現役を退いて12年。今夏のお世話になった土地・職場を巡る旅は、私にとってはある意味で記念碑的な旅だった。おそらくそれは最初で、最後の旅となるのかもしれない。思い出多かったノスタルジック ジャーニーを振り返ってみたい。
私の職業生活は1980(昭和45)年に置戸町立置戸小学校に赴任以来、網走管内(現在のオホーツク管内)において36年間お世話になった。その間、私は9ヵ所の学校・事務所にお世話になった。
ライブレポにおいては、訪れた順に紹介したが、ここでは改めて年代順に並べ替えて、私の職業人生を振り返ってみることにする。(今回は前半は4ヵ所を振り返る)
◇昭和45年4月(1970)~昭和55年3月(1980)
置戸町立置戸小学校 教諭
※ 校舎は平成11年に町内の小学校の統合と同時に建て替えられ、当時の面影はどこにもなかった。
※ グランドは芝生化したとのことだったが、やや管理に問題があるのか?鮮やかな緑とは言い難かった?
私にとっての教師人生の始まりの地である。23歳から33歳まで人生の中でも最も活力があった時期ともいえる。若さゆえに、教育にも社会活動にも全力投球できた地だった。(もっとも今から振り返れば、それは稚拙の域を出ていなかったが…)後に一時社会教育の道へ進んだのも、この地で多くの方々から教えられたことが礎であった。
私事においてもこの地で結婚をし、子どもも授かった地である。
◇昭和55年4月(1980)~昭和58年3月(1983)
北海道教育委員会派遣 東藻琴村社会教育主事(現在の大空町)
※ 東藻琴村教育委員会が入っていた庁舎です。当時とまったく変わらぬ姿でした。
※ 村役場庁舎と同じ敷地に、同じ意匠で建てられた農村環境改善センターです。この中にホールがあり
そこで「高石ともやとナターシャセブン」コンサートを開催しました。
置戸での体験から社会教育の道へ進むことを関係者から勧められ、興味もあったので派遣社会教育主事の仕事に挑戦することになった。東藻琴村は純農村で人口も3,000人強と少なく、皆が顔見知りという関りの中で社会教育の仕事をさせてもらった。思い出の仕事としては社会教育だより「もことやまだより」を毎月発行し、全戸に届けたことだ。
また、仕事とは一線を画し、村の青年たちは力を合わせ村に新設されたホールで「高石ともやとナターシャセブン」のコンサートを小さな村で成功させたことが大きな思い出である。(仕事ではなかったが、私としては社会教育の一環だったと思っている)
※ ライブレポでは網走教育局派遣と称したが、正式には北海道教育委員会派遣でした。
◇昭和58年3月(1983)~昭和61年3月(1986)
北海道教育委員会派遣 美幌町社会教育主事
※ 美幌町教育委員会社会教育課が入っていた美幌町コミュニティセンターです。
※ コミュニティセンターには体育館が併設されていて、町民のスポーツ活動の場として活用されていました。
派遣社会教育主事の任期は3カ年である。東藻琴村での任期を終えた私は、さらに社会教育の仕事を極めたいと思い、その旨を上司に伝えたところ美幌町への派遣を命じられた。
美幌町は東藻琴村とは人口規模がまったく違い、仕事の質も違った。美幌町においては社会教育だよりを東藻琴村のように単独で全戸に届けることは不可能だったため、町の広報紙の中に社会教育だより「みどり野」というコーナーを特設させてもらい生涯学習の奨励に努めた。
◇昭和61年4月(1986)~平成 6年3月(1994)
小清水町立小清水小学校 教諭
※ 小清水小学校も町内の6小学校が再編統合したことに伴い、平成25年ら新校舎を建設したとのことで
こちらも当時の面影はまったくうかがうことができなかった。
社会教育の世界で6年間経験させてもらったが、やはり自分のホームグランドに戻ることが必要と考え、その旨の希望を伝え、小清水町立小清水小学校に赴任させてもらった。
久しぶりの学校教育の現場とあって不安もあった。そこで私は同僚を誘ってある民間の教育運動の研修方法に学び、定期的に自己研鑽するグループで教育方法の研究に没頭した期間であった。その時に学び合った仲間との繋がりが今にも続いているのである。
以上が私の職業人生の前半である。人は自分の過去を振り返るとき、どうしても自分を美化しがちである。それを読まされる側としては鼻白む思いになるだろう。それを避けたいと思ったのだが、どうしても私にとって良い思い出のみを書き連ねる結果となってしまったことをご容赦いただきたい。
ちょっと思い付いて、昔の職場巡りをしてみました。
小清水小学校 vs 女満別小学校…、懐かしいですね。我がチームは毎回ブービーじゃなく、ダントツの最下位を突っ走っていましたが、あれもまた今は懐かしく思いだしています。