昨日のブログで細川休無(忠隆)のことを書いた。埼玉在住のTKさまから、次のようなコメントをメールで頂戴した。適宜なご教示に感謝申上げると共に、当ブログでご紹介することへのご了解いただき、ここに全文を開示する。
又々、加藤嘉明家牢人の話ですが、
加藤嘉明の甥河村權七の母方の叔父に犬塚左衞門という侍がおり、後に岡部大學を名乗り、関ヶ原合戦の後加藤家を牢人、慶長末年大坂城に籠って大野主馬首治房手の物頭となり、騎馬五十〔但し不調四十五騎〕を預かりました。慶長二十年四月二十九日泉州樫井合戦で古朋輩の塙團右衞門と先手を争い、競進して寡兵のまま淺野長晟勢と衝突。八町畷を直進して樫井の街に突入した塙團右衞門は戦死、迂回して樫井川の河原より突入した岡部大學は手傷を負って退きました。
大坂城に引揚げてからのことです。先手を争った挙句に古朋輩の塙團右衞門を捨て殺しにした形となり、岡部大學は悄然として毛利豐前守吉政を頼み罪に服することを申し出ますが、豐臣秀頼からも慰撫されます。
『大學は切拔て歸城して森豐前守に申けるは、團右衞門討死は畢竟拙者が先駈仕候故にて候、拙者も戰塲にて討死可仕候へとも、此段をも可申上、大軍を切拔罷歸候、早々被仰上可被下と申す、豐前守、扨々左樣にて候や、團右衞門討死を明白に御申之段致感心候、左樣に實ある貴殿を申上切腹爲致候事、何とも難忍候へは、是は聞捨に可致候、我等不聞分に被致可然と申す、大學申候は、扨々貴公は番頭にも御似合不被成候、理非の二ツは格別にて候、御取上無之候はゝ、直に大野修理へ斷り上聞に達し、御仕置可罷成と申故、無是非秀頼公へ申上けれは、團右衞門討死、誠無是非、今に至て大學を罪に可申付樣も無之と被仰渡けると也』(古老噺)
大野治房も岡部大學を処罰しなかったことから、同じ大野組の長岡監物是季をはじめ他の物頭達はすっかりしらけてしまいます。
『主馬組二萬の勢、其物主皆主馬に不和なり、其子細は樫井にて塙團右衞門を岡部大學仕方あしく討死させ、味方の大利を失ひ、尤其身も樫井にて自身太刀打粉骨を仕たれとも、其場を退來り、米田監物、御宿越前、上條又八ニ安松にて逢候時、團右衞門を捨殺し、男ハさせぬと惡口せしに、返答もなかりし臆病者を組に御置候事無用と訴る、主馬、尤なれとも今人持物頭を追放する事いな者なれハ、御利運の上の事に可致と云を皆々無興して、左候ハヽ我々御組を離し候とて、長岡監物、上條又八二組、并團右衞門か組もみなみな立退、物頭ともゝ主馬にハ不和なり』(大坂御陣覺書)
結局、岡部大學は翌五月七日最後の合戦も切り抜け、愧世庵と号して何処かに隠遁しました。
『大坂已後男を止メ、入道して愧世庵と名付隱遁して居す、大坂表の事を世人か問へは、我は無隱男ならぬ首尾ゆへ入道仕候間、合戰の樣子曾て不存との返答せしとなり』(大坂御陣覺書)
「男ハさせぬ」・「男を止メ」・「男ならぬ」とは、丈夫と見做さない、世間に対して武士(侍)として顔向けできないといったニュアンスがあるように思えます。もっとも、然るべき古語辞典や日葡辞典にキチンとした定義がありそうな気がいたします。
大坂落去後、生き延びたことを恥じて岡部大學の場合と同様に大坂での事を終生語らなかった侍がいます。眞田左衞門佐信繁手に軍奉行として付属された伊木七郎右衞門常紀です。伊木七郎右衞門も慶長二十年五月七日の合戦で敗軍の混乱の中討死せず、落去して大和龍田、丹後宮津で養老の資を宛行われました。「男を止メ」を超えて自分の事を「犬同意」と思いつめていたようです。山本博文先生の高著に「武士と世間」がございますが、自身の生き様を世間の目と対照してどうあるべきか、当時の武士の心持の一旦を窺わせる事例かと存じます。
『同七日天王寺表茶臼山前後眞田と一處ニ働申候處、敗北の同勢ニ押隔られ城中へ歸入不申、落武者に罷成候、此節死不申事一生の恥辱、犬同意と存、昔語も恥ヶ敷候と申、老後終に子共ともに語不申候』(舊典類聚所収諸家由緒)
又々、加藤嘉明家牢人の話ですが、
加藤嘉明の甥河村權七の母方の叔父に犬塚左衞門という侍がおり、後に岡部大學を名乗り、関ヶ原合戦の後加藤家を牢人、慶長末年大坂城に籠って大野主馬首治房手の物頭となり、騎馬五十〔但し不調四十五騎〕を預かりました。慶長二十年四月二十九日泉州樫井合戦で古朋輩の塙團右衞門と先手を争い、競進して寡兵のまま淺野長晟勢と衝突。八町畷を直進して樫井の街に突入した塙團右衞門は戦死、迂回して樫井川の河原より突入した岡部大學は手傷を負って退きました。
大坂城に引揚げてからのことです。先手を争った挙句に古朋輩の塙團右衞門を捨て殺しにした形となり、岡部大學は悄然として毛利豐前守吉政を頼み罪に服することを申し出ますが、豐臣秀頼からも慰撫されます。
『大學は切拔て歸城して森豐前守に申けるは、團右衞門討死は畢竟拙者が先駈仕候故にて候、拙者も戰塲にて討死可仕候へとも、此段をも可申上、大軍を切拔罷歸候、早々被仰上可被下と申す、豐前守、扨々左樣にて候や、團右衞門討死を明白に御申之段致感心候、左樣に實ある貴殿を申上切腹爲致候事、何とも難忍候へは、是は聞捨に可致候、我等不聞分に被致可然と申す、大學申候は、扨々貴公は番頭にも御似合不被成候、理非の二ツは格別にて候、御取上無之候はゝ、直に大野修理へ斷り上聞に達し、御仕置可罷成と申故、無是非秀頼公へ申上けれは、團右衞門討死、誠無是非、今に至て大學を罪に可申付樣も無之と被仰渡けると也』(古老噺)
大野治房も岡部大學を処罰しなかったことから、同じ大野組の長岡監物是季をはじめ他の物頭達はすっかりしらけてしまいます。
『主馬組二萬の勢、其物主皆主馬に不和なり、其子細は樫井にて塙團右衞門を岡部大學仕方あしく討死させ、味方の大利を失ひ、尤其身も樫井にて自身太刀打粉骨を仕たれとも、其場を退來り、米田監物、御宿越前、上條又八ニ安松にて逢候時、團右衞門を捨殺し、男ハさせぬと惡口せしに、返答もなかりし臆病者を組に御置候事無用と訴る、主馬、尤なれとも今人持物頭を追放する事いな者なれハ、御利運の上の事に可致と云を皆々無興して、左候ハヽ我々御組を離し候とて、長岡監物、上條又八二組、并團右衞門か組もみなみな立退、物頭ともゝ主馬にハ不和なり』(大坂御陣覺書)
結局、岡部大學は翌五月七日最後の合戦も切り抜け、愧世庵と号して何処かに隠遁しました。
『大坂已後男を止メ、入道して愧世庵と名付隱遁して居す、大坂表の事を世人か問へは、我は無隱男ならぬ首尾ゆへ入道仕候間、合戰の樣子曾て不存との返答せしとなり』(大坂御陣覺書)
「男ハさせぬ」・「男を止メ」・「男ならぬ」とは、丈夫と見做さない、世間に対して武士(侍)として顔向けできないといったニュアンスがあるように思えます。もっとも、然るべき古語辞典や日葡辞典にキチンとした定義がありそうな気がいたします。
大坂落去後、生き延びたことを恥じて岡部大學の場合と同様に大坂での事を終生語らなかった侍がいます。眞田左衞門佐信繁手に軍奉行として付属された伊木七郎右衞門常紀です。伊木七郎右衞門も慶長二十年五月七日の合戦で敗軍の混乱の中討死せず、落去して大和龍田、丹後宮津で養老の資を宛行われました。「男を止メ」を超えて自分の事を「犬同意」と思いつめていたようです。山本博文先生の高著に「武士と世間」がございますが、自身の生き様を世間の目と対照してどうあるべきか、当時の武士の心持の一旦を窺わせる事例かと存じます。
『同七日天王寺表茶臼山前後眞田と一處ニ働申候處、敗北の同勢ニ押隔られ城中へ歸入不申、落武者に罷成候、此節死不申事一生の恥辱、犬同意と存、昔語も恥ヶ敷候と申、老後終に子共ともに語不申候』(舊典類聚所収諸家由緒)