森鴎外の名作「阿部一族」でおなじみの誅伐事件の様子を、隣人・栖本又七郎が記録した「阿部茶事談」の写本らしい。
寛永六年、江戸に在る三齋から忠利(熱海にて湯治治療)に宛てた書状である。
江戸に於ける辻切事件に係る件である。武江年表には「今年より武家かた辻番を置かる。端々に於いて辻斬ありし故とぞ。」とある。
家光弟・忠長ではないかとされるが、東大史料編纂所による解説によるとそれは寛永八年の事とされる。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/09/pub_kinsei-hosokawa-04.html
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七月十六日書状(759)
(前略)
其元昼夜さかいなく辻切在之ニ付 町々ニ御番被仰付 大小名屋敷ニも番屋誘 昼夜
番を被付置之由 案外之儀候 我々弓之者罷上候て承候ヘハ常之辻切にて無之様ニ聞之
候 加様ニ番なとすハり候は 手柄ニ猶々切可申候哉 如何様辻切之申付て在之様ニ思ひ
なされ申候 絶言語候事
七月十六日書状(762)
追而申候 辻切ノ儀ニ付うた殿(酒井忠世)へそうようノるすいとも御よひ候て 此あんもんのこ
とく御申ハたしの由申候て 我々るすい共よりもたせ越申候 此丸でんの所々ノもんごんめ
つらしき儀候 これハ事之外之分別有へき事かと存候 其元にてハなにとかとりさた申候や
あまりニふしん成事共にて候 じひつにて御返事可給候 已上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E7%95%AA
かって大坂牢人、小河四郎右衛門 ・熊谷権大夫・長屋安左衛門の三人の召出しについて書いた。
三人の大坂浪人--(1) 小河四郎右衛門 三人の大坂浪人--(2) 熊谷権大夫、長屋安左衛門
元和九年閏八月廿八日、「幕府は慶長・元和大坂合戦に籠城の新参牢人を赦免」いわゆる大坂浪人の仕官が解禁された。これを受けて忠興は三人の召出しを忠利に告げている。九月廿一日書状(386)のことである。財政逼迫のおり新規召し出しをしぶる忠利に対しての返事(九月廿三日書状・387)においては、以前からこの三人について目をつけ、隠居の際にはこれを報告し忠利から了解を取り付けているといっている。
御返事披見候
一 小河四郎右衛門・熊谷権大夫・長屋安左衛門事 四年以前隠居仕候刻 江戸ニて魚住傳左衛門・
續少介(重友)・長船十右衛門を以 若以来大坂牢人御免之時分も候は知行被遣様ニと頼申候處
被心得之由返事ニ候つる事
一 去廿一日之御状ニ自板倉周防殿大坂牢人何ものニても抱可申とノ状参候由候而寫給 自
然召寄度ものも候ハんかと被存 しらせらるゝの由承候條 右三人之者如約束知行遣給候は
可呼下候 返事次第と申候處 先被相心得之由候 然共古借銭を其まゝ置當借銀千貫目ニ
餘ニ付彼三人之事も無失念候へ共不被申越候由 此處存之外ニて行あたり申候 此比事之
外高知行之もの其外も御抱候間 人ニ御やり候知行も在之かと存 申進候而令迷惑候 右三
人之者へいかにも小身者共ニ候間 我々無役之内ニ而知行可遣候間 御気遣有間敷候事