先にご紹介した「丹羽亀之允言上覚」で、三齋死後の八代の混迷振りがよく理解できる。家老長岡河内が三齋の意向を汲んで幕閣に接近している。そのような行動に対する本藩の苛立ちが見て取れる。
正保二年閏五月十一日、三齋の愛息・立孝が亡くなるが、六月廿九日三齋は立孝の子・宮松の行く末を安じ光尚に次のように頼み込んでいる。
尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
念可被下候、以上
為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
三齋
六月廿九日 宗立(ローマ字印)
肥後殿
御返事
その年の暮、十二月二日三齋は八代で亡くなる。
以降の経過は「丹羽亀之允言上覚」で記すようないざこざがある。
幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。正保三年卯月十七日付、酒井讃岐守の書状である。
お三について
一、三齋御養子之御息女ハいくつ計ニて候哉、たれの息女ニて候哉、三齋御ため
何ほとちかく御座候哉、承度候事
一、 (略)
宮松について
一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
承度候事
これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
お三について
一、三齋むすめ年之儀被仰下候、拙者もしかとハ不存候へ共、大かた十歳計かと存
候、三齋ためには何にても無御座候、三齋召仕候女の親類にて御座候由承候事
宮松について
一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以後
存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上
三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。
一方「おさん」については、いつの頃養女となったのか知るべき史料がない。私が興味深く思っている、寛永十七年九月廿七日付の忠利書状(細川家史料-1060-)がある。
「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
十月四日書状(同-1069-)では
「此しい(椎)、當国之内ニ而ハ、少大キニ御座候間、おしほ所へ送申候、存之外いた
いけニ御座候間、何よりも之御慰と奉存候」
と、しいの実を贈る心遣いを見せている。この「おしほ」が「お三」ではないのか。正保三年十歳の女の子は、寛永十七年では四歳である。「しいの実」を口にする可愛い女の子が目に浮かぶ。
正保二年閏五月十一日、三齋の愛息・立孝が亡くなるが、六月廿九日三齋は立孝の子・宮松の行く末を安じ光尚に次のように頼み込んでいる。
尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
念可被下候、以上
為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
三齋
六月廿九日 宗立(ローマ字印)
肥後殿
御返事
その年の暮、十二月二日三齋は八代で亡くなる。
以降の経過は「丹羽亀之允言上覚」で記すようないざこざがある。
幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。正保三年卯月十七日付、酒井讃岐守の書状である。
お三について
一、三齋御養子之御息女ハいくつ計ニて候哉、たれの息女ニて候哉、三齋御ため
何ほとちかく御座候哉、承度候事
一、 (略)
宮松について
一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
承度候事
これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
お三について
一、三齋むすめ年之儀被仰下候、拙者もしかとハ不存候へ共、大かた十歳計かと存
候、三齋ためには何にても無御座候、三齋召仕候女の親類にて御座候由承候事
宮松について
一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以後
存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上
三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。
一方「おさん」については、いつの頃養女となったのか知るべき史料がない。私が興味深く思っている、寛永十七年九月廿七日付の忠利書状(細川家史料-1060-)がある。
「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
十月四日書状(同-1069-)では
「此しい(椎)、當国之内ニ而ハ、少大キニ御座候間、おしほ所へ送申候、存之外いた
いけニ御座候間、何よりも之御慰と奉存候」
と、しいの実を贈る心遣いを見せている。この「おしほ」が「お三」ではないのか。正保三年十歳の女の子は、寛永十七年では四歳である。「しいの実」を口にする可愛い女の子が目に浮かぶ。