津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

肥後入国の頃・・・

2009-05-03 13:54:02 | 歴史
 肥後入国直後の寛永十年正月十日附の、忠利宛三齋の書状が次のようにある。

 次飛脚ニ而、今朝之書状酉上刻参着、令披見候、江戸火事之様子絶言語候、乍去、如被申越、其方仕合充分之儀候間、加様之事ハ能程之ましないと目出度存候、(以下略)

 これハ寛永九年(1632)十二月廿九日、江戸上屋敷(辰ノ口邸)が類焼したことを報せたことに対する返事である。肥後においては、大国を拝領した喜びに皆々が気持ちを高揚させていたに違いない頃、江戸では大事が起こっていたのである。

 忠利が登城して、「国替ノ法度書」を受け肥後国五十四万石を正式に拝領したのは、寛永九年十月四日の事である。翌十五日江戸を発し、十一月十一日小倉に着いている。
(三齋は、十月十八日江戸を発し、十一月十四日中津に入っている)
十ニ月五日小倉を発して九日早朝熊本に入った。それから廿日後の事である。

 慶長八年(1603)、辰ノ口邸は作事に入っている。そして寛永九年(1632)の末に火災に遭うわけだが、この上屋敷は度々火災に遭っている。 (江戸の三大火事)
このような度重なる被災は、細川家の慢性的な財政の逼迫に繋がっている。

    明暦三年(1657)一月十八日 振袖火事
        ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
    元禄十一年(1698)九月六日 寛永寺勅願火事
        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E9%A1%8D%E7%81%AB%E4%BA%8B
    享保二年(1717)一月廿二日
    安永元年(1772)二月廿九日
    文化三年(1806)三月四日  丙申の火事
    安政二年(1855)十月二日   安政の大地震
        ja.wikipedia.org/wiki/安政の大地震

  参考:江戸の火事        
    ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする