津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

五月・史談会例会

2012-05-21 12:09:56 | 徒然

 昨日午前10時から史談会の例会。今回は八代史談会会長の蓑田勝彦先生をお迎えして、「幕末期の熊本藩 横井小楠とその時代」という演目でお話を伺った。膨大な一級史料を読み解かれた上での、出典のはっきりしたいわゆる推論抜きのお話であるから大変説得力がある。

 偶然のことだが私はここ一両日、横井小楠にかかわる書籍を数冊読んでいた。それは「酒失事件」や「士道忘却事件」、また「天道覚明論」などがどの様に取り扱われているのかを知りたいが為である。いずれもいささか逃げ腰で詳細には触れていない。偉大な思想家・横井小楠を語る上では、これらの事件について深く論評するのは憚られるのであろう。特に「天道覚明論」の取り扱いなどについては、九割以上の研究者達が小楠のものではないと切り捨てている。まったく根拠のないところであり、「第一人者の某氏がそういっている」などの話になると、もう本を伏せてしまいたくなる有様である。そんな中で一人、地元の堤克彦氏には「天道覚明論の成立に関する歴史的考察」という論考がある。このような優れた論考をベースに研究者は謙虚に「否」を論ずべきではないのか。

 このことについて質問をさせていただいたが、まったく一級資料に乏しい事柄についてはコメントのしようがないというお立場であった。
私はこれがまさしく研究者としての真の姿ではないかと感じ入った。推論で構築したいろいろな発言は、誠に説得力を欠いていていて読者に感銘を与えることがない。真の小楠を知るためにも、真実を真実として書く勇気が必要であろう。
私にとっては誠に有意義な時間であった。感謝 

 

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書状を読む(一)

2012-05-21 11:31:31 | 歴史


             此文肥前殿御母儀へ可被届候 已上

         為見廻牧五介被上候 祝著候 我々事豊前一國豊後にて拾壹萬石
         令拝領候 忝儀候 其方之儀も来春は可呼上候間可被得其意候
         猶五助可申候 恐々謹言
                                    越
          (慶長五年)十一月廿八日           忠(花押)

                  内記殿
                     御返報                               (大日本近世史料・細川家史料一 五 p6)

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 忠興から忠利へ宛てた書状である。忠利はこの年の八月廿一日、秀忠より一字を拝領して忠辰と名乗り内記と称した。のち忠利とす。
慶長五年という年は、細川家にとっても忠利にとってもまさに激動の年であった。忠利はこのとき十五歳であり正月には証人として江戸に赴いた。父・忠興と長兄・忠隆、次兄・興秋は行動をともにして関原戦などで戦場を経巡り、一方母ガラシャは七月十七日大坂玉造の屋敷で石田三成手勢に襲撃されて自害した。また祖父・幽齋は田邊城に在ったがこれも三成が派遣した一万二千の軍勢に対峙して籠城を余儀なくされこれらの軍勢を引き付け、関原勝利を導いた。一方豊後の領地においては大友勢の襲撃を受けたが、重臣・松井康之・有吉四郎右衛門以下がよく戦い勝利した。これらの戦功に対して細川家は豊前に領地を賜ることになった。

この書状で特筆すべき事は、「此文肥前殿御母儀へ可被届候」という一文である。
肥前殿御母とは前田利長の母つまり利家室・芳春院のことである。すなわち忠興の嫡男・忠隆の室・千世姫の生母である。この時期芳春院も前田家の証人として江戸に在った。忠隆にかわり早々に芳春院に、豊前入国の慶びを伝えるように申し送ったものである。ガラシャ夫人の生害に際しては、忠隆室がともに行動しなかったことをに対し、忠興が不快を示しこれが原因と成り忠隆廃嫡へとつながっていく。のち将軍家康は、前田家と細川家が遠戚関係にあることを警戒し、離縁をせまりこの後の一時期両家の交流も途絶えることとなる。まだこの時期はそのような気配が伺えない書状の内容である。 

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