これまで私は何度かニシン番屋を見てきた。しかし、今回訪れた小平町の「旧花田番屋」は、これまでのどこよりも広壮で豪華な造りだった。また、留萌市の「旧佐賀家漁場」もニシン漁場の全体像がよく分かる造りとなっていた。しかし「旧岡田家番屋」は…。
北海道のニシン漁は江戸時代の中期ころより盛んとなったようだが、当時は松前藩によって漁が厳しく制限されていた。明治の世になって自由にニシン漁が行えるようになると、留萌地方を中心に網元を中心とした大人数による定置網漁が盛んになったそうだ。その始まりが弘化元年(1844年)に留萌の礼受にニシン漁場を開いた佐賀家だという。
今回は「北海道遺産」に登録された「旧佐賀家漁場」、「旧花田番屋」、「岡田家」を訪ねた。
ところで私はリード文でも触れたが、これまで何度かニシン番屋を見たことがある。記憶に残っているだけで余市町の「旧余市福原漁場」、小樽市の「鰊御殿」、北海道開拓の村に移築・復元された「旧青山家漁家住宅」などである。これらに共通するのは、網元と呼ばれる親方とヤン衆と呼ばれる出稼ぎの漁夫たちが一つ屋根の下で起居する形態を取っていることである。もちろん住む部屋などは厳然たる違いがあったが、非常に珍しい形ではないだろうか? 今回訪れた番屋も同様であった。
◇名もなき番屋
ナビを頼りに国道231号線を走り留萌市の礼受地区に入った。それらしきところを探しながら車を進めていると道路傍に大きな建物が見えた。「これなのでは?」と思い、車を停めて建物の周りを伺ったが何の表示も見当たらなかった。ちょうど地元の方らしい人が自転車で通りかかったので、「これが佐賀家の漁場だろうか?」と伺うと、「そうだと思います」との答えを得たので、建物の写真を撮り、周りを写した。
※ 私はすっかり「旧佐賀家漁場」のニシン番屋だと思ったのですが…。
※ 横から見てニシン番屋の様相を呈しています。
※ 建物の横にはニシンを茹でた釜や錨のようなものが置いてありました。
「これで一つゲット!」と思い車を走らせたところ、そこから間もなく本物の「佐賀家漁場」が現れたのだ。つまり確かにこの建物もニシン番屋の一つなのだろうが、後世には特に伝えられていない番屋の一つだったのだろうと思われた。
そういえば、増毛町の「千石蔵」で国稀酒造の社員とお話をしたとき、「街道には名前の知られていない番屋もけっこうありますよ」と言っていた。そうした番屋が街道筋にはもっと他にもあるのかもしれない。
◇旧佐賀家漁場
※ こちらが本物の「旧佐賀家漁場」のニシン番屋の母屋でした。屋根が青いトタン葺きになっているのが…。
「旧佐賀家漁場」の前には「ニシン街道」と書かれた標柱が立てられていて、今度は直ぐに「北海道遺産」に登録された漁場の一つであることが確認された。ここは番屋の母屋だけでなく、佐賀家が営んでいたニシン漁に関する倉庫や舟の倉庫など全てが一体となって保存されているところに価値がある。さまざまな家屋を取り巻く中心部は広場のようになっていて、当時はニシンの干場だったという。そこに座って往時を懐かしんでみるのも一興かな、と思った。
※ こちらはウェブ上からお借りした漁場全体の様子です。
ただ一つ残念だと思ったことがあった。それは母屋であるニシン番屋の屋根がトタン葺きになっていて、青いペンキが塗られていたことだ。建物を保存するための止むを得ない措置だろうが、せめて柾葺きに近い色に塗ることはできなかったのだろうか?青い屋根には若干興覚めさせられたのも事実である。
※ ニシン番屋の母屋です。親方やヤン衆が起居を共にした家屋です。
※ 加工したニシン製品を保管する倉庫「トタ倉」です。その手前の広場はニシンを干す広場だったようです。
※ 舟の倉庫「舟倉」です。舟の先端が倉庫の壁から突き出しています。
※ 漁場の後方の高台には漁の安全を祈願する稲荷社が建っていました。
※ 漁場である日本海を遠望すると浜辺には、沖揚げしたニシンの一時保管場所の「廊下」の建物が見えます。
◇旧花田番屋
「旧花田番屋」は国道231号線から続く232号線に乗り、小平町本町を通り過ぎて「小平道の駅」と隣り合わせで古色蒼然といった面持ちで建っていた。こちらにも建物からはちょっと離れていたが「ニシン街道」の標柱が立っていた。
※ 旧花田番屋の道路向かいに立てられていた「ニシン街道」り標柱です。
※ 堂々として広壮な旧花田番屋の全体像です。
※ 番屋の入口には、ニシンを運ぶ背負子を背負った女性の像が立っていました。
花田番屋は明治37年頃建造され、現存している番屋としては道内最大規模と言われ、国の重要文化財に指定されているという。
こちらは内部が公開されていて、入場料500円を払って内部を見せてもらった。
この内部が素晴らしかった。まずはニシン漁で使う網やロープ、あるいはニシン粕を作る道具などが陳列されていた。そして「だいどころ」と呼ばれる漁夫〈ヤン衆〉たちの居間に導かれた。そこは広い空間になっており漁夫たちが食事をしたり、寛いだりする空間だと思われた。そしてその周囲には漁夫たちが寝るところが上・中・下段となって相当数の漁夫が起居できる空間となっていた。
※ 母屋の内部の物置に展示されていた漁網です。
※ こちらはロープ類と、奥の方に漬物などを入れた樽が見えます。
※ 舟から陸へニシンを運ぶための背負子(しょいこ)です。
※ 漁夫(ヤン衆)たちの食事処であり、寛ぎの場だった「だいどころ」です。奥に寝床が見えます。
※ これは「だいどころ」に造られた「いろり」ですね。ここで漁夫たちは一服したのでしょう。
※ だいどころの一角に展示されていたニシン舟です。時には帆も使っていたんですね。
豪華だと思えたのは、「にわ」という土間を挟んだ親方の居室であった。中央には「中の間」と呼ばれる畳敷きの親方の部屋があり、その左右に「帳場」、さらに「奥の間」と呼ばれる金庫のある部屋、そして「仏間」も別に設えてあった。一方で「はなれ」と呼ばれる親方の家族が住んだところだろうと思われる畳敷きの部屋が二つ並んでいた。ことほど左様に当時の豪勢な生活ぶりが伺える旧花田家番屋だった。
※ こちらは「親方の間」です。
※ 親方の家族などが生活していたと思われる「はなれ」です。
※ 花田家の前浜です。写真のモニュメントの意味は分かりませんでした。
※ 旧花田家番屋の隣に建つ「小平道の駅」です。花田番屋を意識した荘厳な外観です。
◇苫前町郷土資料館(岡田家番屋)
「北海道遺産」に登録された平成13(2001)年には「ニシン街道」の三つの番屋の一つとして「岡田家番屋」は現存していたのだが、老朽化によって平成26(2014)年に解体されたという。解体によって残された漁具などが地元の苫前郷土資料館に保存・展示されているということで訪れてみたのだが…。
※ 旧苫前町役場庁舎を活用したという「苫前町郷土資料館」の外観です。
※ 資料館の入口でいきなり羆の歓迎を受け、「あゝ、羆事件の町だ!」と思い出しました。
※ 開拓民8人が殺害された三毛別羆事件の様子を再現した展示がありました。
※ 確かにニシン漁の関する用具も展示されてはいたのですが…。
期待は大外れだった。苫前町というと吉村昭の小説「羆嵐」で有名になったが、開拓農民が8人もヒグマに殺害された町である。資料館の展示もそのことが中心だった。また作家・三浦綾子の出身地ということでその展示にもかなり割かれていた。私が期待した岡田家の漁具は確かに展示されていたが、そこに岡田家の表示はなく一般のニシン漁の漁具としての展示だった。私はせめて建物が健在だった当時の写真が掲示されていたり、岡田家のミニチュア模型のようなものを見ることができるのではと期待していたのだが、欠片も見ることができなかったのは残念だった。
苫前町にとっては旧岡田家が「北海道遺産」の一つとして登録されたということに特別の価値を見出していないということなのだろうか?考えてみれば、「北海道遺産」とは言ってもNPO法人「北海道遺産協議会」が指定・登録したということであって、そこに価値など見出せないという向きもあるのかもしれないが、それにしても腑に落ちない思いである…。