「働き蜂たちの最後の闘いは、膨大な時間との孤独な闘いである」という中島らもさん(「固いおとうふ」)。
携帯やメールで他人とつながって生きていく。
いつも誰かと一緒でないと不安でたまらない。
映画やお芝居を観たり音楽を聞いたりする時、笑ったり涙したり、怒ってみたりするのはいつも「自分」です。
そこに楽しさを共有する相手がいても、瞬間瞬間にそうした感情を抱くのはいつもひとりの「自分」。
一人でも楽しめる、ひとりでも感じることができる心、精神・根気・気力…がなかったらどうなるのだろう。
「一人」じゃいられない。
働き蜂だった父は、定年退職後、13代目であることの責任を次代に受け渡すことのために多くの時間を費やして暮らしていた。家系に関する古文書類を整理し、写真に撮り、現代語に書き直してみたりだった。
「もうそんなに家だ家だと口にする時代ではないだろうに」と、父のいないところでささやいていたものだったが。
その合間には読書が楽しみだった。
外出はと言えば、健康管理を目的に近所の開業医へ行くことと、少々のパチンコと競馬新聞に書き込みをしながら頭をひねり、若干の嬉しさを味わっていた時だったのだろう。
母亡きあと数年、家系の整理は続き、未完成…。
まだ独りでいたいと口にし、弟家族との同居を拒んでいた頑固さ。
孤独だった?まっ、それを想う時にだけ少しの涙を浮かべてしまう私なのだが。
中島さんいわく「『教養』とはつまるところ『自分ひとりでも時間をつぶせる』ということだ」と。
膨大な時間との闘い、「自分ひとりでもうまく時間をつぶせる」ひとのことを、「孤独」とは言わない。
だとしたら、寂しさを乗り越え、「孤独」を克服し、父の時間も極めて充実していたのだろう。
常に顔を出し心配していたその弟の法事が近い。
子育てを終えた女性達は積極的に外へと関心が向かっているというではないか。
仲間もいいけど、またひとりもいい。
携帯やメールで他人とつながって生きていく。
いつも誰かと一緒でないと不安でたまらない。
映画やお芝居を観たり音楽を聞いたりする時、笑ったり涙したり、怒ってみたりするのはいつも「自分」です。
そこに楽しさを共有する相手がいても、瞬間瞬間にそうした感情を抱くのはいつもひとりの「自分」。
一人でも楽しめる、ひとりでも感じることができる心、精神・根気・気力…がなかったらどうなるのだろう。
「一人」じゃいられない。
働き蜂だった父は、定年退職後、13代目であることの責任を次代に受け渡すことのために多くの時間を費やして暮らしていた。家系に関する古文書類を整理し、写真に撮り、現代語に書き直してみたりだった。
「もうそんなに家だ家だと口にする時代ではないだろうに」と、父のいないところでささやいていたものだったが。
その合間には読書が楽しみだった。
外出はと言えば、健康管理を目的に近所の開業医へ行くことと、少々のパチンコと競馬新聞に書き込みをしながら頭をひねり、若干の嬉しさを味わっていた時だったのだろう。
母亡きあと数年、家系の整理は続き、未完成…。
まだ独りでいたいと口にし、弟家族との同居を拒んでいた頑固さ。
孤独だった?まっ、それを想う時にだけ少しの涙を浮かべてしまう私なのだが。
中島さんいわく「『教養』とはつまるところ『自分ひとりでも時間をつぶせる』ということだ」と。
膨大な時間との闘い、「自分ひとりでもうまく時間をつぶせる」ひとのことを、「孤独」とは言わない。
だとしたら、寂しさを乗り越え、「孤独」を克服し、父の時間も極めて充実していたのだろう。
常に顔を出し心配していたその弟の法事が近い。
子育てを終えた女性達は積極的に外へと関心が向かっているというではないか。
仲間もいいけど、またひとりもいい。