津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

上田秀人の「奥祐筆シリーズ」

2012-05-26 10:30:13 | 書籍・読書


  

                                     密封 (講談社文庫)
 
       講談社

 大日本近世史料・細川家史料を見ると、その量の膨大なことにびっくりするし、その内容の緻密さ、また重要案件が余すところなく記されている。
近世初頭の歴史研究の上で必要不可欠な一級史料である。
これらの書状がすべて自筆で書かれたものでない事は、その内容からうかがい知ることが出来るが、祐筆によりかかれたものが殆どであろう。
忠興は息忠利に対して、「隠密なる事は自筆にて」と諭している。家中の重要事項をつぶさに承知する事になる祐筆は、単なる書記という職務に留まらず、
政治の裏舞台のみならず藩主の私的な部分、内証事を含め極秘事項を扱う特殊業務でもある。信頼をベースに君側にあるということであろう。

 ここに紹介する本はシリーズで数冊が出ているものらしい。悪友からの推薦もあってちょっと読んでみようかと思っている。
日ごろは裏舞台にある人が、事件に巻き込まれることもあるであろう。小説の世界ではあるが教えられるものも多いかもしれない。 

 

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書状を読む(六) 忠興の眼病・二

2012-05-26 08:54:59 | 歴史

 八月二日の書状(168)では、去月廿六日の忠利からの書状は光壽院危篤の報であり、併せて土井大炊から帰国を勧められていることをうけ、是に対し
 苦労をして廿九日に吉田に着いた事を記し「死に目二も逢申間敷との儀候哉」と辛い心情を吐露すると共に、「我等心中御推量候而可被下候 取乱申候
 間一書ニ申入候」と曽又左・谷羽州・内記(忠利)・玄蕃・木右衛門宛(連名)に書状を発している。
 じつは七月二十六日に光壽院は逝去しており、この書状を発する時期はすでに五六日ほど経過しているのである。

 八月四日将軍秀忠は一色左兵衛尉範勝を使として豊前に差下し忠興に対し御書を賜っている。(綿考輯録)

   光壽院死去之儀愁傷之段察入候 委細相含使者口上候 恐々謹言
      八月四日                   秀忠 御判
              豊前宰相殿

 又江戸屋敷には上使土井大炊頭が訪れ弔問した。 将軍秀忠は七日の間御目見を止め、囲碁・将棋などさえ慎んだとされる。

 家臣道家傳三郎により光壽院の逝去の報がもたらされての返報が八月十八日書状(169)である。(抜粋)

   光壽院殿之儀心中可有推量候 乍去我々在世之内ニ御遠行ぬしの御ためニハ御果報と存候
                         (中略)
一 御顔かゝせ給候此方にてはや申付候事
一 我々事葬禮過五十日明次第京都迄上り 目之養性仕候てから其地へ可下候 とても百ケ
   日之内ハ 御前江罷出候事不成候間右之分ニ存候事
一 我々目之儀かくのことく能候つる間舟ニのり候共起り候間敷と存候處ニ 今度之気遣 又
   鹽風事之外毒ニて目少おこり候 先書ニ如申候 左之能方之目大法印療治之内より ひとみ
   の玉上下へ長ク両わきへほそく成 事之外かすみ出候處大坂之慶圓療治ニにて十之物九ツな
   をり丸ク成申候 其位ほと見え出候處ニ今度之上下ニ又上下へ長ク成申候 前之程ニは無
   之候へ共又かすミ出申候 只今無養性ニ候はなおりかね可申之由申候條気遣可有推量候
   如此ニ候間當國にて養性可仕きり上度候へ共 事を左右ニよせ在國仕度様ニ申なし候てハと
   存候間 法夏過次第上り吉田にて養性可仕と存候 只今之醫師申候ハきりやきの療治不
   仕度は悪く罷成候由申候間吉田ニ逗留之中ニ見合きりやきを可仕と存候 此ケ條能々大炊
   殿へ其方物語之様ニ可被申候 目之次第此紙面不違様ニ可被申候事
                         (以下略) 

 八月廿八日書状(173)においては(抜粋)

一 我々事一昨廿六日にて法事申付 廿七日可出船と存候處ニ不寄存儀出来ニ付一両日
   相延候 いかさま頓而出船候事
一 右ニ如申候我々目いまた十分ニ無之候間京にて養性仕それより可致参上覺悟ニ候 同は
   當地にて目のきりやき仕罷上度候へ共 さ候ヘハ國を出候事遅様ニ候條 先いそき可令上洛
   と存候 此由大炊殿江参會之刻物語之様ニ可被申候事

 十月二十三日書状(175)

一 先書ニ如申候當月上旬上洛申候 目之事別ニ発不申候間来廿七日當地(京都)を立可下より存候
    處ニ 此比又目かすミ出申候間前かと自豊前如申遣候きり焼きを不仕候てハおこり可申
    より存ニ付大坂江眞嶋(慶圓)よびニ遣候 目を見せ候てくるしかりましきと申候ハゝ来ル廿
   七日當地を可出候 又療治不仕候は悪候ハんと申候ハゝつくろひ候てから可出候 前かと
   切々如申候當地にてきりやき仕候てから其地へ可参と存候つれ共上洛之時分又當地へ
   著候ても目能候つる間急可下より存候處ニ右之分候間眞嶋ニ見せ候ての事ニ可仕と存候
   今日眞嶋上り著可申より存候事 

 十月廿七日書状(176)
  
  永良先へ下候間申候 先書ニ如申候 目少かすミ出候間 大坂目醫師よび寄せきりやきを
  もさせ可申より存 ミせ申候處ニ きややきニハ及間敷候 其上きり申候は跡三十日程養性
  仕候ハて下候は結句療治不仕ニはおとり可申之由申候間きりやきハ不仕候 今度かすミ
  候分は五日十日之内ニ前のことくなるへき由申候間其養性只今仕候 近々可罷下候 大
  炊殿へも別ニ用所も無之候間書状を以も不申候 右此地にての養性之次第 大炊殿江物語
  可被仕候 猶永良可申候 恐々謹言

 十一月八日書状(178)によると、忠興の江戸行に供する家臣が豊前から九日に到着するので、十一日に出立するとのべ
 目が悪いので「いつものことく道をありき候事ハ成間敷」到着は遅れるだろうとしている。
 その十一日忠興は近江の草津という処で忠利に暇が与えられたことの連絡を受ける。そして自分が江戸に到着するまで江戸に留まっているように
 指示している。その理由は「其地に質物無之候間・・・」つまり人質が居なくなるからだとしている。忠興の大変細やかな心配りが見て取れる。
 十一月廿四日無事江戸に到着した忠興は、廿七日には将軍に御目見、晦日には茶入れ開きの御茶の席に招かれている。(十二月三日書状・181)
 これ以降書状に目に関することは出てこない。元和四年も暮れようとするこの時期、完治したのであろうか。
 閏三月二日書状に始まった忠興の眼病との経緯は、生母光壽院の死去などを含めまことに壮絶であったことが伺える。
 忠利が家督する元和六年閏十二月まで、約三年のことである。 

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 追記 5:27 am10:23

 このブログを御覧いただいて、S様がブログ「徒然なか話」で取り上げていただいていた。
  目薬のはなし ~ 向台寺目薬 ~ というものだが、西方寺は我家の菩提寺でもありチョッと驚いてしまった。
 それにしてもメグスリノキというものがあるとは始めて知った。いつか御住職にお尋ねしてみたいと思っている。 

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