中尊寺の寺院の多さに圧倒された。その一つ一つに大きな意味があるのだろうが、未知の私にはただ、ただその寺院の数の多さに驚いた。また、中尊寺の最大の呼びものである「金色堂」はやはり特別感を感じさせてくれた。
今回の旅の第一の目的はJRヘルシーウォーキングに参加することだったが、それと同時に世界遺産に登録されている「中尊寺」を観ることも大きな目的の一つだった。世界遺産という名に弱いのである。
中尊寺は、2011(平成23)年に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として登録された。つまり、構成遺産としては 国宝の「中尊寺金色堂」、特別名勝「毛越寺庭園」、特別史跡「中尊寺境内」、特別史跡「毛越寺境内附鎮守社跡」、特別史跡「無量光院跡」などが構成遺産となっているようだ。
※ 中尊寺境内の概念図です。右側通路から入境し、金色堂は左奥に位置しています。
※ 中尊寺は小高い丘の上にあり、平泉の地区を見下ろす形になっていました。
しかし、勉強不足の私には「毛越寺」とか「無量光院」などには関心はなく、時間的にも難しかったので「中尊寺境内」並びに「中尊寺金色堂」だけが目当てだった。もっともこの日私は「岩手県立空泉世界遺産ガイダンスセンター」と「平泉文化遺産センター」の2施設を同時に訪れたのだが…。
平泉では駅前からレンタサイクルを利用し、巡り歩いた。もちろん中尊寺境内は徒歩であったが…。
中尊寺はまず「月見坂」というけっこうな斜度の坂を上ることから始まる。両脇には高い杉木立が並んでいるが、これは中尊寺を建立した藤原氏たちの時代ではなく、江戸後期になってから植えられたものと言われているそうだ。
※ 参詣路の両側に屹立する杉並木です。
月見坂の上りの途中に一つだけ「弁慶堂」が建っているが、他は上り切ったあたりから小院が左右に立ち並び、そして「中尊寺本堂」が一段と存在感を放ちながら建っていた。
※ 参詣路(月見坂)で最初に出会った「弁慶堂」です。
※ 中尊寺の本院です。
そして肝心の「金色堂」は境内の一番奥の一角に建てられていた。「金色堂」は「覆堂」といわれる「金色堂」を覆うような建物の中に鎮座していた。その「金色堂」はもう上から下まで仏像をはじめとして全てが金色に塗り固められたものだった。その中、堂内の柱には夜光貝の独特の七色が印象的だった。ただ、仏像などの一部はさすがに時代を経たためか一部光を失っている部分も散見されたが、仕方のないことか…。
※ 「金色堂」が入る「覆堂」です。(平成23年建立)
※ 金色堂全体図です。
※ 金色堂を近影したものです。(仏像の下に藤原氏三代の遺骨が眠っているそうです)
私にとって意外に印象的だったのは、「金色堂」から少し離れたところに建っていた「旧覆堂」と称された古い建物だった。「金色堂」そのものは1124年、藤原氏の初代清衡公によって建てられたのだが、当初は建物そのものが戸外に露出していたようだ。それを1288年に鎌倉幕府が「金色堂」を雨風から護るために「金色堂」を覆う「覆堂」を建設したのだという。以来、600年以上も「覆堂」は「金色堂」を護り続けたのだが、2011(平成23)年に新たな「覆堂」が完成し、役目を終えたが境内に今なお残されているとのことである。
※ 金色堂を600年以上にわたり護り続けた「旧覆堂」です。
時間が許せば、もっともっと丁寧に一つ一つの寺院などをじっくりと観察したかったのだが、私の持ち時間はあまりにも少なかった。この他に訪れた「岩手県立空泉世界遺産ガイダンスセンター」と「平泉文化遺産センター」についても触れたいところだが割愛することにしたい。
※ 岩手県立空泉世界遺産ガイダンスセンターの外観です。
※ 平泉文化遺産センターの外観です。
最後に、中尊寺自体が朽ち果てるに任せていた江戸時代に訪れた俳人・松尾芭蕉の残した二句を紹介し、本日のレポとする。
※ 金色堂の直ぐ横に立っていた松尾芭蕉の句碑です。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
「五月雨の 降り残してや 光堂」
※ 金色堂自体は撮影がNGだったのでウェブ上から拝借した。他は私が撮影したものです。