私の職業人生の後半の13年間はいわゆる管理職としての13年間だった。それまでの立場とは違って、緊張感のある日々だった。教育現場は他と比べて特殊な組織とも言われ、難しい日々の13年間だった。
よく言われることだが、教育現場においては職員はスタッフ意識が強く、会社や役所の組織のようなライン意識が薄いとされている。つまり、職員(教員)一人一人は責任をもって子ども(生徒)に向き合っているという意識が強いのだ。そのこともあり、難しい問題に直面した時など、組織としての意思統一を図るために管理職として腐心する場面が多々あった。そうした13年間の中でも私なりに創意工夫をしながら務めた13年間だった。そんな日々を振り返ってみたい。
◇平成 6年3月(1994)~平成 7年3月(1995)
網走市立能取小学校 教頭(廃校)
※ 廃校になった校舎は当時のままの姿で建っていました。集落の会館などに使用されているのでしょうか?
※ 校舎の周りはパークゴルフ場として整備され、立派の芝生が養生されていました。
教頭として初任の学校は網走市立能取小学校という能取湖に面した学校だった。児童数25名、職員は校長をはじめとして9名の構成だった。この学校は児童数が少ないため、1・2年生、3・4年生、5・6年生がそれぞれが同じ教室で学ぶ複式学級という方式だった。私は一般の教員時代に複式教育を経験したことがなかった。そのため、複式教育の現場を目にしたとき、まったく異質の教育の現場に足を踏み入れたような感覚だった。直接に指導をする立場ではなかったが、より効果的な指導方法について先生方と議論を重ねたことが懐かしい。それから私が力を入れたのは学校の環境整備だった。校務補さんの力を借りながら校舎の整備をいろいろと手掛けた。特に能取湖に棲む魚たちを生態飼育する水槽を整備したことを思い出す。また、「新米教頭奮戦記 能取の風」と題して職員室通信を発行したことも思い出である。一年間で103号まで発行した。
けっこう充実した新米教頭生活だったが、網走管内の教育事情もあり、私は一年でこの能取小学校を去ることになってしまった。
◇平成 7年4月(1995)~平成10年3月(1998)
生田原町立生田原小学校 教頭(現遠軽町立生田原小学校)
※ 当時と全く変わらない堂々とした造りの校舎でした。
※ 学校の敷地内には由緒ある「たたら校園」が整備されていました。
生田原小学校もけっして大きな学校ではなかったが、各学年1クラス規模の学校だった。
この学校は地域的な事情もあり少し落ち着きのない子どもを抱える学校だった。そこで私は校舎の内外を花で飾ることを思い立った。子どもの心を落ち着かせたいとの思いからだった。私は種子の段階から花づくりを進めて(もちろん先生方の協力を得ながら)、3,000株以上の苗を育てて、夏になると学校の周辺を花でいっぱいに飾った。学校の前を走る国道沿いにも花を植えた。花の種類はベゴニアセンパフローレンスという種だった。花を飾るだけではなく、花を素材にしてポランティアやキャンペーンなどに活動を広げた。3年間の実践で、子どもたちの生活に落ち着きが出てきたことを実感できた。
もう一つの思い出は、近隣の勇払原野で開催されるクロスカントリースキー大会のリレー部門(100kmを5人でリレーする競技)に職員を誘って参加したことも懐かしい思い出である。成績?確かブービー争いしたはずと記憶している。
◇平成10年4月(1998)~平成13年3月(2001)
津別町立恩根小学校 校長(廃校)
※ 廃校になった校舎の壁には私が設置した「あふれる笑顔 ひまわりの花咲く 恩根小」のスローガンが掲げられていました。
※ 校舎入り口には、私が夜な夜な彫刻刀で削り出した校章が今も掲げられていました。
平成10年からは立場が変わって一校を預かる校長という立場で務めることになった。恩根小学校は北海道特有の極小規模校で児童数が9名、職員が4名という構成だった。小規模ゆえに家族的なのんびりした雰囲気があったが、そこに安住することなく職員にも、児童にも刺激を与えることが私の務めだった。そうしたことと共に力を注いだのがやはり環境整備だった。学校の歴史を紐解くと、ひまわりの花を盛んに栽培していた時期があったことが判明したので、その復興に力を注いだ。学校の周囲にひまわりの花を植え、集落にもひまわりの花を栽培することを呼びかけた。そして「あふれる笑顔 ひまわりの花咲く 恩根小」というスローガンを掲げて、ひまわりの花の栽培を通しながら学校づくりを進めた。
◇平成13年4月(2001)~平成16年3月(2004)
網走市立白鳥台小学校 校長
※ まだまだ新しい感じのする白鳥台小学校の校舎です。
※ 校舎の裏側には学校のシンボルツリーのプンゲンストウヒが立っていました。
恩根小学校での3年を経て、網走市立白鳥台小学校に転勤となった。この学校は、私が赴任する一年前に周辺の小規模校4校が合併して生まれた新しい学校だった。それでも学年各1クラスで児童数130余名の小さな学校である。学校の骨格につては前任の初代校長がおおよそ作成されていたが、私はその実体化を期待されていたと受け止め、学校づくりに邁進した3年間だった。校舎は新設されたばかりで環境整備に意を払う必要はなく、もっぱら教育内容の充実に力を注いだ。保護者の期待も大きく、私は職員室だよりはもとより、父母向けの校長室通信を発行し、学校が目ざしていることについての理解を深めようと力を注いだ。
この学校においても私の面白がり屋精神が顔を覗かせた。それは十勝で開催された「十勝スピードウェイ12時間耐久ママチャリレース」に職員を誘って出場したことである。職員のほぼ全員が選手、サポート役として十勝(更別村)まで遠征し、夜間の12時間をリレー形式で走り切った。もちろん私は選手役として出場した。(かなり足を引っ張ったが)
◇平成16年4月(2004)~平成19年3月(2007)
北見市立北光小学校 校長
※ 私が在職したころと変わらず、住宅街なのになぜか学校前には畑が広がっていました。
※ かなり古びた感じのする校舎です。
白鳥台小学校での3年間を終え、私のキャリアの最後となる北見市立北光小学校に転任した。北光小学校は北見市の住宅街に建てられた学校だった。当時は北見市内で一二を争う大規模校で、児童数は700名を超えていた。職員数は確か30名を超えていたはずだ。
正直に告白すると、私はこの学校に赴任して初めて学校教育現場の管理職としての難しさに直面した思いだった。どういうことかというと、それまでの学校のような職員との応接方法が通じなかったのだ。職員たちは身構えてしまい、意識的に私との距離を取ろうとした。大規模校においては北海道の教育界の悪しき伝統が色濃く残っていたのである。そうした中で、私が力を注いだのが地域の幼・保・小の連携である。近隣する幼稚園・保育園に呼び掛けて、互いを理解するために職員の相互訪問を実施したり、連携して行事を開催したりすることで地域の教育力を高めようと図ったことだ。ただ哀しいかな私の任期は3年間である。この連携の動きが十分に定着するまで見届けることができずに退職を迎えてしまった。その後は、その機運が急速に萎んでしまったとも聞いた。
スタッフ意識の強い学校教育現場において、多数の職員と意思を通じ合うことの難しさを痛感させられた3年間だったが、それでも無事に3年間を務め終えることができ安堵しながら退職の日を迎えたのだった。
当初、この「振り返り」編は学校や事務所の周辺の自然を懐かしむことを述べようと考えていた。ところがやはり、勤務したところを振り返るということは、そこで営んだ仕事のことに思考が向かっていくのは逃れがたいことだった。前編でも書いたが、多少自慢話めいた記述となってしまったが、こうして自分をさらけ出し、自分自身を振り返ってみることも必要なのではと思い、恥をさらけ出すことになってしまった。まことに恥ずかしいかぎりであるが、ご容赦いただきたい。