物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

数学・物理通信14巻3号を昨日発行した

2024-06-18 10:01:31 | 物理学
数学・物理通信14巻3号を昨日発行した。

私の親戚の者にも「数学・物理通信」を送っている。これはみんな理系の人たちだけにではあるのだが。読んだという反応があるのは義弟だけであとは多分読んではいないだろうか。

親父がもしくは叔父(伯父)に「変なことをやっているのがいてね」とでも他人には話しているかもしれない。その辺はどうでもよいのだが。

昨日もこのブログに書いたと思うが、送り先は78件であり、思ったよりは少なかった。2009年の年末に始めたからそれでも10年以上続いていることになる。

およそ巻数が示す通りの年数だが、はじめの一年は巻が二年合わせての巻数だったような気がする。あまり巻数をつけるという意識がなくて、そういう変なことになってしまった。

無料だし、もちろん編集人も無報酬である。これは編集者はもちろんだが、投稿 者からも一切お金とか費用とかは徴収していない。もちろん原稿料など払ったことがない。

それでもなんとか発表者というか投稿する人はいるから不思議である。もっとも何かを書きたい張本人は私である。だから続いたともいえる。

誰からも褒められたこともないが、けなされたこともない。要するに無害無益だという訳である。

徳島科学史会という科学史関係の会を行っている方々がおられて尊敬に値する仕事をされている。彼らは20数年、いや、30数年にわたって年間1号だが雑誌を発行している。その努力たるやすさまじいと言える。

この方々が直面しているのは会員の死去等による減少である。そうすると財政的に成り立たなくなってくるかもしれない。

そういうことは幸いなことに「数学・物理通信」の場合には全く心配の必要がない。だが、私の知り合いの方々の逝去は私にはどうしようもない。

いずれにしても心配しないで済むシステムなどはこの世にはないということだろう。

(2024.6.26付記)
私の出た大学の研究室のOBの方々に9人送っていた。実はもっとOBの方々には送っているのだが、OBの名簿からお送りしている方々が9人いたのを忘れていた。合計87名の方々にお送りしている。




数学・物理通信の送付先は

2024-06-17 14:05:29 | 物理学
数学・物理通信の送付先はいくつあるのか。メールアドレスを整理して数えてみた。

アドレスは増える一方で死亡される方や生死は不明だが、メールのアドレスが届かなくなったりしている。

そういう増減を経て、いま78ヶ所に送っていることがわかった。多いというのか少ないというのかわからない。100か所を越えていると思ったのだが、さすがに100か所は越えていなかった。

印刷物として発行しているものでも国会図書館が所蔵の対象にするものは100部以上を発行している印刷物というから、まだまだそれには及ばないことになる。もっとも名古屋大学の谷村先生のサイトで不特定多数の方が数学・物理通信を閲覧されていると思う。

人の生死はなかなか予測不可能である。私の知人・友人でも亡くなった方がけっこうおられる。少なくとも30人は下らないであろう。あまりよくは存じ上げない方を含めると50人以上になるであろうか。

生老病死、人生はままならないものである。

さて、これから14巻3号の発行をしようか。
 

「Levi-Cvitaの記号の縮約再論1」

2024-06-15 11:42:47 | 物理学
数学エッセイ「Levi-Cvitaの記号の縮約再論1」の改訂版を数学・物理通信14巻4号に掲載するために点検中である。

もう1週間も以前に入力済であったのだが、昨夜点検をしたら、いくつかのミスを見つけた。これは式の番号が変わっていることとか入力中に変なパソコンミスが起こったのを見逃していたのである。

このブログの入力もせっかく入力して公開しようとしてどこかにデータが飛んで消えてしまうということなど最近では多い。理由はよくはわからないが、メモリが不足してきているのではないかと思っている。

それとメールソフトoutlookのversion upか何かで元々のocnのメールが使えなくなっている。パスワードを更新すれば、元にもどるらしいのだが、そこまでの手続きが分りずらくてまだ復旧を果たしていない。

一時このブログもアクセスできなかったのがこちらは今は復旧している。ocnの技術力が低いのではなかろうか。本来自分の顧客の不便を顧客に不便をかけないで復旧するくらいの技術力がいるのではなかろうか。

それとoutlookに苦情を申し込むくらいの気概がないのはどうしてなのか。おかしいと思わないでもない。こんなことで毎月のプロバイダーとしての使用料金をとるのは詐欺まがいではなかろうか。

いや、数学エッセイ「Levi-Cvitaの記号の縮約再論1」の改訂原稿を点検中ということを言いたかっただけだが、変な方向にとばっちりを向けてしまった。

「Levi-Cvitaの記号の縮約再論1」はベクトル解析に直接には役立たないが、すでに数学・物理通信に改訂版が掲載されている、「Levi-Cvitaの記号の縮約再論2」はベクトル解析に直接には役立つ。もっともタイトルは「再論2」ではなく「再々論」とそこではなっているが。

数学・物理通信14巻3号の編集をはじめた

2024-06-10 10:42:41 | 物理学
昨日だったか、一昨日だったか忘れたが、数学・物理通信14巻3号の編集をはじめた。

ほぼ記事は埋まったが、編集後記はまだ書いていない。編集後記は一応投稿原稿を見てから書くと決めている。編集者は私だが、私がすべての論文を理解しているわけではない。

「そんな無責任な」と言われると思うが、もし理解しないと発行しないという不文律を立てると、なにも発行できなくなる。少なくとも私にはそうである。

世の中には聡明な方がおられてなんでも理解できる方がおられることも事実だが、そうでないからこそこういう雑誌を発行できているというのが私にとっての現実である。

すべてを理解していなくとも原稿に注文をつけたりはしているのだから、不思議なものである。

ラプラス演算子の3次元の極座標表示

2024-06-05 10:45:29 | 物理学
ラプラス演算子の3次元の極座標表示についてのエッセイを何回か書いたことがある。一番面倒な真っ当な導出法も何回か書いたことがある。

だが、もしか始めから軌道角運動演算子Lが極座標で書かれていたら、そのL^{2}も計算が楽になるだろう。このことを書いているらしいのが昨夜書いた学習院大学の田崎先生の『数学』にある。

ということで記述の該当箇所の近辺のチェックを今朝起きてから始めた。まだ当該のところまでは達していない。もし演算子L^{2}が比較的簡単に計算できるとすれば、これは量子力学のシュレディンガー方程式を解く人にも大いに朗報となる。

教育はある程度の繰り返しも必要だが、学ぶ学生に不要な労力をかけないようにすることは必要である。どこかに記録があってそれを学べば済むようになっていてほしい。

生物の進化に個体発生は系統発生を繰り返すとかいうが、教育にはそういうところがある。だが、「個体発生は系統発生を繰り返す」というのだって要領よく繰り返しているから生物は存続しているのだと思う。

教育でもそうだろう。

(2024.6.6付記)
当該箇所をほぼチェックした。ラプラス演算子の3次元の極座標表示を導出する、いままで私がエッセイを書いた方法以外の導出法がわかったので、これについても書いておきたいと思うが、いまは文章にまとめるという意欲がわかない。

(2024.6.19付記)
ラプラス演算子の3次元の極座標表示を導出することをまともに導出したいと思っている人がいるなら、もちろんご自分でやってみるのもいいが、私がなんどか真っ当に計算したノートが「数学・物理通信」のバックナンバーにあるからインターネットで検索してみてほしい。そういうことで若い方の貴重な時間を奪ってしまいたくないから。

私も20代前半だったかにこの計算をまともに試み、1週間ほどを時間を費やして最後まで計算をやり遂げることができなかった記憶がある。

それなりに計算に工夫をしてあるレポが「数学・物理通信」のバックナンバーにあるはずだ。Bon courage.

田崎晴明さんの『数学』

2024-06-04 21:56:19 | 物理学
まだ十分には見ていないのだが、物理ための数学という観点では学習院大学の田崎さんの書かれている『数学』がとてもいいように思う。

田崎さんはかなり以前から『数学』を発表されていたと思うが、あまり詳しく読んだことがなかった。最近プリントしたので画面上ではなく紙面で読むことができるようになった。いやこれは私の事情である。

ベクトル解析に関心があるので、彼がベクトル解析についてどのように書かれているのかを学んでみたいと思っているが、なにせ忙しくて十分に時間がとれないのが残念である。

こういう良心的でかつ熱心で最高の著者がいるのは現代に物理学の学ぶ者にとっては幸せであろう。その利点をできるだけ享受したいと思うのだが。

ちょっと見てよかったのは3次元ラプラス演算子の極座標表示が簡単に導かれていることである。これは私などが馬鹿正直に計算して高名な物理学者のN先生から数学ギライをつくってはいけないとご注意を受けたことがある。それはそうなのだが。




『群と物理』

2024-05-30 14:46:57 | 物理学
ちょっと用があって、佐藤光『群と物理』(丸善)を走り読みしている。この本を購入したのはずいぶん以前である。

ちらっと見たことはあったろうが、部分的にでも走り読みしたことがなかった。なかなか要点を得た、いい本であるようだ。SU(2)の2価表現のことを知りたいと思って読みはじめたのだが、そこだけ読んでもわからないので、第3章の「リー群とリー代数」を読み始めたが、なかなか要を得た記述である。

もう数十年も以前にルートだとかウエイト(リー代数とその表現のこと)だとかについて学ぼうとしたことがあったが、十分に身につかないうちに沙汰やみになってしまったことがあった。

それらがいまようやく、すこしづづ関連付けられるかもしれない。



熱力学第一法則とマイヤー

2024-05-29 13:46:45 | 物理学
ここでいうマイヤーは統計力学の古い本で、マイヤー=マイヤーという通称で知られているマリヤ・ゲッペルト=マイヤーのことではなくて、熱力学第一法則の提唱者としてのマイヤーのことである。

このマイヤーを「ドイツ語圏とその文化」第2号で紹介したのだが、これはちょっとした数式が含まれていた。

それで3回目としてここにコピーをしようとしたが、うまくいきそうにないので、コピーはやめることにした。私自身は数式を少し含んでいるエッセイのほうが私が書いたらしくていいと思っているのだが。

力学で知られている力学的エネルギー保存の法則がある。もちろんこのときに熱エネルギーを含めたエネルギー保存則を考えられてはいない。その力学的エネルギーが熱エネルギーを含めて考えられるのではないかと考えた、始めの人が船医だったマイヤーだった。

マイヤーはあまり数学とか物理の知識が十分でなかったために、その論文は論旨がはっきりせず掲載拒否にあったという。しかし、いま言った熱エネルギーを含めたエネルギー保存するという考えは明白だったらしい。力学的仕事と熱エネルギーが互いに変換するという考えはその当時もすでにあったそうだ。

一時は精神を病んで精神病院にまで入院したとまで言われる。しかし、病気が癒えて退院して、その後、彼の論文のプライオリティは認められた。いくつかの賞を受賞したりするが、彼の研究生命はもう終わっていたという。

昨日紹介したレントゲンは研究では成功したが、晩年は第1次世界大戦のインフレで破産したというから、どの科学者も時代の波にもまれて苦労している。

レントゲンはノーベル賞の賞金はヴルツブルグ大学にすべて寄贈したそうだし、X線でパテント(特許)を取りませんかと、どこかの会社から勧められたが、取る気はないと経済的に恬淡としたところは、私たちには容易に見倣えないところだ。 



X線の発見とレントゲン

2024-05-28 10:30:01 | 物理学
これは「ドイツ語圏とその文化」という自作の雑誌に掲載したものである。 

          X線の発見とレントゲン
         -ドイツ語圏世界の科学者3-


1.はじめに
レントゲンによるX線の発見についての記述をちょっと場違いかもしれないが,ラジウムの放射能の研究で有名なマリー・キュリー夫人の伝記『キュリー夫人の素顔(文献:リード)からその一節を引用するのが一番いいだろう.

(引用はじめ)
原子力時代の始まりを1895年11月8日からとしても,決しておかしくはないだろう.その日バイエルンの研究室で,一つの現象が観測され,それがその後の物理学者たちのものの見方を変えてしまった.

それを観測したのは,ウィルヘルム・レントゲン(1845-1923)であった.彼はナシの形をした陰極線管を戸棚から取り出し,その一端を電気回路に接続した.それから,その陰極線管のまわりを黒いボール紙で覆い,部屋を完全に暗くして,陰極線管に高圧の電流を通した.(中略)

陰極線管から1メートルほどまで来たとき,彼はかすかな光を見た.彼はマッチをすって,その光がどこから出ているのか見ようとした.それは白金シアン化バリウムを塗った小さなカードであった.陰極線管からの光線は,厚いボール紙に完全にさえぎられているのに,そのカードは光を放っていた.彼は陰極線管のスイッチを切った.するとバリウムを塗ったカードは光らなくなった.スイッチを入れると,カードは再び光はじめた.こうして,レントゲンはエックス線を発見したのであった。(引用者が訳書から漢字と固有名詞等を少し変更した)(引用終わり)

レントゲンはこの正体のわからない放射線の性質を調べて同じ年の12月28日に論文として発表した.このとき放射線の基本的性質はほとんど解明されていたという.これは大発見であった.手のX線写真をとればその手の骨の様子がわかることも示されたという.医学的な応用が直ちに誰の目にも明らかだった.

『キュリー夫人の素顔』によれば,X線の研究は一年経つか経たないうちに48冊の書籍と1,000編以上の論文が出版されたという.それに対比してその当時の流行の研究テーマではない,放射性元素の研究をひそかにはじめたマリー・キュリーの姿が印象的である.

しかし,以下ではレントゲンとX線に焦点をあてたいが,その前に放射線にはどのようなものがあるのかをまとめておこう.

2.放射線の種類
広辞苑によれば,放射線(radiation)とは

狭義には放射性元素の崩壊に伴って放出される粒子線または電磁波のことをいい,アルファ線・ベータ線・ガンマ線のことをいうが,それらと同じ程度のエネルギーをもつ粒子線・宇宙線を含める.
ちなみにいずれも原子核から放出されるが,アルファ線はヘリウム原子核,ベータ線は電子または陽電子,ガンマ線は非常に波長の短い電磁波である.

広義には種々の粒子線や電磁波の総称である.

とある.

狭義の意味では天然放射性元素でも人工の放射性元素でもすべて放射性元素から放射されるものという限定があるが,ここではもっと広い意味にとって放射線を考えてみよう.

電子線(陰極線),陽子線,中性子線,X線とか宇宙線も含めて考えることにしよう.そのときに放射線は質量をもった粒子放射線と質量をもたない電磁放射線とに大別できる.

1.粒子放射線
  アルファ線,ベータ線,電子線,陽子線,中性子線,重粒子線

2.電磁放射線
  ガンマ線,X線

がその主なものである.

電磁放射線とは普通はいわないが,電磁波の仲間には光線や赤外線,紫外線等も含まれている.光線は人間の目に見えるので,可視光線とわざわざ可視という形容詞をつけて呼ぶのが普通である.一方,紫外線や赤外線は人間の目で見ることはできないが,赤外線は体にあたると暖かく感じるし,紫外線を浴びると人の皮膚が後で黒くなったり,または赤くなったりして日焼けをする,

また,このころは携帯電話をもたない人はいないくらいだが,これは電波といわれる電磁波である.ラジオやテレビの電波も電磁波の一種である.これ等の電波の波長は0.1mmから30kmである.

X線は可視光線と同じ電磁波の1種であり,その波長は0.01nmから10nmである(注:1nm=10^{-9}mである).参考までに可視光線の波長は380nmから800nmくらいであり,X線の波長は可視光線の波長と比べると1/40から1/80,000も小さい.

電磁波の波長$\lambda$と周波数$\nu$と速度$c$の間には
\begin{equation}
c=\lambda \nu
\end{equation}
の関係がある.この関係は難しそうだが,周波数(振動数)とは1秒間に何回1波長の振動を繰り返すかを示す量であるから,周波数に波長をかければ,それが電磁波の速さとなる.ここでcは真空中の光の速さである.

これは電磁波である以上は波長の大小にかかわらずこの関係は変わらない.もちろん電磁波の伝わる空間が真空中でなければ,その速さは真空中での光の速さより小さくなる.

波長0.01nmのX線の周波数3$\times 10^{19}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ0.1keV,また波長10nmのX線の周波数は3$\times 10^{16}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ100keVである\footnote{eVはエネルギーの単位の一つで,$1 \mathrm{eV}=1.9\times 10^{-19}J$である.これは1Vの電圧で電子を加速したときに電子がもつエネルギーである.

3.X線の性質
X線という名称はレントゲンがX線を発見したときにはこれがどういうものかわからなかったために代数で未知数を表すためによく使われる文字xにちなんでつけられたものである.

しかし,簡単にわかるようなX線の基本的性質はレントゲン自身によってX線の発見から数週間内に調べられた.それらの性質をここに挙げておこう~\cite{レートン}.

1.X線は高エネルギー(数10keV)の陰極線(すなわち電子)を放電管の陽極にあたるとき生じる.
2.重い金属でできている陽極は軽い金属でできている陽極よりも強いX線を発生する.
3. X線は電荷をもたない.X線は磁場によって曲げられないから.
4.X線は帯電した物質を放電させる.
5.軽い元素からできている物質は重い元素からできている物質よりもX線を強く透過する.
6.写真乾版(フィルム)はX線に感光する.
7.X線は直進し,普通にはそれを反射させたり,屈折させたりできない.
8.シアン化白金バリウム,カルシウム化合物,ウラニウムガス,岩塩などがX線によって蛍光を出す.

その後の研究で以下の性質も判明した~\cite{レートン}.

1.X線は波動性をもつ放射線である.電磁波の1種である.
2.\X線をある条件下で偏光させることができる(注:(直線)偏光とは電磁波の電場の振動面がある平面に固定されることを意味する.振動面が回転する場合には円偏光または楕円偏光という.偏光面は光の進行方向に直角である.これは光(電磁波)が横波であることを示している.自然な光はいろいろな振動面をもつ光の重ね合わせである.光を偏光板を通すと特定の振動面をもつ光だけが得られる.これを偏光という)
3.X線は結晶で回折させることができる.これによって結晶の空間構造を知ることができるようになった.
4.X線には連続X線の他に陽極の材料に特有のスペクトラルをもつ特性X線がある.
5.特性X線の波数は陽極物質の原子量とともに増大する.

4.X線の発見の意義

物理学上の意義で言えば,特性X線の方が連続X線よりもはるかに意義が大きいが,物理学上での意義を別にすれば,医学的な診断の技術としてのX線の意義がとても大きい.

骨折したときに骨がどういう風に骨折しているのかとかいう診断を与えてくれる.これは私の経験したことだが,20数歳のときに奥歯の親知らずが生えて来て,それも成長する方向が横にある歯を押すようになったために熱を出した.

歯科医に行ったら,歯のレントゲン写真をとられて,それを見て親知らずを歯茎を切開して抜いてもらったことがある.その後も歯科でX線写真を撮ったことがあるのは1度や2度ではない.

もっとも一番よく知られているのは肺結核の診断としてのX線写真の撮影であろう.これは日本の学校や会社等では普通に健康診断の一環として行われている.

もちろん,X線撮影のための放射線障害も恐れもないわけではないが,それよりも病気の予防や診断のメリットの方が勝っている.体をCTスキャンして,肺がんや胃がんの健診をしたりする.

最近ではX線による非破壊検査が工業的にいろいろなところで行われている.大きな船の船体の鉄板でできた船腹の壁のどこかに小さな傷(crack)が入っていないか,または原子炉の格納容器に亀裂が入っていないかX線の診断機で調べるのが普通である.

航空機の機体などもそうやって検査するのだと思う.そういう検査を\textgt{非破壊検査}という.

特性X線についてはここで詳しいことを述べないが,いわゆるボーアの原子の量子論の確証と原子番号$Z$の物理学的な意義を確定した功績はとても大きい(注:原子番号$Z$は元素の原子核内の陽子の数であることがMosleyの法則によって確かめられた.ちなみにMosleyはイギリスの優れた実験物理学者であったが,第1次世界大戦のときに若くして戦死した.メンデ—レーフの元素の周期律は実はこのMosleyの研究で確定をした).特性X線は原子の内側軌道に存在する電子が空席になることによって,より外側軌道にある電子が内側軌道に遷移するために発生する電磁波である.X線の波長が可視光の波長よりも小さいために可視光にならないが,光とX線とは原子から発生する点で同じメカニズムである(注:ガンマ線の場合は原子核から発生する.その点でガンマ線はX線とは単に電磁波としての波長の違いだけではなく,発生機構の違いがある)

もちろん,このようなX線の利用とか応用とかは直接にはレントゲンとは関係がないが,それでもX線の発見がその契機を与えたことはまちがいがない.

またその後,X線回折と言われる新しい物質の結晶構造を解析する手段が開発された.

レントゲンが優れた実験家であったということを記す,事実がある.これは上にも何度か引用したレートンの書の脚注につけられたつぎのような注意からも明らかである.

(引用はじめ)
後から考えてみると,X線が発見される数年前から,すでに多くの実験室に(X線が)存在していたことが確かなようである.なぜならば,そころの高電圧を用いた気体放電管がしばしば使われており,そこからX線が発生するからである.レントゲンは単にそれらに注目した最初の実験家であるにすぎない.(中略)この種の経験は,予期しないものに対して大きく目を開き,それに備えるのが大切であることを示している.最初は正確な測定を妨げる厄介な実験的障害に思われた効果でも,のちに,測定しようとする量よりもはるかに重要なものとなるかも知れないのである.(引用終わり)

実際,いったんX線の存在が明らかになってしまうと自分の方が先にX線を観測していたということを主張する実験家は一人二人ではなかったことを私たちは知っている.

よく言われることであるが,観測することと発見することとは同じではない.観測してもそれが新しい事実であることがはっきり認識されなければ,発見とはならない.

5.レントゲンの生涯
レントゲン(Wilhelm Conrad R\"{o}tgen)は1845年3月27日ドイツのレンネップで生まれた~\cite{山崎}.レンネップは現在はレムシャイトの一部となっており,日本では刃物の町として有名なゾーリンゲンの近くの町である.日本の商社等の支社や営業所が多くあるデュッセルドルフからもそれほど遠くはない,ライン河下流の地域でオランダにほど近い.

お父さんはドイツ人で織物の製造と販売をする職人兼商人である.お母さんはオランダ人であった.だからかどうかは知らないが,レントゲンは戸籍の上ではオランダ国籍であったという.だが,その当時国籍という概念が今ほどはっきりしていたのかどうかわからない.
1848年一家はオランダのアッペルドルンに移り住んだ.そこで初等教育を受けた後,ユトレヒトの工芸学校に入った.しかし,彼はその途中で事件に巻き込まれ,退学処分となる.それで大学への入学資格が得られなかった(注:ヨーロッパでは大学入学資格がないと大学に入学できない.その大学入学資格はフランス語圏ではバカロレアという.またドイツ語圏ではアビトューアという).それでもユトレヒト大学の聴講生となるが,大学への入学資格をもっていないために正規の大学の学生となることができない.

そのときに,トールマン(Tohrmann)という学生と親しくなる.彼はスイスの出身であるが,父親のユトレヒト赴任について来てユトレヒト大学の学生になっていた.彼はレントゲンが大学入学資格がないために正規の大学生になれないことに深く同情して,スイスのチューリッヒ(Z\"{u}rich)にあるポリテクニク\footnote{現在ではこの学校はETHという略称で呼ばれており,最難関の大学である.このETHは約30年後にアインシュタイン(Einstein)の卒業した大学でもある.}は約10年前に創立された準大学であり,その入学試験はアビトューアがなくても受験できることを教えてくれた.

ところが受験前に病気にかかり,受験ができなくなったが,ユトレヒトの工芸学校の成績と共に病気のために受験できないという医師の診断証明書を校長に送った.その手紙に心を動かされた校長はレントゲンが無試験でポリテクニクム(工科大学)に入学できるように取り計らい,それが許された.

工科大学でははじめ熱力学をつくったことで有名なクラウジウスに学び,その後クントに学んだ.その後チューリッヒ大学で学位をとり,クントの助手となった.またクントが大学を変わったときにクントについて行って勤務する大学を変えた.その後,レントゲンは大学教授となった.教授となって4つ目の大学として1888年にヴュルツブルク大学に勤めることになった.そして7年後の1995年に大発見をすることになった.

5.1でもX線の発見の様子が描かれてはいるが,イタリア出身の物理学者セグレによる「X線の発見」の記述はつぎのようである(『X線からクォークまで』~\cite{セグレ}から引用した).

(引用はじめ)
1895年11月8日の夕方のこと,レントゲンはヒットルフ管を操作していた.彼はそれを黒いボール紙でしっぽり覆っておいた.部屋は完全に暗くしてあった.管から少し離れた所には,スクリーン用に白金シアン化バリウムを塗った紙が一枚置かれていた.驚いたことに,レントゲンはこの紙が蛍光を発するのを見たのである.スクリーンが発光するからには何かがそれに当っているはずであるが,彼の管は黒いボール紙で覆ってあったので,光も陰極線も,そこから外に出てくるはずはない.この思いもよらぬ現象に驚き,かつ不思議にも思い,彼はもっと研究してみることにした.スクリーンを裏返して,白金シアン化バリウムを塗っていないほうが管に向かい合うようにしてみた.しかし,相変わらずスクリーンは蛍光を発している.スクリーンからもっと遠ざけてみたが,やはり蛍光は続いている.次にいろいろな物体を何種類か管とスクリーンとの間に置いてみたが,どれもそのスクリーンに向かう何物かをさえぎらないようであった.管の前方に手を出すと,スクリーンにその骨が見えた.つまりレントゲンは「新種の放射線」を見つけたのである.
(引用終わり)

こういう風に一時にすべてのことを発見できたとは私は思わないが,それでも彼の何週間かの研究の過程で起きたことを多分述べていると思われる.

レントゲンは一人で実験するのが常であったという.11月8日から実験室にこもって研究をした.自分でも信じられないような現象に出くわしたので,その新しい放射線の存在を確認するために何回も何回も繰り返して実験をした.ようやくいろいろ発見した現象を写真乾板上に記録してようやく自分の発見を確信したという.

(引用はじめ)
1895年12月28日,レントゲンは,ヴュルツブルクの物理・医学協会の秘書に論文の初稿を渡した.これはすぐに印刷されて,1986年1月の初めのうちにほうぼうへ送られた.(中略)この発見に続く数か月の間,レントゲンは世界中からの講演の招待を受けたが,ただ一つを除いて,他のどんな招待もみな,断ってしまった.自分のX線の研究を続けたかったからである.
(引用終わり)

レントゲンはこの業績により1901年にノーベル物理学賞を受けた.そのノーベル物理学賞の賞金は全部ヴュルツブルク大学に寄贈したという.また,X線についての特許をとることをある会社に提案されたが,まったく特許をとるつもりがないことをその会社に告げたという.ノーベル賞を受ける前の1900年にミュンヘン大学に移った.第一次世界大戦後のインフレのために破産して老後は大変だったらしい.1923年2月10日にミュンヘンで亡くなった.78歳だった.

6.おわりに
もう1年か2年レントゲンが長生きしていれば,ドイツ語圏で起こった量子力学の誕生に出会えたことだったろう(注*:Heisenbergたちによる行列力学が1925年に発表され,またSchr\"{o}dingerによる波動力学の発表は1926年であった)だが,老齢のレントゲンにはそのことは知る由もなかったかもしれない.

レントゲンは機械工作が得意で,そのことが彼がX線の発見に成功した理由かもしれない.この器用さや機械が好きなことは彼の父親譲りであったと思われる.

大学入学資格をとれなかったために大学に入学できなかったというエピソードの持ち主でもあるが,そういうハンデを優秀なレントゲンははねのけてしまった.もっともX線の発見以外に後世に残る業績を上げているというわけではないが,一つの偉大な発見をすれば人生には十分すぎるであろう.


\bibitem{リード}
ロバート・リード(木村絹子 訳),『キュリー夫人の素顔』(共立出版,1975)114-115\bibitem{新村出}
新村 出編,『広辞苑』第5版(岩波書店,1998)
\bibitem{レートン}
R. B. レートン(斎藤・並木・山田・小林 訳),『現代物理学概論』(岩波書店,1970)399-449
\bibitem{山崎}
山崎岐男,『X線の発見者 W.C. レントゲン』(出版サポート大樹社,2014)
\bibitem{セグレ}
セグレ(久保亮五,矢崎裕二 訳),『X線からクォークまで』(みすず書房,1983)27-34
\end{thebibliography}


読者からの手紙

『ドイツ語圏とその文化』をいつもありがとうございます.終りまで目を通しています.貴兄の世界の拡がりに期待をしています.

ところで1巻2号のMayerの血液の色の話ですが,むかし初めてこの話を読んだとき,色の明度が変わるのは間違いだろうと思いました.その後,目にしたいくつかの教科書的な本でも,色の変化の真否については何も書かれていなくて,これを元にしたMayerの推論だけが書かれていました.歴史的事実としてはよろしいのですが,何か一言,簡単な言及が欲しいところです.間違ったデータから,正しい結論が引き出されることは,よくありますが,この場合はMayerの自然観と論理性が正しい結論を与えたのでしょうか.

波爛万丈のMayerですが,Rumfordもいろいろですね.マサチュッセッツ生まれで,アメリカ独立戦争では王党派だったため,追われて英国に亡命(独立前だから“亡命”ではなく,本国に逃れたというべきですか),火薬と砲弾についての研究が認められて,Bayern王につかえて・・・というご存知の次第ですが,独立したアメリカといつ“和解”したのでしょうか.物理学者が主に受賞しているアメリカ芸術科学アカデミーのRumford賞はRumfordの寄付が元のようなので,生前に和解したのでしょうか.現代は和解の難しい時代ですね.(M. Y.)\\

(答)
メール有難うございます.

マイヤーの血液の色の鮮明度の件は山本義隆氏の『熱学思想の史的展開』(現代数学社)のp.318に\\

(引用はじめ)
「今日の医学の常識からすると,ドイツと南洋との温度差くらいで静脈の血の色がそれほど違うことはないそうであるからこれはたいへん偶然的な,もしかしたら間違いあるいは錯覚が原因になった発見なのかもしれない」(渡辺正雄)という指摘の方が現実的な気がする.
(引用終わり)

とあります.それを踏まえてどこかに注釈をつけたのですが,そのことをもっとはっきりと指摘しておくべきだったかもしれません.しかし,そのことを当然と思ってしまったので,詳しい言及と注意をしなかったのだと思います.

ちなみに上に引用された渡辺さんの参考文献は「エネルギー概念の成立」で,東京大学公開講『エネルギー』(東京大学出版会,1974)p.17です.こちらの方はまったく見ておりません.



特殊相対論とミンコフスキー

2024-05-27 10:39:34 | 物理学
これは「ドイツ語圏とその文化」というメール配布の自作の雑誌に掲載されたものの一部である。数式を入れた説明であったのだが、数式や写真はうまくコピーができなかった。それで近いうちに、数式とか写真付きの元の原稿どこか別のところに掲載したいと思っている。

3.1 はじめに
相対性理論は特殊相対性理論(以後特殊相対論と略称)も一般相対性理論もアインシュタインが提唱したということはよく知られている.
平面上での平行移動や回転運動で図形の形が変わらない幾何学がユークリッド幾何学であるが,それと同じような観点を特殊相対論に持ち込んだのがミンコフスキーであった.このことによって特殊相対論はとてもわかりやすくなった.

アインシュタインの考えたローレンツ変換を幾何学的に解釈し直したミンコフスキーのアイディアを学んで,ものわかりのわるい私などもようやく特殊相対論がわかるようになった.

3.4 ミンコフスキー
ヘルマン・ミンコフスキー(1864-1909) は優れた数学者として認められていたが,若くして亡くなった.そのためかあまり一般の人々の話題に上らない.
3.4.1 ミンコフスキーの生涯
Wikipedia [3] から彼の生涯を抜粋して引用する.

図3.2: Herman Minkowski(1864-1909) [ミンコフスキーの肖像はうまく取り込めなかった。]

ミンコフスキーは1864 年6 月22 日,ロシアのアレクソタス(現リトアニア領カウナス近郊)に生まれた.

両親はドイツ系で,8 歳のときに家族でケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)へ移住した.ケーニヒスベルク大学ではヒルベルトとともにフルヴィッツの元で学び,この二人とは終生の友人となった.

ミンコフスキーは若い頃から数学的才能を示し,18 歳のときに整数を5 個の平方数に分解することの研究によってスミスとともにフランス科学アカデミーから科学アカデミー数学大賞を受賞した.

ケーニヒスベルク大学卒業後すぐにボン大学で,続いてヒルベルトの後をうけてケーニヒスベルク大学で数学の教鞭をとった.続けてチューリヒのスイス連邦工科大学(ETH) の教授に就任した.ここでの教え子に,若き日のアインシュタインがいた.

1902 年,ヒルベルトの努力でゲッティンゲン大学にミンコフスキーのために数学の講座がつくられ,その教授となった.1907 年までに,時間と空間を統一的に扱うミンコフスキー空間の概念を作った.1909 年1 月12 日,ミンコフスキーは盲腸炎によって44 歳の若さで急死した.

3.4.2 業績の概観
Wikipedia [3] によるとミンコフスキー空間と呼ばれる四次元の空間により,アインシュタインの相対性理論に数学的基礎を与えた.また,時空を表すための方法として光円錐を考えたという.

特にミンコフスキー空間に関して,ミンコフスキーは,空間と時間を別々の量としてではなく,四次元の多様体として統合して記述することを考えついた.

アインシュタインは一般相対性理論ではリーマン幾何学を用いたが,この理論では重力は時空の曲率によって表される.重力が光速で伝播することを最初に述べたのはミンコフスキーだという.

3.4.3 エピソード
矢野健太郎の『アインシュタイン伝』[4] によれば,アインシュタインが1897 年にETH に入学したとき,まだミンコフスキーは33 歳の若さだが,数学の教授であった.しかし,ミンコフスキーはあまり講義が上手ではなかったらしい.ミンコフスキーのせいかどうかはわからないが,アインシュタインはこのごろ数学に興味を失い,物理学への道を進んだという.

アインシュタインは学校の講義にはあまり出席をせず主として友人のノートを借りて勉強をして,試験をクリアしたらしい.1905 年にアインシュタインが特殊相対性理論の論文を発表したとき,ミンコフスキーが「あのさぼりのアインシュタインが· · · 」と言ったとかものの本にはあるが,これは話を面白くしようとした後世の人の作り話かもしれない.だが,講義にアインシュタインが出席しなかったことはあながちうそではない.

ところがその3 年後の1908 年に当時ゲッチンゲン大学にいたミンコフスキーが特殊相対性理論の見事な数学的解釈を与え,以後数学者にも物理学者にも近づきやすいものとしたのは歴史の皮肉であるかもしれない.

特殊相対性理論を空間と時間の4 次元幾何学として展開した一端はすでに上に述べた通りである.そして残念なことにこの論文の発表のつぎの年の1909 年にはミンコフスキーは亡くなってしまった.

リードの著作『ヒルベルト』[5](岩波書店)にはケーニヒスベルク大学在学中からヒルベルトの学友であった,ミンコフスキーのことが少なからず出てくる.

3.5 おわりに
物理学や数学ではミンコフスキーはミンコフスキー空間という名で残っており,忘れられてはいないが,それでも相対性理論の提唱者として知られている,アインシュタインほどには一般に知られていない.いつかミンコフスキーを一般の方々に紹介したいと思っていたが,その機会を得ることができて幸いである.

今年は2013 年で1909 年にミンコフスキーが亡くなってから100 年以上が経ってしまった.この特殊相対論を幾何学的に考えるというアイディアはアインシュタインが一般相対性理論を幾何学的に考えるという端緒を与えることにもなった.その意味でも意義深いアイディアであった.


「Levi-Civitaの記号」再論について

2024-05-05 11:15:59 | 物理学
『「Levi-Civitaの記号の縮約」再論』というのは、私が昔書いた数学エッセイである。

小著『物理数学散歩』(国土社)にもこのエッセイは収録されているが、このエッセイの改訂を現在行っている。二つのLevi-Civitaの記号の積をKroneckerのデルタの4つの積として表し、それらの和の各項の係数を決める。

このプロセスが長いので、それをコンパクトな表にしている。この表の入力をする必要があるのだが、昨夜遅くこのうちの主要で大きな表の入力を終えた。

もう一つの表の入力が残っているが、こちらは既に入力済みの表に比べれば、断然簡単である。だから一応のエッセイの改訂は今日中には終わるであろう。もっとも見直しが何回も必要なのだが。

このエッセイの続きとして『「Levi-Civitaの記号の縮約」再々論』という数学エッセイもある。これも上に述べた『物理数学散歩』に収録してある。

ベクトル解析を学んだときに複雑だと思った、ベクトル解析の公式はほとんどこのLevi-Civitaの記号の縮約公式がわかれば、面倒なく導けるという、魔法のような記号である。

さすがに最近のベクトル解析のテクストで、これについて言及のないテクストはたぶん売れない。だから、ベクトル解析のテクストではLevi-Civitaの記号の縮約公式についての言及のない、テクストはないだろう。

もっともスペースの関係でその説明の濃淡はいろいろであろう。Levi-Civitaの記号の縮約公式に真正面から取り組んできた、私の書がある意味で貴重と思われたのも頷ける。

もっとも私みたいに過剰にLevi-Civitaの記号の縮約公式にこだわるのは生産的ではなかろうが。

まあ、これは徹底した理解とか納得感を欲する私の気質なのでしかたがない。人は「それぞれ自分の器量でしか生きられない」と痛感する。





『物理数学散歩』の感想やコメント

2024-05-04 11:13:57 | 物理学
宣伝のために、『物理数学散歩』(国土社)の目次の箇所にあったコメントや感想を今日のブログに移動した。というのは内容の紹介がかなり長くなって、後ろの方にあった感想やコメント等が印象が薄くなるため、別な箇所に移動したほうがよいと考えたからである。感想やコメント等を頂いた方に失礼にならないようにとの配慮でもある。

(2023.9.2付記) 以前にaoyamaまで寄せられたコメントをここに添付する。ご参考にしてください。

amazon 高い (jogi.akatuy)
2019-11-07 02:44:51
偶々このサイトに出会い『四元数の発見』をアマゾンで購入。さらに『物理数学散歩』も読みたいと思ったが、なんと古書で29、000円の値付け。 隠居には手がでない。

Unknown (aoyama)
2019-11-08 13:09:07
『四元数の発見』の購入を御礼申し上げます。

まずはこれについて御礼を申し上げなくてはいけなかったですね。

 一日おいてからそのことを思いつくなんてちょっとずれていますね。

『物理数学散歩』購入希望 (TJ)
2019-12-04 22:45:02
私も『四元数の発見』を購入しました。
 数学の本でこんなにわかりやすかったのはこの本がはじめてでしたので、『物理数学散歩』も是非読みたいと思いました。アマゾンで古書で購入しようか迷っておりましたが、「送料込み1,000円でお分けできます」に驚きました。入手方法を教えていただければ幸いです。

Unknown (並木伸爾)
2020-03-05 00:39:58
webでLevi-Civitaの記号で「ベクトル解析の初歩を1.」を読みました。大学で落第した物理を3.11を機に学び始めています。Weinbergの宇宙論が理解できればと相対論を勉強し始めています。ベクトル解析で引っかかり、先に進めません。初歩1を読み、もしかしたらきっかけができるとaoyamaさんの論考に興味を持ちました。四元数は中古がありましたので発注しました。物理数学を購入させていただきたいと思います。

物理数学散歩購入希望 (英治)
2020-03-14 11:49:34
物理数学散歩を購入したく存じます。お手数ですが、手続きについてご教示くださいませ。

Unknown (aoyama)
2020-03-16 11:50:12
2回続けて『物理数学散歩』を購入したいという意向を表明された方がおられたが、どうも私の個人情報をこのコメントにさらすことを意図されておられるようなので、不信感を抱いている。

それでコメントとして私のコメントを3日後には削除することにした。

 本当に当該の書を購入したいのかもしれないが、どうもそうとも思われない。人の心をもてあそぶのはいい加減にしてもらいたい。

『物理数学散歩』購入希望 (へいさん)
2020-04-10 08:58:11
大昔に教育学部で物理を勉強して以来,中学教員を定年から再任用。仕事をリタイヤしたら,もう一度物理をふりかえってみようと思います。本の購入希望と,もうひとつ「数学・物理通信」の購読方法を教えてください。

(2023.9.7付記)
一番最後の方、平さんから尋ねられた「数学・物理通信」の購読方法だが、これは無料でメール配布している。それに現在までのバックナンバーは名古屋大学の谷村先生のサイトにありますので、「数学・物理通信」で検索してみてください。

「数学・物理通信」はまったくのボランティアの仕事です。これで購読料を取るといったことが、どこかであるなら、編集・発行人までご連絡ください。

ミンコフスキーの特殊相対性理論

2024-05-03 20:52:52 | 物理学
ミンコフスキーの特殊相対性理論というとちょっと語弊があるかもしれない。アインシュタインの特殊相対性理論だからである。

アインシュタインの特殊相対性理論のミンコスキーによる定式化と言った方がいいのかもしれない。『数学散歩』(国土社、2005)の巻尾のエッセイは特殊相対性理論であるが、これはミンコフスキーによる定式化で説明をしてある。

普通のアインシュタインの説明は始めからしてない。これは一般にミンコフスキーの説明がわかりやすいので、私もその流儀にのっとって説明をしてある。もっとも私の説明がわかりやすいかどうはまた別の問題である。

この特殊相対性理論は残念ながら、『物理数学散歩』を発行したときには、採用しなかった。これはもっときちんとした議論に書きかえたほうがよいことがわかっていたからである。

ただ、それを書きかえることにいまだに成功していない。たぶんそれだけを焦点にして書き直しをすれば、いくら時間がかかっても半年もかければ、書き直せるであろうと思う。ただ、なんだかその気が起きないのである。




アインシュタイン

2024-05-02 11:04:00 | 物理学
以前にアインシュタインについてはこのブログでも書いたことがある。これは昔の講義ノートに書いてあったことの再録である。

アインシュタイン(1879-1955)について少し述べておこう。アインシュタインはユダヤ系のドイツ人で南ドイツの都市ウルムで生まれた(その後、スイスの市民権を取り、死亡するまでそれを保持した)。私も1997年に、このウルムを訪れたことがある。

アインシュタインは小さい頃から数学と物理に興味をもっていた。ドイツのギムナジウムの軍隊的な規律を嫌い、ギムナジウムを中退してチューリッヒ工科大学を受験したが、試験に失敗してしまう。

しかし、数学や物理は抜群の成績であったので、もう一度ギムナジウムに入って勉強し直すことを大学の学長から薦められ、スイスのギムナジウムに入り直し、そこを卒業してチューリッヒ工科大学(ETH)に入学する。

大学の頃はあまり講義には出席せず、自分独自な勉強に精を出した。試験のときは学友のグロースマンからノートを借りて勉強して単位を取った。大学卒業後は大学での助手の職は得られず、ベルンの特許局で特許技師として働きながら、立派な業績をあげる(注)。

それが1905年の3つの論文で、光量子仮説、ブラウン運動、特殊相対性理論である。光量子仮説は光が粒子性をもつことを示した光電効果の説明を与えたものであり、ブラウン運動は分子の存在と分子の熱運動を実験的に証明可能とした。特殊相対性理論は時間と空間の概念の変革を行ったものであり、この理論から質量とエネルギーの相互転換が可能であることが示された。

1915年には特殊相対論を一般化した一般相対性理論を発表する。この一般相対性理論は重力を空間の性質として説明する理論である。その中の一つの予言である、重力場中での光の偏曲は第一次世界大戦後の皆既日食の際に観測され、一般相対性理論の実験的検証の一つが得られた。その他、量子論への貢献も大きい。

1932年以来アメリカに居住し、プリンストンの高級研究所で研究生活を送りながら、統一場理論を研究した。この理論は重力と電磁場を空間の性質として説明しようとするものであったが、成功していない。

一方、アインシュタインは原爆研究をルーズベルト大統領に始めることを進言した手紙を送ったが、第二次世界大戦終了直前に広島と長崎に原爆が投下されたことは、彼には思いもよらないことで、その責任を深く感じることとなった。

核戦争を避けるための努力を訴えたラッセルーアインシュタイン声明は世界各国の著名な科学者11名によって署名され、各国の科学者が一堂に集まって核戦争と核兵器の廃絶を議論するパグウォッシュ会議のきっかけとなった。

(注)アインシュタインがETHの学生だったころ数学の先生としてミンコフスキーが在職していた。特殊相対論を学んだことのある人は知っているが、アインシュタインの特殊相対論はミンコフスキーの4次元時空の論文で理解できるようになったという学者も当時多かった。

確かにアインシュタインの論文の内容の説明の後でミンコフスキーの説明を講義で聞いたとき、こちらの方が分かりやすいと感じたことは事実である。

また、アインシュタインの特殊相対論を読んで、『あの「さぼり」の学生のアインシュタインが!』とミンコフスキーが言ったとかとも言われている。その真偽のほどはわからないのだが。

ちなみにミンコフスキーが論文を発表したときにはミンコフスキーはもうETHの教授ではなく、ゲッチンゲン大学に帰っていたと思う。ゲッチンゲン大学のもう一人の数学の教授は有名なヒルベルトであった。

(2024.5.21付記)
詳しい消息は知らないのだが、ミンコフスキーはこの論文の発表後に病気で急に亡くなったと思う。ミンコフスキーがゲッチンゲン大学に帰って来たのも友人だったヒルベルトの尽力だったとか。

ヒルベルトはミンコフスキーと二人でゲッチンゲン大学の数学をこれから盛り立てて行こうとの意図があったのであろう。惜しまれる早世ではあった。

フレデリックとイレーヌ・ジョリオ - キュリー夫妻

2024-04-23 15:37:39 | 物理学
フレデリックとイレーヌ・ジョリオ - キュリー夫妻の簡単な評伝についてはセグレ『X線からクォークまで』(みすず書房)237-243ページを読んでほしい。またフレデリックについては参考文献の『ジョリオ・キュリー遺稿集』(法政大学出版局)を参照してください。

イレーヌは言わずと知れた有名なキュリー夫人の長女であり、体つきも性格も母親そっくりであったという。血筋とその母親からの教育によって母親と同じ放射線科学の研究に入った。

一方、フレデリックは物理学者ランジュバンの学生であったが、その並外れた技術的な才能を買われてキュリー夫人の助手として推薦された。彼は陽気で活発な上に気持もやさしくまた想像力にも富んだ人物であった。

彼らは後にチャドウィックが中性子の発見をするきっかけとなる現象を発見した。また1938年の核分裂反応の発見にきわめて近いところにいたが、この発見も逃している。しかし、1934年には人工放射能を持った物質を創成することに成功して1935年のノーベル化学賞を夫妻で受賞した。

フレデリック等はハーンの核分裂反応の発見後、すぐにその追試に成功し、また、その核分裂の際に2個以上の中性子が放出されることを発表した。すなわち原子核からエネルギーを取り出せることを示し、このことを機密にしておこうと思っていたシーラドたちを大いに慌てさせたのであった。

(注)ジョリオ - キュリーはドイツ語でいえばドッペル・ナーメ(英語でならdouble name)である。

日本ではそういう人はいないのだが、たとえば私が生まれは田中という姓名だとして、鈴木という女性と結婚したとする。こういうときに田中-鈴木という二重の姓名を名乗ることがあるのだ。

日本の法律ではそういうことが許されないのだろうが、そういうことをすることが少なくともヨーロッパではままある。

もちろん、キュリーはすでに世界的に有名な家柄として認識されていただろうから、ジョリオとキュリーとを合わせた二重の姓名を名乗ったのであろう。