津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・續家

2009-05-01 11:04:27 | 歴史
 熊本市の西郊島崎に「釣耕園」というお屋敷が有る。細川綱利代に作られた御茶屋であるとされる。ある時綱利が、家老米田米著や續団右衛門を伴い此の地で遊ばれた折、団右衛門に下げ渡されたという。米田が其の景色を「耕雲釣月」と賛美した事から、釣耕園と呼ばれる。阿蘇から運ばれたという数本の石楠花が、現在では弐百本ほどにふえて、花の季節には訪れる人たちの目を楽しませている。 
  www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=47
 高浜虚子の句碑 「時雨傘やみたれば主受取りぬ」 などもある。

 續氏は本姓中村氏、「光源院義輝公御時世之時京村雲与申所謀反人有之籠城ス攻レトモ不落/丹波国野々村郡中村安藝守二可退治由被仰付節別上洛仕是を退治仕ル/依テ是ニツヽク者是ナシトテ續ノ名字を賜ル 」と先祖附は記す。續亀介は石田三成臣、石田滅亡後も関ヶ原で働き、忠興の目に止まり慶長五年丹後に於いて召し出された。関係資料には多くの「續氏」の名前を見ることができるが、家勢盛んな家であったのであろう。先にスキーで南極点到達の快挙を成し遂げられた、冒険家・続素美代さんも多分ご子孫ではなかろうか・・・・
  journal.mycom.co.jp/articles/2008/03/24/tsuzuki/index.html

           本日午後熊本県立図書館に出かけ、「続亀之助覚書」(上妻文庫23ページ)をコピーする。
              先祖附では見受けられない事柄があるのではないかと、期待しながら訓下ししている。
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忠興の妹・加賀

2009-05-01 09:02:07 | 歴史
 忠興の妹・加賀は日出藩主木下右衛門大夫延俊に嫁いだが、高台院(北政所=秀吉正室ねね)に可愛がられたという。兼見卿記、文禄三年十二月四日の記事に、「幽斎女加賀が、木下延俊に嫁ぐ際、あさ日殿の猶子となるよう北政所より言われ、それは迷惑だと答えたが、どうしようもなく決定してしまった」といったものだ。朝日とは、(1)豊臣秀吉の異父妹、徳川家康の正室(継室)と、(2)高台院生母の二人があるがどちらだろうか。いずれにしても「何故」という疑問がわく。こうしてみると、豊臣家との関係が深い事に気付かされる。
 

  +---木下家定---+---勝俊(長嘯子)
  |           |
  |   豊臣秀吉   +---利房---+---利當(備中足守藩主)
  |    ∥     |        |
  +---高台院=================+---利次(旗本3,000石)
              |
    細川藤孝--------+---忠興-----忠利
              |  |
              |  |       松平忠重(上総佐貫藩主→駿河田中藩主→遠江掛川藩主)
              |  |             ∥
              |  |        +-----於岩
              |  |        |
              |  |        | 木下利當(備中足守藩主)
              |  |        |    ∥
              |  |        +-----於豊
            |  |        |
      朝日==========+---加賀---+-----於栗(梅松院室)
              |      ∥ 
              +----木下延俊
              |      ∥
              |      ●----+---俊治・・・・・・・・・・・・・・→(臼杵日出藩主)
              |           |
              |           +---延次・・・・・・・・・・・・・・→(寄合交代衆)
              |           |  
              |           +---三郎左衛門・・・・・・・・→(細川家臣・木下家)
              |
              +---小早川秀秋
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忠興と「徒然草」

2009-05-01 08:05:45 | 歴史
 慶長六年(1601)六月、忠興は江戸に在る内記(忠利)に書状を送り、内記の手元にある「徒然草」を送るように求めている。(内記はまだ証人の身分である)

   先日(松田)新七郎ニ申候へ共、返事無之候間不審ニ候、我々つ連/\くさ、其方ニ可有候間、
   尋候て急之ひんきニ可給候 (6月8日書状 細川家史料-8-)

 続いて催促の書状を発している。

   先書ニも申候へとも、終ニ其返事なく候、つ連/\草其方ニ可在之候間、早々可被上候、新七
   郎口上ニも申候、届不申候哉(以下略) (7月1日書状 細川家史料-9-)

 約30年後の寛永九年(1632)三月、忠利の「三齋ノ徒然ヲ案ズ」る書状に次のように返事している。
                     (3月19日書状 細川家史料-954-)

   我々事、可為徒然と被案よし候、まれに者人ノ被尋ニ困申候、つれ/\草ニ、世ニしたかへ者、
   心ノ外之塵ニ奪て(ママ)まとひ易く、人ニましハれ者、詞よそノきゝニしたかいて、さなから心ニ非、
   と申事御入候、卒度もさひしく無之間、きつかい有ましく候

 この年の正月廿四日には将軍秀忠が死去した。入魂の稲葉正勝(春日局男)は大病で臥せっている。肥後の加藤家に謀反の疑いが出てくるのがこの時期である。

 
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