんなことを「植物はなぜ5000年も生きるのか」(鈴木英治著 講談社ブルーブックス 2002年)を読みつつ考えてみた。木の種類によっても寿命は違うようであるが、この多摩でよく見る杉やヒノキも数千年の寿命があり、銀杏やブナなども500年くらい生きそうである。ただ、木の場合生きている細胞の寿命は30年くらいともいわれ、すでに死んだ細胞をうまく使いながら命をつないでいるというのが実態のようである。
しかし、大木を見たり触れたりするのは気持ちが良いものである。年をとってくると知人が亡くなったりし、人の命の儚さを感じるが、例えば身近で幼い頃から知っている大木がどうどうと今でも立っているのを眺めたりするとほっとする。
アイデンティティは生きる上で大事だが、自分自身を大木のようなイメージに重ねることは結構大事なのだと思う。そして、心理学を勉強していると両親から学んだこと、世間から学校から学んだことは大きく、あたかも自分で得たかのようにして生きているのが私たちであることを知るようになるが、オリジナリティの知恵は結構すくないこともわかる。私たちも今生きているのだが、植物のように過去の遺産に包まれていきているのが本当なのだろう。
5000年くらい生き続ける植物は、私が興味をもっている縄文時代の土器とか土偶だと縄文中期の勝坂・井戸尻式の土器や土偶の時期である。次の写真は今いろいろ思索している八王子の子抱き土偶(レプリカ)で八王子市歴史資料館でかつて撮った写真。
この像はたまたま、土偶にもいろいろあるが写実性の高い時期/地域の土偶で、このフォルムは古今東西どの時代の人も同じようなことを感じることができると思う。
ところで縄文時代の祖先のDNAは本州では10%程度だそうだが、この数字を聴くと何か弥生が近く縄文が疎遠に感じ、また異形の縄文土偶があったりすると益々縄文人との繋がりが希薄に感じたりする。
しかし、遺伝子プールでの縄文時代の列島人のDNAが10%とか・・・あるいは現世人類意外のデニソワ人のDNAが1%程度含まれるなどと聞くと、自分には関係が薄いと感じるのは一面的だと思う。確率統計的には首肯できるが、実存的な繋がりを余りに軽視しているのではないだろうか。
例えば5000年という年代を考える。一世代25年とすると。200世代となる。そして一世代ごとに祖先の数は2倍になるので(例えば祖父母の時代は4名、その前は8名といったように)、37世代前となると137億人となって今の世界総人口の80億人を超えてしまう。もちろん祖先は重なっているのだろう。こんな風に考えると200世代まえは1.61のしたに0が58個つらなるくらいの数となる。(エクセルと駆使(ふう))。そしてSF小説などによくでてくるが、ある一人の祖先がいなかったら私は生まれなかったことになるという実存的な意味を考えてみる。
この実存的な問題はアルプスのアイスマン(5000年前ころの遺体)の遺伝子がイタリアのある地方に残っていて、それを知った人がアイスマンを見る眼が変わったというお話がすでに本になっているのである。そこらに落ちている縄文土器の破片の作者が自分と実存的につながっているかもしれないと考えると、埋蔵文化財にたいする感覚が結構変わる。
さてさて、現世人類の20万年とも言われるの時間は地球生命の歴史の40億年とかに比べるとはるか短い。周りの動物や植物もある意味兄妹、無機物すらお世話になっている。自分が生まれてくる不思議はなんなんだろうか。
生きていることは神秘なんだなあ。と、今日は朝から妄想がはずむ。
縄文世界を感じるとき② 5/10
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森裕行
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