田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道百年記念事業の裏側を読み解く

2013-10-11 16:50:18 | 講演・講義・フォーラム等
野幌森林公園に立つ「北海道百年記念塔」をはじめとする記念事業が行われた経過を、新聞資料をはじめとするさまざまな資料から読み解く北海道開拓記念館の「歴史講座」を受講した。興味深い事実に触れた講座だった。 

 「北海道百年記念式典」は1968年9月2日に北海道が主催して行われている。ということは、今から45年前、1967(明治2)年に北方開拓のために札幌に開拓使が設置された年を起源として実施されたものである。
 一方、時の政府は同じ1968年10月23日に「明治百年記念式典」を開催している。

 9月29日(日)午後、北海道開拓記念館において歴史講座「歴史の中の『開道百年』」と題する講座を受講した。講師は記念館学芸員の山田伸一氏が務めた。

 講座においては、「明治百年記念式典」は政府が特定の歴史観を国民に強制するとして反対運動が盛り上がったのに対して、「北海道百年記念式典」はそれまでも開道50、70、80、90年などを記念してきたこともあり記念式典の開催そのものに対しては大きな反対はなかったようである。
 「北海道百年記念式典」の議論が錯綜したのは、記念事業の在り方についてである。道内の各界・各層からさまざまな意見が百出したようである。

 記録を見ると実にさまざまな事業が行われたようであるが、最も大きく、象徴的な事業は「百年記念塔」の建設であった。(北海道開拓記念館も百年事業で建設されている)
 ここではその「百年記念塔」の建設を巡る経緯についてレポートすることにする。

               
               ※ 「百年記念塔」のデザインコンペで最優秀賞を獲得した井口健さんのデザインだそうです。

 議論はまず「先人の労苦を偲ぶよすが必要」という話が出てきた。それを受けて、大通に100尺(30メートル超)を超す記念塔を道民からの拠金で建設しては、という案が民間人(元道庁職員)から提起されたが、この提案に当時の町村知事が興味を示したことがそもそもの始まりだと資料は伝えている。
 100尺案がどこで100メートルに変わったのか、大通公園がなぜ野幌森林公園に変わったのかについては、残念ながら講師の話では触れられなかったし、提供された資料でも分からなかった。
 設計コンペを行いデザインも決定したが、問題は4億5千万円(当時)といわれる建設費の捻出だった。建設費の一部を道民からの拠出金でまかなうとした募金が思うように集まらなかったこともあり、「募金強制のにおい」とか、「押しつけの感強い」といった見出しが当時の新聞紙面を賑わせている。
 講師によると、建設経費削減のため設計デザインの一部変更して省ける部分は努めて省きながら現在の姿の「北海道百年記念塔」が完成したということである。

 そうした経緯を経て建設された百年記念塔であるが、建設されてから半世紀近く経つ今、私たちはこの塔をどのように見ているのだろうか?
 当時の新聞記事を見てみると、「かなりの時代錯誤」と題して塔の建設そのものを強烈に皮肉っている室蘭工大の助教授(当時)の和田完氏が「はじめて見た折りにはなんともグロテスクな感じで好きになれなかったと記憶する。しかし不思議なもので、二度三度と拝顔(記事どおり)を重ねるうちに今では親近感さえ生じてきた」と述懐している。私もそれほど何度も見たわけではないが、百年記念塔はすでに野幌森林公園の中にすっかり馴染んでしまったように思う。(そう思わない方もいるかもしれないが…) だとしたら…。

          
          ※ 講義をする開拓記念館の学芸員・山田伸一氏です。

 先日、BS・NHKの静かな人気番組「にっぽん縦断 こころ旅」で主人公の火野正平さんが百年記念塔を訪れたところが放映された。その中で火野さんが「それにしてもずいぶん人がいないねぇ」と呟いていた。確かに私が何度か訪れたときにもそれほど人の姿は目立たなかった。
 建設後半世紀も経ってはいるが、遠くからもその聳える姿が望見できる記念塔にもっと多くの道民が集えるような仕組みが必要なのかもしれない、と思ったのだが…。