田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道百年記念事業の裏側を読み解く

2013-10-11 16:50:18 | 講演・講義・フォーラム等
野幌森林公園に立つ「北海道百年記念塔」をはじめとする記念事業が行われた経過を、新聞資料をはじめとするさまざまな資料から読み解く北海道開拓記念館の「歴史講座」を受講した。興味深い事実に触れた講座だった。 

 「北海道百年記念式典」は1968年9月2日に北海道が主催して行われている。ということは、今から45年前、1967(明治2)年に北方開拓のために札幌に開拓使が設置された年を起源として実施されたものである。
 一方、時の政府は同じ1968年10月23日に「明治百年記念式典」を開催している。

 9月29日(日)午後、北海道開拓記念館において歴史講座「歴史の中の『開道百年』」と題する講座を受講した。講師は記念館学芸員の山田伸一氏が務めた。

 講座においては、「明治百年記念式典」は政府が特定の歴史観を国民に強制するとして反対運動が盛り上がったのに対して、「北海道百年記念式典」はそれまでも開道50、70、80、90年などを記念してきたこともあり記念式典の開催そのものに対しては大きな反対はなかったようである。
 「北海道百年記念式典」の議論が錯綜したのは、記念事業の在り方についてである。道内の各界・各層からさまざまな意見が百出したようである。

 記録を見ると実にさまざまな事業が行われたようであるが、最も大きく、象徴的な事業は「百年記念塔」の建設であった。(北海道開拓記念館も百年事業で建設されている)
 ここではその「百年記念塔」の建設を巡る経緯についてレポートすることにする。

               
               ※ 「百年記念塔」のデザインコンペで最優秀賞を獲得した井口健さんのデザインだそうです。

 議論はまず「先人の労苦を偲ぶよすが必要」という話が出てきた。それを受けて、大通に100尺(30メートル超)を超す記念塔を道民からの拠金で建設しては、という案が民間人(元道庁職員)から提起されたが、この提案に当時の町村知事が興味を示したことがそもそもの始まりだと資料は伝えている。
 100尺案がどこで100メートルに変わったのか、大通公園がなぜ野幌森林公園に変わったのかについては、残念ながら講師の話では触れられなかったし、提供された資料でも分からなかった。
 設計コンペを行いデザインも決定したが、問題は4億5千万円(当時)といわれる建設費の捻出だった。建設費の一部を道民からの拠出金でまかなうとした募金が思うように集まらなかったこともあり、「募金強制のにおい」とか、「押しつけの感強い」といった見出しが当時の新聞紙面を賑わせている。
 講師によると、建設経費削減のため設計デザインの一部変更して省ける部分は努めて省きながら現在の姿の「北海道百年記念塔」が完成したということである。

 そうした経緯を経て建設された百年記念塔であるが、建設されてから半世紀近く経つ今、私たちはこの塔をどのように見ているのだろうか?
 当時の新聞記事を見てみると、「かなりの時代錯誤」と題して塔の建設そのものを強烈に皮肉っている室蘭工大の助教授(当時)の和田完氏が「はじめて見た折りにはなんともグロテスクな感じで好きになれなかったと記憶する。しかし不思議なもので、二度三度と拝顔(記事どおり)を重ねるうちに今では親近感さえ生じてきた」と述懐している。私もそれほど何度も見たわけではないが、百年記念塔はすでに野幌森林公園の中にすっかり馴染んでしまったように思う。(そう思わない方もいるかもしれないが…) だとしたら…。

          
          ※ 講義をする開拓記念館の学芸員・山田伸一氏です。

 先日、BS・NHKの静かな人気番組「にっぽん縦断 こころ旅」で主人公の火野正平さんが百年記念塔を訪れたところが放映された。その中で火野さんが「それにしてもずいぶん人がいないねぇ」と呟いていた。確かに私が何度か訪れたときにもそれほど人の姿は目立たなかった。
 建設後半世紀も経ってはいるが、遠くからもその聳える姿が望見できる記念塔にもっと多くの道民が集えるような仕組みが必要なのかもしれない、と思ったのだが…。

野球解説者 岩本勉講演会

2013-10-10 16:16:20 | 講演・講義・フォーラム等
 岩本勉氏こと、ガンちゃんの話を聴いていてつくづく「しゃべりの天才やなぁ~」と思った。「立て板に水」とは、まさに岩本氏のような話し方を指すのだと思う。多くの聴衆を前に淀みなく彼の半生を語った。 

 10月5日(土)午前、中央区民センターで野球解説者の岩本勉氏の講演会があり、饒舌な氏の講演に聴き入った。
 当日は「健康フェスタ2013 in ちゅうおう」という中央区主催のイベントの一環として岩本氏が「人生の壁を乗り越える 人の出会いと救いの言葉」と題して講演したのだった。
 岩本氏のイメージからすると、ずいぶん固い演題のような気もするのだが、当日のイベントの趣旨の一つが、札幌市の自殺者数の縮減をねらいとしていたからのようであった。

               

 岩本氏は最近のファイターズの戦いぶりなども話の中に巧みに織り交ぜながら、徐々に自分の野球少年時代の話に誘っていった。
 氏はどのプロ野球選手たちもそうであったように、少年のころから少年野球チームに所属し野球に取り組んでいたという。
 小学校6年生になって岩本少年はチームのエースとなっていた。試合でそこそこの好投をした後で、監督は「お前はそれでもエースなのか!」と涙ぐみながら岩本少年を殴りつけたという。応援をしていた父親はそうした監督に感謝の意を表したそうだ。そこで岩本少年は「監督は、エースはチームの柱として、もっと真剣に練習し、必死に試合に挑まなければならない」ことを教わったということだ。

 二つ目のエピソードとして、岩本氏は大阪の高校野球の名門・阪南大学高校に在籍している。三年生の最後の夏の大阪大会を目の前にして部員が不祥事を起こしてしまい大会出場辞退に陥ってしまったそうだ。甲子園を目ざす高校野球児にとって大会に出場できないということは想像を絶する辛さであったはずだ。ナインは全て野球を捨て、野球を忘れようとしていたらしい。ただ一人、ドラフトにかかる可能性のある岩本氏一人を残して…。
 岩本氏はその年のドラフト第2位でファイターズに指名される。ナインの気持ちを思うと素直に喜べない自分がいたが、ナインは自分のことのように喜んでくれたという。三年間苦楽を共にした同級生ナインが喜んでくれたことが何よりも嬉しかったという。そうした仲間と巡りあえたことは自分にとっては大きな財産であり、当時のナインとは現在も付き合っているという。

          
          ※ ファイターズの試合中継で解説をしている岩本勉氏です。

 こうレポートしてきて、私は歯がゆさを感じている。岩本氏の語りはレポートでは伝えきれないほどドラマチックであり、劇画的でさえあるのだ。話が多少デフォルメしているのではと思わされるところも散見されたが、それは岩本氏のサービス精神の表れだろう。
 講演の途中で受講者が気を失い救急車で搬送されるというアクシデントがあったのだが、その事態も冷静に受け止めながら、ユーモアを交えて話す岩本氏の話は聴衆を惹き付けて離さなかった。

 質問コーナーでも時間をオーバーしながら全ての質問に答え、その好感度をますます高めたように思う。
 講演や質問を通じて、岩本氏がなみなみならぬ「ファイターズ愛」を表しつづけたことが印象的だった。
 最近、彼のしゃべくり解説に賛否両論があるようだが、それは彼の個性であり、特性でもある。さらにさらに賑やかに、しゃべくりまくりファイターズを明るく応援し続けてほしいと私は思っている。

映画 103 じんじん

2013-10-09 18:32:06 | 映画観賞・感想

 久しぶりに“泣かされた” 映画だった。主演の大地康雄が何といっても良い味を出していた。そして脚本もいい。ベタなストーリーと酷評するレビューもあるが、「絵本の里 剣淵町」をキーワードに良く練られたストーリーだと私は思った…。 

               

 友人のH氏から「チケットが2枚あるので映画『じんじん』を観ませんか」とお誘いがあった。「じんじん」が北海道・剣淵町を題材にしているということで興味があったので一緒させていただくことにした。
 映画は映画館の一般公開ではなく、日経新聞の読者招待のような形で9月28日(土)午後、狸小路にある「プラザ2・5」で公開された。

          
          ※ 回想シーンで一人娘に語り聞かせる銀三郎の様子です。

 ストーリーを映画のHPから借用すると…。
 「立石銀三郎(大地康雄)は伝統芸能を伝える大道芸人。よくなついた一人娘は、銀三郎が毎晩のように語り聞かせるお話が大好きだった。しかし妻と別れてからは会うことを許されず、娘との思い出は彼女が6歳のまま止まっている。
 ある日、銀三郎の幼なじみが営む農場(佐藤B作 剣淵町)に農業研修で4人の女子高生がやって来た。そこに里帰りした銀三郎。出会いは最悪だったが、大自然に抱かれ、土に触れ、剣淵町の人々と触れ合ううちに次第に距離は縮まっていった。
 しかし、ただ一人、日下部彩香だけは心を開かない。いぶかる銀三郎は、ある夜、彩香の秘密を知ることになるのだった…。」
  ※( )内は私が加筆した。 

 紹介したストーリーは前半である。ここからの展開の中で、銀三郎の父親としてのやるせない思いが描かれるのだが、そのやるせなさを大地康雄が熱演しているのだ。あの厳つい顔ながらも、どこか人を惹きつける大地が演ずる父親の姿には涙せずにはいられないほどのせつなさとやるせなさが滲み出ていたのだ。

          
          ※ 映画「じんじん」は何といってもこの大地康雄がいなければ誕生なかった映画です。

          
 この映画は、大地康雄が剣淵町にある絵本の館で大人たちが子どもに読み聞かせをしている姿に感激して映画制作を思い立ったのが始まりということだ。企画にも参加したという大地の思い入れがうかがわれる熱演である。
 そしてストーリーもハッピーエンドに終わらせなかったところにこの映画の奥深さのようなものを感じさせたのだ。

          
          ※ 劇中で銀三郎が創作した「クロコダイルとイルカ」の絵本です。

 映画のタイトルとなった“じんじん”とは、この映画から温かな感動と優しい気持ちが“じんじん”と広がっていくことを願ってのネーミングということである。

 冒頭に触れたように、この映画は残念ながら全国の映画館で一般公開されていないという。いわゆる実行委員会形式で各地を巡っているらしい。このような素晴らしい映画が一人でも多くの映画ファンの目に留まることを願って止まない思いである。


第9回 石狩川フォーラム

2013-10-08 17:14:53 | 環境 & 自然 & 観察会
 石狩川をさまざまな角度から科学し、一般への普及を図っている「石狩川フォーラム実行委員会」が主催する「石狩川フォーラム」を聴いた。第9回目の今回は石狩川下流部に生息する鳥類についての報告だった。

               
 
 9月27日(金)夕刻、紀伊國屋書店インナーガーデンで開催された「石狩川フォーラム」の講演を聴いた。
 テーマは「石狩川下流部沿いの鳥類相」、講師は帯広畜産大学名誉教授で、山階鳥類研究所特任研究員でもある藤巻裕蔵氏が務められた。

 藤巻氏は石狩川下流部を深川市から日本海(石狩市)までの間として、その間の繁殖期の鳥類の調査を実施したということだ。
 その結果、北海道全体では472種の鳥類の生息が確認されていて、普通に見られるものが約250種いるそうだが、その中で石狩川下流域の繁殖期に確認された種は56種だったそうだ。
 
 鳥たちはその種によって繁殖する場所が違ってくるが、それは《水鳥・水辺の鳥類》、《灌木・草原性鳥類》、《灌木・森林性鳥類》、《森林性鳥類》、《その他》などに分けられるということである。そうした分類の中で最も多くの鳥類が確認されたのは個体数で69%を占めた《灌木・草原性鳥類》だったということだ。

 そしてその石狩川下流部の《灌木・草原性鳥類》の種の構成は釧路湿原やサロベツ原野と良く似ているということである。このことは、石狩川下流部の環境が鳥類の生息環境としてはけっして他に劣ってはいないということだ、と氏は強調した。

 そうした事実から、氏は石狩川下流域の自然草原の現状維持を訴えた。しかし、現実は近年各河川において自然草原の樹林化が進んでいるという。

 現代においては、開発と自然保護の問題はいろんなところで付いて回る問題である。保護団体によっては開発行為に激しく抗議し、開発そのものが断念に追い込まれる例も少なくない。
 そうした風潮の中にあって、氏の訴えは遠慮がちかな? と私の目には映ったのだが…。

ゴスペルソング Mother Cross

2013-10-07 18:52:22 | ステージ & エンターテイメント
 ゴスペルを聴けると知り往復葉書で応募したところ幸い入場券が舞い込んだ。会場へ行ってみて、ママさんコーラスのコンサートだと知りちょっとガッカリし、応募したことを後悔していた。ところが!? 

          

 9月26日(木)時計台まつり記念演奏会でゴスペルグループ「Mother Cross(マザー クロス)のコンサートを聴いた。
 会場で渡された栞を見ると、「Mother Cross」とは東区の聖ミカエル幼稚園のママさんコーラスが母体だという。「これはちょっとガッカリかも?」と思いながら開演を待った。

 午後7時、20人ほどの若いママさんたちがギター、ベース、ドラムなどのバックバンドと共にステージに登場し、1曲目の「We are going to see the King」を歌い始めた。
 その歌声を聴いたとたん、背筋にゾクゾクとするものを感じた。彼女たちの全身全霊で歌う姿、そして何よりその声量である。20人の声が、倍にも3倍にも聞こえてくるほどの圧倒的な声量で私の耳に届く。私は1曲聴いただけで、コンサート前に彼女たちに対して抱いていた思いを恥じたのだった。

 それから繰り出される曲も聴衆の私たちの魂を揺さぶるに十分な歌の数々だった。私の席の後ろから「凄い迫力だねぇ~」という声が聞こえてきた。
 コンサートの合間のMCによると、彼女らは市内のいろいろなイベントに出演し、かなりの実績を積んでいるグループだということだった。

          
          ※ ステージと会場が一体となった「花は咲く」の一場面です。(マザークロスのHPから)

 最初の曲「We are going to see the King」の他にも、「Amazing grace」、「Oh Happy Day」、「Beautiful name」、「花は咲く」等々、アンコールを含めて12曲を熱く歌い切った。
 私にとって懐かしい歌を聴くこともできた。「you’ve got a friend」である。1971年にリリースされた名曲であるが、私は当時のフォークソンググループ「赤い鳥」のコンサートで知った曲で、彼らの歌の上手さが印象的な曲だった。

 1時間強の時間だったが、その時間が短く感じられたほど彼女らの熱い思いが伝わってきたコンサートだった。

※ マザークロスの歌声がユーチューブにアップされていました。「We are going to see the King」のURLを貼り付けてみましたが、はたして首尾よく再生できるでしょうか? http://www.youtube.com/watch?v=9LGPlCRk3pk













茂木健一郎トークショー

2013-10-06 19:47:08 | 講演・講義・フォーラム等
 それは講演会と呼ぶよりは「トークショー」と呼んだ方が相応しかった。講演題もなく、ハンドマイクをもち演台より前方に進み出て、聴衆を笑いに誘いながら持論を披露する姿はまさしくトークショーそのものだった。 

 話題が少し古くなってしまったが、9月22日(日)午後、道新ホールにおいて道新「ぶんぶんクラブ」主催で脳科学者としてすっかり有名になった「茂木健一郎」氏の講演(トークショー)があり、聞く機会を得た。

          

 司会者の紹介の後、茂木氏はひょこひょこっとステージに登場した。お世辞にもスマートとはいえないずんぐりむっくりした体型の上に、茂木氏のトレードマークであるもじゃもじゃヘア(自分で整髪すると言っていた)と人懐っこい顔をのっけて、文字どおりひょこひょこっと登場した。
 その姿に会場から思わず笑いが漏れた。それは聴衆の方々が彼に抱いていたイメージとはかけ離れた姿かたちに対してのように思われた。しかし、氏はそのことは十分に予期していた反応だったようだ。「これでも毎日のようにジョギングに励んでいるんですよ」と語っていた。
 そしてまったく別の場面で「脳科学の世界からいうと、どんな人にも劣等感はあって、それは自分の個性に近いものだ」とも語った。

               

 氏の話はあちらこちらと飛んだ話となったが、印象的な言葉を紹介することにする。
 冒頭、氏は夕張市の例を持ち出しながら、「人生にはどうしようもないことがあり、自分でコントロール出来ることと、出来ないことがある」とした。その上で出来ないことで悩みストレスを抱えるよりは、出来ることに積極的になるべきだと話した。
 そして「楽観回路」という言葉を持ち出した。「楽観回路」とは、文字どおり楽観的に物事を考える脳の回路のことで、この回路により何事に対してもプラスの行動が取れるようになるということである。氏がステージ上で楽しそうに話すこと、それ自体が楽観的に物事を考え行動することを実践していたと見た。

 茂木氏は「教育はいかに人間関係を築くかを教えることだ」とした。それは自分と遠い関係の人たち(氏はアウェーの人たちと称したが)とどれくらい新しい絆を築くことができるかによって人の可能性は広がっていくという。つまり相手の気持ちはどうすることもできないものだが、相手と新しい絆を築くことによって、よりポジティブな関係を築けるということを言っているのだろうか?(これは私の解釈だが)

 最後に氏は「自分を知るためには、自分と違う他人と出会うこと」という言葉で締めた。

 茂木氏の研究分野は「脳科学」という一般人には縁遠い研究分野である。その縁遠い、一般人には難しい世界を、氏は一般人にも分かり易く語ってくれるところが受けているのだと思われる。その世界ではいろいろ批判もあるようであるが、研究成果を分かり易く説くことは研究者にとっても大切な一資質だと私は思っているのだが…。
 楽しく、そしてちょっとためになるトークショーだった。

北海道低山紀行 40 チセヌプリ 後編

2013-10-05 16:07:11 | 北海道低山紀行 & Other
 十勝岳連峰縦走以来、約1ヶ月ぶりの登山で体調の方が心配されたが、周りに迷惑をかけることもなく登山を続けることができた。尾根コースに出て、さらに急な上りとなったが景色の良さにもつられ頂に立つことができた! 

 分岐で約10分の休憩を取った後、いよいよ山頂を目ざしての上りが始まった。
 眼前には我々がこれから登っていく稜線が見えている。

          
          ※ 「シャクナゲ岳分岐」から出発して、前方には尾根に出る登山道の筋が見えます。

 傾斜はきつくなってきたが、ところどころから下界が見渡せるようになってきた。また、自分たちが上ってきた登山ルートが一本の筋のように見えると共に、背後には「シャクナゲ岳」の山容もくっきりと姿を見せてきた。

          
          ※ 振り返ると街が見えました。岩内町の街ではないかと思われます。

          
          ※ さらには「シャクナゲ岳」の山容がくっきりと…。その下には我々が登ってきた登山道が…。

 ちょうど分岐と山頂の中間くらいだったろうか?参加者の一人が荒い息遣いをしながらギブアップを申し出た。私よりは年配の方のように見えたが、体調が十分ではなかったようだ。
 私の方はといえば、尾根コースに出たことによって風を感じることができたことも幸いして順調だった。

          
          ※ このような背丈の高い灌木や笹の林を抜けて…。

          
          ※ ここでも山野草が…。ツツジ科の「シラタマノキ」(白玉の木)です。

 
 分岐点から登り続けること1時間弱、前方にお椀を伏せたような形が見えてきたなと思ったところが頂上だった。標高1134.2m(登山口からの標高差592m)の山頂に立った。

          
          ※ 前方が「チセヌプリ」の頂上です。

          
          ※ チセヌプリの頂上の標識です。

 この日は快晴ということではなく、見通しは効くがうっすらと靄がかかったような状態だった。山頂からはイワオヌプリやニセコアンヌプリが遠くに望めた。
 痛恨事は山頂から火口底にできた二つの沼が見えるというのだったのだが、その沼を見ることなく下山してしまったことだ。パーティーの中で誰一人そのことを話題にする者がいなかったのは不思議である。(その沼の存在を私が知ったのは帰宅してからだった)

          
          ※ 山頂から見たイワオヌプリ(手前)とアンヌプリ(後方)です。

 山頂に止まったのは約35分間。スタッフが提供してくれたホットココアをいただき、弁当を食べ、記念写真を撮り、と慌ただしく山頂で時間を過ごし下山を開始した。

          
          ※ 下山道の「湯元温泉口」へ下りる分岐点です。

 下山は登ってきたルートとは反対側の「湯本温泉口」に下りた。「湯本温泉口」へは山頂から同じルートを下りてくると、「シャクナゲ分岐」より手前に「湯本分岐」があり、そこから登ってきたルートとは違ったルートを下りたのだった。このルートが大変だった。数日来の雨の影響が残っていて、登山道はぬかるみ登山靴が水に浸からないようなところを探しながら歩くのが大変だった。

          
          ※ 下山道で見た山野草です。ユリ科の「マイヅルソウ」(舞鶴草)です。

          
          ※ 下山道では写真のようなぬかるんだ道がいたるところにあり、苦労しました。

 下山はほとんど休むことなく下り続け、山頂から約1時間30分後、「湯本温泉口」に降り立った。その後、昆布温泉まで移動して温泉に浸かり疲れを癒してから帰札した。

          
      ※ 湯元温泉口(西口)の登山口の標識です。写真に写っている方の服装が私そっくりですが、私ではありません。

 今回の登山では私自身の体力をMAXまで上げることなく登山を終えことができたため、苦しさをそれほど覚えることなく楽しめた。それだけチセヌプリが初心者向けの山だったということもいえるが、私の中にこの夏培った登山向けの体力が残っていたということなのかもしれない…。

【チセヌプリ 登山データー】
標 高  1134.5m (標高差592m)
駐車場  神仙沼駐車場に駐車多数可能(但し、この日は湯本温泉側に縦走した)
行 程  神仙沼駐車場→(15分)→神仙沼→(15分)→長沼→(45分)→シャクナゲ岳分岐→(55分)→チセヌプリ山頂→(40分)→湯本分岐→(45分)→湯本温泉登山口(西口)
時 間  登山(約2時間10分) 下山(約1時間25分)
天 候  薄曇り、微風
登山日  ‘13/09/21

北海道低山紀行 40 チセヌプリ 前編

2013-10-04 20:10:15 | 北海道低山紀行 & Other
 昨年に引き続き、札幌市教委が主催する「自然体験活動セミナー」の「低山体験登山」にスポット参戦した。今年はニセコ山系の「チセヌプリ」を神仙沼口から湯本温泉口へ縦走する登山だった。 

            
        ※ チセヌプリの登山概念図ですが、私たちは図の上部の「神仙沼」から「長沼」を通り「チセヌプリ」を目ざしました。

 9月21日(土)、朝7時30分、札幌市教委前に集まった参加者、スタッフあわせて25名を乗せたバスは共和町に位置する「神仙沼」に向かった。

 神仙沼の駐車場に着いたのが午前10時少し前ということだから、移動だけでおよそ1時間30分を要している。これがはたして「札幌近郊」と云えるかどうかは疑問であるが、私の中では”近郊“という範疇にすることにした。

 「チセヌプリ」登山には三つのルートが存在する。一般的なルートとしては最も短時間で登頂できる「北口ルート」がある。登山口から山頂までの標高差が303mしかない手軽さが人気なのかもしれない。二つ目のルートとして「湯本温泉」から登る「西口ルート」がある。こちらは「チセヌプリスキー場」のところから登るやや長いルートである。
 私たちが今回登ったのは、それら二つのルートとはまったく反対側の「神仙沼」側から登るルートだった。こちらは「夏山ガイド」にも紹介されていないマイナーなルート(時間が長くかかる)なのかもしれないが、主催者は下り口を「湯本温泉口」に設定して、いわば縦走のような形を取った今回の登山だった。

 午前10時05分、神仙沼駐車場の登山口からまずは木道トレッキングである。神仙沼は近隣ではかなりの観光スポットのようで、観光客用(?)に木道が整備されていて、ひっきりなしに観光客とすれ違った。
 15分後「神仙沼」に到着する。神仙沼は昨年の低山登山体験でこの時期に訪れたのだが、どうも私にはそれほど素晴らしいところとは思えない。沼の中から水面に水草が伸びていて、どうしても美しい光景とは思えないのだ。季節が違えばまた光景も変わるということだろうか?

          
          ※ 神仙沼駐車場から「神仙沼」に向かう木道です。すっかり観光地化しています。

          
          ※ 多くの観光客が訪れていた「神仙沼」です。季節によっては素晴らしい光景が見られそうですが…。

          
          ※ 水面に生えている水草が光景を台無しにしているような気がするのですが…。

 昨年は「神仙沼」から「大谷地」、「大沼」を経て、「イワオヌプリ」の山麓を経由して「五色温泉」に至るルートだったが、今年は「神仙沼」からルートを分かち、「長沼」、「シャクナゲ岳分岐」を経て、「チセヌプリ」を目ざすルートである。

 「神仙沼」から湿地帯を抜け、「長沼」を目ざす。すでに木道は消えていたが、それほど高度を増すでもなく、平坦な道を淡々と往く。「神仙沼」からおよそ15分で「長沼」に着いた。「長沼」はその名のとおり細長い形をした沼である。こちらは水草などは見当たらず静かな美しい沼である。沼の向こうには私たちが目ざす「チセヌプリ」の山容がくっきりと見えるなかなかの絶景である。

          
          ※ 神仙沼近くの湿地帯です。こちらの方が見事な光景を作りだしています。

          
          ※ 「長沼」です。前方に見える山のピークが「チセヌプリ」の頂上です。

  「長沼」で一休みした後、いよいよ本格的な登山が始まった。といっても動き始めてからまだ30分程度しか経っていない。身体はすこぶる快調で、ぐんぐんと高度を増していった。登山路が高い繁みの中とあって風が通らず、すぐに汗が噴き出し始めた。身体も、顔も汗にまみれながらの登りが続いた。

          
          ※ 草丈の高い中を行くので、風通しが悪くすぐに汗びっしょりになりました。

          
          ※ こんな大木の下を潜ったり、岩場を乗り越えたり…。

 途中、散り際の遅れた高山植物とか、すでに実になってしまった高山植物が時々顔を見せてくれるのが癒しとなった。(その中の2~3種を紹介する)

          
          ※ メギ科のサンカヨウ(山荷葉)の実です。

          
          ※ 散るのが遅れてしまった(?)山アジサイですね。

          
          ※ リンドウ科のエゾオヤマリンドウだそうです。

 登り続けること約40分、頬に風を感じられたかな?と思っていたら「シャクナゲ岳分岐」に到着だった。

          
          ※ 「シャクナゲ岳分岐」にて、手前の方は北海道山岳連盟会長の小野氏です。

          
          ※ 分岐では私たちがこれから上っていく尾根ルートが見通せました。

                                                 (以下は後編に続きます)

北大講座「東日本大地震と北海道」 No.4・5・6

2013-10-03 16:03:34 | 大学公開講座

 北大の公開講座「東日本東北大地震と北海道」が9月末に終了したしていたのだがレポートするチャンスがなかった。時間が経過したこともあり、3回分の講座の概要を一挙レポートすることにする。

 
 その後も公開講座には欠席せずに受講していたのだが、レポートするチャンスが訪れなかった。(まとめが難しかったこともあるのだが…)そうしているうちに記憶も薄れてきたので、3回分の講座の内容をほんのさわりだけ報告してお茶を濁すことにする。第4回以降の講座のテーマ・講師は以下の通りである。

◇第4回講座(9月11日) 「2011,3.11 津波に学び、正しく畏れる」
                                 北大名誉教授 平川 一臣 氏
◇第5回講座(9月18日) 「放射性物質で汚染された土壌の修復は可能か」
                        大学院地球環境科学研究院 教授 田中 俊逸 氏
◇第6回講座(9月25日) 「放射能は世界を巡る」
                        大学院地球環境科学研究院 准教授 渡辺 豊 氏

          
          ※ 今回の一連の講座が行われた地球環境科学研究院のエントランスです。


 その講座の概要は以下のとおりである。

《第4回講座》  講師の平川氏は津波が残した津波堆積物を調査することによって、過去の津波の状況や地震が起こる間隔などについて研究されてきた方である。
 氏によると、現在の研究で約3500年前までの津波履歴について考察可能ということだ。その考察から巨大津波(波高が10m以上にも及ぶもの)が発生する頻度はおよそ500年間隔で起こっているという。
 今回の3.11の巨大津波はそうした研究から、けっして「想定外」のことではなく「想定し得た」巨大津波であったということも云えるそうだ。
 北海道においても過去に波高10mを越えるような巨大津波に襲われていることは津波堆積物が物語っている。堆積物を丹念に調査することによって、どの程度の場所まで危険なのかということを熟知しておくことが必要であるとした。

《第5回講座》  講師を務められた田中氏は放射能で汚染された土壌の除染技術について自らも研究を進めるとともに、現在世界各国で試みられているさまざまな手法を紹介されたが、現在のところ決定打はないということだ。
 決定打がないため、福島では汚染された土壌が仮置き場に山積みされ、引き受け手のない中間貯蔵施設行きを待っている。行き場のない膨大な汚染土壌の修復のために革新的技術の登場が待たれている現状であるとした。

《第6回講座》  講師の渡辺氏は言う。すでに世界は放射能に汚染されていると…。福島で大気に放出された放射性物質は3週間で世界を一周し、その濃度は広がりとともに薄まったとしても世界がすでに福島の事故による放射性物質に晒されているのは明白だという。
 さらに、海水を通じても放射性物質は広がりを見せ、およそ1年でハワイにまで達していることが分かっていて、その後も広がり続け現在は北アメリカに到達していると考えられ、さらに北太平洋全域、南太平洋に広がっていくと考えられているという。
 そこまで紹介した後、渡辺氏は「だからと言って原子力発電は要らないものなのでしょうか?」と受講者に敢えて投げかけ、判断は受講者一人ひとりにお任せするとした。

 6回にわたった本講座は東北沖大地震が引き起こした巨大津波に関したテーマが3講座、大地震によって破損した福島原発事故に関係したものが3講座であった。
 津波は我々人間にとっては避けようのない天災である。したがって、できるだけ予知技術を高め、津波災害に遭わないための対策をふだんから講じることの大切さを改めて教えられた思いであった。

 一方、原発事故は紛れもなく人災である。第2回の小野名誉教授は明確に原発を否定する立場を取られていたが、他の二人の方は敢えて立場を明確にせずに情報提供に止め、判断を受講者に委ねる形を取った。
 拙ブログにおいては政治が絡む問題について、その判断を保留するように努めてきたが、この原発問題に関してはどう考えても原発再稼働を容認する立場にはなれないことを何度か表明してきた。
 今回の講座でも、世界中に放射性物質をまき散らしている責任を私たちはもっと痛感しなければならないのではないか。また、放射能で汚染された土壌の除染技術が確立されていない中で、汚染された土壌や汚染水の問題をどう処理しようとしているのか。
 そうしたことが頭の中を駆け巡った。
 私たちの生活が経済を中心に回っていることは痛いほど分かるが、いろんな問題を積み残したまま経済だけが豊かになってもなあ…。

 多くのことを学び、いろいろと考えさせられた今回の一連の講座だった。


そらちフットパスウォーク 14 奈井江町 後編

2013-10-02 15:28:39 | フットパスウォーク & トレッキング
水辺の景色にいやされる奈井江ルート 

 奈井江町ルートの後半は街の西側に広がる稲穂の波や公園や学校・公民館などの文化的な施設を眺めながらひたすら北上するルートだった。 

 奈井江商業高校は街の住宅街の南端にあった。その南端のところに広々とした「茶志内公園」があった。夕暮れが近づいていたせいもあり人の姿は見えなかったが、公園の管理の方がパークゴルフコースの芝生の整備に汗を流していた。
 その直ぐ道路向かいに学校風の大きな建物があった。しかし、何の表示も見えない。マップにも何も記されていなかった。試しにi-phoneのマップ機能で検索しても何も記されていなかった? 何なのだろうか?(この建物と公園を写真に撮らなかったのはレポートとしては失敗だった)誰かに聞こうにも、誰も通りを通らない。

 少し行ったところで小学2~3年生と思われる子どもに出会った。その子に聞いたところ「こうなん小学校だよ」と教えてくれた。ところが、彼が通う学校は「奈井江小学校」だという。「???」
 謎は帰宅してからようやく解けた。街の南端にあった「江南小学校」は今年の3月に閉校して奈井江小学校と統合したということだったのだ。うん!これで全てが氷解した。
 道路を隔てて東側は住宅街、西側には田んぼが広がり、収穫間近の稲穂が揺れていた。

          
          ※ 奈井江町もやはり空知の米どころの一つということでしょう。

 ルートは再び奈井江川沿いに導かれたが、この川沿いの散策路にちょっとおしゃれな街灯がついていたのが印象的だった。

          
          ※ 川沿いの散策路の街灯としてはちょっとおしゃれじゃありませんか?

 そしてルートは「本町公園」へと続いた。本町公園には彫刻家・安田侃さんの作品があるという。公園内を探したところ一つの彫刻作品を見つけた。しかし、私がイメージする安田侃さんの作品とは違い角張った作品だった。近くにいた幼稚園の先生らしき人に聞いたのだが「分からない」という。「う~ん。他に見当たらないので、これということにしよう!」と写真に収めて本町公園を後にした。
 これも帰宅してから調べたところ、確かに安田侃さん制作の「吹雪」と題する作品だった。

          
          ※ 間違いなく安田侃さん制作の「吹雪」という作品です。

          
 本町公園の隣に「奈井江中学校」、その続きに「奈井江町社会教育センター」、そして江南小学校と統合した「奈井江小学校」と続いていて、さながら奈井江町の文教地区といった様相を呈していた。

          
          ※ 奈井江中学校です。立派な野球場と陸上トラックを備えていました。

          
          ※ 公民館・図書館・郷土館の機能を備えた奈井江町社会教育センターです。

          
          ※ 4月に「江南小学校」と統合したばかりの奈井江小学校です。壁を塗り替えたばかりとか。          

 北上を続けたルートはやがて住宅街が途切れるところまでにきて、右折して東に進路を取り、しばらく行ったところでゴールの「道の駅 ハウスヤルビ奈井江」に着いた。

          
          ※ 奈井江町の方に叱られるかもしれません。小さな町にも大きな集合住宅がありました。

 フットバスコースとしてはどこか物足りないものも感じたコースだったが、奈井江町の概要をコンパクトに掴むことができたコースでもあった。
《フットバスウォーク実施日 ‘13/09/05 距離約8.4�》