綿考輯録によく引用されているのが、この「米田家臣中山宗俊覚書」である。今回はこれをご紹介したい。
米田家臣中山宗俊覚書
一 幽齋様 公方家にて御知行の事天文五年冬将軍
義晴公の御嫡子十一歳にて御元服義藤公と奉申被任
征夷将軍後義輝公此年幽齋様十三歳にて御元服藤
の御一字御拝領藤孝と御改為御鼻紙料江州大津辺坂本
にて御知行三百石御拝領其後 公方義昭公永禄十一年
御帰洛被任征夷将軍永禄の依勲功岩成主税助か出城青龍
寺を被進候是迄ハ 公方家より御恩地也其後元亀四年天
正改元西郊桂川を限り三十余郷一職等信長公より御恩地也
一 幽齋様實ハ 公方義晴公の御子也此段舟橋家に詳也以前ハ
船橋家を高倉と申候此時より舟橋に改りて今船橋と申候其
比船橋環翠軒宗尤実名宣賢公と申候宣賢公息女後
号智慶院殿 公方義晴公の宿直等被成懐妊なり然処に
後奈良院より近衛尚通公の女を義昭公に被聘之不能辞叓
して懐妊智慶院殿を三渕伊賀守晴員後妻に被下候也
晴員居宅は室町花の御御所近隣といへとも本宅へハ不入置は懐
婦を東山の麓黒崎の別墅 藤孝公栄産の地之其後若狭少将木下勝俊入道長嘯遁世の地と成暫蟄居之由 其後
聴松院と云寺に成南禅寺塔中に今存せり幽齋様ハ義輝公ハ二歳の御兄なり に被移置て晴員無逢見栄産
あつて暫して被嫁なり世挙て晴員の貞心を令感
心となり藤孝公五歳の時初て義晴公御對面其後
公方御所并船橋家にて御養育と云御成長に随て
船橋家にて御勧学なり米田壱岐守求政ハ船橋家縁
属の盟有にて藤孝公と学友之求政藤孝公にハ九ッにて
公方御膳番たると也又天文十九年藤孝公十七歳の御歳
公方義晴公薨し賜ひ夫より 公方義輝公へ御近臣也船
橋宣賢公其男業賢公其男枝賢公其男秀賢公の室者
佐々木越中守娘なり越中守室壽光院殿と申ハ藤孝公の姉
君也佐々木没落の後ハ丹後國へ御呼下し御養置候則息女
を三齋様御猶子に被成右秀賢公へ被嫁に付秀賢公ハ
三齋様御婿の御盟なり秀賢公の男秀相公の室寂照
院殿と申ハ吉田の神主三位兼治卿の娘なり寂照院殿御
母堂は幽齋様の御息女にて丹後屋形一色五郎義有
後左兵衛尉と云へりの御後室浄勝院殿也
一 右一色殿御後室浄勝院笹原五右衛門と申仁に被嫁候由申候
得共虚説にて候一色殿御果被成候て脇へ終に不被嫁直に二位
殿へ再縁之 篠原五右衛門と申は飯川豊前古名と承傳候飯川
は治部三郎左衛門婿にて沼田上野介光兼の孫婿にて候
或ハ曰治部三郎左衛門藤通の娘ハ沼田上野介光長妻とあり
一 浄勝院殿一色殿にて御男子一人御出生候是ハ愛宕山福壽院幸
能と申候幸隆様の後住に被成候幸隆様ハ 後還俗被成妙庵様と申豊前へ御呼下竜王之城に
て御死去筑紫左近室御兼様と申ハ妙庵様の御息女なり 妙庵様ハ三齋様御舎弟にて候福
壽院幸能法印と申ハ一色殿一人の御男子にて候其跡ハ皆吉田
兼治公にて八人御男子御女子御誕生候男子一人二位殿家督
吉田神主左馬佐兼英と云一人ハ豊国大明神の神主萩原右衛門督萩原兼従
末子一人福壽院住持幸賢法印也幸能法印の後住に御
成候女子一人長束大蔵正家男長束半左衛門に嫁す慶長
五年関ヶ原没落の後田中半左衛門と改丹後へ御呼取御養
育田中元祖又助父之一人ハ阿野中納言殿に嫁す一人ハ船
橋従三位秀相公へ嫁す是寂照院殿之一人ハ小笠原備前
長元に嫁す一人ハ清田石見に嫁す浄勝院殿一腹九人御出
世の内一人ハ一色殿其外の八人者二位殿にての御子也
一 一色殿御討果被成候ハ天正九年九月と云説有り異説之天正
九年ハ御縁結此年御婚姻と之三年婿入なくて剰(アマツサエ)天正十
一年志津嶽合戦に中川瀬兵衛討死秀吉方惣軍勢負
軍と云沙汰有此時忠興公ハ水軍の御用意にて御船にて越國へ
御迫り被成候処に其留守を被躊躇一色殿より軍船を被廻候然処
に秀吉公大キに被得勝利天下一統秀吉公の手に随ひ候由に付
夫より別て色立御隔意成様子に成候に付壱岐守謀略を尽
し宮津へ婿入さ世まし御討果し被成候天正十一年九月と申候
此一条十一年ハ非之御系譜ニモ十年トアリ
日は不詳也 私考或云天正九年五月嫁娶同十年九月八日被害と云う 此一巻事長し爰に省略之
米田家臣中山宗俊覚書
一 幽齋様 公方家にて御知行の事天文五年冬将軍
義晴公の御嫡子十一歳にて御元服義藤公と奉申被任
征夷将軍後義輝公此年幽齋様十三歳にて御元服藤
の御一字御拝領藤孝と御改為御鼻紙料江州大津辺坂本
にて御知行三百石御拝領其後 公方義昭公永禄十一年
御帰洛被任征夷将軍永禄の依勲功岩成主税助か出城青龍
寺を被進候是迄ハ 公方家より御恩地也其後元亀四年天
正改元西郊桂川を限り三十余郷一職等信長公より御恩地也
一 幽齋様實ハ 公方義晴公の御子也此段舟橋家に詳也以前ハ
船橋家を高倉と申候此時より舟橋に改りて今船橋と申候其
比船橋環翠軒宗尤実名宣賢公と申候宣賢公息女後
号智慶院殿 公方義晴公の宿直等被成懐妊なり然処に
後奈良院より近衛尚通公の女を義昭公に被聘之不能辞叓
して懐妊智慶院殿を三渕伊賀守晴員後妻に被下候也
晴員居宅は室町花の御御所近隣といへとも本宅へハ不入置は懐
婦を東山の麓黒崎の別墅 藤孝公栄産の地之其後若狭少将木下勝俊入道長嘯遁世の地と成暫蟄居之由 其後
聴松院と云寺に成南禅寺塔中に今存せり幽齋様ハ義輝公ハ二歳の御兄なり に被移置て晴員無逢見栄産
あつて暫して被嫁なり世挙て晴員の貞心を令感
心となり藤孝公五歳の時初て義晴公御對面其後
公方御所并船橋家にて御養育と云御成長に随て
船橋家にて御勧学なり米田壱岐守求政ハ船橋家縁
属の盟有にて藤孝公と学友之求政藤孝公にハ九ッにて
公方御膳番たると也又天文十九年藤孝公十七歳の御歳
公方義晴公薨し賜ひ夫より 公方義輝公へ御近臣也船
橋宣賢公其男業賢公其男枝賢公其男秀賢公の室者
佐々木越中守娘なり越中守室壽光院殿と申ハ藤孝公の姉
君也佐々木没落の後ハ丹後國へ御呼下し御養置候則息女
を三齋様御猶子に被成右秀賢公へ被嫁に付秀賢公ハ
三齋様御婿の御盟なり秀賢公の男秀相公の室寂照
院殿と申ハ吉田の神主三位兼治卿の娘なり寂照院殿御
母堂は幽齋様の御息女にて丹後屋形一色五郎義有
後左兵衛尉と云へりの御後室浄勝院殿也
一 右一色殿御後室浄勝院笹原五右衛門と申仁に被嫁候由申候
得共虚説にて候一色殿御果被成候て脇へ終に不被嫁直に二位
殿へ再縁之 篠原五右衛門と申は飯川豊前古名と承傳候飯川
は治部三郎左衛門婿にて沼田上野介光兼の孫婿にて候
或ハ曰治部三郎左衛門藤通の娘ハ沼田上野介光長妻とあり
一 浄勝院殿一色殿にて御男子一人御出生候是ハ愛宕山福壽院幸
能と申候幸隆様の後住に被成候幸隆様ハ 後還俗被成妙庵様と申豊前へ御呼下竜王之城に
て御死去筑紫左近室御兼様と申ハ妙庵様の御息女なり 妙庵様ハ三齋様御舎弟にて候福
壽院幸能法印と申ハ一色殿一人の御男子にて候其跡ハ皆吉田
兼治公にて八人御男子御女子御誕生候男子一人二位殿家督
吉田神主左馬佐兼英と云一人ハ豊国大明神の神主萩原右衛門督萩原兼従
末子一人福壽院住持幸賢法印也幸能法印の後住に御
成候女子一人長束大蔵正家男長束半左衛門に嫁す慶長
五年関ヶ原没落の後田中半左衛門と改丹後へ御呼取御養
育田中元祖又助父之一人ハ阿野中納言殿に嫁す一人ハ船
橋従三位秀相公へ嫁す是寂照院殿之一人ハ小笠原備前
長元に嫁す一人ハ清田石見に嫁す浄勝院殿一腹九人御出
世の内一人ハ一色殿其外の八人者二位殿にての御子也
一 一色殿御討果被成候ハ天正九年九月と云説有り異説之天正
九年ハ御縁結此年御婚姻と之三年婿入なくて剰(アマツサエ)天正十
一年志津嶽合戦に中川瀬兵衛討死秀吉方惣軍勢負
軍と云沙汰有此時忠興公ハ水軍の御用意にて御船にて越國へ
御迫り被成候処に其留守を被躊躇一色殿より軍船を被廻候然処
に秀吉公大キに被得勝利天下一統秀吉公の手に随ひ候由に付
夫より別て色立御隔意成様子に成候に付壱岐守謀略を尽
し宮津へ婿入さ世まし御討果し被成候天正十一年九月と申候
此一条十一年ハ非之御系譜ニモ十年トアリ
日は不詳也 私考或云天正九年五月嫁娶同十年九月八日被害と云う 此一巻事長し爰に省略之