承安四年(1174)源義経は、京の鞍馬寺から藤原秀衡の住む奥州平泉に向かう途中、三河国碧海郡矢作村に住む兼高長者の家に宿をとった。そこには長者の娘、浄瑠璃姫がおり、姫は琴を弾き義経をもてなした。そして義経も笛を吹き、やがて相思相愛となった。義経は奥州に旅立たなくてはならず、片見に笛を置いていった。然し姫は、義経のことを思い続け、叶わぬ思いに菅生川の淵に身を投げてしまった。その後、その淵は浄瑠璃ヶ淵と呼ばれるようになったのだという。
熊本城の北東には、昭和初期に陸軍輜重兵(しちょうへい:後方支援)第六聯隊の施設として建てられたという、RC造、地上三階塔屋付、延床面積約2000㎡の建物がある。戦後は、熊本家庭裁判所、熊本博物館分館として使用され、現在は熊本市役所古京町分館及び熊本城管理事務所として使用されている。
(福岡市中央区天神)
柳川から西鉄に乗り、薬院駅で下車、一旦宿泊先に向かった。そして、日没の後、福岡の商業中心地である、天神地区へ向かった。 慶長十七年(1612)近隣の今泉地区から、福岡城の鬼門にあたるこの地に水鏡天満宮を遷宮したのが地名の由来という。(県庁跡に建つアクロス福岡)
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熊本城二の丸跡から三の丸跡に建つ、細川刑部(ぎょうぶ)邸に向かった。この地は武家屋敷の一角であるが、市内東子飼町に存在した建坪約三百坪の同邸宅を、ふるさとづくり特別対策事業によって平成5年に移築したものである。
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細川刑部家は、熊本初代藩主細川忠利の弟である興孝をもって初代とした分家で、子飼細川家とも呼ばれる。
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(旧戸島家住宅 福岡県柳川市鬼童町 住宅:県指定文化財 庭園:国指定名勝)
江戸時代後期に、柳川藩中老職吉田兼儔(かねとも)が居住した建物で、庭園は座観式のこぢんまりしたものである。後に立花家別邸となり、廃藩後には由布氏、明治15年(1882)からは戸島氏の住宅となった。平成13年に建物が柳川市に寄贈され、現在に至っている。
(銀杏城 熊本市 国指定特別史跡 重要文化財)
花見の時期だけあって、大勢の観光客の姿があった。曇天の空も次第に晴天を取り戻し、満開の桜が空に映え始めた。
行幸坂から登城し、先ず二の丸付近から足を踏み入れた。城内は広く、それが現在も残されているのは他にはなかなかないだろう。続いて三の丸、竹の丸、飯田丸と歩を進め、翌日に本丸入りをした。
(宇土城主小西行長由縁の宇土櫓:重要文化財)
(西出丸戌亥櫓:平成十五年復元)
天正十九年(1591)加藤清正は、千葉城から隈本城付近に新たに熊本城を築いた。然し、清正の子忠広が改易となり、代わって豊前小倉細川忠利が五十四万石で入城した。以後、細川氏が廃藩まで続いた。
明治初期、熊本鎮台設置により一部の遺構が改変され、西南戦争によって天守、御殿、櫓の一部を焼失している。
(飯田丸五階櫓:平成十七年復元)
(花吹雪の二の丸)
(熊本市中央区記事:細川刑部邸 旧陸軍輜重兵第六聯隊施設 隈本城 早野ビル 水前寺成趣園 上通並木坂 千葉城 路電熊本 小泉八雲 Second Kumamoto 春宵の熊本城 練兵町 白川 熊本交通センター百貨店 熊本下通 平成二十七年 藤崎八旛宮 熊本電気鉄道 路電熊本平成二十七年 熊本城平成二十七年 旧熊本地方合同庁舎 熊本城稲荷神社)
「御花」から西に向かうと、古い商家があった。明治18年(1885)に生まれた北原白秋の実家である。この地が生家といわれるが、他に熊本県南関町出生説もある。明治34年(1901)に大火に遭い母屋以外は焼失、そして北原家の家業も衰退していった。
昭和44年(1969)母屋の修復と共に一部を復元し、一般公開された。そして、昭和60年(1985)白秋生誕百年記念事業として、白秋記念館及び柳川市立歴史民俗資料館を開設している。
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最近は時間がないなどと言いながら、ここのところ西国の地に惹かれ、今回は熊本を訪れた。今度は飛行機で向かい、初めてのJAL機だったが、先日の貨物機着陸失敗もあってかキャンセルが多いようで、当初ほぼ満席だった予約も空席が目立っていた。
天候は晴れから西に向かうにつれ曇りとなった。上空滞在時間は一時間余りで、飛行機はどんよりとした雲を突き抜け、海側から滑走路に侵入した。着陸後すぐに曲がり角となり、地方空港であることを感じさせた。家を出たときの外気温は3℃と寒く、待ち合わせの時間は体が震えるほどであったが、熊本は8℃。陽は照っていなかったもののさほど寒くはなく、桜もそろそろ葉桜に近づくほどの四季の流れの地であった。
この後は、阿蘇くまもと空港からリムジンバスで市街地へと向かった。
(関連記事:益城)
凡そ三年半振りに訪れる。入手した招待券「あら、尖端的ね。-大正末・昭和初期の都市文化と商業美術-」を観覧するためにマインドスケープミュージアムを訪れた。
東公園の東に、中央総合公園とは?と毎度思いながらも、季節の花の咲き始めた丘に気持ちが向いた。然し、辺りは冬の北風が吹き荒び、三寒四温を思わせる日であった。
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(福岡県柳川市上外町 国指定名勝)
元禄十年(1697)に築造された、柳川藩別邸「集景亭」が存在したこの場所が、花畠と呼ばれる地であったことから、「御花」と呼ばれるようになったのだという。園内は、松島を模した庭園と、明治43年(1910)立花家の迎賓館として建てられた、木造二階建ての洋館等がある。