津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本史学会誌「熊本史学」を検索する

2012-05-14 09:11:54 | 書籍・読書

 熊本の歴史学の権威が其の論考の発表の場の一つとしているものが、熊本史学会の会誌「熊本史学」である。
創刊号が1952年4月というから60年の歴史を有している。改めて其のリストを眺めてみると、森下功先生の「ローマ字印について」などが創刊号にあったりして、びっくりさせられてしまう。
      http://ci.nii.ac.jp/search?&journal=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E5%AD%A6&range=0&sortorder=1&count=20&start=561

 一部はインターネットで読むことも可能だが、その数はわずかである。公開が望まれるところである。

 熊本県立図書館に其のほとんどが収蔵されているが、借り出しが出来ないから、会誌をじっくり読むためには会誌会員(?)になる必要がありそうだ。
       https://www.library.pref.kumamoto.jp/

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「地震之間(屋)」情報を集めてみる

2012-05-14 08:45:19 | 史料

大坂玉造邸

・越中守殿奥方の法度世上に無之堅き仕置にて、地震の間と申候て八畳敷に座敷を拵へ、四方の壁に鉄砲の薬を紙袋に入懸並べ置候て何時も大地震あ
 り候はゝ″御内儀右の座敷へ御入候て焼御果候筈に不断之仕置にて候由
。 (小須賀覚書)

大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不
 出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・ (関原集)

豊前・小倉城

・本丸居間地震屋作事仕廻候由御うへ宝蔵之儀ハ大橋之作事仕廻候而可申付候由得其意候事
    (寛永元年カ)九月廿七日                     越 忠利御判
          (西郡形部・横山助進・浅山清右ヱ門宛 部分御旧記 熊本縣史料・近世編第二巻 p200) 

御地しん屋より御居間へ之御さしつノ儀河田八右衛門方へ申渡候事
    (寛永元年十一月廿九日)
           (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一) p108)

・地震屋之儀はし/\のきつけへも仕候由其意候おくの廊下つゝきニ付置候所之儀先便ニ申遣候 
    (寛永四年カ)九月晦日                         忠利御判
          (浅山修理・田中兵庫宛 部分御旧記 熊本縣史料・近世編第二巻 p163)

地震屋作事出来之由得其意候
    (寛永五年カ)九月三日                      越 忠利御判                   寛永六年の事ではないのか・・・?
           (浅山修理・田中兵庫宛 部分御旧記 熊本縣史料・近世編第二巻 p207)         八月廿一日完工の報告を得てのことであろう。

・御地震屋のつるなわきれ申ニ付而わらひなわ十五ひろの切手御さうり取判を取ニ参候
 うら判奉行衆不被居ニ付而我等共判形にて請取せ申候事
    寛永五年九月十三日
          (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(二) p88) 

・大学殿(沢村吉重)御登城にて秘仰候ハ 当地御作事万事御物入之儀 大学存寄候分ニ被仰
 付候様ニと 江戸へ被得御諚候ヘハ 御地震屋之御作事之外ハ 先被成間敷旨被成御書候間
 可得其意由被仰候 心得申候由申候事
     寛永六年閏二月二日
           
 吉田源七郎登城候而被申候ハ 御たゝミの古表何程有之哉と御尋被成候へ共 少も無御座候
 少つゝ御座候ハゝ 御地震やの御たゝミのきりむしろニ仕候間渡申 表ハ少も無之由被申候
 古表有之ハ御寺御材木包申度候て申事ニ候ヘ共 無之候ハゝ不及力由申候事
     寛永六年閏二月三日
          (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一) p179~180)

御地震屋御作事ハ何時分より取付申候や 江戸への御請ニ可申上由 矢野勘右衛門・河田八
 右衛門ニ申候ヘハ 下地こしらへ申儀ハ此中御小やにてこし置申候間 三月朔日より取付可申
 間 御請ニも右之分ニ可被仰上由勘右衛門被申候事
     寛永六年閏二月十八日
           (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一) p199)

・河田八右衛門被申越候は 御地震や上屋ねニふき申候とま(苫) 松本彦進へ申遣候ヘハ 当町
 無御座候とて買渡不申候間 買ニ遣候而なりとも とゝのひ候様ニ被仰付可被下之由被申越候
 相心得申候 談合候て調申候様ニ可仕せ由返事候也
     寛永六年四月廿九日

 御地震屋之御作事今日より取付之由 荒瀬角兵衛・野村孫兵衛登城にて申候也
     寛永六年五月朔日
           (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一) p240~241)

・御地震屋御苻如何切可申哉と又ハ切不申ニ置江戸へ可申上哉と被仰候而 御年寄衆・式ア殿
 監物(米田是季)殿御上候 我々も罷上候見申候 とかく御苻を切候事下にて成間敷候ニ御談合
 究候事
     寛永六年五月四日
                    ろう
 本庄少助よひ候而御ちしんやよりかより御うへへ被成御座候口ノ苻は如何候て付不申候やと尋
 候ヘハ何とも御諚不承候と申候 かこひの口は御意にて拙者念を入しめ置申候 御ろうかより
 御うへへ被成御座候口は 内ニハいよとの苻を御付置候 此口ノ様子はなにとも御諚不承候と      長沢頼長室・沼田清延女
 申候 又御地しんやより御ろうかへ被成御坐所の御封は御印ニ究候や何とも其方覚ハ無之やと
 申候ヘハ曾而其様子不存候由候事
     寛永六年五月五日
          (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一) p244~245) 

御地震屋御廊下よりをくへ参候所の口の御苻壱つ 又天守へ参候所の口ノ御苻壱つ切候て 林
 隠岐守へ相渡申候 又廊下より御おくへ被成御坐候口ノ封ハ林隠岐・本庄少助両人ニ相封を
 仕せ候事
     寛永六年六月六日
           (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一) p272)

・野村孫兵衛申候は 今日まてニ御地震屋悉仕廻申候由申候 八右衛門・勘右衛門被申候は罷帰
 候而甘候へ之由ニ付罷帰由申候也
     寛永六年八月廿一日
           (福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一) p333)

地震屋何ほと出来候哉可申越
    (寛永六より八迄之間再考)八月廿四日            越 忠利御判             江戸からの問い合わせにより日にちは遅くなっている。
          (浅山修理・田中兵庫宛 部分御旧記 熊本縣史料・近世編第二巻 p198)

熊本城

熊本城本丸家多候故矢蔵ニ無構中の家をのけ我々不下前ニ
 地震屋を一ツ立候へと申付候家之儀ニ候得とも爰元御年寄衆
 へ其段御物語申候留守之普請候間其元御両人も何事かと思
 召候ハん間此由をも申入候其心得可仕候事
          ( 杉山藤兵衛宛の書状 熊本縣史料・近世編第一巻)

・熊本本丸家多候間 矢倉ニハ無構 中之家をこわし 不罷下以前
 ニ地震屋を壹ツ立候へと申遣候 家之儀ニて候へとも 御年寄衆
 へも御物語仕候 留守之普請ニ候間 何事かと思召候ハんと申
 入事候
     寛永十一年二月廿三日
          (忠利から大久保助左衛門・川口茂右衛門に宛てた書状 2400 ) 

■熊本花畑邸

・御花畑御絵図 製作年ははっきりしないが江戸時代前期のものとされる、御花畑邸の絵図であるが
 ここに地震間と書かれた建物が存在している。
 その後陽春間などが建設されるに従い、この建物は絵図では見受けられない。 

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