「細川忠雄家譜」を読むと、他の史料では伺い得ない記述が見られ驚かされる。寛永十九年休無忠隆は初めて、八代に三齋を訪ねている。綿考輯録には誠に簡略に「八月、休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京之時ニ三齋君より守家之御腰物被進候」とし、この刀の由緒、その後の行方などが記されている。
この数ヶ月に及ぶ、三齋と休無の久闊をあたためる毎日は、どのようなものであったろうかと常々想っていたのだが、是こそ三齋の心情を窺い知る事のできる濃密な日が送られていることを知ることが出来る。 この事を次回の「細川内膳家家譜-その四」でご紹介する。
休無の来訪は、三齋のたっての願いであった事がわかる。そして其の目的は、八代領六万石の継承問題である。休無に是非とも継がせたいという、三齋の強い想いが家譜の記述に伺える。しかしながら休無はこれを断るのである。再三の説得が行われるが、休無の心は動かない。休無は「男を止メ候」者であると云う。これはどういう意味であろうか。この前か跡かは定かではないが、休無の徳川家直臣としての召出しの話が、本多正信を介して進められていたらしい。これについても同様理由で断っている。休無はまさしく「無」の世界に生きている。これにより八代領の継承問題は、立允(細川立孝)へと傾いていくのである。休無が帰京してすぐ、証人として江戸ニあった立允が八代に帰るのである。私たちは忠隆(休無)を「運のない人」と見てこなかっただろうか。休無の心は崇高な世界に生き、満足の一生を終えたのであろう。
この数ヶ月に及ぶ、三齋と休無の久闊をあたためる毎日は、どのようなものであったろうかと常々想っていたのだが、是こそ三齋の心情を窺い知る事のできる濃密な日が送られていることを知ることが出来る。 この事を次回の「細川内膳家家譜-その四」でご紹介する。
休無の来訪は、三齋のたっての願いであった事がわかる。そして其の目的は、八代領六万石の継承問題である。休無に是非とも継がせたいという、三齋の強い想いが家譜の記述に伺える。しかしながら休無はこれを断るのである。再三の説得が行われるが、休無の心は動かない。休無は「男を止メ候」者であると云う。これはどういう意味であろうか。この前か跡かは定かではないが、休無の徳川家直臣としての召出しの話が、本多正信を介して進められていたらしい。これについても同様理由で断っている。休無はまさしく「無」の世界に生きている。これにより八代領の継承問題は、立允(細川立孝)へと傾いていくのである。休無が帰京してすぐ、証人として江戸ニあった立允が八代に帰るのである。私たちは忠隆(休無)を「運のない人」と見てこなかっただろうか。休無の心は崇高な世界に生き、満足の一生を終えたのであろう。