大日本近代史料・細川家史料の人物索引をながめていて、時折ひらめく事がある。今日のひらめきは津田興庵、人名索引は次のように解説している。
初正秀、小平次、興庵と称す、織田信長に仕え、滝川一益に属し、上野松枝城主。のち豊臣秀吉・徳川家康に仕う。慶長五、六年頃、四千十石余、奏者番。諸国の地図租税の員数改めに、関西三十三ヶ国を奉行す。元和二年、家康の没後剃髪して京都に退隠す。寛永十二年正月廿九日没。年九〇。
細川家史料には、興庵が関係する書状が十数通残されている。徳川家と細川家の間をいろいろとりなしている事がわかる。津田氏といえば織田一族だろう。細川家にも津田氏が数家あり、ちょっとひらめくものがあって侍帳を開くと・・・あった。興庵の孫に当たる人(?)を初代とする、二つの家があった。先の人名索引に依ると、その出自がはっきりしないが、津田家侍帳によると、織田大和守般定(尾州岩倉城主)・・織田玄蕃(頭)・・七郎(七郎左衛門)・・小平太(興庵)と続いている事が判る。
織田玄蕃については http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/odahidetosi.html で説明がある。
これに元ずくと次のように成る。
敏定---+---信定---信秀---信長
|
| 五男・玄蕃頭
+---秀敏---七郎---興庵
敏定なる人物になると、真偽の程は判らない。
人物索引をながめていると、こんな事に出くわして幸せ気分である。
初正秀、小平次、興庵と称す、織田信長に仕え、滝川一益に属し、上野松枝城主。のち豊臣秀吉・徳川家康に仕う。慶長五、六年頃、四千十石余、奏者番。諸国の地図租税の員数改めに、関西三十三ヶ国を奉行す。元和二年、家康の没後剃髪して京都に退隠す。寛永十二年正月廿九日没。年九〇。
細川家史料には、興庵が関係する書状が十数通残されている。徳川家と細川家の間をいろいろとりなしている事がわかる。津田氏といえば織田一族だろう。細川家にも津田氏が数家あり、ちょっとひらめくものがあって侍帳を開くと・・・あった。興庵の孫に当たる人(?)を初代とする、二つの家があった。先の人名索引に依ると、その出自がはっきりしないが、津田家侍帳によると、織田大和守般定(尾州岩倉城主)・・織田玄蕃(頭)・・七郎(七郎左衛門)・・小平太(興庵)と続いている事が判る。
織田玄蕃については http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/odahidetosi.html で説明がある。
これに元ずくと次のように成る。
敏定---+---信定---信秀---信長
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| 五男・玄蕃頭
+---秀敏---七郎---興庵
敏定なる人物になると、真偽の程は判らない。
人物索引をながめていると、こんな事に出くわして幸せ気分である。