(静岡市葵区紺屋町)
明治元年(1869)、戊辰戦争後の謹慎中の徳川慶喜は、紺屋町西隣の常磐町宝台院で閑居していたが、翌年謹慎は解け、代官屋敷であったこの場所に移り住んだ。明治21年(1888)に浅間神社東側の西草深に移るまで、この屋敷で趣味に没頭したという。その後この地は戸籍役場の共有となったが、市内有力有志により料亭として開業し今に至っている。
明治元年(1869)、戊辰戦争後の謹慎中の徳川慶喜は、紺屋町西隣の常磐町宝台院で閑居していたが、翌年謹慎は解け、代官屋敷であったこの場所に移り住んだ。明治21年(1888)に浅間神社東側の西草深に移るまで、この屋敷で趣味に没頭したという。その後この地は戸籍役場の共有となったが、市内有力有志により料亭として開業し今に至っている。