天塩川というと、北見山地の天塩岳を水源として天塩町まで流れる長さ256kmに及ぶ北海道第2位(日本第4位)の長さを誇る河川である。私はこの長大な川をどのように把握するか思案しながら旅立った。
今回、旅立つ前に経路を検討していたところ、天塩川の河口近くで橋を渡るところが一か所あった。さらに音威子府を通過する際にも天塩川に近づくので中流域で眺めることができるのではと思っていた。そして全体像は天塩町にある「天塩川歴史資料館」で把握することができればと考えて旅立った。
◇天塩川歴史資料館
まず経路からいって「天塩川歴史資料館」を訪れることが第一となった。
※ レンガ造りの資料館は、前天塩庁舎を活用したものだそうです。格式を感じます。
資料館では、天塩川についてその沿岸を調査した松浦武四郎らの足跡が図示されていたが、いずれも相当な苦労をしながらの探査行だったことが偲ばれる。そうした資料の中に天塩川全体を図示したものがあった。それを見ると天塩川沿いに美深、名寄、士別などの地名があり、それらの市町は私が帰路に南下する経路と重なっていることが判明した。もしかすると、私は天塩川をところどころでチェックすることができるかもしれないという期待を抱くことができた。
※ 天塩川の流域図です。これを見て、私は何ヵ所かで天塩川がチェックできそうだと思いました。
※ 天塩川流域には松浦武四郎と前後して3人の探検家が探査したということです。
※ 天塩川を行き交った舟ですが、武四郎が用いた舟は子れより小型の二人乗りだと言われています。
◇天塩川
肝心の天塩川であるが、私は天塩から道々106号線を海岸沿いに北上するルートを取った。すると天塩川の河口からおよそ6kmのところで天塩川を横断する橋を渡る。ここでまず一枚の写真を撮った。今思い返すと、天塩町の街中で日本海に注ぐ本当の河口の様子も見たかったと思ったのだが、後の祭りだった。
この後、天塩川に接するのは翌日、稚内からの帰りに音威子府町に入った時だった。「音威子府橋」のところでチェックしたが、天塩川はまだまだ大きな流れだった。
音威子府では、「音威子府橋」より8キロほど下流になる松浦武四郎の「北海道命名之地」碑のところと、次は「音威子府橋」から10キロほど上流にあたる「天塩川温泉」のところでチェックすることができた。
その後は「名寄大橋」のところ、そして最後は上士別のところに架かる「士別橋」のところでチェックすることで天塩川に別れを告げた。さすがに「士別橋」までくるとやや流れの幅は狭くなったかな?と思わせられた。流れが中流域に入ったということだろう。いずれにしても天塩川は大河である。
天塩川の下流から撮影が可能だった士別橋までを順に並べていくこととする。
※ 天塩川河口に近い「天塩大橋」から撮った天塩川です。(上が上流を、下が下流を撮ったものです)
※ 音威子府筬島の「北海道命名の地」碑のところで撮ったものです。
※ 音威子府大橋のところから撮ったものです。
※ 川の向こうに音威子府市街が見えています。
※ 宿泊した天塩川温泉にところで撮ったものです。
※ その天塩川温泉のところでは、カヌーで遊ぶ人たちが休憩するこのようなポートが設けられていました。
※ 天塩川温泉のカヌーポートです。(木が払われ芝生が張られています)
※ 名寄大橋のところで撮ったものです。(少し川幅に変化が…)
※ 最後、士別橋のところで撮ったものです。かなり川幅が狭くなっています。
◇「北海道命名の地」碑
江戸時代の探検家・松浦武四郎は当時蝦夷と呼ばれていた北海道に計6度もの探検・探査を実施した人として知られている。その蝦夷探検の5度目になる安政4(1857)年に行ったのが天塩川を遡り、そして下った24日間の探査行である。武四郎は河口からアイヌの手助けを得ながら丸木舟で遡り、現在の和寒町奥まで分け入り、水源である天塩岳を確認して帰路に就いたという。その間、上流に向かうこと17日間、帰路は下流に向かうことで7日を要して河口に着いたという。都合24日間の探査行だったという。
その途中、現在の音威子府から8キロほど下流になる筬島(おさしま)という地で、武四郎はアイヌの長老から、この大地に生まれた人を「カイ」と呼ぶことを聞き、「北にあるアイヌの人々が暮らす大地」という意味を「北加伊道」に込めたとされるが、そのことを聞いたところが筬島だったことから、この地に木製の「北海道命名の地」碑が天塩川沿いに立てられていた。その傍を天塩川がゆったりとした流れを見せていた。
※ 音威子府特別編
音威子府村は北海道内で最も人口が少ない自治体(本年5月現在679人)として知られている。しかし、特色ある事柄が数々あることでも知られている。私はこの機会にそれらを訪ねてみることにした。
◇音威子府駅の「黒い駅そば」
JR宗谷本線の音威子府駅の駅そばは「日本一うまい駅そば」とも称されて人気を博してきた。その駅そばは「常盤軒」が経営していたが、開業は昭和8(1933)年というから凄い。開業以来80年を超していたが、三代目の西野守さんが病気に罹り休業を余儀なくされ、さらに西野さんがお亡くなりになったことで2021年2月に閉店してしまい音威子府の駅そばの歴史は閉じられた。
※ JR音威子府駅です。
※ 「常盤軒」が営業していたときのまま店舗が遺されていました。
しかし、そのことを惜しむ声が大きかったのだろう。「音威子府道の駅」でラーメン店を開業した「天北龍」さんが「音威子府の黒いそば」を提供していると知って、私はそこで「かき揚げ入りそば」(650円)を食することができた。黒いそばに一瞬ギョッとしたが、食してみると野趣たっぷりの風味としっかりとしたコシが感じられ美味しくいただくことができた。
※ 音威子府道の駅です。
※ その道の駅で「音威子府そば」を食することができました。
◇おといねっぷ美術工芸高校
音威子府の特色の一つに、「工芸科」だけに特化した高校がある。音威子府を離れようとしたとき、高校の名を目にしたので寄ってみることにした。
同校は、美術工芸に興味関心がある高校生が全道・全国から集まることで有名である。私が高校を訪れたのは3日の日曜日だったが、学校祭の準備ということで生徒の姿もあり、一人の生徒さんとお話することができた。すると、全校生は現在110名で、そのうち村内出身者はわずか1名で、道外から23名、道内から86名という構成だと聞いた。
生徒の学ぶ意識は高いようで、以前札幌での展示会で見た生徒たちの作品のレベルが相当に高かったことを記憶している。また、同校は地域の自然を生かしたクロスカントリースキーの強豪校として名を知られ、全国大会の常連校である。オリンピック選手も二人排出していて、その面でも注目の高校である。
◇エコミュージアムおさしまセンター(旧砂澤ビッキ記念館)
音威子府というと、アイヌ民族出身の木造彫刻家だった故砂澤ビッキ氏が廃校々舎をアトリエにして精力的に創作活動を展開し、その作品を展示する施設がある子ことで知られている。私が記憶していた「砂澤ビッキ記念館」を訪れることを楽しみにしていたのだが、村の案内に「砂澤ビッキ記念館」の名は見当たらなかった。しかし、よく見てみると、その後継施設が「エコミュージアムおさしまセンター」だと知った。センターのある筬島地区は音威子府本町から約8キロ天塩川沿いを下流に下ったところにあった。外観はくたびれた木造の建物で、とてもミュージアムとか、記念館とか思えなかったが、駐車場の表示があったのでなんとかそこが目的地だと認識できたほどだった。
※ 旧筬島小学校々舎を利用したエコミュージアムです。
※ エントランスにも目立つ表示がありませんでした。
しかし、内部は素晴らしかった。砂澤ビッキの大胆さと、繊細さを併せ持った作品の数々が廃校校舎全体に展示されていた。
砂澤ビッキは廃校となった旧筬島小学校々舎で1958年から約10年間創作と生活拠点にしたという。旧校舎内にはそうした砂澤ビッキの息吹が今も感じられるようであった。
※ 砂澤ビッキさんが使用した木工器具の数々が展示されていました。
※ 砂澤さんの死後、仲間の手によって砂澤さんのデスマスクが作成されたそうです。
ケースの中の白い石膏製のものが砂澤さんのデスマスクです。