津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

遠い親戚

2009-05-25 17:36:10 | 徒然
 インターネットを通じて、随分ご先祖探しのお手伝いをしてきた。しかし直接お目にかかった方は数少ない。処が「あなたはもしや●●さん?」という、お問い合わせで判明した親族が今迄二人あった。

 お一人は、父方の従兄弟の従兄弟にあたるMT氏だが、ご先祖様は田邊籠城衆という古いお家柄である。来熊の折お眼にかかり、長いお付き合いとなったし、こちらも熱くいろいろ研究を続けられており、いろいろご示教いただくありがたい仲間である。
 今一人は遠くスウェーデンからメールが入って驚いてしまったのだが、玄祖父・上田休兵衛の直系の玄孫である。数年前の帰国の折、わざわざ逢いに来ていただいて、休兵衛の足跡をたどったりした。お父上、叔父上とも連絡を取り合う間柄である。
 つい最近、懐かしい名前のメールが入りこれにも吃驚してしまった。母の従姉妹の孫にあたる人である。私は母方の祖母と三十数年起居をともにしてきたから、祖母の縁戚の方とのお付き合いが結構あった。よく出入りして居たH家の可愛い男の子が、そろそろ還暦だとおっしゃる。半世紀以上の時空を越えて、近々御目にかかることに成った。

 すべてご先祖様あってのことである。そしてWebの力にただただ感謝である。
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細川内膳家・家譜 その八

2009-05-25 10:55:36 | 徒然
      一、寛文三癸卯年九月十四日西園寺   http://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺実晴
         左大臣実晴公之御臺徳子京都ニて
         御逝去其冬左府公之御二男御病
         気二手朝庭之御勤難被成此方御
         家ニたよりて御下向被成候刻
         瓊遥院殿 左府公御臺徳子之御事 之公達権中納言

         公満卿御舎弟三位中将御名公義   http://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺公宣
         朝臣御下向ニ付随様ト御改被成候
         半左衛門様与八郎様之御甥子なり
         御本家様江御内々被仰入候處表向
         より被聞召候而者御会尺御六ヶ敷とて
         不被知召分ニ而被成御座候夫故直ニ
         御當家より御養育ニ而入道水村開

         地之内ニ邸宅を被構置御付ニ者
         高吉左衛門と云者被召仕後京都
         より女中被召下御安楽ニ御暮被成
         御女子壱人御出生お屋須姫ト云
      一、寛文御巳年従 綱利公御兄弟
         様今迄御不自由ニ可有御座迚先少
         分ニ被思召候得ども半左衛門様江玉名

         郡宮崎村西安村用木村郷原村
         山本郡中浦村合志郡弘生村高合而
         二千石是迄之御領知と合三千石
         与八郎様江ハ玉名郡之内山田村立願寺
         村下社家村合志郡入道水村柳水村御
         領村高合二千石是迄之御領知と合
         三千石被進候然共前々より有来候御
         心付ハ不相替被進候

      一、同年十一月二日半左衛門様江は千葉城江
         御屋敷被進候吉田茂左衛門より引渡二相成
         申候此方様よりハ御奉行渡部貞右衛門
         丹羽次郎左衛門請取に罷出候
      一、同年与八郎様江ハ古城江御屋敷被進候
      一、今迄ハ御本家之御士中江御会尺之
         儀御定も無之前々之大躰御様子ニ而
         相済候得とも熊本御住居ニ被為成候而ハ

         御会尺之御様子今迄之通ニ而も難済被
         思召御家老中江被仰談候処同年
         十二月御家老中より申来候趣御自分様
         方御事ハ御家中惣下馬ト被仰
         出候然共私共ハ御逢察仕候三家ハ
         行列を留メ駕ノ口を明御会尺を相待
         申候御自分様ニハ御通り懸ケ御駕の口を
         明ケ御会尺可被儀候役御家老ハ駕を居へ

         口を明ケ置御会尺を相待居申候間是又
         御通り懸御駕の口を明御会尺可被成候
         其以下ハ御下馬を請候間扣居申候間御駕
         より御下り被成候而御会尺可被成候御鉄炮
         頭以下ヘハ御下馬不被成候得共御自分様方ハ
         御友無之候御又通之儀是迄之御見合
         二而程能可被仰付儀と奉存候御家来
         中士被召仕候面々御家中江一統下座ニハ

         及間敷奉存候私共江ハ礼式有之節駕
         を居江及会尺申候右之趣ハ監物殿是長殿
         より通達有之候
      一、寛文六丙午年夏真光院殿御下り
         被成候藤懸四郎右衛門御迎ニ被差登御供
         仕候四郎右衛門子四郎助ニ従 与八郎様愛敬
         と名字を被下候依之愛敬四郎助ト相
         改申候

        

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細川家家臣・津田氏(三十郎家)

2009-05-25 09:42:45 | 歴史
 先年織田信長の子孫という、織田信成なるスケート選手が登場して巷間をにぎわした事が有る。織田一族は子福者が多く其の枝葉の詳細は窺い知れないのではないか。
細川家家臣・津田三十郎長相は、織田信長の弟・信包の子信重の男であるが、三十郎家の先祖附をみると信重も子供が多く、その仕官先に苦労している事が記されている。


        三渕晴員---+---藤英 
                |       
                +---細川藤孝(幽齋)
                |
                +---好重--重政--之直--+--之政==重澄・・・→細川家臣・三渕家
                | 
                | 土御門久脩            
                |       |-------泰重 (泰重卿記・編者)
                +--------女       ∥
                             +--● 
       織田信長・弟              |
           織田信包-----織田信重   |
                         ∥----+--津田三十郎長相・・・・・・→細川家臣・津田家
                   +-----●
       斯波管領家     |
           斯波義近---+---津川辰珍・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家臣・津川家

 三十郎の生母は、斯波管領家義近の女である。故に三十郎にとって細川家家臣津川辰珍は伯父にあたる。織田氏の家系とはいえ、三十郎の家禄は300石であった。伯父・辰珍は、家禄1250石であったが、そのうちの700石をこの三十郎に分知している。これにより三十郎家は1000石となる。辰珍の養嗣子・辰房は分知後の家禄550石を相続、後に加増されて1400石となったが、不思議な話ではある。甥三十郎に対する、辰珍の愛情が感じられる。
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