津田小平次秀政は織田玄蕃允秀敏が子七右衞門秀重が子なり。織田信長に仕へ、滝川左近將監一に附屬せられ、上野國松枝城を預かる。浪人後、豐臣秀吉に仕ふ。次で川家康に從屬し、采地三千石を賜り、都合四千十石餘知行す。慶長末年大坂兩度陣に供奉す。元和二年致仕落髪して、京都に隱棲し與庵と號す。寛永十二年一月二十九日京都にて死す。齡九十歳、或は九十一歳。法名長興院殿光岩道景大居士。葬地京都妙心寺長興院。妻は滝川左近將監一が養女。與庵の長子平八郎、實は豐臣秀次家臣富田藏人佐高定が次子なり。諱一に正重に作る。慶長十一年七月二十八日養父に先立て死す。法名賜谷院殿岳宗規居士。妻山内修理亮康豐が女与禰、死別後稻葉佐渡守正成に再嫁す。與庵の次子七之助正吉、實は某氏が男なり。助九郎、或は小平次を稱す。號了甫。病身にて嗣子たらず。寛永十四年七月二十一日死す。法名宗實。其子七左衞門、津田平左衞門正方より長岡佐渡興長、長岡監物興季を頼み、細川越中守忠利へ召出され、寛文五年知行五百石を賜る。寛文八年四月死す。子孫代々細川家臣たり。與庵の三子津田平左衞門正方、實は豐臣家臣川北庄左衞門正勝號道甫が子にて十大夫或は平七郎を稱す。子孫代々川家臣たり。與庵の四子素信、實は津田平八郎が子なり。後に釋門に入て南溪を號す。妙心寺長興院四世の住たり。與庵の長女、實は津田平八郎が女なり。津田平左衞門正方に嫁す(寛政重修諸家譜、津田克己先祖附、妙心寺史、織田系圖、伊勢國司傳記)。
私は「興庵」と表記したが、「與庵=与庵」が本当らしい。
又、ぴえーるさんがブログに津田家の系図を掲載していただいて、御礼申上げたい。
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