津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「男を止め」について

2009-05-19 21:47:55 | 歴史
 昨日のブログで細川休無(忠隆)のことを書いた。埼玉在住のTKさまから、次のようなコメントをメールで頂戴した。適宜なご教示に感謝申上げると共に、当ブログでご紹介することへのご了解いただき、ここに全文を開示する。


 又々、加藤嘉明家牢人の話ですが、
加藤嘉明の甥河村權七の母方の叔父に犬塚左衞門という侍がおり、後に岡部大學を名乗り、関ヶ原合戦の後加藤家を牢人、慶長末年大坂城に籠って大野主馬首治房手の物頭となり、騎馬五十〔但し不調四十五騎〕を預かりました。慶長二十年四月二十九日泉州樫井合戦で古朋輩の塙團右衞門と先手を争い、競進して寡兵のまま淺野長晟勢と衝突。八町畷を直進して樫井の街に突入した塙團右衞門は戦死、迂回して樫井川の河原より突入した岡部大學は手傷を負って退きました。
 大坂城に引揚げてからのことです。先手を争った挙句に古朋輩の塙團右衞門を捨て殺しにした形となり、岡部大學は悄然として毛利豐前守吉政を頼み罪に服することを申し出ますが、豐臣秀頼からも慰撫されます。

『大學は切拔て歸城して森豐前守に申けるは、團右衞門討死は畢竟拙者が先駈仕候故にて候、拙者も戰塲にて討死可仕候へとも、此段をも可申上、大軍を切拔罷歸候、早々被仰上可被下と申す、豐前守、扨々左樣にて候や、團右衞門討死を明白に御申之段致感心候、左樣に實ある貴殿を申上切腹爲致候事、何とも難忍候へは、是は聞捨に可致候、我等不聞分に被致可然と申す、大學申候は、扨々貴公は番頭にも御似合不被成候、理非の二ツは格別にて候、御取上無之候はゝ、直に大野修理へ斷り上聞に達し、御仕置可罷成と申故、無是非秀頼公へ申上けれは、團右衞門討死、誠無是非、今に至て大學を罪に可申付樣も無之と被仰渡けると也』(古老噺)

 大野治房も岡部大學を処罰しなかったことから、同じ大野組の長岡監物是季をはじめ他の物頭達はすっかりしらけてしまいます。

『主馬組二萬の勢、其物主皆主馬に不和なり、其子細は樫井にて塙團右衞門を岡部大學仕方あしく討死させ、味方の大利を失ひ、尤其身も樫井にて自身太刀打粉骨を仕たれとも、其場を退來り、米田監物、御宿越前、上條又八ニ安松にて逢候時、團右衞門を捨殺し、男ハさせぬと惡口せしに、返答もなかりし臆病者を組に御置候事無用と訴る、主馬、尤なれとも今人持物頭を追放する事いな者なれハ、御利運の上の事に可致と云を皆々無興して、左候ハヽ我々御組を離し候とて、長岡監物、上條又八二組、并團右衞門か組もみなみな立退、物頭ともゝ主馬にハ不和なり』(大坂御陣覺書)

 結局、岡部大學は翌五月七日最後の合戦も切り抜け、愧世庵と号して何処かに隠遁しました。

『大坂已後男を止メ、入道して愧世庵と名付隱遁して居す、大坂表の事を世人か問へは、我は無隱男ならぬ首尾ゆへ入道仕候間、合戰の樣子曾て不存との返答せしとなり』(大坂御陣覺書)

「男ハさせぬ」・「男を止メ」・「男ならぬ」とは、丈夫と見做さない、世間に対して武士(侍)として顔向けできないといったニュアンスがあるように思えます。もっとも、然るべき古語辞典や日葡辞典にキチンとした定義がありそうな気がいたします。
大坂落去後、生き延びたことを恥じて岡部大學の場合と同様に大坂での事を終生語らなかった侍がいます。眞田左衞門佐信繁手に軍奉行として付属された伊木七郎右衞門常紀です。伊木七郎右衞門も慶長二十年五月七日の合戦で敗軍の混乱の中討死せず、落去して大和龍田、丹後宮津で養老の資を宛行われました。「男を止メ」を超えて自分の事を「犬同意」と思いつめていたようです。山本博文先生の高著に「武士と世間」がございますが、自身の生き様を世間の目と対照してどうあるべきか、当時の武士の心持の一旦を窺わせる事例かと存じます。

『同七日天王寺表茶臼山前後眞田と一處ニ働申候處、敗北の同勢ニ押隔られ城中へ歸入不申、落武者に罷成候、此節死不申事一生の恥辱、犬同意と存、昔語も恥ヶ敷候と申、老後終に子共ともに語不申候』(舊典類聚所収諸家由緒)
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細川内膳家・家譜 その四

2009-05-19 08:37:27 | 歴史
     寛永九壬申年 忠利公肥後国御
     拝領其冬被遊 御入国 三齋様ハ八代
     之御城へ被為 入候依之追々従 三齋様
     休無様へ被仰進候ハ御子方御同道ニ而
     八代江御下り被成候様ニ左候ハゝ宇土八代
     六万石程御料地被進往々八代之御城江
     御住居被成候様被仰進候得共御料地等
     被進候との儀甚タ御事六ヶ敷思召候ニ

     付被押移御下向之儀御断被仰上置候
     処其後猶又被仰進候ハ御老年ニ被為成
     候ニ付甚タ御作事なく被思召上候ニ付暫
     御逗留ニ被成御下候様ニと被仰進候ニ付
     寛永十九年壬午年秋八月 休無様八代へ
     為 御見舞被成御下向候同冬二至り御帰京
     可被成由御暇被仰上候処 三齋様御意ニ
     直ニ爰元江被滞候へ左候ハゝ此前追々被仰

   
     進候通御料地等をも被進御子方も御下り
     候様ニ可被成旨被仰せ候処 休無様御更ニ
     思召之旨誠ニ忝奉存候へ共私男を止メ
     候
へ共曽而両地頭主ニ無御座候間御断申上
     度奉存候ト被仰上候処重而御意ニ其
     方存知候者去年な連ども両人之男子
     之為ニ候へ共是■其通ニ被致候へと被仰候
     ニ付忰共事迄被 思召 御懇意候段
     重■ニ取奉存候二付御更申上候筈ニ

     御座候得ども忰共迚も御本家之地を賛候儀於
     私心外ニ奉存候本家ニ奉公仕候身分之者ハ
     忠勤次第後栄の■め如何様之大禄之儀
     可被下儀ニ御座候へども於私共■■難仕奉存候先
     事段 将軍家も可被召出旨蒙御内意
     候得とも 此御内意本多佐渡守正信御取次有之由 男ヲ止メ候上者強而
     御断申上候子共儀ハ私没後従本家悪クハ
     致申間敷候私存生之間ハ只々今之通ニ而
     心安ク天年を終り申度奉存候間於此事

     ハ蒙御免度奉願候被仰上候 三齋様
     御意ニ于今始メ其方之気性なりとて
     御感賞被成為御餞別守家之御腰物
     被進候 守家御腰物ハ三齋様依御武功従秀忠公御拝領被成候を此節被進候 右之御腰物ハ
     休無様御歿後為遺物 光尚公江被差上
     候右之通御断被仰上御帰京被成候御離盃
     之節者御能被仰付候此節休無様者源
     氏供養を被遊候休無様御往来熊本ハ不

     被遊御通候御供之役頭ハ野中弥三右衛門被召連
     候 三齋様御目見被 仰付其方ハ熊本二罷出
     家老中江見廻候様被 仰付往々迚も御家
     老之儀麁略ニ不存訊向仕候様ニと被遊
     御意候其外士中御目見被仰付候


    archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=守家の太刀
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