旧新城市域に存在する城跡で最後の踏査となった。
この地域の城跡をまわり終えた頃、徳定に「城、城屋敷」という地名があると人から聞いた。然し、それから身辺に様々な出来事があり、そのままとなった。
村の中央、野田川支流西川に沿う、字宮東の丘陵に築かれた徳定城。現在は畑地や宅地となり、郭や堀、土塁といった遺構が不明瞭となっているが、痕跡として各所にみることができる。
弘治二年(1556)菅沼又左衛門が築き、後塩瀬氏が住したとされるが、塩瀬各氏居住時期と相違があり、菅沼氏以前から塩瀬氏が居住したか、西久保の塩瀬氏屋敷と混同しているものと思われる。
村西部の字西久保には、その塩瀬氏屋敷跡があり、永正二年(1505)から天正八年(1580)まで、丘陵上及び丘陵下に塩瀬久次、久勝、久俊が居住した。
何れにせよ菅沼氏及び臣の塩瀬氏が居城した城屋敷である。
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(トップと下3枚は、西久保塩瀬氏屋敷跡)
この地域の城跡をまわり終えた頃、徳定に「城、城屋敷」という地名があると人から聞いた。然し、それから身辺に様々な出来事があり、そのままとなった。
村の中央、野田川支流西川に沿う、字宮東の丘陵に築かれた徳定城。現在は畑地や宅地となり、郭や堀、土塁といった遺構が不明瞭となっているが、痕跡として各所にみることができる。
弘治二年(1556)菅沼又左衛門が築き、後塩瀬氏が住したとされるが、塩瀬各氏居住時期と相違があり、菅沼氏以前から塩瀬氏が居住したか、西久保の塩瀬氏屋敷と混同しているものと思われる。
村西部の字西久保には、その塩瀬氏屋敷跡があり、永正二年(1505)から天正八年(1580)まで、丘陵上及び丘陵下に塩瀬久次、久勝、久俊が居住した。
何れにせよ菅沼氏及び臣の塩瀬氏が居城した城屋敷である。
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(トップと下3枚は、西久保塩瀬氏屋敷跡)