津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

書状を読む(八) 烏丸一家を歓待す

2012-05-27 09:43:43 | 歴史

                                         (657)

寛永五年三齋は愛娘万(烏丸光賢室)一家を中津に招いて歓待している。
その経過を書状により追ってみる。

・正月廿九日書状(620)
    万三月初京を立候て當地へ下ニ付 迎船二月廿二三日之比上せ申候 五十丁立之舟ニ屋形
    ノ御入候を船頭一人のせ候て借可給候 櫓を一はい御たてさせ有へく候 水夫ハ此方
    ニ存之事

・二月廿五日書状(630)
    万迎ニ遣候五十丁立之船給候 一段能舟ニ而祝著候

・三月二日書状(631)
    (前略)烏丸宰相殿京を来八日ニ発足之由候 此分ニ天気能候は 當中旬比可為著船と存候
    期面之時候 

・三月十五日書状(632)
        (山田)喜齋事去一日二日之時分京を出候由于今不下候 ふしんニ存候 上関まて迎
        舟を出し置候へとも其左右も無之候 已上
    万下候事侍従(資慶)疱瘡故延引候 はや験にて去八日ニ湯をかけ候由注進候 来廿日
    ニ京都可有発足由候 當月合時分可為下著と存候 廣嶋より参由候て 西條之枝柿一箱給候
    則賞玩申候 味勝候 満足申候

・四月三日書状(633)
    (前略)侍従殿船中にて風邪ひき候てハとの用心ニ相延 今日三日京発足之由候

・四月九日書状(634)
    海上仕合能昨日八日宰相殿(光賢)御著候 然は内々申候 能来十四日ニ興行可申候條 其方
    次第来儀待入候 為其申候 

・六月廿五日書状(650)                  
    如承 宰相殿上ニ天きよく喜悦候 上ノ関まて送ニ遣候者帰申候 二日めニハとも(鞆)
    かしもついまて可為著と申候

・七月七日書状(656)
    (前略)                 今夕御慰と申候へ共 當地ニハ乱舞之事なく候へ
    ハ別ニ何事も無之候 花火仕候者給候 烏丸殿へ此よし申候ヘハ満足かり不大形候 
    我々も見物可申と喜悦候 小倉より参候舟も帰朝之由珎重候 めつら敷花鳥参候由候侍従
    殿逗留之内ニ参候ハゝ鳥を見度由にて候間少之間御かし有へく候 (以下略)

・七月七日書状(657)
    追而申候 車火・りうしや・ねすみ火初ニ見申候 事之外慰申候侍従殿(資慶)其外子たちの面
    白かり無申計候 此地ニハ何も見せ申遊無候 此比ハ徒然處持給候 満足申候

・七月八日書状(658)
    (前略)   万宇佐へ社参申度候間明日召連参候  

・七月十八日書状(662)
    (前略)   万遣舟之祝儀ニ来廿五能興行可申候間 加平次・かすや新九郎・狂言兵吉
    廿三日ニ當地(中津)へ著候様ニ可給候事

・七月廿六日書状(666)
    万上ニ付色々子たちまて被遣一段満足かりにて候 珎鳥とも御みせ候 かうちのきし
    めつら敷候 侍従殿へ鳥三ツ御やり候 禁中へノ進物ニ可仕との事にてをとられ候
    残ハもとし申候

・八月十二日書状(667)
    万は九日ひる時分大坂へ著候由申来大慶候 よろこひ事ニ四五日中ニ能可仕と存候事

                            (完)

 

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書状を読む(七)  上級家臣閨閥誕生の経過

2012-05-27 09:30:28 | 歴史

 細川家代々三家老の一有吉家四代目興道は、元和四年九月二日三十六歳で亡くなっている。この書状に登場するのは有吉家を相続した弟・立道
(後・英貴)のことについてである。  

     元和八年五月十四日書状(338)

         已上
  小倉より幸便之由候間申候 有吉平吉(立道・英貴)女房共煩候て相果候 然者藪小吉所へ遣候
  伊賀殿(三渕好重)むすめ之いもと候て それを遣度候 但其方無用と被存候ハゝ遣ましく候 六兵
  (朽木昭貞)むすめ果候てから十日之内にて候間 もちろん平吉ニも又いか殿むすめかたへも何
  共不申候 同心ニ候ハゝ来冬之時分可申出候合點之上なりとも先々さためられ候ましく候 無同心
  ハ不及申候 恐々謹言      
                          三齋

          五月十四日           宗立 花押
              内記殿
                 進之候  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 元和七年十月十八日書状(319)において三齋は「家中縁邊之事我々可存わけにて無之候事」と書き、関知しないといっている。
ところが有力家臣の独り者のリストを準備させるなど、この書状はまったく反故にされている。
隠居して暇をもてあましている三齋は人事や家臣の縁辺(結婚)について差配している。

上記書状も「 其方無用と被存候ハゝ遣ましく候」と書いてはいるものの、忠利の反対はないことを見越してのことであることは自明のことである。
立道の奥方がなくなってからわずか十日後のことであるが・・・・よほどお暇と見える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三渕好重(元和三年九月十五日・没)には今一人の娘がある。母恵光院(細川藤孝女・栗)も、寛永二年二月(カ)亡くなった。
同年二月八日書状(790)
  恵光院むすめの事しんるい共ニ可然と存ものを書上候へと被申付由尤候 恵光院かきを
  かれ候文進之候 如此被申置候ニ付て申たる儀候事 

妹・恵光院の思いを入れての三齋の寛永七年三月廿一日書状(800)が有る。
  恵光院(好重室・藤孝女 栗)娘之事申置之通かたり候處 右馬助(三渕重政・好重嫡子)・
  頼母(有吉立道)夫婦ニ被申聞 谷内蔵助(衛長)所へ被有付由珎重候

そしてその慶事については寛永七年四月十七日書状(807)でわずかに触れられている。
  藤十郎(三渕重政弟・宗由)妹 谷蔵人(衛長)へ被申合由 親子共可為大慶事  


 
細川・三渕(朽木)・有吉・藪・谷家 略系図

      +---三渕藤英----朽木昭貞----------●
    |                          :
    +---細川幽齋----忠興            :                                        
    |                                        有吉平吉(立道・英貴)
    |                          :
    +---三渕伊賀守好重 ------+---------●妹
                              |
                        +--------●姉
                       |       :
                       |   藪 小吉(市正)        
                       |
                       +--------●末妹
                              :
                       谷 衛長           元和八年忠興の意により小倉に下り忠利に仕う。知行千石・番頭
                                       寛永八年五百石加増。寛文四年致仕、同閏五月没         
                                       参考:丹波山家藩・谷家の跡目騒動

 

 

               +--大隈       +--右衛門==丹左衛門---兵左衛門---丹左衛門---源太---隼之允 (九十郎家)
               |           |
  藪伊賀守----内匠--+--図書--------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允 
(一家)
               |           |
               +--三左衛門    +--熊之允(御暇)
               | (紀州藪家)   |
               |           +--丹左衛門(兄・左衛門養子)
               |
               |           +--源太左衛門(男子なく断絶)
               |           |
               +--市正--------+--惣左衛門----弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎  
(市太郎家)
                            |                        (槙庵)  | (槐堂)
                            |                              |
                            |                              +--茂次郎  
(小吉郎家)
                            +--権左衛門(男子なく断絶)               (孤山)

                          

                                 
                      

                               

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