大日本近世史料・細川家史料を読んでいると、二人の千代姫さまが登場して戸惑ってしまう。一人は徳川家光長女・千代姫、今一人は細川忠利の正室であるが、脚注で「千代姫」と書かれている。(つまり、千代姫なる名前は当時の文書類には一切登場していない)
■三代将軍徳川家光の長女・千代姫(ちよひめ)。寛永14年(1637)閏3月5日生まれ-元禄11年(1699年)12月10日没。尾張藩主徳川光友の正室。母は側室の自証院。徳川家綱、徳川綱重、徳川綱吉は異母弟。院号は霊仙院。
■細川忠利正室(千代姫)徳川秀忠養女、実は小笠原兵部大輔秀政女、慶長ニ年(1597)九月生まれ-慶安二年(1649)十一月廿四日江戸白金邸にて没。年五十三、保壽院三英紹春。
二人は年齢が四十歳ほど離れており、時代が重なるのは寛永14年(1637)から慶安2年(1649)までの12年間ほどなのだが、忠利夫人は本当に千代姫と名乗っていたのか、秀忠の養女とはいえ、将軍の娘が千代姫を名乗っている以上これはおかしいのではないか。
正式の名前はどうも違っていたらしいらしいことを、綿考輯録の編者・小野武次郎は指摘している。
千代姫という名は、後年公儀に「御系譜」を差し出す際に、千代姫の実家小笠原家と辻妻合わせをして登場した名前らしい。本当のところは「おせん様」で、「御系譜」差出の際(寛政五年-1793)千代姫様になったらしい。亡くなられて140余年後の話である。
「私云、右御姫様御名御家譜等ニ而見当不申、色々吟味仕候処、岩間権之進小笠原殿より御附人岩間六兵衛子孫家記之内ニ御せん様と有之、又長岡筑後直之(松井家五代当主)所持之御系図と有之本ニも同様ニ御座候、然処御書所ニ而は千代姫様と有之様ニ聞候間、此方之証拠を以学校より問合候処、彼方ニても吟味詮議も有之たる由ニ而、御千様と有之方く、御記録も直り候との儀、安永庚子七月御祐筆頭松本幸之進より申来候、然処公儀より仰を被蒙、寛政五年癸丑御系譜被差出候事ハ御大名衆御一同之由ニ而、小倉小笠原殿御当代右近将監忠苗より御問合之ケ条数々御答ニ相成、且御名之事彼方之御達二万一相違なと有之候而ハいかゝとの事ニ而、此方様よりも御問合ニ成候処、千代姫様と御書出に成候段申来、元彼御家より被為御入候御方故、唯今是よりとやかく可有様無之との事ニ而、此方様よりも千代姫様と御書出ニ成候ニ付、御家譜も此節千代姫様と改申候」
ずっとおせん様で通しておいて欲しかった。
■三代将軍徳川家光の長女・千代姫(ちよひめ)。寛永14年(1637)閏3月5日生まれ-元禄11年(1699年)12月10日没。尾張藩主徳川光友の正室。母は側室の自証院。徳川家綱、徳川綱重、徳川綱吉は異母弟。院号は霊仙院。
■細川忠利正室(千代姫)徳川秀忠養女、実は小笠原兵部大輔秀政女、慶長ニ年(1597)九月生まれ-慶安二年(1649)十一月廿四日江戸白金邸にて没。年五十三、保壽院三英紹春。
二人は年齢が四十歳ほど離れており、時代が重なるのは寛永14年(1637)から慶安2年(1649)までの12年間ほどなのだが、忠利夫人は本当に千代姫と名乗っていたのか、秀忠の養女とはいえ、将軍の娘が千代姫を名乗っている以上これはおかしいのではないか。
正式の名前はどうも違っていたらしいらしいことを、綿考輯録の編者・小野武次郎は指摘している。
千代姫という名は、後年公儀に「御系譜」を差し出す際に、千代姫の実家小笠原家と辻妻合わせをして登場した名前らしい。本当のところは「おせん様」で、「御系譜」差出の際(寛政五年-1793)千代姫様になったらしい。亡くなられて140余年後の話である。
「私云、右御姫様御名御家譜等ニ而見当不申、色々吟味仕候処、岩間権之進小笠原殿より御附人岩間六兵衛子孫家記之内ニ御せん様と有之、又長岡筑後直之(松井家五代当主)所持之御系図と有之本ニも同様ニ御座候、然処御書所ニ而は千代姫様と有之様ニ聞候間、此方之証拠を以学校より問合候処、彼方ニても吟味詮議も有之たる由ニ而、御千様と有之方く、御記録も直り候との儀、安永庚子七月御祐筆頭松本幸之進より申来候、然処公儀より仰を被蒙、寛政五年癸丑御系譜被差出候事ハ御大名衆御一同之由ニ而、小倉小笠原殿御当代右近将監忠苗より御問合之ケ条数々御答ニ相成、且御名之事彼方之御達二万一相違なと有之候而ハいかゝとの事ニ而、此方様よりも御問合ニ成候処、千代姫様と御書出に成候段申来、元彼御家より被為御入候御方故、唯今是よりとやかく可有様無之との事ニ而、此方様よりも千代姫様と御書出ニ成候ニ付、御家譜も此節千代姫様と改申候」
ずっとおせん様で通しておいて欲しかった。