津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

衣冠束帯

2009-05-02 15:47:21 | 歴史
                      
 大日本近世史料・細川家史料(九)を眺めていたら、細川忠利の肖像が掲載されていた。何時も見慣れた永青文庫所蔵のものである。説明書きを読んでいたら、「装束は有職に疎い粉本によったか、束帯と衣冠を混同したものとなっている」とある。

 恥ずかしながら私は衣冠束帯とは一式のものと思っていたが、衣冠と束帯はまったく別物らしい。これは勉強せねばといろいろ調べてみたが、行きつく所忠利の肖像画の何処が間違っているのか、・・・皆目判らない。お判りの方がいらっしゃればご教示賜りたい。
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荘(庄)林氏の姓の由来

2009-05-02 11:18:59 | 歴史
  加藤清正の家臣荘林隼人介(佐)は、飯田覚兵衛・森本儀太夫とともに加藤家三傑と呼ばれたが、
共に本人又は子等が細川家家臣となった。ウィキペディアでも紹介されているが 、その中で姓につい
て、「姓は荘林、城林、生林とも・・」としている。   ja.wikipedia.org/wiki/庄林隼人
先祖附によると次のようにあって、「荘林」である事が判る。

   粟田関白藤原道兼公の三男従五位下丹波守藤原兼信(綱)之後胤小山権太郎兼熈と申者
   足利尊氏公二奉仕正慶二年尊氏公丹州篠邑御在陳之砌甚小勢ニ而御勝利無覚束相見候
   処権太郎森林ニ荘枚幡欺歊終ニ尊氏公御勝利被相成候/依之被賞軍功荘林之褐称号
   荘林与改申候
     ■ ja.wikipedia.org/wiki/藤原道兼
     ■ ja.wikipedia.org/wiki/足利尊氏
        後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率い
        て上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。

 これらのことから、荘林が本当だと思われるが、先祖附に於いては庄林と表記している。
 庄林隼人佐については、過去二度ほどブログで取り上げた。
      肥後入国・・家臣の採用  2008年12月12日
      「松江城秘録」から、庄林隼人佐・新美八左衛門 2008年10月25日
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