(鞆要害 広島県福山市鞆町後地 市指定史跡)
鞆の浦を見下ろす標高22mの高台に存在した城である。天文二十二年(1553)毛利氏臣渡辺氏が「鞆要害」を築いたのが始まりとされる。天正四年(1576)には、足利義明が毛利氏を頼ってこの城に移り住んでいる。
慶長五年(1600)福島正則臣大崎玄蕃が入り、城郭が拡大整備された。慶長十二年(1607)に書かれた朝鮮通信使の日記に「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である」と記している。元和元年(1615)水野勝成のとき、一国一城令によって廃城とすることになり、三の丸に居館を築いた。勝成の子勝俊は、その後福山藩主となったため、城跡は福山藩の鞆町奉行所となった。
現在、主郭跡は鞆町歴史民俗資料館になっており、石垣の一部が残っている。
(石垣刻印)
(本丸跡から鞆の浦を望む)
(石塁遺構)
(二の丸跡)
(三の丸跡の地蔵院)
鞆の浦を見下ろす標高22mの高台に存在した城である。天文二十二年(1553)毛利氏臣渡辺氏が「鞆要害」を築いたのが始まりとされる。天正四年(1576)には、足利義明が毛利氏を頼ってこの城に移り住んでいる。
慶長五年(1600)福島正則臣大崎玄蕃が入り、城郭が拡大整備された。慶長十二年(1607)に書かれた朝鮮通信使の日記に「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である」と記している。元和元年(1615)水野勝成のとき、一国一城令によって廃城とすることになり、三の丸に居館を築いた。勝成の子勝俊は、その後福山藩主となったため、城跡は福山藩の鞆町奉行所となった。
現在、主郭跡は鞆町歴史民俗資料館になっており、石垣の一部が残っている。










