(岐阜市鏡島)
一条兼良の室であったとされる東御方(ひがしのおんかた:中御門宣俊娘)の墓が乙津寺境内にある。応仁の乱で兼良と東御方は京からこの地に来ていた。それは、兼良と当時の乙津寺住職が仁和寺と兼務しており、その住職との縁があったからとされる。(または斎藤妙椿の招きによってとも伝わる)
動乱が治まり兼良は京に戻ったが、東御方はこの地に留まり、同年暮に没している。
墓は平成10年に改修されている。
一条兼良の室であったとされる東御方(ひがしのおんかた:中御門宣俊娘)の墓が乙津寺境内にある。応仁の乱で兼良と東御方は京からこの地に来ていた。それは、兼良と当時の乙津寺住職が仁和寺と兼務しており、その住職との縁があったからとされる。(または斎藤妙椿の招きによってとも伝わる)
動乱が治まり兼良は京に戻ったが、東御方はこの地に留まり、同年暮に没している。
墓は平成10年に改修されている。