「能登の海は目が覚めるほどの群青色で、底まで澄み渡っていた。この地に生まれた桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539~1610)もこの海を見ただろうか」
こう書き始まるのは2019年5月19日付の地元紙コラムで、
「今年生誕480年。石川県七尾市の武家に生まれ、染物屋の養子となった等伯は、後ろ盾もなく30代で京に上り、名門狩野永徳と肩を並べ渡り合った」と続く。
能登と京都の人々は琵琶湖の水運で今以上に緊密に行き交っていただろうとも書かれている。
古いスクラップをめくっていたのは、就寝前のわずかな時間に読み継いで、『花鳥の夢』(山本兼一)を読み終えたからだった。
安土桃山時代、足利義輝、織田信長、豊臣秀吉など、時の権力者たちの要望に応えて多くの襖絵や障壁画を描いた永徳。長谷川等伯との出会い、確執。一門を率いる棟梁としての苦悩。乱世に翻弄されながらも天下一の絵師を志す生涯が描かれていた。
今一度ざっと全体を振り返るつもりでいる。
ライバル、『等伯』(安部龍太郎)を先に読んでいた。
そのせいか読後は、大徳寺三門の楼上の天井に描いた龍の絵のことなどが思い出され、公開されるんだったかな??などと思いがいったのだった。
スクラップには忘れていた古い記事が現れた。
書き出しの一文は、まさに現在の能登の姿が暗く覆い尽くしてしまう。
もうはるかに昔のこととなり海の青さも薄れているが、輪島を訪れ、七尾の温泉旅館に泊まったことがあって、なんとも切ない思いでコラムの書き出しを読み返す。
こう書き始まるのは2019年5月19日付の地元紙コラムで、
「今年生誕480年。石川県七尾市の武家に生まれ、染物屋の養子となった等伯は、後ろ盾もなく30代で京に上り、名門狩野永徳と肩を並べ渡り合った」と続く。
能登と京都の人々は琵琶湖の水運で今以上に緊密に行き交っていただろうとも書かれている。
古いスクラップをめくっていたのは、就寝前のわずかな時間に読み継いで、『花鳥の夢』(山本兼一)を読み終えたからだった。
安土桃山時代、足利義輝、織田信長、豊臣秀吉など、時の権力者たちの要望に応えて多くの襖絵や障壁画を描いた永徳。長谷川等伯との出会い、確執。一門を率いる棟梁としての苦悩。乱世に翻弄されながらも天下一の絵師を志す生涯が描かれていた。
今一度ざっと全体を振り返るつもりでいる。
ライバル、『等伯』(安部龍太郎)を先に読んでいた。
そのせいか読後は、大徳寺三門の楼上の天井に描いた龍の絵のことなどが思い出され、公開されるんだったかな??などと思いがいったのだった。
スクラップには忘れていた古い記事が現れた。
書き出しの一文は、まさに現在の能登の姿が暗く覆い尽くしてしまう。
もうはるかに昔のこととなり海の青さも薄れているが、輪島を訪れ、七尾の温泉旅館に泊まったことがあって、なんとも切ない思いでコラムの書き出しを読み返す。
さっそくアマゾンで探してみます。
声を耳にするだけで目にしない野鳥を拝見させていただきました。
どちらかといいますと敬遠していたジャンル、絵画の世界でした。
小説ではありますが、異なった環境で同時代を生きた二人の絵師。
生き方は面白く読みました。
能登の海は見たことがない私にも、目の奥に、群青色の澄み渡った日本海が見えてきました。
それが今は覆いかぶさるような鉛色に染められてるのかと。
今朝、報道番組で、被災し孤立状態になってる若い女性にインタビューしてました。
「これからもこの海が見えるこの街で暮らしていきたい、この海が好きだから」そう涙ながらに応えていました。
わかりますね、その気持ち。
老いも若きも、皆さん離れがたいですよね。
これまであまりカメラが入らなかったとか、能登島の惨状を伝える映像を見ました。
この東側の海岸には、等伯が松林図屏風に描いた松林があったとか。
「鉛色に染められ」た能登地方(だけではありませんが)、心が痛みますね。
能登半島の震災はあまりにも悲しい。・・
雪も雨も降ってきて・・
誰もが、あの美しい海を思い出して涙します・・・
山本兼一著「花鳥の夢」はまだ読んでいませんが、
必ずし読んでみます。
私はあの「千里浜なぎさドライブウエイ」を走り抜けた、想い出が強烈に残っています。
誰もが能登半島への優しく素敵な思い出を持っていることでしょう。復興への思いを胸に祈ります。🙏
こうした唐突の自然災害は決してひと事ではありませんね。
訪れたのが夏でしたので、何もかもが明るく印象に残っています。
輪島の浜で御陣乗太鼓を拝見しました。20代半ばのことです。
とにかく今、震える寒さの中で不自由を強いられる惨状が
少しでも好転することを願ってやみませんね。