津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

介錯人

2009-05-08 18:47:41 | 熊本
 古い資料を整理していたら、平成14年6月2日付の熊本日々新聞の切抜きが見つかった。熊本最古の写真として、明治4年4月浅草の写真館で撮影されたF氏の写真である。ご先祖様をたどると、忠利公に殉じたHT氏の介錯役を勤められていた。HT氏のご子孫とは、メールを差上げたり資料をお送りしたりしている。熊本在住であられるが、F氏のご子孫も熊本在住である。F氏は存じ上げないが不思議な「縁」を感じる。

 さて、赤穂浪士・堀部弥兵衛の介錯役を勤められた米良市右衛門のご子孫が、弥兵衛のご子孫にお会いになっておられる。その顛末が、08年ベストエッセイ集に「介錯人の末裔」として掲載されている。ご先祖を辿れば熊本人、東京在住道産子サラリーマン・エッセイストKK氏の筆によるものだが、05・06・08年とプロのエッセイストに伍して掲載の栄誉を獲得されている。ご一読を・・・
      http://www.kitanihon-oil.co.jp/pc/essay/tsuguo01.htm

 我が家の先祖も忠興公に殉じたM氏の介錯役を勤めた。ご子孫も判明している。
玄祖父・上田休兵衛も言われなき罪を得て亡くなったが、こちらはさすがに介錯人は不明である。

 堀部氏のご子孫に逢われたKK氏は、エッセイによると「あッ、どうもその節は、あの、お役目とはいえ、どうも……」と挨拶されたそうな。思わずフッと笑ってしまったが、よく理解できる。
消息は消息として、そっとしておいたが良いのかもしれない。
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細川家家臣・松下氏

2009-05-08 14:15:50 | 歴史
 春日局の男正利は、徳川秀忠の二男・忠長に仕えたが、寛永9年(1632年)10月、不行跡のため兄家光により除封、上野国高崎へ流され、家臣たちも連座として処分を受けることとなった。翌10年(1633年)12月に忠長が自害させられたのち、寛永11年(1634年)3月、正利は身柄を高崎から肥後へと移され、細川忠利の預かりとされた。(ウィキペディアより一部引用)

 肥後に於いてその世話役を仰せつかったのが、縁戚に当たる松下市之進である。彼の人生は正利に振り回されたといっても過言ではあるまい。それは40余年の長きにわたっている。市之進は春日局の兄・斎藤利宗(立本斎)の女婿である。父親は松下壱岐守三綱、祖父は飛騨守意綱だとされる。父・三綱は加藤清正に仕え、清正女(遥林院)が紀州徳川家・頼宣に嫁いだ際お供をしている。ふと、斎藤利宗と松下三綱が、共に加藤清正に仕えていたという事に思い至った。三綱の加藤家仕官の経緯は判らないが・・・突然ひらめいた事がある。

 加藤清正と共に、賤岳七本鑓の一人として知られる、木下藤吉郎(秀吉)の先主松下嘉兵衛のことである。彼は松下之綱と名乗る。その遠祖は西条氏だとされている。市之進の遠祖は西条上野助長綱、続いて若狭守長則とある。共通項はないかと調べてみると、西条氏とともに長則という名前が浮かんだ。それに通字の「」である。推測の域を出ないが次のようなことに成るのではないか。

            嘉兵衛
    長則---+---之綱      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・中瀬家
         |
         +---飛騨守意綱---壱岐守三綱---市之進・・・・・・・・・・→細川家家臣・松下家
                                 ∥
                利三---+---斎藤利宗---●
                     |
                     +---春日局---+---稲葉正勝
                                |
                                +------正利

 残念ながらこれを証明する材料をまったくもたない。何方かご示教いただければ幸いである。
今回はいささか本筋から離れる謎解きとなってしまった。

 追記:5月11日ぴえーるさんがご自分のブログ「えんちゅるでぃげん爺が三食繰言」で、松下氏の見事な系図を披露され、私の推論をチェックしていただいている。ただただ感謝である。どうやらこれは推論の域を出ない戯言であったような気がする。
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