津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・吉弘氏

2009-05-05 17:43:36 | 歴史
 細川家家臣・吉弘氏は、大友義統の家老・吉弘加兵衛統幸の二男加左衛門を初代とする。加兵衛統幸は石垣原の戦いで黒田如水や松井康之等を相手に戦い戦死した。祖父から三代、戦場で命を落とした武勇の家である。
 
          ja.wikipedia.org/wiki/石垣原の戦い
          ja.wikipedia.org/wiki/吉弘統幸
  武家家伝  www2.harimaya.com/sengoku/html/yosihiro.html
  吉弘神社  www.ctb.ne.jp/~imeirou/sansaku/sono5/sisigakibarusen/yosihirojin.html

  嫡男は政宣は柳川藩主・立花宗茂に仕えた。下津棒庵女が正室である。
  二男加左衛門と三男筑紫大膳は、細川家に仕えた。

二男・加左衛門に付いては、御買物奉行衆・五百石(真源院様御代御侍名附)とある。
   二男が別途家を興した。

三男・筑紫大膳については多くの史料は見受けられず、わずかに寛永九年七月十一日の忠利宛三齋書状に消息が見える。(細川家史料-1748-)
【筑紫大膳親子数多在之二ツ気、彼所ニ人を被付置、日々注進之由、大方可為実正と存候事】(-1748-)
これは細川家が、加藤忠広の処分後の肥後国内の動静をしるために、大膳に託した事が窺える貴重な史料である。大膳は1000石で召し出されており、子供が沢山あるとされながら、その子供達の消息は現況不明である。
    (1)馬廻組二番組・組頭 千石 「藤」  (於豊前小倉御侍帳)
    (2)御馬廻衆頭 千石 (肥後御入国宿割帳)
又、島原一揆に於いては与頭として活躍している。


    大友宗麟---義統
             ∥         柳川藩1000石
         +--菊姫        +---政宣(室・下津棒庵女)
         |             |   初代             2代
 吉弘鑑理---+--鎮信---幸統---+---加左衛門・政久---+---藤左衛門・・・・・・→加 家
  耳川討死   |高城討死  石垣原討死|              |   初代
         |            |              +---専右衛門・・・・・・→貞 家
         |            |
         |            +---筑紫大膳 1000石 
         |          柳川藩主
         +--高橋紹運---立花宗茂---●
                            ∥
                   細川藤孝---興元 
                           谷田部藩主
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私のGW

2009-05-05 14:44:04 | 徒然
 GW前半はお天気にも恵まれずにいた。今日はお天道様も顔を出されたが、快晴とはいかない。過日転倒して痛めた左膝が中々よくならないし、こうなるとまったく外出する気にもなれない。読書をしたり、古い史料を整理したり、古文書の訓下し作業をしたりしている。そうこうしていると、新しい発見があったりして、関係者にメールでご連絡したり、史料をお送りする準備をしたり、爺様も結構忙しいのである。

 今日は端午の節句、そして立夏、北の空には入道雲もどきの雲がでている。

 「為端午之祝儀、帷子五ツ之内単物二ツ給候、目出度令満足候」
 この時期はどうやら贈り物の季節であったらしい。
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細川家家臣・久武氏

2009-05-05 08:41:46 | 歴史
 熊本の久武家は、久武蔵之助親直を祖とするが、兄久武親信の死後長曾我部家の家老となり、主家の継嗣問題で対立する人たちを死に至らしめ、長曾我部家没落の因を造ったとも伝えられる。加藤清正に随身し1,000石。加藤家改易後牢人したが、後旧主家筋の「町氏」を頼り細川家に仕えた。(300石)
      ja.wikipedia.org/wiki/久武親直
      ja.wikipedia.org/wiki/久武親信
 我が家の五代目室が久武氏、下って母の実家T家に久武氏が嫁しており、私は二重にそのDNAを受け継いでいる。

 新熊本市史・通史編-第四巻に「第二節・新しく芽生える文化」がある。
この中に「久武綺石」(権之助250石)の名前があった。肥後国にあって芭蕉復興に尽力した俳人である。ここに記載されている句をご紹介しておこう。

       此こゝろわすれな人はわすれ雪
       白魚を都の水にあらひけり
       蝶々の根どころ其日/\かな
       蛙ほど花しるものもなかりけり
       やみの夜も月夜も捨ぬ師走かな
       葛のはに夜寒の水の光哉
       ものいはぬ石にもふれて秋の風

 この権之助には幼い頃に武勇伝がある。「久武兄弟御長柄の者討果候事」(雑撰録-巻30)という記録がある。権之助と弟・金吾が御長柄の者に、言いがかりをつけられ、やむなくこれを討果したというものである。権之助十五歳、金吾十三歳であった。
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