津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

小須賀覚書

2012-05-08 09:21:28 | 史料

 東大史料編纂所・金子拓先生の御著「記憶の歴史学」の第三章「歴史をつくった記憶」は、細川忠興夫人玉(ガラシャ)の生害について、諸資料を照合しながら検証されている。信長公記など信憑性の高い記録を残した大田牛一は、ガラシャ夫人の生害についても「関が原御合戦双紙」を残しているが、先に御紹介した古今名婦鏡 細川忠興妻などは、ここから画題を得ていることは間違いなかろう。二人の御子を殺めて生害されたという牛一の記録は、細川家においては当然の事ながら認知されていない。この錦絵を見ると涙をさそうものがある。真実はまさに闇の中である。

 一方その存在が知られている「小須賀日記」だが、金子先生が講演の為に来熊された際、私はこの「小須賀覚書」について史料としてどのような位置付けにあるかをお訪ねしたことがある。
この史料は東京大学史料編纂所に所蔵されているらしいが、先生のお話によると所在不明であるとの事であった。
後にある方から、「国会図書館所蔵の小須賀氏聞書」のコピーをお送りいただいた。どうやら伝聞を集めたもののようだが、事件の概要に特段目新しい情報はないが、私は次の二点を以て評価している。
       1、地震の間に於ける生害
             彦根城内に唯一現存するが、いわゆる耐震の措置がされた建物であるらしい。
             しかし小倉城→熊本城→藩主居館・花畑邸や初期江戸藩邸に作られてきた経緯を考えると、生害の間としての意味合いがあっ
             たのではないかと考えているのだが・・・・
       1、四方の壁に鉄砲の薬を紙袋に入懸並べ置候て・・・・・・・火を掛 云々
             殉死した河喜多石見家の文書に、四方の鴨居に薬をまいて火をつけたと記されているが、建築構造上誠に理に叶った方法だと
             思われる。

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      小須賀覚書

 長岡越中守殿、子息與一郎殿 同舎弟内記殿両三人は家康公御同陣にて景勝陣に立被申候。越中守忠興御内儀は明智日向守光秀御息女にて候。大阪玉造口に屋形候て其れに御入候。越中守殿奥方の法度世上に無之堅き仕置にて、地震の間と申候て八畳敷に座敷を拵へ、四方の壁に鉄砲の薬を紙袋に入懸並べ置候て何時も大地震あり候はゝ″御内儀右の座敷へ御入候て焼御果候筈に不断之仕置にて候由。就其屋敷の表は小笠原正齋預り、裏の門は稲富預り、奥方は光秀公より御前に附参候川北石見請取、右の三人は長岡越中守殿大阪屋敷の留守居にて候。越中守殿と石田冶部少輔三成、前方より中悪敷猶以て此度は敵味方にて候故、右三人の留守居拵へ候は自然越中守殿御前を人質に取に参候はんこと気遣仕居候處、稲富は其頃鉄砲之天下一にて知行千石取、生国は丹後の國の者にて、 冶部少輔殿内衆に鉄砲の弟子多持居候に付、越中守殿御前を人質に取申由沙汰御座候と、稲富方へ 内證申来候間、小笠原正齋、川北石見被相心得候へと稲富申候に付屋敷の門外を見せ候へば人多居申候由候間、扨は必定と存候て、川北石見御前へ参り候て、右の旨申入候。幽齋の妹若狭國竹田殿内儀後家にて年七十に餘り、越中守殿伯母御を常に御内儀に被付置候處に御前申候は、我等は人質取候はんと申来候はゝ″、いかにも賎しきなりを致置可申左候へば、宮川殿は都の建仁寺に御子息雄長老御座候間是非御退頼申候と色々被仰候に付、宮川殿建仁寺へ退被申候。越中守殿子息與一郎殿は前田肥前守殿妹婿、此嫁御の儀は若き上臈を召連候て退き申事中々成申間敷候間、幸屋敷隣備前浮田中納言殿内儀は、嫁御の姉御にて候間、築地一重の事に候間、橋を架け候て隣へ是非々々御退候へと姑御御申候故、嫁御も備前中納言殿御前へ御退候。越中守殿御前嫁御も宮川殿も出し抜き御退け候。其内に稲富裏の門を明逆心致候而、立退申候。御前地震の間へ御入候て川北石見守御呼被成被仰候は局しも事は我等供可致候と色々様々申候へども、不残何も御果候はゝ″越中守殿、與一郎、内記帰陣致しても、此一巻語り傳へ可申者無之候間、しも儀ははしたの様に出立候て、我等自害致し候段々見届候て、火を掛け候と、一度に小さき包に物を入戴き局を退候て何方にも隠れ居候て、越中守殿、與一郎、内記帰陣被申候を待居候て、逢申具に物語致候へば、草の陰にても満足可申、其上にて越中守殿、與一郎、内記可為満足と御申候て、夜半時分に川北石見守長刀を持御前へ懸御目、石見申候は、御祝言之時懸御目只今御目に懸り納めにて御座候、追付御供可申と申候て、長刀にて介錯仕り、地震の間に火を掛け、面々廣間へ出候て、小笠原正齋、川北石見両人致切腹候 て、長岡越中守殿屋敷焼拂申候て、局おしも退済まし候て京都に忍び居候て越中守殿、與一郎殿御帰陣の時右の段々委細物語申候。内記殿は人質として江戸に御置被成候。 了

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