大日本近世史料・細川家史料に加藤忠廣の結婚の記事がみえる。父・清正は慶長十六年六月に亡くなっており、加藤家にとっては大いなる慶事である。
相手は蒲生秀行と家康女・振姫の間に生まれた息女・琴姫である。
蒲生家に於いても、去る慶長十七年五月には秀行が亡くなっており、琴姫の結婚を経て振姫は父家康の命により浅野長晟に最嫁する事になる。(元和元年)
このような中、国許での婚儀の予定が家康の意向により江戸で行われることになった。
加藤忠廣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
慶長十九年二月十四日書状(62)
月中ニ可為御渡海候 然は木近所もり江ニ御舟かゝるへく候間 御舟かゝり中 可成程
馳走せらるへく候 不及申其方付テ可被居候 振舞以下之様子式部(松井興長)所へも
申遣候間 呼寄談合せらるへく候 若我等下はやく候ハゝ我等付テ可居と存候 以上
慶長十九年三月二日書状(64)
其方叓當地(江戸)へ不被下候ても不苦様ニ本多佐渡殿と談合究候而其由申遣候 定
而可為参著候 然處今度加藤肥後祝言之儀 於駿苻ニ被得御意候ヘハ 大御所様御
諚ニハ 江戸之御普請事外大惣成儀ニ候條 肥後守幼少ニ候共 付テ被居可然被思召
候 其上姫君御幼少ニ候間當分遠路被遣候事も御母儀(家康女振姫)様御迷惑がりニ
候 旁江戸ニ而之御祝言ニ相定候へと被仰出 俄肥後守よひニ被遣候 定而近日可被
上候事
忠廣はこの時期14歳であるが、幼少ながらも江戸城普請の最中であり、現場を離れることは成らないと家康が命じている。
水野勝之氏・福田正秀氏共著「加藤清正妻子の研究」によると、種々史料をあげて二人の結婚は慶長十八年だとされるが、婚約ということであろうか。