(西方古屋敷 西方古塁 愛知県御津町西方)
天正十八年(1590)吉田城主池田輝政が、牛久保、新城、田原とこの西方に陣屋を設け、西方には森寺忠勝が配置された。
慶長五年(1600)播磨姫路に移封するまでの間構えられていたという。
慶長十七年(1612)松平忠利が吉田藩主となると、弟忠真に一千石で分知させた。
その子忠高は、千二百石で西方村と近隣の大草村、赤根村、河原田(上佐脇)(共に現御津町)、八幡村(現豊川市)を領したが、寛文四年(1664)禄米取りをして、知行地を返上し江戸に移った。
その後松平氏の家老であった長沢太郎左衛門が当地に住み、帰農した。現在もその末裔が住している。
当時は平坂街道と御馬街道の間に南北百二十二間(約220m)東西百八十三間(約330m)の土塁が囲み、その周りを水堀が囲んでいたという。現在はその一部の堀、土塁を残すのみとなり、大半が住宅地となった。
天正十八年(1590)吉田城主池田輝政が、牛久保、新城、田原とこの西方に陣屋を設け、西方には森寺忠勝が配置された。
慶長五年(1600)播磨姫路に移封するまでの間構えられていたという。
慶長十七年(1612)松平忠利が吉田藩主となると、弟忠真に一千石で分知させた。
その子忠高は、千二百石で西方村と近隣の大草村、赤根村、河原田(上佐脇)(共に現御津町)、八幡村(現豊川市)を領したが、寛文四年(1664)禄米取りをして、知行地を返上し江戸に移った。
その後松平氏の家老であった長沢太郎左衛門が当地に住み、帰農した。現在もその末裔が住している。
当時は平坂街道と御馬街道の間に南北百二十二間(約220m)東西百八十三間(約330m)の土塁が囲み、その周りを水堀が囲んでいたという。現在はその一部の堀、土塁を残すのみとなり、大半が住宅地となった。
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